カチカチと、時を刻む秒針の足音が耳障りだった。


「ずっと、謝らなきゃいけないと、解ってたんです」


 白々とした蛍光灯が照らす晴海高校野球部の部室には、肌を刺すような張り詰めた空気が満ちていた。少人数の部活には不釣り合いな広い空間に、人間は二人しか存在しない。一つは和輝で、もう一つは部長の藤だった。
 ぽつりと零された言葉に、藤は黙っていた。否定も肯定も、容易く示せる内容ではなかったからだ。
 藤は昨年の夏に何が起こったのか、概要しか聞かされていない。それでも世間から向けられる奇異の目を避けることは出来ず、かといって被害者である和輝に問い詰めることも、逮捕された袴田を責めることも、死んだように眠り続ける高槻に問い掛けることも出来なかった。
 一年近い空白を埋めるように、二人きりの部室で堰を切ったようにどっと話した和輝の顔は幾らか疲れて見えた。昼間の天真爛漫で誰もを魅了する笑顔など幻のようだった。
 俯いた和輝は無意識に右腕を押さえている。微かに震える肩が、彼の心を語っているようで藤は続ける言葉を見失っていた。
 慰めも励ましも必要としていない。ただ、裁かれることを祈っている。
 彼の望むようにしてやるのも、良かった。けれど、それは自分の役目ではないと藤は悟っていた。


「確かに、謝罪は必要だ」


 びしりと、何の迷いも無い強い口調で藤は言った。俯いた和輝の肩が僅かに跳ねるのが見える。
 怒鳴り付けるとでも思うのだろうか。それとも、怒りのままに拳を振り上げるとでも? 藤はそんな和輝の内心が見えるようで癪だと思った。
 握った拳を解かぬまま、俯いた和輝の頭にこつん、と当てる。


「お前が今まで、黙っていたということに関して、だ」


 恐る、と和輝が顔を上げる。此方を窺うその様は、世間が持て囃すヒーローでも天才でも無くて、たった十六歳の少年でしかなかった。
 彼の右肩と右腕の怪我の理由を知っている。そして、同時に、その左手首に切り裂くような筋があることも解っている。
 死にたかっただろうし、逃げ出したかっただろう。そうしなかった訳も、藤は悟っていた。


「お前が保身の為に黙っていたとは思えないが、何も知らされずに普段通りの生活を送らざるを得なかった俺達の気持ちを考えろ。何も解らないままじゃ、庇うことも、責めることも、叱ることも、慰めることも出来ないだろ」
「……す、」


 謝罪の言葉を紡ごうとする和輝を遮って、藤は言った。


「今更、お前を責める気は無ェよ。傷跡は残っても、事件はもう、終わったんだ」


 今更何も変えられない。それは例え、事件直後に和輝が全てを吐露していたとしても、未然に防ぐことが出来た訳でも無い。全ては後の祭りに過ぎないのだ。


「敢て一つ言うなら、時間が全てを解決してくれるとは思うな」
「……はい」
「時間は万能薬じゃない。医者が風邪を引くように、時間だって病気になる」


 今まで過ごして来た時間を否定するつもりはないけれど、と藤は付け加えて鼻を鳴らす。
 落ち込んだように黙って肩を落とす和輝を見て、藤は困ったように少しだけ笑った。解り易い奴だ、と思った。


「テストじゃあるめぇし、人間に正解も不正解も無ェよ。だから、お前はもう自分を責めるな。反省するのは大事だが、それを未来に活かさなきゃ何の意味も無いんだぞ」
「はい」
「解ったなら、この話はもう終わりだ。さっさと帰るぞ」


 そうして、傍にある鞄を引き寄せて藤は立ち上がった。
 藤に続いて出た扉の横で、匠が壁に寄り掛かるようにして待っていた。火取虫の張り付く外灯に照らされながら、口元を真一文字に結ぶ様は何処か苛立っているようだった。
 施錠を終えた藤が、鍵を返却する為に職員室へ向かう。匠は黙ったままだった。
 痺れを切らしたように、溜息を一つ吐いて和輝が言った。


「何で、黙ってるんだよ。何で目を合わせない」
「うるせーな。腹が立ったんだよ」
「うん」


 普段の態度を崩さない和輝に、匠は舌打ちをした。


「……自分に」


 独り言のように零された言葉に、和輝は苦笑した。
 匠が責任を感じるようなことは何も無い。そう思うし、言ってやりたいけれど、そんな必要が無いくらい、自分達は一緒にい過ぎた。


「まだまだ弱いな、俺達」


 壁に凭れ掛かり、和輝は隣の匠を見遣った。


「強くなろう。今度は、一緒に」


 向けられた和輝の目が、酷く澄んでいたことに既視感を覚える。
 ああ、この目だ。匠は何故だか酷く安心する。
 馬鹿で、御人好しで、素直で、嘘吐きで、自己犠牲的で、利己的で、英雄主義の幼馴染だ。長い冬を越えて、漸く会えた幼馴染の姿に匠は息を吐くように笑った。
 唸るような返事を返すと、和輝はやはり、笑った。




10.幸福な亡骸




 春を殺して、夏がやって来る。
 食い散らかされたような桜花を思い出せば、既に葉桜と成り果て初夏の風が頬を撫でる。季節の一巡は自分が思うよりもずっと早い。早く大人になりたいと願う以上に、過ぎ去る日々の儚さに嘆く。どちらが前かも解らない闇の中を疾走するのは恐ろしいけれど、誰かに決められたのではなく自分の意志で選んだ道には誇らしさがあった。
 殺された春の空気を思い出しながら揺られる電車の中、口を開けて眠る匠を横に、只管後ろへ飛んでいく景色を眺めていた。
 世界は今日も変わらずに回り続けている。驚異的な時間の早さに呑み込まれながら、それでも日々を刻んで行く自分達はさぞ滑稽だろう。自嘲気味に嗤えば、匠が姿勢を崩した反動で目を覚ました。


「よく寝てたな」
「ああ、よく寝たよ」


 更に欠伸を一つ。寝る子は育つという諺は科学的に立証されているけれど、寝ている割に低身長の自分達を見れば昨今の科学など眉唾物だと皮肉っぽく思う。匠は寝惚け眼を擦りながら、現在地を確かめるように窓の外を見遣っている。和輝は正面の無人の客席を見詰めながら、匠に問い掛けた。


「なあ、確認していいか?」
「奇遇だな。俺も、確認したいことがある」


 携帯を取り出して、恐らくは電車の時刻を確認する匠を横目に、和輝は口を開いた。
 目的地はもうすぐだ。到着する前に、しなければならないことがある。


「俺の、夢」


 はっきりと言った筈の声は見っとも無く震えていた。
 言葉の重みに緊張したのではない。何の躊躇いも無く夢を語れる程、もう子どもじゃない。それでもこの幼馴染にだけは、言っておきたい。匠自身の利益も顧みず、自分の為に取り巻く環境全てを捨てて此処に来てくれた。
 匠に対しては遠慮などいらない。ちっぽけな矜持も恥も捨ててしまえ。


「甲子園」


 和輝が言ったと同時に、匠が吹き出すように笑った。


「馬鹿言うな。――全国制覇、だろ?」


 不敵な笑みを浮かべる匠に、嘘は無い。
 たった九人の仲間で、世間からの強い風当たりの中で、それでも叶うと信じて疑わない強い目だった。そんな自信が羨ましいと思うと同時に、眩しく感じる自分は老いたのだろうか。和輝が竦むように黙ったのを目敏く気付き、匠は不満げに鼻を鳴らす。


「お前が、言ったんだろ。『俺がいるのに、負ける筈無い』って」


 そんなこと、何時言ったかな。なんて恍けても無駄だ。
 醍醐と蓮見が地元の高校生と野球勝負を挑むこととなった日。圧される二人の助太刀に入った和輝自身が、醍醐に言ったのだ。
 その言葉に嘘は無いし、有言実行した。ただし、相手は玄人とは言え烏合の衆に過ぎなかった。けれど、匠はこれから強敵犇めく世界でも同様のことを思うのだ。――否、確信しているのだ。


「俺達がいて、負ける筈無いだろ」


 な、と笑う匠は何処か幼い。やはり、自分はこの一年で老いたのだろうと和輝は思った。
 何時だって無茶を言うのは自分で、文句を言いながら付き合ってくれるのが匠だった。立場が逆転することだって、長い人生一度くらいあるだろう。和輝は笑った。


「負けないよ」


 間延びしたアナウンスが、間も無く到着する駅名を宣告する。珍しくてきぱきと仕度を始めた和輝を横目に、匠は足元に転げた鞄を引き寄せた。まばらな乗客は殆ど人形のように微動だにしない。速度を落とした電車が、駅に滑り込む。
 ICカードが使えるのかすら危うい長閑な寂れたホームで、生き急ぐように降車した和輝を追いながら匠は、自分の頬が僅かに緩んでいることに気付いた。振り返らず、鼻歌交じりに先を行く和輝は気付いていない。けれど、匠は振り返った和輝に不気味がられても、小馬鹿にされても構わないとさえ思った。
 嬉しかったのだ。
 和輝が、他の誰でも無い自分の、自分だけの夢を伝えようとしてくれたことが。
 晴海高校に入学した和輝の夢は甲子園だった。けれど、それは、和輝が憧れ抱いた夢ではなかった。周囲からの期待に応える為であり、正しくヒーローである兄の為でもあった。結局、それは叶わなかった。世間は彼を責めたし、落胆した。だが、兄である祐輝が責めること無く、弟の夢を背負って舞台に立ち続け、叶えることで和輝は救われたのだ。
 今度は、今も眠る高槻の為だとか、夢を叶えられず引退を余儀なくされた萩原達の為だとか、裏切ってしまった世間の為だとか言い出すのではないかと、少し怖かった。


「――なあ、匠」


 踊るような軽やかな足取りで、歌うような弾む口調で和輝は匠を呼んだ。振り返った和輝は太陽を背中に負い、まるで存在そのものが光り輝いているかのような錯覚をさせた。穏やかで、何処か挑戦的な笑みを浮かべる和輝が言った。


「お前はよく俺を叱るけど」
「叱ってる訳じゃねぇ。正論を言ってるだけだ」


 和輝は苦笑した。
 匠は不満げに口を尖らす。例えばテストの回答であったり、進路選択であったり。特に、和輝が晴海高校を選んだ時には断固として反対し、揚句に不和となって交流さえ絶とうとした。


「お前が余りに馬鹿だから」


 素っ気無く、さも当然のように匠は言う。
 学業は兎も角、和輝はいつも困難な道を選択する。もっと楽な方法は幾らでもあるのに、わざわざ遠回りをする。匠はそれが馬鹿馬鹿しく思えたし、理解出来なかった。自己犠牲的で英雄主義の彼が、誰かの為に自分を犠牲にしてその選択をしているのだと今は解る。和輝も匠ももう、自分の我を通そうとするだけの子どもでは無い。
 和輝は困ったように眉をハの字にした。


「俺は俺なりに考えてるつもりなんだよ。でも、何でかなあ。何時も遅れちまう」


 この手は届かない。
 救い上げられなかったものを追い掛けるように拳を握った和輝に、匠は漸く笑った。


「いいだろ、遅れたって。最後まで頑張れ」


 驚いたように和輝はぱちりと瞬きをした。
 二年前、自分達は道を別った。誰もが思うように生きようとして、それでも相手のことを気遣おうとして、結局、自分達は遣り方を間違えた。和輝は匠を、仲間を信頼出来ていなかった。同様に、匠は和輝の覚悟を信用出来なかった。和輝は諦めて全てを切り捨てたし、匠は憤って全てを拒絶した。
 あの頃に戻れるのなら、もう間違えることは無い。和輝は何時だって、許容して欲しかっただけだった。
 それでいいよと、言って欲しかっただけだ。
 真ん丸に目を見開いた和輝が何も言わないので、匠は不満げに鼻を鳴らした。


「俺は解ったんだよ。道を選ぶっていうのは、必ずしも、アスファルトの道を選ぶっていうことじゃないんだって」


 だから、匠は今此処にいる。もう二度と間違いたくない。もう二度と失いたくない。誰かの為に、ではなくて。
 自分の為に、自ら荊の道を歩むと決めた。遠回りしなければ見付けられないものを知っているから。登らなければ得られない光を解っているから。
 和輝は少しだけ沈黙し、何かを言おうと口を開いた。けれど、結局は口を閉ざし、言葉は発されなかった。
 後悔しないか?
 そんなことを訊けば、匠は怒る。自分だって怒る。それでも、訊いてみたかった。そうしたら匠はきっと、不機嫌さを隠しもしない仏頂面で、苛立ったように言ってくれる。しねぇよ、と。
 和輝の一連の動作を横目に、匠は前方に目を向ける。区役所に隣接する公民館には、自分達と同様の制服に身を包んだ男子高生達が密集している。異様な熱気に包まれた其処が来る夏大会への抽選会場だと、看板を見ずとも理解出来る。
 黙った和輝には目もくれず、入り口から離れた日陰に集まる周囲に比べ少人数の仲間達を見付けて匠は大きく手を振った。一番に気付いたのは箕輪だ。負けじを大きく手を振る箕輪の横で、壁に凭れ掛かったままちらりと一瞥してすぐに携帯に目を戻す夏川。
 余りにも少数な仲間だ。けれど、心強い仲間だ。


(後悔なんて、しねぇよ)


 言葉にしなかった和輝の問いを、匠もまた心の内で答える。
 言葉が足りずに道を別ったあの頃とはもう違う。理解出来ないと俯くのなら、無理矢理にでも顔を上げさせてやる。蹲るその手を引っ張ってやる。
 自分達は何時だって一緒だ。幼馴染で、親友で、好敵手。何時だって横並びだ。


「行くぞ、和輝」


 早足に歩き出す匠は何時もの調子で、和輝は何故だかその後ろ姿に安堵し、後を追い掛けた。

2012.4.29