煮え滾るような猛暑は、意識せずとも夏の訪れを実感させる。
七月の突き抜けるような蒼穹の下、醍醐は顎から滴り落ちる汗を拭い去った。全国高等学校野球選手権神奈川大会、開会式が行われた。昨年の優勝校である武蔵商業高校が先頭に立って旗を持ち、ずらずらと列を成す中程に少数精鋭の晴海高校は固まっていた。人生初めての開会式での入場行進には感慨深いものがあるけれど、其処に不在だった小さな少年の行方を醍醐は知らない。
練習の為に学校に戻れば、蜂谷和輝はマネージャーと共に出迎えた。
監督のいないこの野球部は、出場人数ぎりぎりの中、決勝戦まで勝ち進んだ。その立役者が蜂谷和輝だと世間は言うし、醍醐もそれをあながち間違いではないと思う。それでも、謙遜でなく本音で否定する和輝の真意は醍醐には解らない。
「去年のキャプテンがね、すごい人だったんだよ」
懐かしむように、和輝が言った。日の落ちた帰り道だった。
疲れ切った体に鞭打って、今にも閉じてしまいそうな瞼を押し開けて醍醐は自転車を押していく。星原の一件で大破して、親に散々説教されて新品を購入したのだ。もう二度と壊すまいと誓うと同時に、二度とこの少年を載せたりしないと思う。
律見川のせせらぎを聞きながら、和輝は何処か遠くを眺めていた。
昨年のキャプテン、高槻智也。今も大学病院で目覚めることのない眠りに着く少年を、醍醐は知らない。それでも残った記録を見る限り、相当優れた投手であることは明白だった。エースとしてほぼ全ての試合を一人で投げ切り、同時に打者としても十分過ぎる働きをしている。どうやら監督も兼任していたらしい元生徒会長は、闇の中を進むこの野球部にとっては灯台も同じだった。昨年の夏に事件が起こらなければ今も何処かで活躍していて、きっと皆の心の支えになったのだろう。
事件さえ、起こらなければ。
「なあ、醍醐」
激しい電車の通過音に掻き消されそうな声は、それでも不思議な程にはっきりと醍醐の元へ届いた。
和輝は真っ直ぐに前を見据えたまま、言った。
「現段階でエースは夏川だけど、先発はほぼ間違いなくお前だ」
自信が無いとは言わないけれど、醍醐はその重みに息を呑む。
夏大会。甲子園へ続く特別な舞台で、自分はグラウンドの中心、マウンドに上がる。
和輝に表情は無かった。
「重みを感じろとは言わない。でも、ちゃらんぽらんじゃあ困るんだ」
「俺がちゃらんぽらんと思うんですか」
「さあね。そうじゃないなら、俺に見せてみろ」
歩調を速めた和輝が振り返る。白々と光る外灯を背中に、楽しくて仕方が無いとでも言うような不敵な笑みを浮かべている。
試合を目前に、配られた背番号。醍醐に渡されたのは十番。けれど、一番は欠番のままだった。
エース不在のこのチームが、灯台を見失ったこの闇の中をどのように進んで行くのだろう。恐ろしいと思う以上に、醍醐は何故か、頼もしさを感じていた。
見失った灯台なら、此処にあるじゃないか。
真っ直ぐ前を見据えて歩き続ける小さな少年が、此処にいる。届きそうで届かない光が、自分達の道を照らしている。
大会は既に始まっている。初日で半数が消え、次には更にその半数が。そうして削ぎ落とされ残った一校だけが甲子園へ駒を進めることが出来るのだ。シードの晴海高校は二回戦からの出場だが、それでも甲子園までは程遠い。昨年の彼等がいかにしてその最終戦まで勝ち残ったのかは記録を見ることしか出来ないけれど、生半可な覚悟で越えられるものだとは思えない。
「お前の野球を、俺に見せてみろ」
不敵に笑った和輝に、醍醐は吹き出すように笑う。
傲慢で、優しくて、穏やかで、挑戦的で、現実主義で、理想論者で、素直で、嘘吐きな少年。
世間から切り捨てられたヒーローの存在を、それでも醍醐は頼もしく感じていた。
12.Crazy Sunshine.
晴海高校に繋がるトーナメントを勝ち進んだのは、私立慶賀大学付属高校だった。一昨年まではベスト8の常連だったというチームは夏大会の初戦敗退を切欠に衰退し、今では殆ど底辺争いの弱小チームでしかない。対戦相手を綿密に分析したマネージャーの記録と前試合のビデオカメラ映像。晴海高校の初戦で先発を飾ることとなった醍醐は期待と緊張に震える拳を握り締め、明ける東の空を見上げた。
七月某日。全国高等学校野球選手権神奈川大会、二回戦。昨年の活躍を考慮されシードを勝ち取った晴海高校の所詮は、突き抜けるような蒼穹の下で行われることとなった。中天に達しない太陽は、夜に冷めたアスファルトを温め直すように熱を降り注いでいる。今日も暑くなりそうだと、蓮見が正面に落ちる影を恨めしそうに睨んでいた。
球場前で集合すれば、十五分前だというのに殆ど全ての部員が集まっていた。キャプテンの藤を取り囲むように雨宮、千葉。大欠伸をする箕輪、仏頂面の夏川。携帯を操作する星原、用具の確認を済ませた霧生、置物顧問の轟も寝癖頭で興味無さげに遠くを走る電車を眺めている。そして、二人の少年が何やら言い争いをしながら遅れて到着する。
「――だから、お前の説明不足だろ!」
「お前の確認ミスだ!」
「大体、何時もは違うじゃねーか!」
これから猛暑の中、全力で試合に臨むというのにぎゃあぎゃあと朝から言い争う二人は緊張感に欠ける。
向こう隣りに住む和輝と匠は待ち合わせをして共に球場へ向かう予定だったが、待ち合わせ場所を互いに自分の家だと思い込んで待ち続け、結局電車を逃したとのことだ。間に合ったのだから今更言い争う必要も無いように思うが。
けれど、球場の入り口に立てば二人は揃ってぴたりと口を噤んだ。蝉の鳴き声が遠くに響く。
一つ大きく息を吸い込んで入り口を潜った三年生は、最後の夏なのだから当然だろう。同様に、醍醐達一年は最初の夏だ。意気込むのは無理も無い。では、彼等二年生は如何なのだろうか。聞いてみたいと思いながら、目を向けた横顔が余りに真剣で、声を掛けることすら躊躇わせる。
狭い通路を抜けた先に、薄暗いベンチがある。登録人数ギリギリの晴海高校には広過ぎる空間だ。フェンスから身を乗り出してグラウンドを見遣る――。
「う、わ」
拓けた視界に映るグラウンドを、取り囲む応援席。これから始まる試合に備えて埋まって行く観客は応援団と、チアガール、保護者等の選手関係者。そして、カメラを構えるマスコミ陣――。
これは当たり前の光景なのだと頭で理解している筈なのに、何故だか居心地悪く感じる。それは偏に、晴海高校野球部が擁する蜂谷和輝の存在に他ならなかった。
「良い天気だな」
ぽつりと、何時の間にか隣に立っていた和輝が言った。人々のざわめきが大きくなったことに気付かないのだろうか。
グラウンドでは慶賀大付属高校がノックをしている。まるで観客の声など気にならぬという穏やかな声で言った和輝に向けられる膨大な歓声は、一般人に対する評価を凌駕している。それでも平然とする様に醍醐は舌打ちをしてやりたい気分だった。
けれど、そのままベンチの奥に引っ込んだ和輝は対戦校の記録を改めて見直している。和輝の去った場所に立ち、蓮見が無表情に言った。
「あの人は本当にすげー人なんだぜ」
「……知ってるよ」
「一年前の事件の後、世間からのバッシングを一人で受けて来たんだ。俺は尊敬するね」
尊敬。
蓮見の口からそんな言葉が出るとは思わず、瞠目する醍醐の背後で、藤が招集を掛けていた。
やがて慶賀大付属高校の練習が終わり、晴海高校がいよいよグラウンドに現れる。観客のざわめきは一層増し、蝉時雨の如く頭上から降り注いだ。マウンドに醍醐、ホームに蓮見という一年コンビを迎えている。けれど、それ以上に観客が見ているのは三塁手、蜂谷和輝の姿だった。
醍醐もまた、和輝がこうしてグラウンドに立つのを見るのは初めてだった。彼は故障を理由としてグラウンドに顔を出すこと自体稀で、普段は先の見えないリハビリを続けている。その証拠に、彼の利き腕である右腕にはグラブが嵌められていた。利き手でない左で投げることが出来るのか甚だ疑問だが、それはパス回しを一度すれば十分だった。
外野からの痛烈な送球を受け止め、左腕はホームへ勢いよく振り切られる。放たれた矢のような送球は僅かな狂いも無く真っ直ぐにキャッチャーミットに飛び込んだ。――これで、利き腕でないのだ。醍醐は目の前の現実が信じられなかった。
天才は実在する。
「しまってこー!!」
歓声に掻き消されそうな蓮見の声に、腹の底から振り絞られた声が彼方此方から返って来る。
ベンチに急いで戻れば、耳を劈くような試合開始を告げるサイレンが鳴り響いた。
先攻は晴海高校だ。試合前の挨拶の為にグラウンドへ走る仲間を追って、醍醐がベンチを飛び出そうとしたその時。奥の暗がりで、凍り付くような無表情で壁を睨む蜂谷和輝の姿があった。
初夏の茹だるような熱が霧散し、其処だけがまるで別空間のように冷たい。胡乱に向けられた視線の冷たさに、醍醐は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「――行くぞ」
太陽の下で、帽子のツバに表情を隠した白崎匠が言った。其処で和輝は少しだけ笑って、醍醐の横を擦り抜けた。
整列する藤が苛立ったように醍醐を呼ぶ。駆け足で向かいながら醍醐は、何時かの匠の言葉を思い出していた。
――お前は、あいつが完璧なヒーローだと思うのか?
いるじゃないか、此処に。
頭の中で返答しながら、醍醐は整列した。
「これより二回戦、慶賀大学付属高校対晴海高校の試合を始めます。両校、礼!」
「お願いします!」
グラウンドに散って行く慶賀大付属と、ベンチに戻る晴海高校。醍醐は電光掲示板を見上げ、息を一つ逃がした。
アナウンスが告げるのは、ヒーローの名前だった。
『一回表、晴海高校の攻撃は――、一番、蜂谷和輝君。背番号五番』
漣のように揺れる歓声の中、バッターボックスに立った小さな少年。ヘルメットのツバに沈む小さな面で、大きな双眸だけが猛禽類のように煌々と揺れている。マウンドの投手は大柄で、一見すれば勝負は火を見るより明らかだった。
仲間の応援、歓声が降り注ぐ。その中に混ざる僅かな悪意。
「あれが蜂谷祐輝の弟か」
「チビじゃん。暴力事件起こした割には」
「仏頂面で愛想無ぇなー」
「マネージャー自殺に追い込んだんでしょ。最低」
「いいよな、才能に恵まれてる奴は」
「有名人でちやほやされてんだろ。ムカつく」
眩暈がする。酷い立ち眩みだ。
まるで世界中が敵に回ったかのような孤独感に背筋が寒くなる。勝手な野次を飛ばす観客への怒りよりも、不特定多数の人間を相手に言い返すことの出来ない現実に恐怖した。それでもバッターボックスの少年は応援も歓声も野次も罵詈雑言も無視して前を見据えている。彼が図太い人間でないことは、もう既に知っている。きっとこの声も聞こえている。それでも平然としていられるのは何故だろう。
「和輝!」
ベンチから声援を送る匠に、和輝の視線が少しだけ動いたようだった。
口元に僅かな笑みを浮かべ、和輝はバットを構える。匠は暑さのせいではない汗の滲む掌を握り、バッターボックスをじっと見詰めている。
初球。明らかなボールだった。
球場の異様な空気に呑まれているのか、ピッチャーの球は走っていない。視線だけで見送れば審判がボールを宣告した。
匠の声で目覚めたように、声援を送り出した醍醐の傍で、藤が笑った。
「呑まれんなよ、一年」
呑まれかけていたという図星を突かれ、思わず黙った醍醐を藤は皮肉っぽく笑う。
その時、茹だるような熱気を切り裂く高音が響いた。打球は地面すれすれの低い弾頭で内野を越えると、そのままグラウンドを跳ね上がった。イレギュラーを思わせる動きで捕球体勢に入ったライトの頭上を越えて行く。
長打コース!
コーチャーが激しく腕を旋回させる。醍醐の目は走者を探す。小さな少年は風のようにダイヤモンドを駆け抜けていく。
(速ぇ!)
もう二塁を蹴った。行き着く間もない走行に誰もが舌を巻く。送球は追い付かない。滑り込むことなく三塁に立った和輝に、応援団の激しい声援が投げ付けられる。ヘルメットのツバの下で蜂谷和輝は少しだけ、笑ったようだった。
右肩と右腕に日常生活にも支障を来す程の大怪我を負ったリハビリ中の身で、世間の馬事雑言を一身に背負いながら実に堂々としたプレイだ。圧巻、という言葉が相応しいのだろう。仲間が狂ったように賞賛を送る中で醍醐は言葉を失くしたまま茫然と立ち尽くしている。
あの人は、本当にすごい人なんだ。
蓮見の言葉を反芻して納得する。胸が高鳴る。勝手な期待を押し付けて、理不尽にバッシングする世間に心底腹が立った。けれど、それも当然だと思わせる圧倒的な存在感と才能。この人は、本当にすごい人だ。
続く二番打者は蓮見創。危なげないバントはいとも簡単に走者をホームインさせた。
先取点――。観客が沸き立つ。
賞賛の中、和輝がベンチに戻ると入れ違いに匠が出て行く。
三番打者、キャプテンの藤徹もまた、無表情に当然のように、長身ピッチャーの球を打ち返す。一塁走者である蓮見は滑り込むことなど当然無く、先程と同様に三塁に立った。無死走者一、三塁。これで内野が広くなる。
『バッター四番、白崎匠君。背番号六番』
観客の声援も、吹奏楽部の演奏も、勝手な野次も何も聞こえないような涼しい顔で、白崎匠がバッターボックスに立つ。
決して体格に恵まれた少年ではない。本塁打を期待するなら、四番には夏川や千葉を据えるべきだ。決して四番に相応しい人間がいない訳では無いのに、わざわざ本塁打の打てない少年を置くのは何故だろう。
けれど、醍醐にもその理由が解っていた。
初球。
内角高め、ボールだった。けれど。
匠がバットを振り下ろす。判別出来なかった訳では無い。稲妻のように振り抜かれたバットは白球を力強く叩き落とす。打球はピッチャー前に打ち付けられ、そのまま内野の頭上を越えた。
「回れ!」
コーチャーの声が響く。走者は全員塁を飛び出した。
一点。余裕の顔で蓮見が帰還する。二点。藤が本塁を踏んだ。そして、匠は三塁で足を止める。
無死走者三塁。あっという間の三得点にグラウンドは悲鳴にも似た歓声に包まれた。
「すっげぇ……」
それがまるで当たり前のことであるように繋がって行く攻撃は、部員数僅か九名の少数野球部とは思えない。醍醐の言葉は応援に掻き消される。五番の千葉がショートを襲うような鋭いライナーを放つ。匠が帰還し、四点目。
危なげない抜群の安定感。彼等は昨年、甲子園の一歩手前まで勝ち進んだのだ。
六番、星原がバッターボックスに現れる。コールドゲームを狙っている訳ではないだろうけれど、この試合の結果を考えるのは簡単だった。流れるように繋がって行く攻撃と、一切の得点を許さない鉄壁の守備。才能が如何とか、努力が何だとか、そんなことは関係無いと全ての選手が歯車のように自らの役割をきっちりと熟していく。
そして――。
球場の外、出待ちのような人間の群れが割れる。
試合後にしては軽い体で割れた人間の群れを見れば、無人の帯の先に見覚えのあるユニホームの少年が三人歩いていた。慶賀大付属高校の選手だった。球場は既に次の試合へと動いている。忙しなく動く世界で其処だけが切り離されたように静かだった。
慶賀大付属の選手は藤の前に立つと、その腕に抱えた千羽鶴を見下ろした。
「これ、うちの応援団が作ってくれたんです。受け取ってくれますか」
醍醐よりも遥かに強靭な身体の少年が、大人のような顔立ちの少年が、目を腫らしている。
藤は無表情に頷いた。千羽鶴が手渡される。
慶賀大付属高校の夏が、終わったのだ。一回戦を勝ち進み、迎えた二回戦で、晴海高校との試合で負けた。彼等の夢を踏み砕いたのは晴海高校だ。醍醐は青葉の腕の中にあるスコアを盗み見る。十九対零、五回コールドだ。
コールドゲーム自体は決して珍しくない。けれど、最後の試合を最終回まで行うことの出来なかった彼等の悔しさが、空しさが色とりどりの千羽鶴を通して伝わって来るようだった。
醍醐が珍しくこの場にいる和輝を見遣れば、目が合った。口元に少し笑みを浮かべてはいるが、コールドゲームだった割に疲労の色が濃いように見えた。けれど、和輝は悪戯っぽく笑った。
「今日の試合は落第点だぜ、醍醐」
「はあ?」
「立ち上がりの悪さに、ひやひやしたよ」
軽口のように言う和輝に、醍醐は内心悪態吐く。
高校初の公式戦で、先発だったのだ。緊張で球が走っていなかったことは醍醐自身が一番よく解っている。
慶賀大付属の選手と藤は一言二言話すと、礼儀正しく頭を下げて帰って行った。
「さて、」
藤はくるりと仲間に向き合うと、彼にしては珍しく嬉しげに笑った。
「これから、学校に戻って練習だ。――行くぞ!」
「はい!」
晴海高校、初戦突破。
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