死んじまえ、だなんて。


 和輝は手元に残された悪意を掴み、胡乱に嗤った。学校では机に、家では玄関に残された落書きにほとほと辟易する。
 出鱈目なゴシップ記事などの各種メディア。世間は余程退屈していたらしいと腹を抱えて嗤いたい心地だったけれど、全て喉の奥で消え失せた。代わりに漏れた空気の抜けるような奇妙な音と共に、和輝はぎゅっと拳を握った。
 まだだ、まだ、終われない。
 何も知らない不特定多数の人間が、勝手な妄想を語り続けている。徘徊する出鱈目な噂は尾鰭を付けて今も世間を徘徊し、無関係な筈の大切な人を傷付けている。怒りも悲しみも恨みも悔やみも何もかもが空気に溶けて消えて行く。
 死んじまえ、だなんて、言われるまでもない。


(俺だって、死ねるもんなら、死にたかったよ)


 それで全てが解決するなら、初めからそうするさ。



「――和輝!」


 不意に呼ばれ、和輝は肩を跳ねさせた。
 過去へ回帰していた思考は一瞬にして現実に戻った。夏の日差しが眩しい昼下がりだった。漣のような歓声に響くサイレンはまるで誰かの断末魔のように、和輝の耳に不吉に届いた。電光掲示板に映るのは、地区予選三回戦の結末だった。
 五回コールド勝ち。
 一試合を貫くことなく涙を呑んだ対戦校の選手達が退場する。既に挨拶を終え、帰り支度をする最中だった。
 呆然とグラウンドを見遣る和輝を、匠は溜息交じりの呆れた顔で見下ろしている。まるで隠れるように、ベンチの奥で小さくなっている幼馴染の思考は読めていた。何処か遠くを茫洋と見詰める瞳に映っていたのは目の前の試合経過ではなく、もう戻ることの無い過去への悔恨だ。一回きりのトーナメント戦に随分余裕だな、と笑ってやりたいと思いながら、一度としてこのグラウンドを踏むことの無かった彼へ告げるべき言葉は何も無かった。
 また、誰かの夢が潰えた。
 後悔も賞賛も、贖罪も歓喜も何も無かったかのように塗り消されて行くグラウンドは、既に次の試合の為に動き出している。帰り支度にぐずぐずしている時間は無い。ましてや、勝者である自分達には当然のことだった。
 匠は自らの頬を擦った。初回のデッドボールが掠めた部位は、僅かに皮膚が擦れている。対戦校である荒木田高校は、随分とラフプレーの激しい相手だった。一試合行っていないというのにデッドボールは二つ。反則ぎりぎりの走者妨害は幾度と無くあったし、フォアボールも多々あった。敗者がそれを訴えても負け犬の遠吠えぬ過ぎないが、勝者がそれを責めるのは最早御門違いのようにも思う。必死に勝利へ喰らい付いた結果だ。つまり、真剣勝負の上で何を言っても無意味ということだ。
 漸く鞄を抱えた和輝を見下ろしながら、匠は僅かに安堵していた。


(この試合に、こいつが出なくて良かった)


 怪我人扱いをされれば不貞腐れるだろうけれど、彼は立派な怪我人だった。
 無理言って出場した初戦は兎も角、匠は出来るだけ和輝にグラウンドに立って欲しくないと思っている。和輝の抱える怪我を思えばそれは医師で無くとも当然の判断だし、何より、彼が好奇の目で世間に晒されるのはもう、御免だった。
 背負おうとした和輝の鞄を後ろから奪い取り、匠は先を歩き出した。故障した右肩に背負えなければ、左肩に載せるしかない。けれど、そうすれば万が一の転倒で着くのは右腕だ。一年近いリハビリをしてもまだグラウンドに立てるとは断言出来ない。それでも、無茶だと解っていても此処に立ちたいという願いが痛い程に解るから、少しでも叶えてやりたかった。
 案の定、怪我人扱いされて酷く不満げな和輝が早足に追い掛ける。ずっとベンチにいた選手の荷物を、出場選手が代わって持つなど不可解だろう。でも。


「いいから、てめーはさっさと歩けよ」


 そして、一日でも早く戻って来い。
 口に出さない願いはきっと、届いている。だから、和輝は何も言わなかった。
 球場の外には出待ちのような級友や保護者、マスコミが待ち受けていた。その群れを掻い潜るようにして帰路を辿ろうとしたところで、名前を呼ばれた。


「――蜂谷和輝!」


 陽炎の立ち上るアスファルトの上で、重そうな一眼カメラをぶら下げた男が、親しげに手を振っていた。
 足を止めた和輝が、男を見て驚いたようにその名を呼んだ。


「碓氷さん」


 碓氷研吾は、和輝を認めると嬉しそうに笑った。
 腐れ縁とでも言うのだろう。付き合いは一年以上になる。和輝はその場に足を止めて呆れたように肩を落とした。
 碓氷はやり手の雑誌記者で、スポーツを中心に取材しながらゴシップ記事を書いている。人のプライベートに土足で踏み入るような男で、一年前までは和輝を中心としてゴシップ記事を漁っていた。だが、昨年の夏に起きた事件以降は特に和輝を気に入ったようで、他のマスコミのようにあること無いことを出鱈目に記事にするような真似はしていない。
 和輝が苦手とするマスコミの中で、唯一味方と思える人物だった。


「久しぶりですね。お子さん、元気ですか?」
「お蔭様でな。それより、今日は試合出なかったんだな」


 ちらりと、碓氷は和輝の右腕に目を遣った。如何にも記事になりそうな和輝の故障を知っているマスコミ関係者は、碓氷だけだ。
 和輝は苦笑交じりに答えた。


「期待の新人がいますからね。俺の出番なんて無いですよ」
「お前の登場を待ち侘びている人間は山程いるけどな」


 今度は周囲を固めるマスコミ関係者に目を向け、碓氷が言った。
 グラウンドにも立たず、ベンチからも出て来なかった和輝を忌々しく思ったことだろう。和輝は笑った。


「世間は好い加減、飽きてると思いますけどね」
「どうかな。お前が二度とグラウンドに立たなければ、或いはそうだったかも知れないが」


 益々、和輝は笑った。悪戯が成功した子どもの無邪気な笑みだ。


「じゃあ、まだまだ目が離せないでしょう?」


 太陽を背負った少年が、碓氷に笑い掛ける。
 和輝の真意は計り知れない。少なくとも、表面上は無敵のヒーローだ。誰にも負けないに、何からも逃げない。どれだけ傷付いても何度でも立ち上がる不死身の勇者。世間は彼の絶望を望んでいる。
 それじゃ、また。
 そう言って背中を向けた少年。追い掛ける無数の記者を笑顔で躱す様は精練され、芸能人顔負けで慣れたものだと感心さえしてしまう。踵を返そうとした碓氷は傍から視線を感じ、目を向ける。晴海高校の選手が一人、碓氷をじっと訝しげに見ていた。


「ええと、君は」
「――白崎匠です」


 匠は覚えてもらわなくても結構と言うように、素っ気無く答えた。
 栃木の野球の名門、エトワス学院からの転入生。蜂谷和輝の幼馴染。彼もまた、中々記事になりそうな存在だと碓氷は笑う。


「あいつは、狡猾な男だな」


 皮肉っぽく碓氷が言うと、匠はそれまでの訝しげな目を歪めて笑った。


「冗談だろ?」


 あんたは、何も解っちゃいねー。
 そう言って匠がくつりと喉を鳴らす。


「あいつ程、その言葉が似合わない奴、俺は知らねーよ」
「それは、君が世間知らずだからだろ?」


 挑発的に言っても、匠の笑みは崩れなかった。
 その意味が碓氷には、解っていた。




13.GOING HOME.<前編>




 初戦、続く三回戦を難無く突破した晴海高校野球部に期待が高まるのは当然のことだった。
 醍醐はクラスメイトからの叱咤激励を受けながら、浮足立った気持ちで教室を後にした。初戦で登板したのは醍醐だが、三回戦は夏川が投げている。何時でもエースが登板することは出来ないし、何時までもエースが登板しないことも不可能だ。状況に応じて交代していく今の状況に不満は無いが、出たり出なかったりするヒーローの存在は聊か疑問だった。何より、対応に困るのだ。
 クラスメイトから訊かれるのは大抵、蜂谷和輝のことだった。
 彼は何時出場するのか。何故、出場しないのか。
 故障しているということは言い辛かった。正式に入部した自分達でさえ知らされるまで随分時間が掛かったし、その故障の経緯を知らないからだ。そして、初戦で受けたあの痛烈なバッシングの数々はトラウマになりそうだった。彼が何をしたかは知らないが、不特定多数の他人に罵詈雑言を浴びせられる程の訳があるとは思えない。それでも、火の無い処に煙は立たぬというから――。
 正直、彼がグラウンドに立つのは、好ましく、無い。
 言葉にしてしまえば、その通りなのだ。彼が入れば痛烈なバッシングを受ける。彼がいなくても晴海高校は十分に強いチームだ。こんなことを口にすれば仲間は烈火の如く怒り狂うだろうけれど。
 廊下に出ると同時に授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。これから試合に向かう野球部は公欠が許されている。無人の廊下を闊歩するのは何と無く気分が良かった。胸を張る気持ちで大股で歩くと、隣で蓮見が訝しげな目を向けている。
 部室前に集合すると、既に殆どの仲間が集まっていた。出遅れたらしいと反省しながら、何時ものようにいない二人に安心する。
 遠くから、何やら言い争う声がしていた。


「だーかーら! パソコンが壊れたんだって!」
「壊したんだろ、馬鹿!」


 きっと、他愛の無い言い争いなのだろう。蜂谷和輝と白崎匠は例によって言い争いをしながら最後に合流した。
 四回戦の相手である紀田商業は所謂強豪校だった。無情なトーナメントによって淘汰された結果、弱者は涙を呑むしかない。強者が残るのは当然の成り行きなのだ。醍醐は観客席を埋め尽くす応援団を見渡しながら息を呑む。真剣勝負の上の決着で、どちらが勝ったとしても文句を言うことは以ての外、負け犬の遠吠え。それでも付いて回る手前勝手な馬事雑言に慣れてしまったとは、決して言えはしない。
 今の飛び交う出所不明の噂を思い浮かべながら醍醐は溜息を零した。言い返す気力も、気付かぬ振りも限界だ。
 グラウンドへ整列する為、ベンチから飛び出した最後尾。球場にいる全ての人間が注目するのは話題性溢れる小柄な少年だった。


「これより、紀田商業と晴海高校の試合を始めます。両校、礼!」
「宜しくお願いします!」


 体育会系特有の気持ちのいい挨拶もそこそこに、ベンチに戻って見せられる打順表に蜂谷和輝の名は無い。
 ベンチの奥でマネージャー宛らにドリンクの準備等に勤しむ姿にはもう慣れ切ってしまった。後攻の為に守備へ繰り出す晴海高校を迎えるのはまず、観客の溜息だった。
 誰もが、あの少年を探している――。
 先発を任された醍醐はマウンドに上がりながら、いる筈の無い少年を探す視線に苛立った。彼がいてもいなくても、晴海高校の勝利は揺るがないだろう。そんな自信があった。


「おい、醍醐」


 キャッチャーマスクを上げて、わざわざマウンドに駆け寄った蓮見が訝しげに見ている。
 一回きりの試合前に集中力散漫だとでも言いたいのだろう。醍醐は不満げに口を尖らせる。


「何だよ」


 吐き捨てれば、蓮見はわざとらしく肩を竦めた。
 そのまま言葉を交わすことなく、蓮見はキャッチャーポジションへと戻って行く。
 試合、開始だ。
 迎える一番打者は三年生。体の薄い晴海ナインにはいない、上背だけでなく重みのある選手だ。ヒットすれば長打にも繋がるだろう。
 初球、外角高めのボール球。打者は僅かに動いたが、手を出さない。


「ボール!」


 審判のコールが響く。
 醍醐は一年で、相手は三年。高校野球においては経験の差があるけれど、それにも後れを取らない自信がある。コンディションが良いのだろう。球は走っているし、体は軽い。


「トーライ! バッターアウト!」


 あっという間の三振。トップバッターを三振に抑えられれば気持ちは随分と軽くなる。晴海高校のエースは登板していないけれど、その必要すらないと思う程、腕が軽かった。
 一番打者を三振。次をピッチャーゴロ、更にセカンドフライで打ち取れば呆気無くチェンジとなった。仲間からの手厚い賞賛を受けながら戻ったベンチで、光に姿を晒さぬようにして和輝がスポーツ飲料の入ったコップを渡そうと手を伸ばしていた。


「ナイピー。でも、飛ばし過ぎるなよ、今日は暑いから」


 そう言って眩しそうに目を細めて空を見上げる少年は少し困ったように笑った。
 心配される謂れもない。そう思いつつ受け取ったコップに口を付ける。乾いた口内に、薄いスポーツ飲料の甘味が広がった。
 一回裏、晴海高校の攻撃。一番打者はキャプテンの藤だった。危なげ無く内角低めのカーブを転がし、一塁に滑り込む。続く雨宮が送ってワンナウト・ランナー二塁。更に三番、蓮見の長打によって先取点。
 筋書き通りのスムーズな試合運びは流石と言わざるを得ない。彼等は昨年の準優勝チームだ。このくらい当然なのだろう。先取点に対しても驕りや慢心は微塵も見せない。
 マネージャーと化した和輝は相変わらず影から出ずに、ドリンク等の準備を続けている。
 匠の長打によって攻撃を絶やすことの無い晴海高校は初回、三得点を記録する。醍醐がグラウンドからベンチに戻れば、やはり、和輝が笑ってドリンクを差し出すばかりだ。僅かに下げられた眉は、何か言いたげだった。初回に向けられた言葉を繰り返すことはしないけれど、そういうことだろう。余計なお世話だと言わんばかりに黙ってドリンクを受け取れば、やはり和輝は苦笑するだけだった。
 体が軽かった。球が走っている。今なら、プロにだって引けを取らない。
 二回、三回と無得点に抑えれば益々気持ちが高揚した。三回裏、グラウンドの醍醐を見て和輝が目を細める。その横顔を見遣り、蓮見は溜息を零した。
 四回表、それは起こった。これまでの好調が嘘のようなフォアボールだった。
 トップバッターをフォアボールで出塁させ、醍醐は掌の白球を握り締めた。
 おかしい。
 体はこんなに軽いのに。腕はこんなに伸びるのに。球はこんなに走っているのに。――何かがおかしい。
 続くフォアボール。醍醐は苛立った。


(クソ審判。何処見てやがる)


 今のはぎりぎり入っていた筈だ。心の中で悪態吐きながら、醍醐は蓮見からの返球を受け取った。
 ピッチャープレートの足を乗せ、小さく息を吸い込む。此処にいる者が、この試合の投手だ。つまり、自分。
 醍醐は振り被った。そして同時に、気付いた。


(今、ランナーは何処だ?)


 フォアボールでの押し出しで、ランナーは二人いた。如何して自分は、振り被ったのだろう?
 駆け出したランナーにボールは僅かに浮いている。マスクの下の蓮見が、苦々しげに白球を追った。
 鈍い音がした。打球は醍醐の前に転がった。
 醍醐が拾い上げようと手を伸ばしたその時。するりと、状況に見合わぬ間抜けな音がしたようだった。


「あ、」


 打球は醍醐の下を潜っている。二塁ランナーが滑り込む。カバーに入った箕輪が投げた先は三塁だ。


「セーフ!」


 失点――。
 沸き立つ観客に醍醐は呆然とした。何が起こっているのか、解らなかった。ただ、不意に視線を感じて向いた先、ベンチで和輝が睨む訳でも慰める訳でも無く真っ直ぐに醍醐を見ている。
 ノーアウト、ランナー三塁。馬鹿馬鹿しいエラーで得点を許したが、まだ焦る状況ではない。匠がグラブで醍醐の背を叩く。
 ドンマイ、か? 気にすんな、か?
 醍醐には解らない。
 そして新たな打者を迎える。体が軽い。まるで、宙に浮いているようだ。
 打球がふわりと醍醐の頭上に浮かんだ。何の変哲も無いピッチャーフライだ。醍醐が構えたその横で、ストン、と。打球はグラウンドに落下した。


「一つ!」


 蓮見の怒声にも似た声が響き渡る。セカンドの箕輪が一塁へ送球する。
 アウト。
 だが、同時に三塁ランナーが本塁へ。追加点。
 三点差あった筈が、何時の間にか一点差まで迫っている。まだ焦るような場面じゃない。疲労を感じるような時間じゃない。けれど、ベンチから駆けて来るのは決して望まなかったあの少年だった。
 審判がタイムを宣告すると晴海ナインはマウンドに集まった。
 自分を中心に輪を作る仲間が理解出来なかった。


(今日の俺は、ベストコンディションだ。まだ投げられる。まだ此処に立てる。まだ、)


 何かを言おうと口を開いた醍醐を遮って、和輝が言った。


「醍醐」


 びしりと言った声に、醍醐は口を閉ざす。和輝は藤を一瞥し、溜息を吐いた。
 それまで黙っていた藤が漸く言った。


「ピッチャー交代だ」


 まるで、死刑宣告を受けたようだった。その衝撃に言葉を失った醍醐を、気まずそうに蓮見が見ている。
 何で、如何して。俺はまだやれるのに。だってこんなに調子が良いのに。こんなに。


「お前、ランナーズハイなんだよ」


 和輝が何を言っているのか、解らなかった。長時間走り続けている内に気分が高揚して来る状態のことだろうと内心思い、否定する。だって、そう言われる程に自分は疲れていない筈だった。それでも和輝は言った。


「自分じゃ気付いてないだろうけど、お前、顔真っ赤だぞ」


 言われてはっとしたように頬に触れる。まるで逆上せたように熱かった。
 だから、ベンチに戻る度にわざわざ水分を補給させていたのだ。和輝は困ったように眉を下げる。藤が言った。


「ベンチで休んどけ。夏川、行けるな?」
「余裕です」


 醍醐を置いてけ堀にてきぱきと指示を出す藤に、何かを言おうとする醍醐を和輝が押し止める。たかが伝令にやって来ただけに過ぎないのに、球場が沸き立っている。それだけ、世間は彼を求めているのだ。忌々しく思いながら醍醐は和輝の腕を振り払おうとして、動きを止める。それが右腕だったからだ。和輝の後ろで匠の目が光っている。
 選手交代に伴いポジションチェンジする。醍醐は言葉を失ったままベンチに引き下がざるを得なかった。
 何も言えないまま、勝手に試合は進んで行く。絶望にも似た心地でグラウンドを見詰める醍醐の目は虚ろだった。
 サードに、蜂谷和輝。ピンチでも無いのに登場せざるを得なかった少年がバッターに備えて身を低くする。目深に被った帽子の下でも、その面が整っていることが解る。皆、彼を待っていた。
 いきなりのサードを襲う低いライナーを難無く捕球し、ワンナウト。利き手では無い左手の筈なのに、送球はファーストミットのど真ん中だった。更にショート手前で跳ねたイレギュラーにも対応し、あっという間にチェンジ。溢れる歓声に見向きもせず、仲間の中で笑っている。
 今も頭上では罵詈雑言が飛び交っているだろう。白い眼で睨まれながら、見知らぬ他人に罵倒されながら、それでもグラウンド上では光り輝くヒーローとして其処に立っている。
 その訳を、意味を、醍醐は理解出来なかった。

2012.5.14