バッターボックスに向かうは蜂谷和輝。五回表を夏川が三者凡退に抑えたその裏、一点差で勝ち越しの状況はこれまでの晴海高校の戦歴を見る限り苦戦していると言わざるを得ないだろう。先発のピッチャーが自滅しての二失点で、舞台に上がったのは故障中の少年だ。それでも晴海高校の余裕は乱れない。
 まるで、周囲の声援も罵倒もただの雑音に過ぎないというような涼しげな顔をした和輝に、醍醐は更に苛立った。
 練習も満足に出られない癖に。この訳の解らない状況の中心人物の癖に。何で俺じゃなくて、あいつがいるんだ。
 心の中で悪態吐いても何も変わらない。解っている。練習したくとも出来ないことも、望んでこの状況を引き起こした訳ではなく被害者の一人であるということも。それでも思わずにはいられない。これではまるで、ご都合主義のB級漫画だ。俺は引き立て役か?
 鬱々と思考の渦に囚われる醍醐の横、匠はじっとグラウンドを見ていた。
 バッターボックスへと歩いて行く和輝は、昔と何も変わらない。少なくとも、そう見えることだけが匠の救いだった。
 和輝は無表情にピッチャーを見ている。グラブを右に付け替えることになっても、打席だけは左打席のままだった。投げられない右手を使うことは不可能だったけれど、それでも左打席に立つことは譲れなかった。此処が自分の舞台だと思っていたからだった。
 揺れる応援席は、長い間空席だったヒーローの登場を待ち侘びていた。異口同音の、喉が張り裂けんばかりの声援はただ一人の少年の名前を狂ったように繰り返す。
 噎せ返るような熱気も、追い上げムード全開という劣勢も知らぬように、和輝は静かに歩いていた。匠は知らず知らずの内に握った拳を軋ませる。

――一年前、世界は彼の敵だった。
 勝手な噂が、無遠慮なマスコミが、彼の生活と共に心までもをズタズタに切り裂き、踏み躙っていた。
 それでも恨み言一つ、泣き言一つ、弱り目一つ見せなかった。簡単に掌を返した世界は彼の目に如何映っているのだろう。

 沈黙する和輝を、醍醐が、匠がじっと見詰めている。
 和輝は、ゆっくりとバットの感触を確かめるように握る。一年前、その右肩と腕を壊した凶器は、金属バットだった。それでもそれを手放せなかった自分を、高槻は嗤うだろうか。和輝は瞬き程の一瞬、静かに目を閉ざす。
 鮮明になる雑音に耳を塞ぎたくなっても、逃げ出したくなっても、此処に立っていたい。微かに聞こえる仲間の声援を拾い上げ、和輝は静かに思った。


(此処はもう、あの場所じゃない)


 この声は、自分を踏み躙るものではない。
 バッターボックスに立つ刹那、和輝はベンチを振り返った。


(行って来ます)


 声にならなかった言葉は、それでも確かに仲間の元への届いていた。
 太陽を受けながら和輝は真っ直ぐに背筋を伸ばしている。揺らぐことのないその存在感は、正しくヒーローと呼ぶに相応しかった。




13.GOING HOME.<後編>




 運動神経抜群で、才能もあって、努力家で、人格者で、どんな時も諦めないヒーローみたいな人間だった。
 試合終了後、怠い身体を引き摺りながら乗り込んだ電車は気が付くと学校の最寄駅に到着していた。一日公欠が許されている身分としては授業などかったるくてやってられないと醍醐は思った。午後の部活は出なければならないという義務感だけで身体を押して、気付けば教室の前を素通りして屋上に立っていた。僅かに傾いた太陽は、部活開始時刻が差し迫っていることを知らせている。
 七回コールド。それが、晴海高校の四回戦だった。
 投手の自滅によって危機に陥ったかに思えた試合展開は、登場したヒーローの存在によって一転した。
 いきなりの痛烈なライナーは内野を抜けて外野を襲った。更に目にも留まらぬ俊足でグラウンドを掻き回し、まるで潤滑油にように晴海高校の攻撃をスムーズに促した。それからは圧倒的だった。たった二回。その間に七回コールドを決定付ける程の大量得点で勝敗を決めた。それまで勝手な罵詈雑言を放っていた観客すら、晴海高校に拍手を送っていた。
 勝利の喜びもそこそこに応援団へ感謝を告げる仲間。そして、醍醐はそれを遠く、ベンチの奥で見ていた。
 太陽の光も届かない闇の中で、茹だるような熱気に蒸されながら、誰にも知られず腐って行く。


(……馬鹿馬鹿しい)


 勝ったんだから、いいじゃないか。
 慰めるようにそう思おうとして、醍醐は自嘲する。部活に出れば、こんな鬱屈とした気持ちはすぐに晴れる筈だ。仲間はきっと、誰一人責めることはしないだろう。いつも通りに迎えてくれて、せいぜい茶化すくらいだ。良い仲間だと、思うけれど。


「おい、いじけ虫」


 傾きかけた黄色い太陽を背中に、小さな少年が立っている。その顔が見えなくとも、醍醐はそれが誰なのかすぐに解った。


「……和輝先輩、サボりすか」
「だって、怠ィだろ」


 悪戯っぽく笑って、無意識に蹲っていた醍醐の横に腰を下ろす。
 僅かに顔色が悪いように見える。たった二回しか出てない癖に、どれだけ体力が無いんだ。そう馬鹿にしようとして、醍醐は右腕を見て口を噤む。夏用の半袖のシャツでは隠せない包帯が、まるでギブスのように右腕を覆っている。
 醍醐の視線に気付いたように、和輝が笑った。


「年甲斐も無く、燥いだ罰だよ」


 あんた幾つだよ。そう言ってやりたかったが、醍醐は黙っていた。
 和輝は欄干に背を預け、何でもないように振る舞いながらさり気無く右腕を庇っていた。痛むのだろうか。けれど、問い掛けることはしなかった。
 授業終了のチャイムが鳴り響く。二人は無言だった。
 沈黙が風のように通り抜けて行く。チャイムが止み、和輝は小さく息を吸い込むと一息に言った。


「お前、馬鹿だろ」


 呆れたような物言いに、醍醐は何も言い返せなかった。
 膝に埋めた顔すら、上げられない。和輝は溜息を吐いた。


「泣いてんじゃねーよ」


 くしゃりと、和輝の右手が醍醐の髪を掻き混ぜた。
 膝の間を抜けた滴が、屋上のタイルにぽたりと落下する。
 声は震えていなかった筈だ。気付かれない筈だった。こんな姿を見せたくなかった。それでも和輝は醍醐を看破したように乱暴に頭を撫でる。


「悔しかったろ」
「……に、」


 醍醐は、掠れるような声で言った。


「あんたに、解んないだろ」


 見っとも無い涙声だった。
 一人ベンチの残された孤独感も、置いてけ堀の空しさも、何も出来なかった無力感も解らない。何よりヒーローだった彼には、解って欲しくなかった。
 けれど、和輝は何でも無いことのように言った。


「解るさ。俺だって、同じ場所にいたんだ」


 その言葉に、はっとした。
 あの暗いベンチの奥は、和輝がいた場所だった。太陽の光も届かぬ場所で、観客の目に映らぬように、ひっそりと立つことの出来ないグラウンドを見詰め続けたのは、自分だけではなかった。
 同じなのに、何が違う。自分と彼は何が違う。醍醐の胸の内に繰り返される疑問は、知らず知らずの内に言葉となって零れ落ちた。


「あんた、何なんだよ……!」


 醍醐の声は震えていた。
 見っとも無いと思いながら、それでも声は止められない。


「何で、平気な顔してんだよ!」


 和輝が、からりと笑った。


「平気な訳、ねーだろ」


 当たり前のことを言うなと言うように、軽口を叩くような口調の和輝に醍醐は思わず顔を上げた。和輝はやはり、笑っている。


「怖ぇよ。怖くて仕方無いよ。グラウンドに立つ度に心臓が震える。バットを握る度に冷や汗が出る。視線からも野次からも、逃げたいと思ってるよ」


 何処か遠くを真っ直ぐに見据える目は揺るがない。和輝の声は緊張故か、僅かに強張っていた。


「でも、決めたから」


 凛と響く声に、醍醐は拳を握る。和輝は遠くを見詰めたままだ。
 何を、とは訊けなかった。自己完結に終わった言葉に疑問は残るけれど、結局、彼をこの場に奮い立たせているのはただの意地なのだ。ただの我儘なのだ。ヒーローが聞いて呆れると思う。それでも。
 和輝は漸く醍醐を振り返った。


「泣くくらいなら、強くなれよ。そんで、俺を超えてみせろよ」


 この人の方が、余程泣きたかった筈だった。
 醍醐は奥歯を噛み締めた。勝手な馬事雑言に何も言い返せない悔しさも、蹲ることしか出来ない虚しさも、それでも前を向くしかない辛さも全部解っている。
 じゃあな。
 そうして立ち上がった和輝は振り返らず、真っ直ぐ屋上を出て行った。残された醍醐だけが強く拳を握り締めている。
 屋上へ続く階段の下で、和輝は匠と鉢合わせた。その姿を認めて匠の眉間に皺が寄り、和輝は苦笑する。


「……探したか?」
「うるせーな。用があっただけだよ」


 ほら、と手渡された保冷剤に和輝は笑った。既に湿布した上に包帯でぐるぐる巻きだと言うのに、更に冷やせと言うのだろうか。
 ぶっきら棒な癖に心配性な幼馴染を笑いながら、和輝は歩き出す。


「なあ、匠」


 階段を降り切った踊り場で、立ち止まった和輝が振り返る。苦笑を浮かべて和輝が言った。


「俺って、強い人間か?」


 和輝の脳裏に浮かぶ後輩の姿を思い、匠は黙り込んだ。
 醍醐だけではない筈だ。この幼馴染を、まるで完璧なヒーローだと言う人間は多い。世間はそれを望んでいるし、そうでなければ生きていけなかっただろう。だけど、それでも、自分だけは彼の弱さを知っていなければならない。


「お前が? 冗談だろ」


 影で重ねた努力も、人知れず流した涙も、膝を抱えて蹲った夜も、強迫観念に押し潰されそうな毎日も、自分だけは知っていなければならない。和輝は本人が思う以上に強い人間だ。同時に、脆い人間だ。
 あの試合中、颯爽と神懸ったプレーを続ける裏側で、どれ程の辛苦を味わって来たのかなんて、誰も知らない。
 ベンチを抜けた男子便所の奥で、右腕を押さえて蹲っていたことを知っている。――あの事件から、もうじき一年が経過する。この怪我は決して完治しない。彼が野球を続ける限り、何時までも身体を蝕み続ける毒だ。
 匠の言葉に、和輝は幾らか安心したような笑みを見せた。彼の弱さを知っている。縋るものを持たない彼の、此処が唯一の逃げ場所なのだ。


――あいつは、狡猾な男だな


 試合前の碓氷の言葉を思い出し、匠は肩を落とす。狡猾、だなんて、冗談じゃない。
 もっと上手い生き方があった筈だ。一年前の事件の真相など、ありのままに公表してしまえば良かったのだ。そうすれば被害者でしかなかった彼は同情を向けられることはあっても、こんなに責められることは無かった。そして、野球なんて辞めてしまえば良かったのだ。そうすれば、今もこんな痛みに苦しむことは無かった。
 それでも一人で罪を背負って、棘の道を進むことを選んだ。こんな馬鹿で不器用な男が他にいるか?
 再び背を向け歩き出した和輝は振り返らない。目の前には無人の廊下が真っ直ぐに伸びていた。
 背後で扉の開く音がして、匠は胡乱に視線を投げた。屋上が無人だとは思っていなかった匠は、醍醐の姿を認めると小馬鹿にするように鼻で笑った。生意気な一年坊主の目が、赤く腫れている。
 自分の体調管理一つ出来ずに自滅するピッチャーなど、他の強豪校ならばすぐに切って捨てることだろう。野球はあくまでチームプレイだ。チーム内を掻き乱すだけの存在ならば必要無い。匠にとって醍醐は鬱陶しいだけで大して興味の無い存在だったが、一人で自己嫌悪して反省して、揚句、無関係の先輩に八つ当たるような馬鹿は、嫌いじゃない。
 和輝には、醍醐くらい馬鹿で自己中心的な人間が傍にいた方がいい。


「見っとも無ェ面だな。顔洗って来いよ」


 後輩を指導しようとは思わない。後輩を育てたいとも思わない。いるだけで悪影響ならば、いない方がいい。
 ただ、この馬鹿な後輩の存在が、和輝の救いの一つになっていることだけは確かだから。


「言われなくても、そうします」


 仏頂面で横を通り抜けて行った後輩に、匠は少しだけ笑った。
 先輩を失った和輝が、先輩になろうとしている。
 途中、醍醐とは擦れ違わなかったのだろう和輝が、その歩調を僅かに緩めながら前を歩いていた。自分が追い付くのを待っていたとは解るけれど、そんな面倒なことをするくらいなら、初めから歩き出さずに立ち止まっていればいいのにと思う。匠が追い付いたことを僅かに振り返って確認し、和輝は人懐こい笑みを浮かべた。
 面倒臭い男だな、なんて。大概自分も人のことは言えないけれど。
 横顔を向ける和輝が、グラウンドに向かうあの瞬間に重なる。光の中に向かって歩いて行くその背筋は凛と伸びて揺るがない。それでも一瞬、ほんの一瞬ベンチを見て口を開いた。
 声にしなかった言葉を、素通りなんてしてやらない。


「おかえり」


 肩を並べ、匠は言った。自ら荊の中へ進んで言った親友がまた、自分の隣に戻って来れたことを密かに喜びながら。
 和輝は面食らったように目を丸くして、そして、また笑っていた。

2012.5.19