あの夏が、またやって来る。

 吹き抜ける生温い風が、長毛の生物の尾を思わせる柔らかさで、頬を撫でて行った。降り注ぐ灼熱の太陽はグラウンドを鉄板のように熱しながら、これから執り行われる試合をより過酷なものへと変えようとしているようだ。
 日差しを遮るベンチの奥で、和輝は金属バットの腹をゆっくりと撫でていた。グローブ越しに感じる金属の冷たさが、熱に鈍る思考を鋭くさせる。それでも正常化しない脳内では、逃れ難い鈍痛が重く響き続けていた。気を抜けば震えそうな足で踏ん張って、下ろされそうな瞼を抉じ開けて、この場所に広がる現実を受け入れなければならない。
 七月某日、神奈川県地区予選、五回戦。所謂、準々決勝は晴海高校と星川高校という対戦カードとなった。
 星川高校は、昨年、晴海高校がコールドゲームで勝った相手だった。忘れもしない一年前の夏、自分はグラウンドに立って、彼等の夢を打ち砕いた。
 ベンチから出て来ず、練習にも混ざらない自分を、彼等は如何見ているのだろうか。和輝には解らない。
 沈み込んでしまいそうな自分を叱咤しようと、固く瞼を下ろした瞬間、耳に馴染む匠の声がした。


「おい、和輝!」


 太陽の下にその身を晒して、闇の中を覗き込む匠。ニーチェの言葉を思い出す。
 怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。お前が長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくお前を見返すのだ。
 これは警告だ。


「何、ぼーっとしてんだ。整列するぞ」


 言われて初めて、選手が列を成そうとしていることに気付く。
 慌てて走り出そうと振り向いた瞬間、その存在すら忘れていた金属バットがするりと掌から抜け落ちた。タイルに打ち付けられた金属バットは、鐘の音のように鳴り響くと、静かにその身を横たえた。
 ずきりと、何処かが痛んだ。
 匠の後に続いて飛び出したベンチ。頭上で太陽が嗤っている。
 グラウンドが鉄板ならば、自分達は焼きそばだろうか。鉄板料理なら焼肉がいい。そんなことを考えられる程度には思考は正常化していた。口に出していれば匠はきっとお好み焼きがいいとでも言ってくれただろう。
 両校、整列。球場の席は埋まりつつある。和輝は正面に立つ少年の瞳を覗き込んだ。見覚えの無い選手は恐らく一年だ。野球部らしい丸刈りで浅黒く、ビー玉のような丸い目をした少年。けれど、ガラス玉に例えた自分に失笑する。真っ直ぐ此方を見詰める目は鋭い。
 審判の宣誓により、両校が声を張り上げて頭を下げる。これが形式的な挨拶にならないことを祈りながら、和輝は帽子を被り直した。
 ベンチの戻る刹那、和輝は僅かに振り返って星川ナインの先頭を走る少年の後姿を見た。決して体格が良いとは言えない細身で目付きの鋭い少年。星川高校野球部主将、三年、諸星太一。星川高校で唯一、最後の夏を迎える選手だ。
 先攻である晴海高校のベンチでは打順の確認がなされている。和輝はマネージャーの青葉に習ってスコアボードを広げながら、帽子のツバの下でグラウンドを見据える。熱されたグラウンドに浮かぶ陽炎に、昨年の試合が蜃気楼のように見える気がした。
 試合が始まる――。
 ベンチ待機を許された和輝は、一番打者である藤に声援を向けること無くただバインダーを握り締めていた。
 マウンドに諸星太一。ホームに二年、葛西慎二郎。この葛西慎二郎は、夏川の嘗てのチームメイトで、将来を期待された才能ある選手だった。その彼が所謂弱小校であった星川高校に進学した意図は解らないけれど、警戒すべきこの試合のキーマンに他ならなかった。
 下ろした瞼の裏に、一年前が鮮明に蘇る。
 一年前、星川高校は万年一回戦負けの弱小チームで、努力を嘲笑い相手を愚弄するばかりのクズ共の吹き溜まりだった。中で唯一、その目に火を灯した選手が諸星だった。どんなに絶望的な状況でも、味方なんていなくても、マウンドに立ち続けた投手。そんな彼を、彼の仲間は罵倒し嘲笑ったけれど。


「一年前が懐かしいな」


 ベンチから身を乗り出して声援を送っていた筈の千葉が言った。
 和輝はぎくりと身を固くしたけれど、千葉は気付かなかったようで、そのまま語り続けた。


「試合中に乱闘する勢いでさ、啖呵切ったお前のこと、今も忘れねぇよ」
「……若気の至りです。今は猛省してます」
「ああ。そうしろ」


 千葉は可笑しそうに喉を鳴らしながら、笑いを噛み殺している。
 彼の中で、一年前の試合はもう懐かしむ思い出なのだろう。和輝は苦笑した。
 当たり前のように仲間を罵倒し、自分達を踏み付け、無気力な自分達を正当化しようとした一年前の星川ナイン。挙句に見当違いな問いを投げ付けた彼等に、和輝は試合中ということも忘れて怒鳴り付けたのだ。――そして、それを諌めてくれたのは、高槻だった。
 お前も選手なら、己の主義主張は全てプレーで示すべきだ。
 そう言った高槻の言葉は、今も和輝の中に息衝いている。
 グラウンドから高音が響いた。藤の放った打球は痛烈なライナーとなって二遊間を抜けた。センターが拾い上げたボールは、放たれることは無かった。ノーアウト・ランナー一塁。


「試合、出たいか」


 なるべく感情を含ませないようにしたのだろう。彼らしかぬ抑揚の無い声で、千葉が言った。
 一瞬の逡巡の後、千葉はばつが悪そうに目を伏せた。訊くまでも無いことだ。グラウンドに立つ為に、リハビリを続けているのだから。マネージャーがしたくてベンチにいる訳じゃない。
 グラウンドに降り注ぐ声援に掻き消されそうな独白にも似た小さな声で、千葉は続けた。


「さっき、整列する前。じっとバット見詰めてたからさ」


 見ていたのか、と驚く反面。自分はどれ程の時間、ああしていたのだろうと疑問に思う。
 和輝は曖昧に笑った。二番、箕輪がバッターボックスに入る。
 相対性理論というものがある。物質は光の速度に近付く程、時間の流れは遅くなる。ベンチの中はまるで流動体に包まれているかのようにゆったりと時間が経過し、グラウンドは忙しなく動き続けている。箕輪のバットが白球を打ち止める。グラウンドに落ちたそれはてんてんと三塁線に転がって行く。藤が二塁に滑り込み、箕輪は一塁を駆け抜けた。が、敢え無く審判はアウトを宣告した。
 ワンナウト・ランナー二塁。
 和輝の答えは無い。
 バッター三番、夏川君。淡々と響くアナウンス。バッターボックスには夏川だ。嘗てのチームメイトと二度目の対戦を果たす心境はどのようなものなのだろう。ぼんやりと、そんなことを思った。
 諸星が構える。そして、その白球が放たれ、夏川のバットが振り抜かれると同時に、和輝は口を開いた。


「――」


 声は掻き消された。同時に、和輝もそれを望んでいた。
 白球が内野を抜ける。――が、その瞬間。二塁寄りに待ち構えていたショートが飛付いた。砂塵と共に倒れ込んだ少年は素早く立ち上がると、すぐさま投球姿勢を取る。アウト。審判の宣告。
 ショートのファインプレーに観客が沸き立つも、藤は既にスコアリングポジションにいる。ツーアウト・ランナー三塁。迎えるは晴海高校の四番だ。匠がヘルメットの下に鋭い目を隠し、バッターボックスに向かう。
 千葉は聞き取れなかった和輝の言葉を追及出来ないまま、ベンチを飛び出した。彼が引っ掴んで行った金属バットは太陽光を硬質に反射している。
 一瞬の光が、和輝の目に飛び込む。見慣れたその輝きに、ぞくりと粟立つ。


(出たいよ)


 バインダーを強く握り締めて、和輝はバッターボックスの匠から目を逸らすように俯いた。




14.The Limited World<前編>




 諸星太一は大きく息を吸い込んだ。バッターボックスに四番、白崎匠。一回表から早くも失点のピンチだ。
 相手が晴海高校になることは、初めから解っていた。一年前のコールドゲームを忘れた訳ではない。彼等は優れたチームだ。それは才能ある誰か一人に頼るものではなく、チームの一人一人が歯車の一つであると自覚し、一つ一つのプレーを確実に得点に繋いでいくチームプレーによるところが大きい。
 昨年に起きたという傷害事件については噂くらいは耳にするものの、殆ど謎のまま今は尾鰭を付けて人々の間を徘徊している。彼等に何があったのかは知らない。興味が無い訳では無いが、関係無いと思う。
 諸星は匠をじっと見据えた。
 栃木の強豪、私立エトワス学院からの転入生。シニアリーグでは知らぬ者がいないという実力者だ。ヘルメットのツバの下、闇の中で猫のような丸い瞳が光って見える。
 ランナーは三塁。諸星は踏み込んだ。
 横に振られた腕は鞭のように撓った。白球は熱気を切り裂いてキャッチャーミットに飛び込んだ。


「トーライ!」


 葛西から、力強い返球。キャッチャーマスクの下、仏頂面で葛西はサインを出す。
 初めから見送る算段だったのだろう。匠は視線だけを動かしていた。
 それは余裕からの選択ではない。昨年度、実際に諸星の球を受けた晴海ナインとは違って、匠は実際にバッターボックスで彼の球を見るのが初めてだったからだ。サイドスロー投手である諸星の実力を測り兼ねている。
 試合前、星川の資料には目を通した。ビデオでも確認した。それでも、実際にバッターボックスで見るのとは違う。
 匠は構え直した。踏み込んでいないバッターボックスを均す必要は無い。ジンクスの一つとしてその動作を取る選手もいるけれど、余計な動作で体力を消耗するのも、キャッチャーに心中を読まれるのも御免蒙る。匠は諸星を見据えていた。
 サイドスロー。通常と異なる球筋は、実際よりも速度が増して見える。サイドスローの投手と対戦したことが無い訳ではないけれど、見慣れる程ではなかった。
 諸星の右腕が唸る。いい投手だ。つい、頬が緩む。
 キャッチャーミットから、乾いた音が響いた。


「トラーイク!」


 ツーストライク。追い込まれた。けれど、匠の口元は僅かに弧を描いていた。
 諸星が怪訝に眉を寄せたのを見て、匠は緩んだ口元を引き締める。今の心中を、幼馴染ならきっと解ってくれる。追い込まれたことが嬉しいのではない。いい投手と対戦出来たことが嬉しい。そして、――それを打ち崩せることが楽しい。
 三球目。匠のバットは振り抜かれた。それは体格に恵まれたとは言えない匠からは予想し難く鋭いライナーだった。
 三遊間。先程、ファインプレーを決めたショートが跳び付く。けれど、打球はグラブを僅かに掠め、内野を抜けた。三塁ランナーが飛び出す。匠は勢いのままバットを手放すと、一塁線を一直線に駆け抜けた。


「セーフ!」


 二つの声が、重なって響いた。両手を左右に開いた審判と、滑り込む必要すらなく帰還したランナー。藤は不敵に笑うと一塁の匠に視線を流した。
 先取点に沸き立つ応援団。太鼓が喧しく叩かれる。
 グラウンドに転がったバットをじっと見詰め、和輝はすぐに一塁に目を向けた。匠が嬉しそうに笑っている。
 五番、千葉がバッターボックスへ。先程投げ掛けられた問いが蘇るけれど、和輝は頭を振って打ち払った。
 そして、攻撃は途切れた。追加点へ期待が掛かる場面で、諸星は眉一つ動かすことなく、機械のような正確さで三球を叩き込んだ。最後の一球を葛西が受け止めると同時に、審判は攻守交代を宣言する。
 ベンチへと駆ける星川ナイン。諸星を追うのは、二つ年下の少年達だった。
 この一年で、星川高校は大きく変貌を遂げた。無気力な三年主体の弱小チームは、彼等の引退と共に生まれ変わったのだ。
 諸星がベンチに辿り付くと活気溢れる労いの声が次々に寄越された。


「キャプテン、ナイピッチです!」


 ショートの宮野だ。如何にも高校球児という丸刈りで浅黒い少年。大きな丸い目が特徴的な後輩だった。先程、ファインプレーを決めたのも彼だ。
 機関銃のように喋り倒す宮野の横から、糸のような細い目の少年が不満げに言った。


「たった一回ファインプレーしたからって、調子に乗るなよ」


 センターの松本。長身痩躯でパワーは無いが、体力と走力は申し分無い。
 続け様に文句を言いながら労いの言葉を混ぜて来る後輩達の声に耳栓でもしたい気持ちで眉間に皺を寄せていると、タイミングを見計らったかのように葛西が怒鳴った。


「うるせーんだよ、お前等!」


 びくりと肩を跳ねさせる後輩達。体格に恵まれた葛西は中々に迫力がある。
 苛立ったように片眉を跳ねさせる葛西だが、内心可笑しくて堪らないのだろう。諸星はやれやれと溜息を吐いた。


「お前等さっさと準備しろ!」
「はい!」


 途端に攻撃の準備の為に動き出した後輩達に、諸星は苦笑する。
 一年前、あの三年生達が君臨していた頃とはがらりと様相は変わった。長年敷かれて来た徹底した年功序列制度は、今年度の特殊な状況変化に伴って瓦解したも同然だった。それは、三年生がたった一人しか存在しないということだった。
 唯一の三年生である主将の諸星。そして、同じく唯一の二年生である葛西慎二郎。他に補欠を入れて十名の一年生。それが今の星川高校野球部の全てだ。
 忙しない一年に呆れながら、諸星はグラウンドに目を向けた。マウンドには見覚えの無い投手がいる。データによるところ、一年だ。晴海高校は総勢十名の少数チーム。十人対十二人。これが地区予選の準々決勝なのだから驚かされる。
 グラウンドをじっと見詰めていた諸星に、葛西は言った。


「どう思います?」
「何が」


 すぐさま切り返される言葉に葛西は苦笑した。


「あいつですよ、あいつ。蜂谷和輝。試合に出てないでしょ」
「ああ……」


 この大会を通して、蜂谷和輝は殆ど出場していない。ベンチ要員と化しているが、その実力は誰もが知るところだろう。
 二軍や三軍がいるような大人数の強豪チームなら、温存していると言うことも考えられなくはない。だが、晴海高校のチーム色を見る限り、それは限りなく低い確率のようにも思うのだ。昨年度の活躍を覚えているからこそ、疑問に思う。
 葛西は晴海高校のベンチを見詰めながら言った。


「あいつ、故障してんじゃないスかね」


 さらりと投げられた言葉に、諸星ははっとする。
 葛西は続けた。


「蜂谷が素人同然って言うならベンチ要員ってこともあり得るんスけど、実際は違うでしょ」
「温存、ってこともあるだろ」
「温存するなら、投手でしょ。エースの夏川がファーストやってんのに、わざわざ蜂谷をベンチに下げる意味が解りませんよ」


 故障でもしてない限り。
 そう言った葛西に、諸星は顔には出さず納得する。疑問が残るのも事実だ。


「仮に故障中だとして、それでも出場記録は無い訳じゃない」
「あいつの性格から考えれば無理言って出たか、リハビリ兼ねての出場かってとこじゃないスか」


 中々に的を得ている。
 その言葉に納得し掛けた時、葛西は言った。


「まあ、こんな時に故障してるようじゃ、あいつも高が知れてますね」


 不敵に笑う葛西に、諸星は頼もしさ以上に呆れてしまう。


「俺達は去年、あいつに負けたんだぞ……」
「負けたのは去年の三年で、俺達じゃねースよ」


 平然と言ってのけて笑う葛西に、諸星は肩を落とした。
 だがしかし、方針は決まった。


「引き摺り出すか」
「はい。まずはあの一年投手、打ちのめしてやりましょう」


 葛西が笑った。

2012.6.10