世界の終焉を思わせる紅い光が満ちている。
 葛西は耳を澄ました。冷えた夜風と共に、等間隔に乾いた音が響き続ける。グラウンドからの活気溢れる声も、遠くに聞こえる踏切の警戒音も身を潜めたこの場所は、まるで世界から切り離された異次元のようだった。校舎裏の壁に向かって腕を振り続ける少年を、もう二年、見詰め続けている。
 地区予選の準々決勝を明日に控えた夕暮れだった。葛西は、此方を見向きもしない諸星を眺めている。
 明日の試合に備えての打ち合わせだとか、後輩への指導だとか、話さなければいけないことは山程ある筈なのに、葛西は発するべき言葉を何一つ持っていなかった。校舎裏のブロック塀に向かって投球練習をする諸星に、葛西は何時だって無力だった。
 諸星より上の先輩がいた頃は、此処が彼のグラウンドだった。やる気など欠片も無く、惰性で野球を続けているだけの先輩が牛耳る野球部は絶対的な年功序列制度だった。実力が如何だったのかなど葛西には解らない。それでも、ストイックに練習を続けた諸星が日の目を見ることが出来なかった程度には、酷い有様だった筈だ。
 仲間も味方もいない中で、ただ野球が好きだというだけで、たった一人でボールを握り続けた諸星がどんな気持ちで、このブロック塀に向かっていたのかは解らない。弱音一つ、泣き言一つ零さない諸星の思考など想像も出来ない。けれど、生半可な覚悟で此処にいるとは思えない。


「――何か用か」


 顎から滴り落ちる汗を拭い、諸星は漸く葛西を振り返った。
 自分が立ち尽くしていたことに気付き、葛西は咳払いを一つした。


「明日のことで、ちょっと」
「ああ、今行く」


 目の上のたんこぶだった三年が卒業し、諸星は最上級生になった。新たな一年が十名入部し、星川高校野球部は生まれ変わろうとしている。当然と言えば当然なのだけど、一年もレギュラーとして試合に出場することが出来る。主将となった諸星は形だけの先輩ではなく、後輩を引っ張るリーダーになった。
 グラウンドへ歩き出した諸星を追い、葛西はその背中をじっと見詰める。
 一年前の夏大会。晴海高校と試合したあの日、不満も弱音も呑み込んで沈黙を守り続けた諸星が初めて本音を吐露した。それを否定したのは味方である筈の仲間で、掬い取ったのは敵である筈の晴海高校の蜂谷和輝だった。そして、自分は立ち尽くしていただけだった。
 ねえ、諸星先輩。
 呼び掛けると、諸星は振り返ることなく唸るように返事をした。


「明日の試合、勝てると思いますか」


 思いをそのまま口にした葛西を、振り返った諸星は鋭く射抜いた。


「何だテメー、弱気かよ」


 苛立ったような諸星の口調は荒い。眉間に寄った皺に葛西は苦笑する。


「そういう訳じゃねースけど。まあ、因縁の相手ですし?」


 何か思うところあるのかなーって、思って。
 そう続けると、諸星は今度は呆れ顔になった。ころころと表情の変わる、直情的で純粋な人だと葛西は思う。諸星は不満げに鼻を鳴らし、再び背中を向けて歩き出した。自分では決して認めようとはしないけれど、諸星は熱血と呼ばれる人種だ。


「確かに因縁の相手だけど、関係ねーよ」


 進み続ける諸星の歩みは淀みない。
 諸星の中にも、昨年の試合が鮮明に蘇っている筈だ。葛西は思い出す。相容れない仲間、孤独、対立、否定、罵倒。立ち尽くしていた自分と初めて心中を打ち明けた諸星。
 純粋に野球を愛した諸星の勝利への渇望を、仲間は何でも無いように否定し、嘲笑った。その意味を問うた。答えられなかった自分の代わりに、声を上げたのは敵である筈の小さな少年だった。
 蜂谷和輝。グラウンドを駆け抜けたあの少年を、今も鮮明に覚えている。
 諸星は後輩の待つグラウンドへと真っ直ぐに進み続ける。


「先のことなんざ、誰も知らないんだ。勝てるか如何かなんて解らねーよ。大切なのは、勝とうとするか如何かだろ」


 諸星の本心だろう言葉に、葛西は思わず足を止めた。
 全く、この人は。


「臭過ぎますよ」


 そう言って笑えば、諸星も照れ隠しのように鼻を鳴らす。けれど、そういう青臭い台詞が諸星にはよく似合う。


「勝ちましょうね」


 最後の夏を迎えるただ一人の先輩の為に。
 振り向かない諸星は、当たり前だろ、と短く答えた。何の迷いも無い。
 味方のいなかった諸星の球を受け続けたブロック塀は、絶対に彼を無視しないし否定しない。受けたボールを必ず返してくれる。この一年、自分もそんな存在になれていただろうか。葛西は拳を握った。
 腐ることなく前を向き続けた先輩の為に、自分もまた前へ進もう。そして、彼の道を切り開こう。
 自分が口にするには余りに似合わなく青臭い言葉を胸の中で強く思いながら、葛西は諸星を追い掛けた。




14.The Limited World<中編>




 自分がぼうっとしていたことに気付き、葛西は困惑した。目の前には陽炎上るグラウンドがある。
 逆上せたのだろうか。それとも、ランナーズハイか。因縁の試合に感傷的になっているのか。幻でも見ていたのだろうか。葛西は判断し切れぬままベンチ奥の諸星を見た。水分補給する諸星とは当然だが視線は合わない。
 星川高校に控えの投手はいるが、晴海高校に通用する程かと問えば否だ。諸星でさえ打ちこまれているのだから、投手が代われば滅多打ちの上、此処までの晴海の戦歴を考えればコールドゲームも十分あり得る。とは言え、諸星に消耗されるのも困りものだ。トーナメントはこれからも続いて行くのだから。
 マウンドに上がる晴海高校の投手は一年。対するバッターもまた一年。少数チームは互いに大変だなと思いながら、投手、醍醐の投球をじっと見詰める。
 ワインドアップ。ステップを踏んで――、投球。
 平均球速は120kmそこそこだろう。


「ボール!」


 今のは狙ったのか、それとも。
 じっと観察する葛西の目は鋭い。
 グラウンドに金属音が響く。一番打者、市居が打ったのはボール球だ。それでも運良く打球は三塁線に転がった。三塁手、星原が拾い上げる前にショートの匠が反応している。キャッチからのスローイングが酷く滑らかだ。素早いステップに舌を巻く。走り抜けた市居は勢いよく転倒した。


「アウト!」


 派手に転倒した市居の心配より、なるほど、と葛西は思った。
 ショートの白崎匠は、昨年まで栃木の強豪エトワス学院にいた才能溢れる選手だ。それが如何して晴海にいるのか葛西は解らないが、四番を打っている以上、その実力は本物ということだ。そして、それは打撃だけに留まらない。
 四番、ショート白崎匠。
 オセロのようにユニホームの全面を土塗れにした市居がベンチに戻る。出迎え励ます一年の間を抜けて、真っ直ぐに葛西と諸星の元へ報告にやって来た。
 葛西が口を開くより早く、諸星が怒鳴っていた。


「馬鹿野郎!」
「すんません!」
「あんなボール球に手ェ出してんじゃねーよ!」


 まあ、確かにその通りだな。葛西は苦笑する。
 怒鳴り付けるのは諸星の通常装備だ。これが所謂愛の鞭であることはチームメイト皆が知る所だ。諸星は憎まれ役を買って出ているつもりなのだろうけれど、その実、根が良い人だから徹し切れない。


「次は無いぞ!」
「はい!」


 そうやって、諸星は許してくれる。次という機会をくれる。
 けれど、諸星に次は無い。最後の夏だ。
 葛西は何も言わぬまま、苦笑を浮かべて市居を見送った。そして見遣る、グラウンド。投手、醍醐をじっと観察する。
 上背は無い。厚みも無い。突出した才能は無いが、努力によって培った技術がある。良い投手だ。醍醐が星川高校にいれば、先発として登板させていたことだろう。
 球威は無い。フォームも決して安定しているとは言えない。昨年対戦した晴海高校のエースはふてぶてしいくらい無表情で、機械のような正確さで投球し、切れのある変化球で打ち取る技巧派の投手だった。彼と比べればまだまだだ。
 二番打者がバッターボックスに上がる。初球はボールだ。手を出すなよ、と胸の内で呟く。


「ボール!」


 今の明らかなボールは狙ったのか、それともコントロールが荒れているのか。
 投手の心理状況は如何だろう。ぎこちないフォームの訳は何だろう。打者を睨むように見詰めるその意味は。
 観察し、分析する。


「ボール!」


 二球続いたボール。慎重なのか、それとも。


「力抜け!」


 晴海のベンチから、よく通るボーイソプラノが聞こえた。一年前、諸星を掬い上げたあの声だ。忘れもしない。
 それは、投手が力んでいるという意味だ。ベンチから身を乗り出す蜂谷和輝。手にはマネージャーさながらのバインダー。お前を必ず引っ張り出してやる。


「トラーイク!」


 内角高め。ぎりぎりのストライクゾーンだった。後ろで諸星が舌打ちした。
 投手がそんなに解り易くて如何する。諸星も、醍醐も。去年の晴海のエースを見せてやりたい。ホームランを打たれて尚崩れないあのふてぶてしい鉄面皮を。
 グラウンドからあの金属音が響く。打球は二遊間。ショートが跳び付く。


「アウト!」


 葛西は苦々しく笑った。先程も思ったが、守備範囲が広い。全国有数の名門チームにいただけのことはある。良い選手だ。
 白崎匠はまるでそれが当たり前のことであるように、嬉しそうな顔一つせず投手へ返球する。ツーアウト。
 攻撃に置いて、諸星のバッティングはクリーンナップでも十分だが、エースにこれ以上の負担を掛けたくない。下位打線に座る諸星は忌々しそうに帰って来る後輩を睨んでいる。


「諸星先輩」


 葛西は笑う。


「そんな顔しなくても、あんたは投げることだけ考えてればいいんスよ。得点は俺がします」


 解り易い諸星の思考を読み取って、葛西は笑みを深めた。
 続く三番もまた、つまらないボール球を打ち上げた。セカンドフライ。危なげなく捕球され、チェンジ。諸星が溜息を吐いた。


「当たり前だろ」


 その言葉に、葛西は微笑む。無条件の信頼。一年前存在しなかったものを、この一年で作り上げて来た。
 お前等なんかに負けない。葛西はグラウンドを睨んだ。
 三者凡退により、試合は二回表を迎える。下位打線から始まるこの攻撃が得点に繋がれば、一点差で勝ち越しの晴海高校の更なる追い風となる。匠はマウンドに上がった諸星を真っ直ぐに見据えた。
 いい投手だ。打ち崩すことを楽しみに思える程度には。一年生ばかりのチームで、この準々決勝まで勝ち進んで来たのだ。油断なんてしない。
 晴海高校にとっては昨年コールドゲームで打ち破った相手だが、匠にとっては初対面だ。互いに手の内を知っている間柄なのだろうし、因縁もあるだろう。けれど、そんなものはどうだっていい。
 匠は、バインダーを抱える和輝を見遣る。その視線はグラウンドに向けられている。試合に出たいだろう。バットを握りたいだろう。ボールを投げたいだろう。


(でも、お前は出さない)


 その為なら、俺は何だってやる。
 匠は静かに胸の内で誓う。少なくとも、匠は地区予選の内は和輝を試合に出す気は無かった。何も知らない世間が浴びせるだろう馬事雑言も、身体を蝕む後遺症も、根強く残る精神的外傷も理解していたからだ。これ以上、和輝が傷付く必要は無い。
 バッターボックスに立つのは投手の醍醐だ。投手同士の対決。匠が分析しようと見据えたその時、視線すら向けずに和輝が言った。


「キャッチャーを見て置けよ」


 ピッチャーではなく?
 問い掛けたいのを呑み込んで、匠はホームポジションのキャッチャーに目を向ける。同い年だが、体格に恵まれた選手だ。中学の軟式野球では有名人だったというが、生憎、硬式野球出身の匠は顔も名前も知らない。
 四番、捕手。葛西慎二郎。


「トラーイク!」


 外角低め。醍醐の苦手なコースだ。
 狙って投げたのだろうか、それとも。匠は和輝の言葉を頭に入れつつ、マウンドを見遣る。


「トーライ!」


 内角高め。対角線の配球は打ち辛いが、投げ辛い。それを承知で葛西はサインを出したのだろうか。それとも、諸星の投球が良い具合に荒れているのだろうか。判断の付かない匠は、ベンチの最前線で記録を続ける和輝の横に腰を下ろした。


「良い選手だな」


 誰が、とは敢て言わなかった。和輝はグラウンドを見詰めたまま答える。


「というより、俺達が研究されてんだよ」


 和輝は言った。


「去年、実際に試合もしているし、此処までの俺達の試合も研究して来てんだ。苦手なコース、得意なコース、守備範囲。思考の癖も含めて配球を組み立ててる。見ろよ」


 ツーストライク。追い込まれた醍醐に、続けられたのは内角高めのボール球だ。顔面のすぐ横を通り過ぎた明らかなボールに手を出す筈も無いけれど、不敵に笑う諸星に醍醐の神経がささくれ立つのが遠目にも解る。
 そこからのバッターアウトは最早確実だった。


「まあ、醍醐は投手と呼ぶのも申し訳無いくらい、解り易い奴だけど」


 可笑しくて堪らないように、和輝は笑いを噛み殺しながら言った。
 悔しそうにベンチに戻って来る醍醐から目を逸らし、悪戯っぽく舌を出す。子ども染みた仕草に、呑気なもんだな、と匠が呆れたのも解っているだろう。和輝は醍醐の三振を記録しながら喉を鳴らした。
 その時、容赦無く地上を焼いていた日光が僅かに陰った。見上げればそこには、先程まで存在すらしていなかった灰色の雲が浮かんでいる。天候の崩れを予感させる雲に、試合を早く切り上げたいと匠は思う。
 試合終了まで持つだろうか、と考えたその瞬間。
 ぽつり、と。大粒の滴がグラウンドに落ちた。


「ああ、降って来たな」


 呑気に言った和輝は、グラウンド上の鉛色の雲を見詰めている。
 嫌な感じだな。和輝が言った。

2012.6.11