二回裏。星川高校の攻撃は、四番、葛西慎二郎。背番号二番。
 葛西がバッターボックスに上がった時、それまでグラウンドに満ちていた湿気がまるで霧散して行ったかのように感じた。匠はショートの定位置よりも後方に下がり、体格に恵まれた葛西の威圧感に備える。自分とは違う、ホームランの打てる四番だ。
 空から降り頻る大粒の滴。鉛色の雲が広がる空は、更なる天候の崩れを予感させた。
 マウンドに醍醐環。その背中を匠はじっと見詰める。脳裏に過るのは和輝の不吉な言葉だ。崩れてくれるなよ、と柄にも無く匠が縋るような言葉を胸の内に吐き出せば、醍醐は黙ってワインドアップした。
 続くステップが、何時も以上にぎこちない。放たれたのは外角低めのボール球だ。警戒するのは当然のことだろう。見送られて良い。慎重に行け。匠がそう思い身構えると、ベンチで和輝が苦い顔を浮かべるのが見えた。
 駄目だ、そのコースは。
 声には出さず、口元だけで吐き捨てる。
 葛西の目が光ったようだった。長い腕がバットを振るう。金属バットが白球を追い詰める。
 断末魔に似た高音が鳴り響いた。
 打球が白い閃光となって伸びて行く。曇天を突き抜けるかのような力強く凄まじい勢いに匠は息を呑んだ。


「センター!」


 センター返し。バッティングの基本。ベンチから怒声にも似た和輝の叫びが響く。
 藤が追い掛ける。打球はぐんぐん伸びて行く。
 ドン、と。藤の背が壁に衝突した。打球は、フェンスを越えた。


「ホームラン……!」


 球場を割れんばかりの歓声が包み込む。バッターボックスを飛び出した葛西は右手を突き上げダイヤモンドを疾走する。
 呆気無い。けれど、余りに必然的なワンプレーに観客が沸き立つ。同点に並んだ初得点を脅威に感じる必要は無いけれど、ボール球を当然のように打ち返し、ホームランへと変えた葛西の才能に恐怖を感じた。
 立ち尽くす匠の後ろを、颯爽と葛西が抜けて行く――。
 ベンチで、和輝はグラブを取った。まだ、二回表。されど、二回表。
 自分に選手交代を決める権利は無い。決めるのはキャプテンだ。マウンドに集合する仲間に駆け寄れない自分を歯痒く思う。醍醐を下げるだろうか。このまま投げさせるだろうか。
 本塁を踏んだ葛西は、嬉しそうな顔一つせずにベンチに帰って行く。


「伝令でも走っておくか?」


 浮足立つ和輝の後ろで、グラウンドに目も向けずに轟が言った。
 それまで存在すら忘れていた和輝は、名ばかりの顧問教諭に驚きつつも頷いた。和輝は抱えたグラブを、断腸の思いでベンチに置いた。
 マウンドには明るさがあった。グラウンドに和輝が現れたことで観客の視線が集まる。途端に苦い顔をした匠を黙殺し、和輝は真っ直ぐに藤を見た。藤は何も言わない。


「まあ、まだ二回表だ」


 けれど、二回表だ。
 和輝は口には出さずに思う。危機を感じる場面では無い。けれど、醍醐が今此処で打たれた意味が解るのなら、軽々しくそんなことは言えない筈だ。箕輪の言葉を噛み締め、和輝は言おうか言うまいか悩んだ。


「醍醐」


 匠が、重々しく口を開いた。


「如何して今、打たれたか解るか」


 醍醐は答えない。蓮見が代わって答えた。


「配球が読まれていたんです。俺のミスです」
「それだけじゃない」


 静かに、匠は何処か慎重に言葉を繋いでいく。


「葛西慎二郎のリーチは長い。外角は得意のコースだろう。だけど、一番の問題は」


 お前だよ。匠は醍醐を見た。


「ビビッてんじゃねえよ」
「ビビッてなんか、」


 その理由も、匠には解っている。四回戦の後遺症だ。ランナーズハイで潰れかけ、揚句に失点しチームを危機に晒した。その負い目が後遺症となって醍醐を焦らせている。
 匠は和輝を一瞥した。余程、グラブを持って走って来たかった筈だ。それでも置いて来たのは、醍醐の為だろう。二試合続いてこんな中途半端に交代させられてしまえば、醍醐は立ち直れない。彼が立ち直るのは今しかないのだ。
 それでも和輝が走って来たのは、最悪の事態を想定したからだ。このまま醍醐が潰れてしまえば、例えこの試合勝利したとしても晴海高校というチーム自体が成り立たない。エース独りきりで勝ち進める程にトーナメントは甘くない。匠とて、醍醐だけでこの試合を乗り切れるとは思っていない。ただ、一分一秒でも長く、和輝をグラウンドに出したくないだけだ。


「このまま引き下がれなんて、言いませんよね」


 蓮見が藤を見た。藤は苦い顔をする。


「和輝先輩、ベンチに戻って下さい」


 お願いします。と、醍醐と蓮見が頭を下げた。瞳に浮かぶ確かな光に、和輝は黙るしかなかった。
 グラウンドに散って行く仲間とは一人道を違え、ベンチに引き下がる和輝の背中を匠はじっと見詰めている。小さい背中だ。細い肩だ。その姿をこんなところに晒したくはない。
 沈黙する匠に、箕輪が言った。


「なあ、お前が守りたいものって、何なの?」


 箕輪の目は酷く澄んでいる。それは幼馴染の彼によく似た光だった。
 匠は答えず、黙って守備位置に着いた。そんなものは生まれた時から何も変わっていなかった。




14.The Limited World<後編>




 試合が変わったのは其処からだった。
 雨脚が強くなったと同時に、星川高校の攻撃が動き出したのだ。葛西という怪物打者を攻撃の軸に回り出した星川高校は、回を重ねるごとに一点、二点と得点し、五回裏を終える時には既に四点を記録していた。対する晴海高校は一回表以降の得点を封じられたまま、降り頻る雨に濡れそぼっている。
 醍醐の投球が悪いとは言えなかった。それだけ、雨は強かった。ワイルドピッチはお互い様だ。コントロールに定評のある諸星とてフォアボールは三つ出している。それでも得点に至らなかった最大の理由は、四番、白崎匠への明らかな敬遠だった。
 匠が打席に立ったと同時に、葛西は大袈裟な程に立って距離を置く。
 得点しなければならない状況で、四番は蚊帳の外だ。晴海高校は決して匠のワンマンチームでは無かったけれど、怪物打者を抱える星川に対抗するには如何しても四番に期待してしまう。
 ベンチの奥、苛立ったように匠は座り込んだ。濡れた身体を拭くこともせず、噛み付きそうな目でグラウンドを睨んでいる。
 ベンチの中の空気を悪くする気は無いけれど、自分が打たなければいけないという重圧があった。敬遠さえなければ、得点だって出来る。そう思うのに、諸星は絶対にストライクを入れることは無い。誰もが匠に掛ける言葉を持たなかった。――たった一人を除いて。


「――四番が、腐ってんじゃねーよ」


 帽子を目深に被った和輝が、感情を読ませぬ無表情で匠を見下ろしている。
 うるせーよ。不機嫌を隠そうともせずに匠が言う。けれど、和輝は笑った。


「六回表、醍醐と交代する」
「――な」


 ガタン、と。音を立てて立ち上がった匠に、周囲の視線が集まる。けれど、匠は気にする素振りも無く和輝を睨んでいる。


「お前は出なくていい。引っ込んでろ」
「それは、匠が決めることじゃないだろ」


 その通りだけれど、そのまま引き下がれない。匠が言い淀むのを見ながら、和輝は笑う。
 降り続ける雨に濡れるグラウンド。六回表の攻撃は晴海高校、下位打線から始まる。醍醐の抜けた八番に和輝が座るということは、六回表のトップバッターということだった。
 目を凝らせば、和輝の左手にはヘルメットが下げられている。匠は忌々しく思った。


『選手交代をお知らせします――』


 アナウンスが響く。聞きたくない。
 和輝は匠の前でヘルメットを被ると、陰になった目元で確かに笑った。大きな瞳がきらりと輝いて見えた。


「覚えてるだろ、引退試合」


 和輝が言った。
 二年前、シニアリーグの引退試合。全国大会だった。その試合で和輝は全打席敬遠。仲間の攻撃は回らず、結果、惜敗した。その試合を切欠に自分達は擦れ違い、道を別った。
 確かに似ている。敬遠に良い思い出は無い。黙った匠に、和輝は微笑んだ。


「俺を見てろ」


 静かに向けられた背中は揺るがない。前進していく歩みは淀みない。きっとそれが、和輝の見付けた答えなのだ。
 二年前、味方を励ますことしか出来なかった和輝が漸く見付けた信頼を、踏み躙ってはいけない。
 六回表、三点差での負け越し。こんなピンチは久しぶりだな、と呑気に思いながら、和輝はバットを手にした。マウンドで構える諸星は無表情に努めていたけれど、その冷ややかな眼差しから内心の荒々しさが窺えるようで和輝はくすりと笑った。
 自分の知る投手という生き物は、己の内にある感情の起伏など微塵も読ませなかった。
 どんな状況でも無愛想で仏頂面で、口を開けば憎まれ口ばかりで、振り返りもしなければ立ち止まりもしない。どちらが前かも解らない闇の中で、先頭を歩くのが当然というように背中を向け、仲間を気遣うように歩調を緩め耳を澄ましている。その不器用な優しさを今も忘れない。――忘れたことなんて、無い。
 キャッチャーである葛西の鬼気迫る表情に、胸が軋むような痛みを覚える。最後の年を迎える先輩の為に、必死なのだろうが、そんなものはお互い様だ。


「出て来やがったな、蜂谷和輝」
「よく言うぜ、招待したのはお前だろ」


 からりと言い返せば、葛西が微かに笑ったのが背後に解った。無駄口を叩く時間は無い。
 広いグラウンドは、何時しか肌寒い程の湿気に包まれていた。歓声がまるで遠くの山鳴りのように聞こえる。散り散りになった野手をぐるりと一瞥し、和輝の視線はマウンドに戻る。
 下位打線から始まる六回表の得点は容易ではない。それでも、バッターボックスに立つその存在に期待を隠せないのも事実だった。沸き立つ観客の声も雑音に過ぎないと見向きもしない和輝は、ただ目の前の投手に備えている。
 葛西はその構えを上から下まで眺めると、内心で小さく笑った。一年前と、変わらない。
 初球。外角低めのボール球。視線すら向けずに見送れば、審判がすぐさま「ボール」を宣告する。読まれていたのか、初めから見送るつもりだったのか。和輝の表情の無い横顔からは判断出来ない。葛西は次のサインを出した。
 続いて変化球。外角から内角に食い込む横滑りの変化にも、和輝は微動だにしない。「ストライク」審判が言った。
 カウント1−1で、葛西は黙って返球する。遣り難い打者であることは、誰の目にも明白だ。感情の起伏は表情にも仕草にも表れない。ただ、目の前の一球に備えている。無駄な力の入らない自然体のフォーム。
 三球目。直球。サイドスローの直球は、通常とは異なるコースを走る。和輝の目に僅かに違う色が映ったが、誰一人気付かなかった。
 鈍い音がして、滴で濡れたグリップから和輝の手が外れた。打球は背後に弾け、握っていたバットが空中へ浮き上がる。くるくると回転しながら、バットは木の葉のように落下した。砂利を打ち付ける音が、微かに、した。
 和輝が硬直する。落下するバットの軌道は、脳裏に焼き付く光景とはまるで違うのに、それでも過去の精神的外傷は脳に鈍痛を呼び込ませる。一年前、自分の右肩と右腕を砕いた金属バットの閃光を、今も忘れていない。


「和輝!」


 ベンチで、匠が呼んだ。表情には出さなかったつもりだったが、幼馴染は気付いただろう。
 和輝は口元に笑みを浮かべ、バットを拾い上げた。
 怖いさ、当たり前だろう。此処に立つことも、ボールを投げることも、バットを握ることも、堪らなく怖いさ。――でも、約束したから。


(負けられないのは、お互い様だ。この場所を守る為なら、俺は何だってやる)


 鬼にでもなるし、修羅にだってなる。幾ら馬鹿にされても、笑われても、後ろ指差されたって構わない。此処だけは譲れない。
 此処で待つと、約束したから。


(来い!)


 残り三回の攻撃で、三点差を引っ繰り返す。その為に、自分は此処にいる。
 諸星が振り被った。放たれた白球が、まるで獰猛な生物のように唸りを上げて突き進む。己に向って喰らい付いて来るかのような凄まじい変化幅に、晴海高校のベンチがざわめく。
 クロスファイア。対角線を突き抜ける変化球。諸星の決め球だった。
 和輝に表情は無い。襲い掛かる白球など意にも介さず、その足は静かに流れるようなステップを踏む。
 吹奏楽の演奏とは異なる高音が、グラウンドを切り裂いた。打球が一直線に守備の間を縫うように駆け抜ける。そっとバットを置いた和輝が飛び出した。キャッチャーマスクを上げた葛西が怒声を発した。


「二つ!」


 センターが痛烈なライナーを覚束無い動作で捕球する。和輝は既に一塁を蹴っていた。
 出塁で満足するような選手ではない。センターが振り被る。その瞬間。小さな影は二塁を駆け抜けた。


「三つ!」


 追い掛けるように諸星が叫んだ。セカンドとサードに挟まれた絶体絶命の状況で、和輝の無表情は崩れない。
 矢のような送球がグラブに収まるその刹那、泥を化したグラウンドの土を蹴って、和輝が滑り込んだ。
 一瞬の静寂。そして。


「セーフ!」


 漣のような歓声が降り注いだ。反撃の狼煙と言える三塁打に、晴海高校のベンチは嫌でも沸き立つ。ベンチから身を乗り出していた匠は、三塁でピースサインを向ける和輝を見て、へなへなと座り込んだ。
 先刻の、箕輪の声が脳裏を掠める。同時に追い掛けるように和輝の声が聞こえたような気がした。
 過去を顧みる余裕が出たところで、自分がこれまで冷静でなかったことに気付く。匠は、苦笑を浮かべた。
 二年前、自分達は道を別った。あの引退試合で、自分が如何にかしなければという強迫観念を互いに抱えていた。でも、間違ったのだ。たった一言で良かった。
 俺に任せろ、と。状況を忘れたように堂々と、余裕すら感じさせる笑顔を浮かべながら言ってやれば良かった。たった一言、それでもいいよと許容して欲しかった幼馴染のように。


「頼むぜ、四番」


 グラウンドから、和輝の声が聞こえたような気がした。
 其処からの、晴海高校の攻撃が始まった。それまでの沈黙が嘘のような流れる攻撃を僅かのところで躱しながら、疲弊していく守備を励ましながら、葛西は目の前の諸星にサインを出し続ける。そして、最終回――。
 四対四の同点で、迎えるは晴海高校最強の打者。四番、白崎匠。バッターボックスの匠に、蝉時雨にも似た声援が降り注ぐ。匠は俄かにベンチを振り返り、其処にいない幼馴染の姿に呆れて笑い出したい気持ちになった。今頃、人目を忍んで右腕を冷やしていることだろう。
 一回の攻撃以来、敬遠され続けてきたけれど、最終回のこの場面で敬遠する意味は無い。立ち上がらないキャッチャーを一瞥し、匠はピッチャーに向き直った。諸星太一が、真っ直ぐに此方を睨んでいる。
 諸星は、星川高校で唯一の三年生だ。負けられないという思いは痛い程に解る。それでも、匠は道を譲るつもりなど微塵も無い。負けられないのはお互い様だ。
 走者を抱えない諸星が、大きく振り被った。弧を描いた白球は葛西のミットに吸い込まれていく。


「トーライ!」


 最終回に来て尚、勢いを増すボールに、匠のバットは動かない。
 続いて二球目。匠は構え直す。最後の攻撃だ。延長戦なんて真っ平御免蒙りたい。此処で決めなければならない。


「トーライ!」


 ツーストライク。追い込まれた。
 それでも匠の表情は崩れない。こんな状況はピンチでも何でもない。


「匠!」


 ベンチで叫ぶ親友の姿が目に映り、匠は僅かに笑った。
 自分は星川の四番、葛西とは違う。体格に恵まれず、結果として人並み以上の力も持ち合わせなかった。ホームランの打てない四番だ。でも、だからこそ、出来ることがある。
 三球目。三球三振で抑えたかっただろう諸星の鋭い変化球が突き刺さる。その刹那、和輝には匠の目が煌めいたように見えた。
 高音が鳴り響く。打球はピッチャー前で大きく跳ね上がった。コーチャーが声を張り上げる。言われなくとも、立ち止まる気は無い。


「セーフ!」


 駆け抜けた一塁の後方から、審判の声が響いた。匠は歩調を緩め、拳を握る。
 ホームランは打てない。だからこそ、着実なヒットを繋がなければならない。それは中学時代、橘シニアの四番だった和輝のプレースタイルだった。
 無死、走者一塁。続く五番は千葉佳樹。諸星と同じく三年生、最後の夏を迎える。
 葛西がサインを出す。諸星が頷く。ただ、それだけのやり取りが、葛西の胸を締め付ける。マウンドの少年は、自分の考えを受け止めてくれている。そして放たれた初球――。
 鳴り響いた高音は、まるで夢の終わりを告げる鐘の音に聞こえた。キャッチャーマスクを上げた葛西は、大きな放物線を描く白球をじっと見詰めている。懸命に追い掛けるセンター。葛西は、目を伏せた。
 観客席に落ちた白球を追い掛ける海鳴りのような歓声。ホームラン。追加点を挙げた晴海高校。六対四。最終回での逆転劇。それはまるで、誰かの思い描いた夢が現実化したような、B級ドラマの台本のような、それでも覆ることのない現実だった。
 ダイヤモンドを駆ける匠は、横目にマウンドを盗み見た。膝に手を突く諸星の姿が、酷く小さく見えた。匠がホームイン。続いて千葉。歓声の止まないグラウンドで、星川ナインがマウンドに集結する。最終回での二点差がどれ程重いものか解らない星川ナインでは無いだろう。頭を並べる星川ナイン。葛西が努めて明るい声で言った。


「すいません! 俺の配球ミスです!」


 からりと笑えば、それまで緊張感に包まれていた空気は霧散した。表情を崩す一年の中、諸星だけが無表情だった。
 この状況で笑える訳が無い。疲労困憊で、絶体絶命で、何に笑えばいいのだ。言葉を探す葛西の視界の端に、晴海のベンチが映った。今にも噛み付きそうな目で見詰める小さな少年。あいつなら、諦めはしないだろう。


「切りましょう」


 葛西は言った。


「この回、此処で切りましょう。裏の攻撃は最低でも俺まで回る。必ず、逆転します。そうでしょう?」


 握り締めた拳がぎしりと軋んだ。


「俺達はこんなところで終わらない!」


 だって、あんたは一人で闘って来たじゃないか。誰に笑われても、否定されても、何を言われても、野球が好きだと言う思いだけで此処まで自分の足で歩いて来たじゃないか。その諸星の最後の大会を、こんなところで終わらせる権利なんて誰にもない。在って欲しくない。
 晴海高校が薄っぺらなチームとは言わない。でも自分達にも背負っているものがある。
 星川ナインが再びグラウンドに散っていく。気持ちを切り替え、守備に徹する様を和輝はじっと見詰めていた。
 負けられないのはどちらも同じだ。それでも、勝者は一校のみ。
 言葉の通り星川高校は続く打者をぎりぎりで躱しながら追加点を防いだ。そして、最終回裏。星川高校最後の攻撃。上位打線から始まるこの打順は最後のチャンスだった。マウンドには晴海高校のエース、夏川啓。葛西とは中学時代のチームメイトだ。
 ただ一人の三年生の為に、受けた恩を返す為にバットを握る星川ナインの気持ちが解らない訳じゃない。夏川はゆっくりと振り被る。キャッチャーは一年、蓮見創。相方は敢え無く降板となったけれど、晴海高校唯一とも言えるキャッチャーの蓮見まで退場する訳にはいかない。初めての公式戦からずっとキャッチャーであり続けた蓮見も、夏川の球を受けるのは初めてではない。それでも、マウンドから立ち上る陽炎にも似た鬼気迫る何かを漠然と感じ、自然と身を固くする。蓮見とは、この試合に懸ける思いが違う。
 バッターボックスの一年を見詰め、和輝は奥歯を噛み締める。
 最後の年を迎えるのは諸星だけではない。晴海高校にも三年はいる。藤、千葉、雨宮は今年が最後だ。去年の夏、起きてしまった傷害事件の折、野球部は廃部寸前だった。騒ぎ立てる執拗なマスコミに疲弊し、世論の為の処罰として、部員数僅かな野球部は廃部しようという動きが事実、あった。殆ど決定事項だったそれを覆したのは藤達三年生だった。そして、復帰した和輝を受け入れ守ってくれたのもまた、彼等だった。
 夏川の放ったボールを、バットの根本で如何にか打ち返した一年が疾走する。勢いの死んだ打球は三遊間に転がった。
 危なげなく拾い上げた和輝の左腕が唸りを上げて白球を放つ。利き腕ではない左腕から放ったとは思えない程に力の入った、正確な送球だった。一塁手、星原のミットに飛び込んで行く。


「アウト!」


 ワンナウト。駆け抜けた一年は、その場に崩れ落ちた。
 ベンチからの喉を裂くような声援。続く三番もまた、一年だ。その姿はまるで、一年前の自分達のようだ。夏川は構えながら内心で笑った。あの頃の自分は、周囲からこのように映っていたのだろうか。


「トーライ!」


 審判の声が高々と響き渡る。三番は三球三振。二死・走者無し。絶体絶命の状況でバッターボックスに上がった少年。希望を託す仲間と観客の振り絞るような声が耳鳴りのように聞こえる。
 バッター四番、葛西慎二郎。匠とは違う、ホームランの打てる四番だ。匠は定位置より僅かに後退し、静かに身構えた。強くなる雨脚がグラウンドを湿らせ泥を生み出していく。曇天の下に掲げられたバットは、後を失くした星川高校の最後の攻撃、ホームラン宣言にも似ていた。
 初球。外角高めの直球。視線すら寄越さず葛西は構えを崩さない。審判がボールを宣告する。
 二球目。ボールに逃げて行く変化球。蓮見の組み立ては、四番を前に慎重になり過ぎている。ボール。審判が言った。一年生である蓮見には重いポジションだ。けれど、それでも決して蓮見は投げ出したりしない。


「バッチ来い!」


 声を上げたのは匠だった。帽子が雨粒を弾く感触がする。匠はバッターボックスを睨んだ。
 ホームランの打てる四番だったならと、願わない訳じゃない。力強い腕が、足が欲しかった。頼りないなんて誰にも言われないくらい大きな体が欲しかった。――でも。


「打たせろ!」


 和輝が叫んだ。
 それでいいと言ってくれる仲間がいる。それがいいと笑ってくれる親友がいる。他にはもう何も必要無い。
 蓮見はサインを変えた。夏川が頷く。そして、投球――。大きな体から、撓る腕が振り切られる。唸る剛球は白い閃光となって駆け抜ける。追い駆ける銀色のバットが、強く、強く振り切られた。
 断末魔にも似た高音が鳴り響く。曇天を突き破る勢いで弾け飛んだ打球に、誰もが九回表のホームランを重ね見る。
 けれど、それでも。


「匠ィ!」


 俄かに下がっていた匠に、和輝が叫ぶ。動くな。必死な瞳がそう訴える。匠は頭上に目を戻す。大粒の雨が降り注ぐ中、曇天に浮かぶ小さな白点を、匠の目が確かに捉えた。
 音も無く、ただ静かに白球が落下する。


「……アウトー!」


 試合、終了。
 バッターボックスの葛西が茫然と立ち尽くしている。手にしたバットがするりと抜け落ちた。


「負け、た……?」


 終わった。それを悟った瞬間、葛西の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。嗚咽すら漏らせない程、試合終了を告げた電光掲示板を見詰めている。六対四で晴海高校の勝利だ。星川ナインはグラウンドに立ち尽くし、嗚咽を噛み殺しながら大粒の涙を零し続けていた。それを、諸星が整列へ促した。
 行くぞ。
 清々しい程の無表情で、諸星は葛西の肩を叩く。掌が微かに震えていた。


「神奈川地区予選第五回戦、晴海高校対星川高校の試合は、六対四で晴海高校の勝ち! 両校、礼!」
「ありがとうございました!」


 サイレンが、高く高く鳴り響く。雨は次第に激しくなり、続く試合の中止を訴える。濡れることも厭わない星川ナインは試合終了を告げたグラウンドから離れることも出来ず、次々に零れ続ける涙を拭っては、夢の終わりを嘆いていた。
 諸星だけが、ベンチの中で帰り支度を続けている。


「諸星、先輩」
「……ンだよ、葛西。辛気臭ェ面しやがって」


 へらりと力無く、諸星が笑った。
 如何して笑えるのだろう。如何して、平気な顔を見せるのだろう。如何して後悔しないのだろう。如何して。


「何で……、何で笑ってんスか!」


 やはり、諸星は笑うだけだった。


「悔しーさ」


 当たり前だろう。諸星が言った。


「俺だって、お前等ともっと野球してぇよ……」


 諸星の脳裏に、三年間の思い出が走馬灯のように過った。
 独りきりの練習も、仲間に否定され続けた日々も、葛西がボールを受け止めてくれたことも、初めて仲間と勝利した瞬間も、夢が一瞬で崩れ落ちた今も、全てが脳裏に焼き付いて離れない。悲しくない訳じゃない。悔しくない訳じゃない。けれど、それでも。


「それでも、全力出して負けたんだ。後悔なんて、残ってねーよ」


 言葉とは裏腹に、不満げな諸星の目には涙が溜まっていた。諸星が後輩の前で泣かないことなど、解り切っていた。
 全力を出したのだ。晴海高校もそれを全力で受け止めてくれた。格下相手だなんて微塵も思わず、真剣に取り組んでいた。今もベンチの奥でアイシングを続ける蜂谷和輝が、此方を盗み見る。目が合うと小さく会釈した。


「行くぞ」


 諸星が歩き出した。大きな背中だった。たった一人で歩き続けた強い背中だった。そんな諸星に、自分は何か出来ただろうか。
 静かな廊下に、微かな嗚咽が聞こえていた。葛西は何も言わなかった。

2012.6.17