豪雨の打ち付ける車窓はモザイク硝子のようだった。深夜放送にも似たノイズに、微かな嗚咽が混じっている。

 五回戦を突破し、勝利に酔い痴れる間も無く駆け込んだ駅のホーム。自力で歩くことすら困難なまでに疲弊した和輝に肩を貸しながら、匠は列の最後尾を歩いていた。胡乱な眼差しは疲労から睡魔にでも襲われているようだった。漸く乗り込んだ電車は運良く乗客は少なかった。扉傍の椅子に座ると同時に凭れ掛かり、そのまま寝息を立てた幼馴染を呆れたように匠は見遣る。エネルギーがゼロになるまで動き回れるというのは尊敬に値するけれど、一試合すら丸々出場していないのにこの為体では先が思いやられる。
 それでも、穏やかに眠る幼馴染に安心する。例え寄り合い触れる腕が燃えるように熱くても、一見穏やかな寝息に唸るような嗚咽が混じっていても。
 滑り出した電車は少しずつ速度を上げ、車窓からの景色を後ろへ飛ばしていく。少し離れた場所に座る仲間の姿を確認し、匠は溜息と共に深く凭れ掛かった。ふと上げた視線の先に、見覚えのある顔があった。


「――よう」


 匠が声を掛けるより早く、此方に気付いた葛西は軽く手を上げた。
 穏やかな笑みを浮かべた葛西の目元は僅かに赤みが残っている。葛西の傍には試合で見かけた一年生と、諸星が立っている。
 葛西は先程までの試合など忘れたような飄々とした態度で寝息を立てる和輝を見下ろし、瞠目した。


「何、寝てんの」
「起こすなよ、うるせーから」


 素っ気無く匠が言うと、葛西はからりと笑った。
 なあ、白崎。葛西が呼ぶ。


「こいつ、面白い奴だよな」
「ああ。最高にオモシレーよ」


 匠も負けじと笑う。数刻前まで敵同士であったのに、今は顔を合わせて笑い合える。一方は夢を掴み、一方は夢を砕かれた。それでも前を向いて歩き出せるのは、互いが互いを認めているからだ。全力で戦って、一欠けらの後悔も残さなかったからだ。
 一頻り笑い、葛西は何かを言い淀むように口を噤んだ。一年前、晴海高校で何があったのだろう。葛西は思いながら、それを口に出すことは無かった。世間を賑わす晴海高校野球部の傷害事件とマネージャーの自殺。何があったのかは解らない。
 けれど、解らなくていい。興味も無い。
 葛西は、未だ目を覚まさない和輝を見下ろす。


「負けんじゃねーぞ、蜂谷」


 途中出場の小さな天才。世間が言うような悪者には見えない。
 電車が駅に滑り込む。葛西を始めとした星川高校野球部が、列を成して降りて行く。振り返ることなく歩いて行く葛西と諸星。穏やかなメロディと共に扉が閉じれば、それを合図として再び電車は動き出す。微かな寝息を立てて、身動き一つしなかった和輝が、瞼を下ろしたまま寝言のように呟いた。


「……負けねーよ」


 微かに浮かべた口元の笑みを、匠だけが知っている。
 お前は間違ってないよ。声に出さず、匠は胸の内で呟く。自分達が道を別った二年前、世間が徹底的に非難した一年前、和輝の選択は常に否定されて来た。それでも、自分で選んだ道だからと前に進もうとしたその思いは、間違ってなんかいない。世間が幾ら馬事雑言を並べても、嘘偽りを書き立てても、それでも切れない絆を繋げている。
 釣られるように笑みを浮かべた匠のポケットで、携帯電話が微かに震えた。取り出して見ればサブディスプレイにメール受信のメッセージ。開くと幼馴染の名前が映り、匠は舌打ちした。
 北城奈々。


「おい、好い加減、狸寝入りは止めた方が身の為だぜ」


 言うとすぐさまぱちりと目を開いた和輝が、訝しげに匠を窺う。何処から起きていたのだろうか。初めから寝ていなかったのか。
 携帯を覗き込み、和輝は可笑しそうに喉を鳴らした。


「ったく、あいつは俺の何なんだよ」


 言葉に反して嬉しげな口調は、浮足立っている。
 勢いよく起き上った和輝は、少し離れた椅子で談笑する藤の元へ歩き出す。
 試合後も練習を欠かさない晴海高校は雨天と言えど学校に戻るが、和輝だけはリハビリの為に病院とジムに直行だ。先程来たメールは、その和輝を駅まで迎えに行くという奈々からの言伝だった。携帯を持っていない和輝宛てのメッセージを、当たり前のように匠に送る奈々の図々しさにはもう慣れている。
 和輝の言葉を反芻しながら、匠は苦笑する。そんなこと、言われなくても解ってやれよ。
 やがて到着した小さな駅の改札で、晴海高校とは異なる制服を来た少女が立っているのが見えた。其処だけが別世界のように、まるで芸能人が持つ煌めくような空気を撒き散らす細身の少女に晴海高校野球部がざわめく。和輝は気付くことなく挨拶もそこそこに電車を降りた。
 静かに閉じて行く扉の向こうで、奈々と談笑する和輝が見えた。
 車窓から二人の姿が消えたのを合図に、箕輪がいそいそと匠の横に擦り寄る。


「なあなあ、あの子誰? 和輝の彼女?」
「幼馴染だよ」


 此処に和輝がいても、同じ答えを返しただろう。
 下世話な話を続ける箕輪の声を聞き流しながら、幼馴染二人を思い浮かべ匠は笑みを零す。あれだけ整った顔をしている癖に、此方が焦れてしまうくらいもどかしい二人の関係を、匠は嫌いじゃない。
 そんな二人を見守る匠の近くで、青葉が食い入るように車窓を見ていたことは、誰も知らなかった。




15.愛が呼ぶほうへ<前編>




 人間程簡単に掌を返す生き物もいないだろう。
 登校して開いた下駄箱の中、数枚入れられた封筒を見て和輝は息を零した。朝練を終えたHR間際の時刻に、差出人不明の手紙に目を通す余裕など無い。ただ、封筒に掛かれた差出人の名前を視認して和輝は苦笑する。カミソリレターの類では、無いらしい。
 ともすれば、これはラブレターだろう。携帯を持たない自分の為に使った古風な連絡手段。仕方なく鞄に仕舞おうと下ろしたその瞬間、身の凍るような冷たい声がした。


「それ、どうするの」


 殆ど反射的に振り返った和輝の視界に、人形のような無表情の少女が立っていた。
 霧生、青葉。野球部の紅一点、マネージャーだった。溌剌とした活発な少女だ。間違ってもこんな死んだような顔で立ち尽くす少女ではない。――それでも、和輝が以前にもその顔を見たことがあった。


「別に、如何もしない」
「なら、今すぐ此処で破り捨てて」
「それは出来ない。失礼だ」
「――裏切るの?」


 冷たい青葉の声に、和輝の顔が歪む。
 たった一通の手紙を書く為に、彼女達はどれ程の覚悟をしたのだろう。悪意ならまだしも、向けられた純粋な好意を目も向けずに切り捨てることなど出来ない。したくない。
 それでも、青葉の言葉を無視することも出来なかった。お前には関係無いだろうなんて、口が裂けても言えない。
 八方塞で選択肢を失った和輝が黙り込むと、鞄に仕舞いこんだ手紙へ青葉が手を伸ばす。だが、その時。


「遅刻すんぞ、お前等」


 青葉の手が止まる。箕輪だった。
 此方に目も向けず忙しなく上履きへ履き替える箕輪の声で、呼吸の仕方を思い出したように和輝は深呼吸をした。


「ほらほら、早く」


 何事も無かったかのように、箕輪が無邪気に和輝の背を押した。
 青葉は終始無表情で、箕輪には目もくれずに別階段を上って行った。その足音が聞こえなくなり、何処か演技染みた動作で背を押していた箕輪が不意に言った。


「……修羅場だった?」


 余計なことをしただろうか。此方を探るように箕輪が言う。和輝は苦笑した。


「いや、助かった」


 笑おうとして、失敗する。心臓が未だに激しく拍動していた。
 死人のような無表情を思い出し、和輝は背筋が凍り付くのを感じた。俺は、あの顔を知っている。
 一年前、野球部のマネージャー、水崎亜矢が自殺した。霧生青葉は、彼女の親友だった。


「あの子はさ、」


 酷く乾いた声で、和輝が言った。その冷たさに振り向いた箕輪の歩調が淀む。
 あの子はさ。そう繰り返し、和輝は力無く笑った。


「俺が憎いんだよ」


 自嘲めいた独白だった。何処か諦観すら感じさせる物言いに、箕輪は続ける言葉を見失っていた。
 亜矢の自殺は、実父による重度の虐待だった。心身共に限界だった少女は、更なる性的虐待によって投身自殺を図る。そして、自殺する数分前より、亜矢は和輝に電話を掛け続けた。何を思ったのか、何を伝えようとしたのか、今となっては誰にも解らない。
 傷害事件に巻き込まれ生死の境を彷徨っていた和輝が、電話に出られなかったことを責めることなんて誰にも出来ない筈だ。それでも、助けを求めていた亜矢の手を取ってやれなかったことを和輝は今も悔やんでいるし、救ってくれなかった和輝を青葉は今も憎んでいる。永遠に消えることのない罪と傷を背負っている。
 なんて、空しい。
 そう思いながら、やはり箕輪は掛ける言葉を見失っている。


(憎まれる謂れも無いだろ)


 言葉にすることは出来なかった。亜矢はもうこの世にいない。幾ら箕輪が和輝を肯定しても、世界中が和輝を認めても、本当に欲しかった亜矢からの許しは永遠に得られない。
 如何したら、和輝を救えるのだろう。箕輪には解らなかった。
 教室に着くと、HRはまだ始まっていないらしくクラスメイトが教室の其処此処で談笑していた。既に席に着いていた匠も同様に、周辺の男子生徒等と共に談笑している。――一見、ならば。
 教室全体が何処か浮足立っている。どよめきにも似た騒がしさは、和輝が教室の扉を潜ると同時に水を打ったように静まり返った。


「お、はよう……」


 集まったクラスメイトの視線が居た堪れず、苦し紛れに挨拶をしてみるが、返答は一つも無い。無視しているというよりも、和輝の登場に皆が皆、出方を窺っているようだった。自分の教室へ向かおうとした箕輪もまた、扉の前で足を止めている。
 妙な空気の中、和輝は自分の席に向かった。一つ後ろは匠の席だ。席に着く前に匠に耳打ちする。


「……なあ、何事?」


 小声で囁けば、匠は怪訝そうに眉を寄せて顎をしゃくった。匠の視線に導かれて自分の机を見遣り、和輝は戦慄した。
 置き勉が通常の和輝の机から、見覚えの無い封筒が悪夢のようにはみ出している。収まり切らなかった封筒は机の下に落下し、なだらかな丘を形成していた。
 デジャヴだ。下駄箱に収まっていた数枚の封筒が可愛く見える。床に零れ落ちた一枚を拾い上げ、和輝は目を瞬かせた。

 蜂谷和輝君へ
 1−G 降矢真琴

 そして、また一枚。

 蜂谷君へ
 2−J 大下広美


「……モテモテだな、色男」


 抑揚の無い声で、匠が言った。呆れを浮かべる匠は小さく溜息を吐いた。
 状況を理解出来ない和輝の周囲だけが囃し立てる。羨ましいぞ。――本当に、そう思うか?
 言葉を失ったまま立ち尽くす和輝に肩を落とし、匠は床に散乱した封筒を掻き集め始めた。


「試合の効果かねぇ」


 何時の間にか教室に侵入していた箕輪が、やれやれと言った口調で漏らした。
 一年前の傷害事件以来、カミソリレターや不幸の手紙の類は幾度と無く送られて来た。机の上の落書きも、貼り紙も慣れてしまった。匠に促されて封を開けてみれば、匠等の予想通り、所謂ラブレターだった。此処まで大量でなければ、空き教室への呼び出しも、一文字一文字に込められた好意の言葉も甘酸っぱい思い出になったのだろう。
 こんなに大量でなければ。


「……ンな顔しなくたって、いいだろ」


 床に散乱していた封筒を集め終えた匠が、和輝の左肩を叩いた。どんな状況でも呼吸のような自然さで和輝への気遣いを忘れない匠の優しさに、今ほど安心したことは無い。
 ほら、と手渡された封筒を受け取り、和輝は忘れていた呼吸を始める。


「如何するか決めるのはお前だ。でも、目くらいは通してやれよ。それが礼儀ってもんだ」


 くつり、と匠が笑った。
 和輝は鞄に収まっている数枚の封筒を思い出す。
 その時、がらりと扉が開いた。妙な緊張感は教師の登場で一瞬の内に霧散する。自分の教室へ戻って行く箕輪と、それぞれ着席するクラスメイト。和輝も同様に着席し、大量の封筒の内、一枚を開けた。
 放課後、東棟屋上の扉前で待ってます。
 放課後、1−Fの教室で待っています。
 重なる呼び出しに和輝は肩を落とす。一人の人間に対して同じ時間に別場所を指定するなんて、彼女等は自分を何だと思っているのだろうか。分身が出来るとでも?
 如何するべきかと思案する和輝を察して、後ろで匠が言った。


「目は通してやれって言ったけど、期待に応えてやれとは言ってねーからな」


 生まれた時から共に過ごした幼馴染は、互いに相手の心を見透かしてしまう。和輝は苦笑を漏らした。
 律儀に一通一通目を通す和輝に苦笑いしながら、匠は思う。和輝はきっと、その全ての期待に応えようとするだろう。そして、全てを断るだろう。それが死んだ水崎亜矢への償いで、今も抱える精神的外傷だ。
 出席を取り終えた教師が退出する。未だ封筒を開け続ける和輝を笑い、匠は読み終えた手紙を纏めて行く。
 一限目の授業開始まで残り三分。どう見ても読み終えられるとは思えない。それでも手を止めない和輝に呆れていると、何時の間にか再び現れた箕輪が皮肉っぽく笑った。


「俺はお前のそういう律儀なとこ嫌いじゃねーけど」


 声に反応して和輝が顔を上げる。手紙は三分の一も読み終えていない。


「程々にしとけよ」


 忠告のように吐き捨てて、箕輪は背中を向けた。
 訳が解らないといった調子の和輝に対し、匠だけが悟っていた。

2012.7.6