酷い豪雨だった。
 既に日の落ちた町は闇に包まれて、無人の静寂を獣の唸り声にも似た雨音が侵している。アスファルトに跳ね返った雨粒はスラックスの裾に染み込み、足取りを重くする。近付く台風の影響を危惧した学校側からの強制帰宅命令は、予選真っ最中の部活も関係無く活動を切り上げさせた。差しても気休めにしかならないビニール傘を肩に担ぎ、徒歩数分の自宅を目指す。校門で分かれた仲間は今頃駅が見えた頃だろうか。帰宅ラッシュと出くわしただろう彼等の健闘を祈りつつ、和輝は隣の匠を見遣る。
 雨の落ちる律見川の水面は激しく泡立ち、闇に沈んだ河川敷の湿気に満ちた空気が相俟って不気味だった。匠はその様子を横目に、和輝に視線を感じて顔を向ける。


「何?」
「いや、別に」


 意味深に、和輝が笑った。雨でなければ、脚に蹴りでも受けていただろう。
 隣に匠がいるということ。空気のように自然で当たり前の存在に甘えてはいけないと思う反面、匠のいなかった一年足らずの期間を思い返せば自分は中々健闘したと感心する。振り返れば其処にいてくれる存在。思えば、自分は何時も匠に甘えてばかりだった。
 ありがとうなんて言葉は今更照れ臭い。言葉にしなくても伝わるこの距離が心地良い。
 匠は呆れたように溜息を吐き、言った。


「お前、本当に馬鹿だよな」
「何だよ、急に」
「だってさ」


 そう言って匠は足を止めて、


「全部、無視したって良かったんだぜ」


 今朝、下駄箱や机の中に押し込まれていた見知らぬ人間の好意を、律儀に和輝は一つ一つ返答した。
 今は野球のことで頭が一杯だ。気持ちは嬉しいけれど、応えられない。
 そんな在り来たりな言葉を本音で言える純粋さが時々羨ましい。誰も傷付けないように、誰も見捨てないように、まるで綱渡りのような慎重さで言葉を選んでいく様は、他人に言わせれば紳士的であり、匠に言わせれば臆病者だった。全てを救える筈なんて、無い。和輝は一年前の事件で、身を以て学んだ筈だ。
 和輝は曖昧に笑った。答える気は無いらしい。
 その時、ポケットに押し込んでいた携帯が震えた。湿った手で取り出すのは躊躇われたけれど、着信を告げる振動が余りに長いものだから根負けした匠は手を伸ばす。着信、北城涼也。
 涼也は二人の兄と同い年の幼馴染だ。彼が匠に連絡して来ること自体珍しい。匠は通話ボタンを押した。
 何時もの飄々とした口調で、此方の状況も御構い無しに自分の用件だけを告げる図太さは流石だ。匠は涼也の言葉に眉間の皺を深くしながら、仕方無しに返事をして通話を終えた。
 隣で窺っていた和輝が覗き込む。匠は言った。


「……奈々が今、駅にいるんだと。傘忘れたから迎えに来て欲しいってさ」
「台風近付いてるって散々ニュースで言ってたのに、傘持っていかなかったのかよ」


 馬鹿だなぁ。和輝が笑った。
 どうせ、駅まで十分程だ。匠は引き返そうとして、止めた。


「和輝、代わりに迎え行ってくれよ」
「はあ? 頼まれたのは、お前だろ」
「うるせーよ。お前、この前の試合の後、奈々に迎え来てもらってただろ。丁度良いじゃねーか」
「あれは勝手に奈々が来ただけだろ……」


 文句を言いながら、和輝は渋々踵を返す。そういうところが馬鹿だと言うのだ。匠は笑った。
 けれど、和輝は思い出したように左肩に担いだ鞄を匠に押し付けた。


「じゃあ、お前は代わりに荷物持ちな。頼んだぜー」


 笑って和輝は走って行った。匠は押し付けられた鞄を見遣り、溜息を零す。
 俺達は共依存だ。匠は思う。互いに甘え、甘えられないと不安になる。其処にいるのが当たり前で、必要とされることが日常なのだ。和輝が匠に依存しているように、匠も和輝に依存している。けれど、奈々はそうじゃないと、匠は思うのだ。
 奈々はお節介なんて焼かない。少なくとも、匠の知る奈々は甘えることはあっても、誰かに甘えられることを好まない。自分勝手で我儘なその一面は幼馴染だからこそ見えるものなのだろう。匠は二人の姿を思い浮かべ、再び帰路を辿り始めた。
 駅前は混雑していた。台風の影響で大幅にダイヤが乱れているらしい。立ち往生するスーツ姿の男性の群れに圧倒されながら、和輝は幼馴染の姿を探した。やはり、携帯を持っている匠が迎えに行くべきだったんじゃないだろうか。そんなことを思いながら視線を泳がせる和輝の視界の端に、見間違う筈の無い、栗色の髪が映った。


「――奈々!」


 呼べば弾かれたように顔を上げ、大きな目を一層丸くする。駆け寄った和輝を不思議そうに奈々は見ていたけれど、和輝は笑った。


「お前、化粧濃過ぎなんだよ。化物か」
「ひどーい!」


 憤慨する奈々を笑いながら、和輝は手を差し出した。
 溢れ返る人間の中で、漸く見付けた奈々と逸れない為に。極自然に、当たり前のように差し出された手を、奈々もまた当然のように取った。小さな掌だと、互いが思った。そして、努力する強い手だと、互いに思う。
 奈々は県内の私立高校の野球部のマネージャーをしている。現役でプレイヤーを続ける和輝に比べればまだまだだけど、掌は肉刺や胼胝が固くなっていた。ネイルにも興味があるだろうけれど、マニキュアすら着けない飾り気の無いその手を、和輝は綺麗だと思った。
 身長160cmも無い男子としては致命的に小さい和輝が、強い引力で導いて行く。周囲の雑踏に掻き消される和輝の声は聞き取れないけれど、昔と変わらない笑顔を浮かべる和輝の存在に奈々は安心した。
 駅を抜けると、真夏とは思えない冷たい風が吹き付けた。思わず身震いする奈々を風から遮るように歩いて行く和輝に、奈々は笑う。小さい和輝が幾ら壁になったところで殆ど意味なんて無いのだ。するりと手を離すと、和輝は奈々を見て微笑んだ。


「傘くらい、持ってろよな」


 責めるような言葉でも、口調は決して突き放さない。
 奈々の知る和輝は何時でもそうだった。中学時代、男遊びの激しかった奈々を諌める時も、揚句トラブルに巻き込まれて大怪我を負わされた時も、決して突き放しはしなかった。――だから、奈々も誓った。
 絶対に、和輝を突き放さない。置いて行かない。必ず傍にいる。そして、和輝と肩を並べられるくらい強くなろうと。
 二年前、生まれた時から一緒にいた和輝と匠が道を別った。橘シニアのチームメイトとも交流を絶った和輝は平然と笑っていたけれど、奈々にとっては明らかな作り笑顔が辛かった。解ってくれと和輝は言わない。同情してくれとも願わない。けれど、傷付かない訳じゃない。あの頃の和輝に、奈々は何も出来なかった。何時もの態を装って、和輝の様子を窺うばかりだった。そんな奈々の魂胆など丸見えだっただろう和輝は敢て何も言いはしなかった。
 黙って車道側に身を置く和輝はそれ以上、奈々を咎めなかった。奈々はビニール傘に透ける雨粒を見上げながら言った。


「ねえ、和輝」


 向けられた大きな目に、自分の顔が映り込む。奈々は微笑んだ。
 二年前、匠と道を別った時。一年前、傷害事件に巻き込まれて仲間を救えなかった時。悲しげに歪められた和輝の目を奈々は今も覚えている。二度と、この目が歪むことの無いように。


「和輝が好きだよ」


 聞き間違えることなど無いように、奈々ははっきりと告げた。


「馬鹿で鈍感で要領悪くてチビで痩せっぽちで野球馬鹿の和輝だけど」


 和輝の目が怪訝に細められる。奈々は言った。


「それでも、和輝が好きだよ」


 数秒の沈黙を、雨音が塗り潰していく。呆けた顔をして、和輝は吹き出すように笑った。世間が王子様と褒め称える彼の兄によく似た、輝くような笑みだった。


「何だそれ。褒めてんだか、馬鹿にしてんだか解んねーな」


 冗談を言うように和輝が悪戯っぽく笑う。
 昔から言われるLikeとLoveの違いは何処にあるのだろう。そして、それはどうすれば伝わるのだろう。


「褒めてんでしょ」
「はいはい。そりゃ、ありがとうございます」


 白い歯を見せて子どもっぽく笑う和輝は、奈々の言葉を深く考えることなどしないだろう。それを不満に思いながら、奈々は口を尖らせて歩き出した。




15.愛が呼ぶほうへ<後編>




 辺りは闇に沈んでいる。前後左右さえ解らない中で、足元に薄らと溜まる水の冷たさだけが妙に現実味を帯びていた。
 此処が何処か等、もう問い掛けはしない。和輝は水音に混じる微かな嗚咽に耳を澄ました。無人にも思える空間で、嗚咽を噛み殺す意味は何だろう。聞かれたくないのか、聞きたくないのか。
 覚えのある、忘れる筈の無い少女の泣き声。何処にいるのだろうと反響する声をただ只管に探し続ける。
 なあ、何処にいるんだ。声を上げてくれ。もう、泣かないで。
 幾ら探しても見つかる筈が無い。届く訳が無い。そんなことは解っている。それでも、何も無かったみたいに通り過ぎることなんて出来ない。なあ、何処にいるんだよ。


「――和輝!」


 階段を踏み外したような感覚に、意識が急浮上した。怒鳴るように名を呼ぶ匠の声がする。
 部屋中に轟く目覚まし時計の騒音。この中で睡眠を続けていたなんて嘘のようだ。和輝はアラームを止めた。
 時刻は午前四時五十分。朝練が始まるまで後、十五分。匠の声に返事をしなかったせいで、追い打ちを掛けるように喧しく扉が叩かれる。ベッドから抜け出すと同時に、施錠の無い扉が開かれた。


「てめぇ、寝坊してんじゃねぇよ」
「へいへい。すぐ仕度するよ」


 悪びれも無く言う和輝に、匠は溜息を零した。
 蜂谷家は無人だった。プロ野球選手となった兄は寮で生活している為、現在自宅には父と和輝だけが生活している。父は多忙だが殆ど家を空けることが無い代わりに、出勤時間が朝練よりも早い。
 寝坊したのは久しぶりだな、と和輝は思った。自宅のように寛ぐ匠を余所に、和輝は着替えを始める。夏用の反袖シャツと、薄手のスラックス。殆ど空の鞄に練習着を押し込む。


「朝飯、机に置いてあったぜ」


 家人よりも詳しい匠が、アルミホイルに包まれた御握りを投げて寄越す。
 時刻を確認し、先に部屋を出て行った匠の後を追った。
 昨夜の豪雨の爪痕は深く、アスファルトには大きな水溜まりが湖のように出来上がっている。一晩で降り止まなかったせいで、水面には今も無数の波紋が広がっていた。玄関に据え付けられた傘立てから愛用のビニール傘を取り出す。前を歩く匠は時間に余裕が無い為か振り返らず、早足に歩いて行く。
 起床五分では、脳がまだ寝ている。
 現実と夢が曖昧なまま、和輝はアルミホイルを開いた。海苔はしなしな派の蜂谷家は、既に御握りに海苔が巻き付けられている。傘を担ぎながら大きく被り付けば、焼き鮭の塩辛さが口内に広がった。
 前を歩く匠が、不意に振り返った。


「なあ、お前、奈々のこと如何思ってんの」


 唐突な質問を理解するのに、酷く時間が掛かった。遅刻間際にする質問ではないだろう。
 怪訝そうに眉を寄せる匠の真意は解らない。言葉に詰まっている和輝に、匠は肩を落とした。


「ただの幼馴染なのか?」
「いや……、大切な幼馴染だよ。匠とはまた違うけど」


 そういうことじゃない。匠は面倒臭そうに吐き捨てた。


「奈々はお前のこと、好きだと思う」
「うん、知ってる。昨日も言われた」
「……なあ、その好きの意味、何で深く考えねぇの?」


 そう匠が問い掛けると同時に、和輝がはっと顔を上げた。解り易く動揺する和輝の次の言葉を待つ匠は、その期待が大きく裏切られることなど想像も出来なかった。


「……ごめん、俺、気が付かなくて……」
「はあ?」
「お前、奈々のこと好きだったのか……」


 がくりと、匠は項垂れた。


「馬鹿言うんじゃねーよ!」


 そうかそうか、と納得したように先を歩き出す和輝を追い掛ける。匠は苛立った。
 話を逸らそうとしているのか、本当に解っていないのか。聡いのか、馬鹿なのか。匠にも時々判別が付かない。気遣うように振り返って顔色を窺う和輝が、演技だとは如何しても思えない。


「気色悪い勘違いしてんじゃねーよ!」


 からりと笑って和輝が走り出す。
 脳裏を過る昏い陰が何なのかなど、誰も知らなくていい。知られたくない。
 近付く校門と生徒の群れ。欠片も乱れていないが、周囲に気付かれぬように深呼吸をする。匠がまだ追い付いて来ないことを確認し、和輝は校門を抜けた。


「――和輝」


 気配で察しては、いた。和輝は表面上の平然さを繕って声の主に目を向ける。
 変化の無い日常を繰り返す大勢の生徒が草原ならば、ただ一人取り残されたように立ち尽くす少女は枯れ木だろう。花にすら例えられない自分を嗤いながら、和輝は少しだけ笑った。


「よう、霧生」


 女子生徒の中では長身の部類だろう。マネージャーの霧生青葉は、表情の死んだ能面のような無表情で、ひっそりと其処に立っていた。
 呼び掛けたまま、近付こうともしない。まるで陰に生きる湿気を帯びた動植物のようだ。彼女の周辺だけ切り取られたように、寒気すら感じさせる静寂が満ちているのに、通り行く生徒達は誰一人気付かず、振り向かない。
 こんな顔をする子じゃなかった。
 一年前の彼女を思い出し、和輝は無意識に拳を握った。


「急がないと、お前も遅刻すんぜ?」


 殊更明るく言ってみても、青葉の表情は変わらない。
 ただ、一言。


「あの子は、誰?」


 青葉の言葉に、和輝はやはり、と納得する。昨夜、奈々と一緒にいたところを見られていたのだろう。


「――幼馴染だよ。匠と同じ!」


 そう、と小さく呟いた青葉の表情は死んだまま、納得など微塵もしていないというのが明らかだった。
 嘘を吐く必要も、弁解する理由も無い。ただ、約束しただけだ。


「俺は、あの子を置いてなんか行かないよ」


 一年前、約束した。生前の水崎亜矢と、此処で待っていると約束した。
 和輝の回答に青葉は黙り込んだ。けれど、和輝は最後に一度だけ微笑むと、昇降口に向って歩き出した。
 下駄箱を開けると、中身は昨日とは打って変わって上履きのみだった。項垂れるべきか喜ぶべきかは解らないけれど、胸の内にじわりと広がる嫌な予感に和輝は固く目を瞑った。
 もしかすると、青葉、が。


「――おい、和輝」


 何時の間に追い付いたのか、匠が大きく呼吸を繰り返しながら呼び掛けた。
 下駄箱を開いたまま動きを止めた和輝を不審に思うのは当然だろう。それでも何も無かった態で上履きに履き替え、和輝は教室へ促す。


「馬鹿だな」


 つくづく、匠は思う。何度でも言う。それで、幼馴染が変わるなら。
 嘘吐きで、自分勝手で、目的の為に手段を択ばない利己的な面すら持ちながら、全ての行動原理は人の為だ。その為に得意な筈の嘘ですら揺らいでしまう程に御人好しだ。


(俺が、気付かないとでも思ってんの?)


 階段を二段飛ばしに駆け上がる和輝は振り返らない。きっと、ポーカーフェイスは崩れている。
 誰のどんな思いだって、それが和輝の負担になるものなら匠は切り捨てるつもりだった。それが例えマネージャーの青葉であっても、幼馴染の奈々であっても同じことだ。この一年、匠は嫌になる程、親友が傷付く姿を見て来た。これ以上、和輝が傷付く必要なんて無い。
 ただ、匠が干渉出来るのは、あの事件が起こった後から、現在に至るまでのことに関してだ。当事者でも、関係者でも無い匠が口出しする権利など無い。そんなものは関係無いと突っ撥ねられる程、子どもでは無かった。
 けれど。

 顔も知らない人間からの押し付けがましい好意も、一年前の事件に縛り続ける青葉も、和輝は当たり前みたいに背負っていくけど。


(お前はずっと、奈々しか見てなかったろ)


 匠が言葉に出来ず黙っていると、和輝は階段の踊り場で突然立ち止まった。
 なあ、匠。
 弱り切った笑みを浮かべて、和輝が振り返る。差し込む朝日に照らされる横顔は今にも消えてしまいそうだった。


「コンパスって、あるだろ」
「はあ?」


 こういうの。
 そう言って、和輝は右手の親指と人差し指を伸ばして、手を握る。丁度、鉄砲のような形で文房具のコンパスを表現しているらしい。


「俺達ってさ、コンパスに似てるよな」


 何が言いたいのだろう。匠は黙って言葉の先を待った。


「片付ける時は閉じなきゃいけないだろ。そうして重ねておくと役に立たない。離れているから、綺麗な円が描ける」


 匠は怪訝に目を細める。和輝は馬鹿の癖に、わざわざこういう回りくどい言い方をする時がある。


「それは、俺が此処にいることへの不満か?」
「え、違うけど」


 そんなこと解ってる、と匠が鼻を鳴らす。和輝の言う『俺達』は、和輝と匠のことではない。
 匠は言った。


「何で保管する時に閉じると思う? 危ねーからだ。使用者の怪我は勿論、コンパス自身の破損もあり得る」
「うん。それはそうなんだけど」
「少なくとも俺は、開いた状態で売ってるコンパスなんて見たことねーよ。つまりさ、それが在るべき形なんだよ」


 チャイムが響いた。間に合わなかったな、と匠が呟く。追い駆けるように和輝が小さく頷いた。
 それが何に対する返事であるかなど解らないけれど。匠は笑った。尾を引いて消えて行くチャイムの音に、急ぐ気も失せてしまった。
 本来、コンパスは円を描く為に作られた文房具ではない。二点の距離を保ったまま移動することの出来る文房具だ。そんなことを言ったところで和輝は興味も無く生返事するだけだろうから、何も言うつもりはない。


「ほら、さっさと教室行くぞ」


 HRは遅刻しても、授業まで遅れる必要は無い。匠が横を通り過ぎ、和輝は笑った。
 幾ら回りくどい言い方をしても、匠は誤魔化せない。頭の出来が違うのだ。無謀ではあったけれど、抗わずにはいられなかった。
 ばれると解っていて嘘を吐くのも、勝ち目のない口先勝負に出るのも、全て匠に対する甘えだ。それを許してくれる、受け入れてくれる、間違えば引っ叩いてでも連れ戻してくれる。何度だって喧嘩して、その度に仲直りする。
 それでいい。――それが、いい。

 前を歩く匠が振り返る。和輝は足を踏み出した。


 あの事件から、一年が経とうとしている――。

2012.7.6