ずっと、言いたいことがあった。言えなかったのではなく、言わなかった。
 時が経つに連れて風化して行く過去に、今更という思いがあったのも事実。そのまま無かったことに出来たら良いのにと思ったのも事実。どちらを口にしてもあいつは意にも介さずからりと笑うだろう。

 神奈川県地区大会準決勝。甲子園を間近に控えたこの日に、球場に押し寄せる観客はそれまでの比では無かった。ただでさえ炎天下の日差しが急激に近付いたようで、グラウンドは鉄板さながらに陽炎が立ち上っている。
 昨年の夏大会優勝校、武蔵商業高校。あらゆる意味でダークホースである晴海高校。話題の二校が衝突する試合は県内外から多大な注目を集め、純粋な高校野球ファンや応援だけでない、野次馬をも引き寄せていた。
 ベンチ入りした午前九時半。連日の豪雨の影響でグラウンド整備は捗らない。先発を任された醍醐と晴海のエース夏川がブルペン入りし、故障中の和輝がベンチでマネージャーのように雑務を片付けていれば、整備に出る人数は更に減る。匠はぬかるむ地面を均し、これが余計なイレギュラーにならぬよう渾身の力を込めた。一回きりのトーナメントで、一度の敗北は全ての終わりを意味する。偶然の勝利も敗北も望んではいない。
 根詰めたせいか背骨が軋むように痛み、大きく背伸びをした。三塁側のベンチは晴海高校だ。真上は応援団が占拠し、慌ただしく打ち合わせと楽器の運び込みに精を出している。
 一回きりのトーナメント。
 甲子園出場経験が、匠にはある。昨年まで栃木の強豪に在籍していた匠は、一年ながらレギュラーとして活躍し、見事その切符を掴み取ることに一役買った。それでも麻薬のような中毒作用がある甲子園という舞台は、もう一度、もう一度と背を焼くような焦燥感を覚えさせた。そして、それは昨年以上に強いものになっていた。
 グラウンド整備は通常の二倍近い時間が掛かり、両校の練習時間を加えれば予定よりも二十分近く押している。
 用具を片付けてベンチに戻ると、マネージャーのように和輝が皆に水分補給を促した。今日も暑くなりそうだ。

 ずっと、言いたいことがあった。タイミングを見計らっていた訳ではない。言うのが怖かっただけだ。

 武蔵商業の練習が始まる。和輝の言う通り、センターポジションにはいけ好かない元チームメイト、蝶名林皐月がいた。試合前の緊張を解すように談笑する者もいれば、熱心に武蔵商業の練習を見詰める者もいる。後者である和輝はベンチの最前列に座って微動だにしない。
 匠の脳裏に過るのは、先日、皐月に言われたことだった。引退試合で、全打席敬遠で身動き一つ取れなかった和輝を援護してやることが出来なかった。挙句に和輝の思いを理解しようともせず、自分達から離れて行ったことを責め罵った。反論どころか弱音一つ零さないのを良いことに、御門違いな文句を自分勝手な権利ばかりを押し付けた。自分達から避けるように距離を置いて独りきりになったあの頃の和輝がどんな気持ちだったのか、今の今まで考えたことすら無かった。


「和輝」


 呼んでも、和輝は顔を向けない。ただ、唸るように心此処に非ずといった生返事をするだけだ。
 それでも、匠は言った。


「ごめんな」


 途端、和輝が顔を向けた。当然ながら、何のことだと言わんばかりのきょとんとした顔で、小首を傾げている。


「何の話だよ。つか、試合前にモチベーション下がるようなこと、言うな」


 珍しく不機嫌そうな、低い声で言った。当たり前だとは思ったが、これ以上、忘れたように振る舞うのは限界だった。


「二年前、お前を、裏切り者って、言ったことだ」


 合点がいったようで、それでも呆れたように和輝が眉を寄せた。


「何なんだよ、今更。皐月が来てからずっと小難しい顔してると思ってたけど、そんなこと考えてたのかよ」


 馬鹿じゃねーの。和輝が言った。全く以てその通りだった。


「お前も皐月も、今更なんだよ。終わったことは如何しようもねーだろ。謝って満足出来るなら、それでもいーけど」


 興が削がれたと言わんばかりに、勢いよくベンチに凭れ掛かると、煤けた天井を見上げて溜息を零した。
 気にしていないのは本当だろう。過去のことだと割り切っているのも事実だろう。


「過去が如何あれ、大切なのは今だろ。皐月の言葉に惑わされてんじゃねーよ」
「ンなこたぁ解ってんだよ。ただ、あの頃のお前は、」


 匠が口を噤んだ。頭に血が上っていて、尚且つ若かった自分を振り返れば、馬鹿だったとしか言いようがない。
 和輝は匠を信頼出来なかった。匠も和輝を信用出来なかった。そう思っていたけれど、そんなのは嘘だ。和輝は仲間を信頼していたから敢て独りの道を選んだし、匠も信用していたから頼ってくれなかったことに怒ったのだ。生まれた時から一緒だった自分達が、信じ合えなかったなんてことは、有り得なかった。
 背中を向けた相手がどんな顔をしていたかなんて、解っていた筈なのに。
 黙り込んだ匠に、和輝は呆れたように溜息を零した。


「だから、終わったことをどうこう言ったって、意味なんか無いだろ。お前が後悔するのは勝手だけど、俺は自分の選択が間違っただなんて思ってない」


 和輝が如何してはっきりとそう言えるのか、匠には痛い程解った。和輝は選んだ道を後悔していない。それは何故か。


「此処は、高槻先輩に会えた場所だから」


 一陣の風が吹き抜けた。真っ直ぐ此方を見詰める眼差しは、野球部元キャプテン、高槻智也と同じものだった。
 高校に入って半年にも満たない僅かな時間、高槻と過ごした日々だけが和輝の希望だった。その僅かな時間の為に、それ以上の長い時間苦しんだのに、自分の選択を後悔しない。それだけ、和輝にとって高槻は大きな存在だった。
 和輝が笑った。それは、昔から見て来た酷く柔らかい微笑みだった。


「だから、お前も謝ってんじゃねーよ」


 武蔵商業の練習が、終わる。
 鳴り響くサイレンの中、藤が言った。


「さあ、行くぞ!」
「おおっ!」


 勢い良くベンチを飛び出した小さな背中が、太陽の中に消えるように輝いて見えた。
 晴海の先発は醍醐だが、準決勝まで来て、エースを温存せずにグラウンドへ出す訳にはいかない。選手に余裕の無い晴海は当然ながら、和輝を出場させるしかない。リハビリも一段落着いたという和輝の言葉を皆が何処まで信用しているかは解らない。
 出遅れた匠が駆け出そうとする背中に、何時の間にブルペンから戻ったのか、ベンチに残った夏川が言った。


「あいつは気にしてねぇよ。でも、忘れた訳じゃない」


 このやり取りを何処から聞いていたのかも疑問だが、匠にとってはお前に何が解る、と言ってやりたい気持ちが大きかった。
 それでも、自分のいなかった一年間、幼馴染を傍で見て来たのは彼等だったことを知っていた。仲間と決別して独りきりになった頃、高槻と出会って救われたこと、世間からのバッシングを独りで背負った時。傍にいたのは自分ではなく、彼等だった。


「何で喧嘩してたのかなんて知らねーけど、本気で謝りたいと思うなら、やることは一つだろ」
「……言われるまでも、ねーよ」


 少しだけ笑って、匠は走り出した。




17.迷子の僕に<前編>




 頭上から降り注ぐ太陽。マウンドにある小さな背中は、酷い既視感を呼び起こさせる。
 三塁上で、ボール回しもそこそこに、和輝は茹だるように緩み切った自分の思考を叱咤する。マウンドにいるのは、――ではない。
 隣に匠がいなければ、叫びたかった。声を張り上げて、その名を呼んで、縋り付きたかった。彼が此処にいないことなんて、もう解っているのに。振り向いてくれることも、呼び掛けてくれることも、笑ってくれることも永遠にない。そんなことは解っている。
 口の中でその名を呼び、後悔する。漏れそうになる嗚咽を噛み殺す。


「プレイボール!」


 審判の宣誓に、和輝ははっとした。
 プレイボール。先攻は武蔵商業。じゃんけんで決めた先攻と後攻だが、生憎、勝負どころで負けたことはない。代理でじゃんけんして後攻を勝ち取った和輝は、バッターボックスを睨んで気合いを入れ直す。
 一番、蝶名林。背番号八番。
 予想通りだと和輝が笑う。尤も、皐月が一番以外の打順に座ったところなど見たことがない。
 キャッチャー、蓮見が皐月を窺う。身長155cmという超小柄な体格で、武蔵商業のような強豪校のレギュラーを張る理由。不動の一番打者と呼ばれるその意味。一見、優男ともとれる容貌は自分達の先輩を思い起こさせるけれど、何かが大きく違う。
 不動の一番打者、その意味は大きく一つ。出塁率の異常な高さだ。一つは単純に足が速いということ。
 初球、外角へのボール。明らかなボール球は皐月を警戒してのものだ。けれど、皐月の口元が弧を描いたと同時に、和輝が、匠が叫んだ。


(駄目だ!)


 言葉は声にならず、発されるより先に体が動き出した。
 ボールは一塁線、ギリギリに転がって落ちた。ピッチャー、ファースト、セカンドの中間地点。あの明らかなボール球を、狙ってこの場所に落としたのだ。


「醍醐!」


 声を上げたのは和輝だ。拾い上げた醍醐が一塁へ向けて肩を入れる。だが、其処に皐月はいない。


「二つ!」


 匠が叫んだ。急な方向転換。足元を崩しそうになる醍醐のカバーに入ったのは、幻かと思い違う小さな影。
 何時の間に来たのか、とか。三塁はどうするんだ、とか。それを問う間も無く零れ落ちそうな白球を拾い上げた和輝の左腕が唸った。小柄な体格に見合った短いリーチから放たれたとは思えない白い閃光が、二塁のカバーに入っていた匠のグラブに突き刺さる。


「――セーフ!」


 一斉に、観客席が沸き立った。
 忌々しそうな匠と、膝に手を突き俯く和輝、呆然とする晴海ナイン。一回表の一番打者を相手にしているとは思えない疲労感が、晴海高校を襲う。
 ビデオで何度も確認した蝶名林皐月。当たり前だが、ビデオで見るのと、実際に見るのは違う。
 それでも、何時でも試合中は冷静な三遊間が、これほど焦るのは恐らくきっと、初めてだった。和輝は三塁に戻って行く。
 皐月の恐ろしさは、その出塁率の高さだけではない。


「切り替えろー」


 外野から、激励の声が上がる。醍醐が小さく頭を下げた。
 二塁上の皐月が意味深に笑う。背筋に冷たいものが走り、箕輪は身震いした。セカンド寄りに構えながら、匠は皐月の動向を見守る。飄々とした態度は変わらない。浮かべられる薄ら笑いも変わらない。皐月は匠など見てはいない。それどころか、投手すら見ていない。
 牽制に意味は無い。むしろ、皐月は牽制を待っているようにも思える。醍醐が視線を向けた先で、和輝が笑った。


「いいから、前だけ見とけ! 後ろは俺達が何とかしてやるから!」


 にこりと、微笑んだ和輝に醍醐が頷く。
 皐月の微かな薄ら笑いに気付き、和輝がじろりと視線を向ける。男子高校生の平均身長を大きく下回った二人の選手が、グラウンドの中心にいるのは逆に目を引く。和輝は静かに目を戻した。
 二番打者が、バッターボックスに上る。定石なら送って来るだろう。蓮見がサインを出そうとする刹那、和輝が叫んだ。


「打たせろ!」


 送らせろ、と言う意味だろうか。醍醐が怪訝そうに眉を寄せるが、蓮見は頷いていた。
 サインを出せば、醍醐は頷く。中学以前から組んで来たバッテリーだ。例え、醍醐が蓮見の考えを理解出来なくても、理由無く首を振ることは殆ど無い。それは偏に、蓮見への信頼だ。
 放たれたボールは難無くグラウンドに転がった。一塁側へ転がしたかっただろう打球はてんてんと三塁線に転がる。皐月が飛び出す。――同時に、和輝が飛び出した。
 驚いたのは武蔵商業だけではない。晴海高校も同様だ。皐月が三塁を踏むと同時に匠が滑り込む。皐月の正面で、ボールを握った和輝が睨んでいた。


(本塁は、やらない)


 皐月が、笑った。
 結果として武蔵商業はノーアウトのまま、ランナーを一塁・三塁に残した。それでも蓮見にとっては十分だった。
 蝶名林皐月が、送りバントで二塁から本塁へ帰還するのは珍しくない。そして、それが武蔵商業の猛攻の起点になるからだ。一点あげて後を抑えるなんて簡単な話ではない。一度ついた勢いを止めるのは言葉にする以上に困難だ。
 三塁に戻った和輝が皐月を一瞥する。背の低い二人が並ぶ三塁は、高校野球というよりもリトルリーグのようだった。


「ホームスチールはやらせないぜ? ……俺がいるからな」
「へいへい」


 へらへらと笑いながら、皐月が言った。その言葉に信憑性は微塵も存在しない。
 橘シニア不動の一番打者。味方の内は有難かったが。


「和輝がいると、遣り難いなぁ」


 三番が打席に立つ。細められた皐月の目に、和輝は鼻を鳴らした。
 実力至上主義だった橘シニアで、誰より練習に打ち込んでいた少年を知っている。背が低くても、兄のネームバリューによって不本意ながら注目を集めて来た和輝。背が低いが故に、大勢の選手の中に埋もれて行った皐月。期待や羨望を背負った自分と、期待や羨望を求めた皐月だ。正反対の道を歩いた自分達が、同じ価値観を持てるとは思っていない。
 それでも。
 鈍い音が響き渡ったと同時、打球は地面すれすれの低いライナーとなって内野を突破しようと駆け抜けた。
 抜ける、と外野が身構えた瞬間。匠のグラブが救い上げるように滑り込んだ。まるで其処に来るのが初めから解っていたような滑らかな動作で、後ろを確認する事無く背中を向けボールを放つ。
 三塁、皐月はもういない。
 匠のボールを受け取った和輝が振り被る。それでも表情を崩さない皐月が真っ直ぐに、本塁へ駆け抜ける。


「挟んだ!」


 和輝の返球が皐月の耳元を掠め、蓮見のミットに飛び込んだ。誰もがアウトを予測した。
 けれど、次の瞬間。皐月の体は蓮見の前から消え、本塁を捕まえていた。


「――セーフ!」


 わっ、と。初回にも関わらず沸き上がった歓声に晴海ナインが呆然とする。
 膝の土を払い、去り際に皐月が薄く笑ったのが見えた。

2012.7.8