「蝶名林、皐月? 変な名前」
それが初めて交わした会話だった。
中学二年の夏。橘シニアでの練習は厳しいものだったが、それでもレギュラーを中心に自主練習に取り組む選手は少なく無かった。夏の日没が遅いのを良いことに、河川敷はどの季節よりも賑わっていた。和輝も例に漏れず、幼馴染の匠、青樹や赤嶺と共に練習に励んでいた。
兄貴の七光りと、言われたくなかったということもある。けれど、それ以上に、野球が好きだった。仲間と一緒に過ごせる時間が大切だった。そうしてノック練を熟した後、近くに据え付けられた水道へ顔を洗いに行った時、見覚えの無い少年を見付けた。
自分が言うのも忍びないが、小柄な少年だった。シニアリーグで女子が混ざるのは珍しくないが、こんな子がいたかな、と和輝は自分の記憶を振り返った。それが皐月との出会いだった。
名前を聞いて、他愛の無い話をした。皐月の性格は一言で言えば社交的、それが和輝の印象だった。
「余計なお世話だ」
「はは。あ、俺は」
「知ってるよ。知らない筈無いだろ。つーか、それ嫌味?」
「え?」
「蜂谷祐輝君の弟だろ。自慢?」
「……俺の名前は蜂谷祐輝の弟じゃねーよ」
言われ慣れてはいたけれど、初対面の人間に言われたくない。外見に見合わない口の悪さに呆れながら言い返せば、皐月が笑った。
「俺の名前は蜂谷和輝だ」
指を突き付けて、聞き間違わないようにとはっきりと告げた。すると、皐月は何処か変な顔をした。
怪訝に目を細めるのではなく、まるで、眩しいとでも訴えるように手を翳して、困ったように笑って見えた――。
「ワンナウトー!」
ホームで、蓮見が声を張り上げた。グラウンド中から返って来る威勢のいい声に、和輝も遅れながら続いた。
ベンチに戻って行く皐月が此方を見て笑っていた。くそー。悪態吐きながら、和輝は頬の緩みを抑えられなかった。武蔵商業の試合を偵察したことはあるけれど、皐月の試合をこんなに間近で見たのは中学以来だ。相変わらず、抜群のスライディング技術だ。
先取点を取られたことは不本意だが、嘗ての仲間の活躍が知れるのは嬉しいことだ。それに、皐月の走塁は非常に勉強になる。
こんな顔を見られたら怒鳴られる、と匠を見遣っても、視線が合うことはなかった。思い詰めたように、猫目を鋭くさせる匠に和輝は呆れた。投手でもない匠が気負っていたのでは、士気に関わってしまう。
「お前がそんな顔してんじゃねーよ。次は俺が止めてやるからさ!」
解ったか、醍醐!
醍醐の背中に声を掛ければ、解り易いくらい大きく肩が震えた。相変わらず、投手としては心配になる程の馬鹿正直さだ。
続くのは武蔵商業の四番だ。小柄な選手の多い晴海に比べ、高さも厚みもあるホームランの打てる四番だ。それでも、関係無いと言わんばかりに声を張り上げる和輝を、皐月が目を細めて見詰めていた。
17.迷子の僕に<中編>
四番の痛烈なピッチャー返しに反応した醍醐は、野生動物並だ。ベンチに戻るなり、藤がそう言った。
そのまま併殺に繋げ、武蔵商業一回の攻撃は終わった。晴海の一番打者である和輝は、鼻歌交じりにバットを担いで出て行こうとして、匠にその首根っこを掴まれた。蛙が踏み潰されたような声を上げてその一歩は空中に停止する。
「何だよ、匠!」
「嬉しそうな顔してんじゃねーよ」
「嬉しい訳じゃねーよ。ただ、負けらんないなと思ったんだ」
晴海高校の一番打者として。
淡泊そうに見せて、その実、かなりの負けず嫌いだ。皐月のプレーに火が点いたらしいその目は夏の太陽宛らにぎらぎらと輝いている。匠が溜息交じりに手を振ってグラウンドに追い遣れば、和輝は振り返って笑うだけだった。
一回裏、晴海高校の攻撃は――。バッター一番、蜂谷君。背番号五番――。
お決まりのアナウンスが、尾を引いて響いた。陽炎の上るグラウンドを眩しそうに見詰めながら、和輝は観客席の声援に負けないように腹の底から声を出した。
「お願いします!」
キャッチャーが驚いたように瞬きをしたが、和輝は気付かなかった。
内野に寄った守備位置は御決まりだ。飛ばせる筈が無いと外見で判断するのは腹立たしいけれど、実際その通りなのだから仕方が無い。外野まで飛ばすことは難しくても、内野を抜くことは出来る。
初球。唸るような剛速球に口笛を鳴らしたい心地だった。
(速い球は好きだ。打っていて、気持ちが良い)
バットが当たる寸前、和輝の目がピッチャー横を捉える。ボールに衝突した瞬間、振り抜かれたバットが悲鳴にも似た高音で叫ぶ。
一直線に駆け抜けた打球が地面にバウンドし、跳ね上がる。いとも容易く、内野が抜けた。長打かと思われた瞬間、追い掛けたセカンドが飛び上がり、その勢いを殺さぬまま腕を旋回させた。だが、一回表を思わせる小さな影は一塁を駆け抜けた。
「セーフ!」
沸き立つ応援の中、ガッツポーズを向ける和輝に晴海ベンチも自然声を上げる。
手袋を外しながら和輝は緩む頬を抑えた。匠に怒られそうだ。セカンドのファインプレーが無ければ、二塁は余裕だった。それを足止めされたのにヘラヘラ笑ってる場合じゃないと、続く小言が聞こえるようで癪だ。けれど、それ以上に。
(楽しい)
バットを握ることが、ボールを追い掛けることが、仲間を励ませることが、応援してもらえることが、この場所に立っていることが、楽しくて仕方が無い。こんなに嬉しいと、他の誰に解ってもらえるだろう。和輝は浮かんだ笑みを誤魔化すように、口元を手の甲で拭った。
灼熱の太陽が降り注ぐ。一回裏の晴海の攻撃は、続かなかった。二度の盗塁で単独三塁まで進むもヒットが無く三塁残留のままチェンジ。
溜息を零すまでもなく、ただ小さく残念そうに「ちぇ」とだけ吐き捨てて和輝はベンチに急いだ。すぐに守備に向わなければならないと走り出す背中に、一つの影が迫ったことに気付かなかった。
「残念だったなー、和輝」
「皐月」
試合中ということも忘れて肩に腕を回す人懐っこさは相変わらず。苦笑交じりに歩調を緩めれば、皐月は嬉しそうに笑う。
「マジ、使えない奴等だな」
「え?」
言葉の意味が汲み取れず、訊き返す和輝などお構いなしに皐月が言った。
「ヒット一本打てないで、三塁残留かよ。二盗もしたのに、馬鹿らしいよな」
目の前の少年の言葉が理解出来ない。和輝の足が止まり、驚き皐月は前のめりになりながら立ち止まった。
「どーした、和輝?」
「お前がどーしたんだよ、皐月」
そんなこと言うなんて、らしくない。
和輝の困惑したような眼差しで、皐月は合点がいったように頷いた。
「いやあ、悪ぃ悪ぃ。つい、口が滑っちまった」
「……本心だってことだろ。余計に性質が悪いぞ」
「でも、その通りじゃん。お前が頑張ったの、全部無駄になっただろ?」
悪びれもなく、皐月が言った。違和感に和輝は眉を寄せる。
「馬鹿らしいとか無駄とか、そんなこと思いながら試合してねーよ」
「……俺、お前のそういうところ大好き!」
「そいつは、どうも」
気のせいか、と思いながらベンチに戻ろうと向けた背中に、皐月の声が掛かった。
「仲間はもっと上手く使わなきゃ駄目だぜー?」
和輝の足が止まったことに、皐月は気付かなかった。声援に掻き消されながら、皐月の言葉は晴海のベンチに突き刺さる。
一塁側ベンチに消えて行く皐月に、和輝は叫びたかった。振り向いた先に皐月はもういない。ただ、仲間の猜疑の目ばかりが浮かんでいた。
ベンチに戻った和輝に、真っ先に声を掛けたのは箕輪だった。どんな時でも明るく振る舞う箕輪はお調子者だとか能天気だとか言われているけれど、その実、誰よりも優しくて相手を気遣える人間であることを知っている。箕輪の声に幾らか肩の力が抜け、また、ベンチの空気も徐々に明るくなった。
水分補給しつつ守備に走り出そうとする和輝に、匠が言った。
「お前は知らないだろうけど」
感情を読ませない冷たい声は、匠のものとは思えなかった。振り向いた先でやはり匠は無表情だった。
「俺の知ってる皐月は、ああいう奴だったよ」
え、と乾いた声を零して和輝は少し笑った。嘘だと思った。あんな皐月を見たのは、初めてだった。
それでも、和輝の言葉を読んで匠が言う。
「皐月はお前のこと好きだったから、そんな素振りも見せなかっただろうけど。俺が見て来た蝶名林皐月は利己的で、仲間なんて道具としか見てない冷たい人間だった」
「――止めろよ!」
「信じられないなら、千明にも聞いてみればいい」
舌打ちを一つ零し、和輝はグラブを引っ手繰るように掴んでベンチを出て行った。
二回表は六番から始まる。だが、内容は痛烈なピッチャー返しに始まる投手崩しと呼ばざるを得ないものだった。試合の上で投手を狙うのは常套手段で、その為に晴海高校は抑えのエースが存在する。そんなことに文句を言うつもりはないけれど。
和輝の視界の端に映るのは、一塁ベンチの最前列で、声援を送る訳でも無く足をぶらつかせて退屈そうに試合を見遣る皐月の姿だった。誰も彼を注意しようとしないのも不思議だった。
二回表が終わり、ベンチに戻って行く。和輝は星原に駆け寄った。
「なあ、千明。お前から見た皐月って、どんな奴だ?」
「ええ?」
そうだなぁ、と唸りながら考える星原は一言前置きした。
和輝先輩は信じないと思いますけど。――それは、どういう意味だ。
「あの人は、和輝先輩以外の仲間のこと、道具だと思っていましたよ」
「――!」
「自分が出塁して、戻って来る。仲間はその為に必要な補助。……根は悪い人じゃないと思うんですけどね、野球が無ければいい先輩でしたし」
違和感違和感違和感。理解が追い付かない脳が悲鳴を上げる。それでも浮かび上がる思い出が必死に否定する。
星原は続けた。
「俺はそれが間違ってるとは思っていません。だってそうでしょう? 世の中、勝てば官軍なんですから。実際、皐月先輩はそのやり方でチームを勝利に導いて来た」
「そんなの、仲間じゃねーよ!」
「今更なこと、言わないで下さい。橘シニアは、そういうチームだった筈です」
橘シニアチーム。
全国から強者の集まる強豪チームだ。徹底した実力至上主義に年齢による偏見は無く、強くなる為に練習し、勝つ為にチームを組む。
和輝はキャプテンだった。天才と呼ばれる兄の存在で過度な期待を背負わされたこともあった。仲間の失敗を喜ぶ者も、努力を踏み躙る者も確かにいた。でも、それは勝ちたいからだ。誰より野球が好きだからだ。
それぞれ思うことはあっただろう。結果として自分達は別々の道を選んだけれど。
それでも、何かがあったのだと信じたい。
絆と呼べる程に大層なものでなくても、其処には何かがあったのだと、信じたいのだ。
他の誰が否定しても、匠は、青樹は、赤嶺は、皐月は、星原は、大切な仲間だったと思いたい。
「……まあ、俺が見て来たのはそういうチームでした。でも、ずっと内側から見て来た和輝先輩には、違ったものが見えていたのかも知れませんね」
星原は、少し先を歩きながら振り返って笑った。
「でもね、和輝先輩。俺は仲間の為に本気で泣いたり怒ったり出来る和輝先輩がいて、良かったって思うんです。だってそのお蔭で、俺は今此処にいて、楽しく野球出来るんですから」
星原は走って行った。追い駆けるようにベンチに入れば、今度は匠は口を尖らせて待っていた。
「……中学時代、橘シニアの方針には何の疑問も持ってなかったんだ。勝負なんてのは勝ってなんぼだろ。結果が全てだ」
「へえ?」
傍で聞いていた箕輪が隣で声を上げた。
「俺はそう思わないけどな。なあ、和輝。結果が全てなんて、冗談じゃねーよな。過程にだって意味があるだろ」
「勿論!」
「凡人はそうじゃなきゃ、やってらんねーよ」
和輝の肩に手を回し、箕輪がへらりと笑う。晴海高校の二年は所謂鳴物入りプレイヤーの集まりだ。天才の弟、強豪チームのスラッガー、元プロ野球投手の息子。その中で唯一、極普通の中学野球をして来た箕輪だからこそ、そう思うのだろう。
黙り込んだ和輝に、それまでベンチの奥にいた夏川が顔を出す。
「価値観なんて人それぞれだろ。それを押し付けたって如何にもなんねーよ」
「でも」
「味方がいれば敵もいるさ。当たり前だろ。皆それぞれ大切にしてるものが違うからな」
中学時代は味方だった。それでも、今は敵だ。
押し付け合う価値観に意味は無い。それでも、和輝は、皐月を認めたくなかった。
呆れたように溜息を零し、匠が言った。
「如何しても納得出来ないって言うなら、とことんぶつかるしかねえんじゃねーの?」
ぐ、と息を呑み、和輝は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは中学時代の皐月の姿だ。それらが嘘だとは思えないし、思いたくない。自分にだけ偽りの姿を見せていたのかと寂しい思いもあるけれど、それでも信じたいのだ。確かに其処に、何かがあったと。
「皐月……!」
其処にいるのが誰であっても、伸ばされた手を離してはいけない。
高槻と約束した。その為に、皐月を置いて行くことなんて出来ない。
「待ってろ!」
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