「おーい、皐月」


 終わろうとする夏が、大勢の蝉を道連れに腐り落ちて行く。中学二年。橘シニアでは最上級生の最後の試合が迫っていた。
 目の上のたんこぶが無くなろうとする試合に意気込む後輩の姿を面白く思わない最上級生が、事故に見せかけて暴力を振るうことは少なく無かった。けれど、誰にも気付かれず忘れられたように独りきりで練習を続けた皐月には何の関係も無いことだった。
 誰にも期待されず、ただ独りで自分の為だけに続けた反復練習にどんな意味があるのかなんて、既に皐月には解らなかった。シニアリーグに所属した頃から、この風景は変わらない。独りきりだった。
 あいつに、会うまでは。


「何だよ、こんなとこにいたのかよ。俺、お前のこと、ずっと待ってたんだぞ」


 何時だって皆の中心にいて、時期キャプテンとさえ言われる天才の弟。夏の初めに出会ってから、練習の度に皐月の姿を探しては、行動を共にしたがる。此方を気遣う訳でも無く、人気取りという訳でも無く、偽善でも無い。ただ、一緒にいたがった。


「何で、探してたんだよ」
「お前と練習したいんだよ」


 当たり前のことを訊くなというように、即答された言葉。
 少し前を歩き出しながらわざと皆の元へ連れて行こうとする訳では無く、ただ、一緒に練習出来る場所を探す。練習する相手には事欠かないだろうと、皐月は思った。幼馴染の白崎匠だって、仲の良い青樹大和だって、赤嶺陸だって、喜んでお前と一緒に練習するのに。他のチームメイトだって、声を掛けられただけで喜んだだろう。そんな人気者が、何で。


「お前の走塁技術、すげーからさ。勉強になるんだよ」


 ほら、俺もチビだろ。飛ばせない分は、足で稼がなきゃな。
 そう言って、和輝が笑った。向けられる純粋な尊敬の視線。皐月は掌の中の白球を握り締めた。


「なあ、和輝……。俺、野球、辞めようと思うんだ」


 笑っていた和輝がぴたりと足を止めて、振り返った。絵に描いたような驚愕に笑うことは出来なかった。それ以上に、自分が空しかった。
 独りきりの練習も、向けられない視線も、得られない評価も結果も、何もかもが空しかった。まるで此処に自分が存在していないかのような周囲にとって、自分はどんなに価値の無い人間だろう。透明人間なのだろうか。
 この時期、受験に備えてシニアリーグを止める人間は少なくなかった。実力至上主義の橘シニアは弱者に目を向けない。そうして消えて行った大勢の仲間を知っている。
 和輝は道を引き返し、僅かに開いた皐月との距離を詰めた。小さな掌が、細い肩を掴む。


「何で、そんなこと言うんだよ……」
「ほら、俺、下手糞だし。受験勉強もそろそろ始めなきゃいけないしさ」


 なるべく明るい口調で言えば、和輝は怪訝そうに眉を寄せた。


「受験勉強なら口出しは出来ないけど、少なくとも俺はお前のこと、下手だなんて思っていないよ」


 皐月は、何も言わなかった。和輝は俯いた顔をじっと見詰め、皐月の手を取った。
 小さな掌だった。醜い掌だった。幾つもの肉刺が潰れて胼胝になり、日に焼け浅黒くなっている。その掌をなぞり、和輝は言った。


「こんなに努力してる皐月が下手糞な筈無い」
「……努力したって」


 ぼろり、と。笑って別れようと堪えていた涙が零れ落ちた。それに動じることもなく、和輝は真っ直ぐに皐月を見詰めている。


「努力が実るなんて、限らないだろ!」
「実らないとも、限らない。でも、諦めたら可能性はそれこそ零だろ」
「始めから、可能性なんて無い! お前と俺は違うんだよ!」
「なら、付いて来い!」


 掴んでいた掌を強く、強く握って和輝が笑った。夕日すら霞みそうな輝きに、皐月は目を細めた。


「俺が可能性を見せてやる!」


 透き通るような夏の夕焼け、茜色に染まる夕雲、金色を乱反射する水面。その全てが溶けて消えそうな程の光に、皐月は目が眩んだ。断末魔を上げる夕日とは違う、頭上から照り付けるような太陽の輝きを、其処に見た気がした。




17.迷子の僕に<後編1>




 二回裏の晴海高校の攻撃は、五番、千葉佳樹。厚みの無い晴海高校の中では最も力のある、ホームラン・長打に期待出来る選手だ。
 匠は三塁側のコーチャーに付き、日差しを避けるように帽子のツバを下げた。ベンチからサインが出ていないことを確認し、視線をバッターボックスに戻す。
 武蔵商業は強豪だ。特にその堅実な守備は全国でも定評がある。守備の合間を狙って内野を抜くと言うのは、言葉にするのは簡単だが、実際に行うのは非常に困難だ。確かに一回裏、簡単にそれをやってのけた者はいるけれど。
 この堅い守備から、どうやって得点する?
 匠は内野陣を見据えた。匠に、千葉のようなホームランは無い。それに加え――。
 金属バットが、悲鳴を上げた。打球がふらりとマウンド上に上がる。ピッチャーは酷く冷め切った目で、ゆっくりと落下した白球を受け止めた。


「アウト!」


 匠の視線の先、武蔵商業の投手がいる。
 身長189cm、体重79kgという大型投手。プロ入り確実と囁かれる豪腕投手な訳だが、名前を古澤隆太という。鉄面皮とも言えるポーカーフェイスに加え、そのガタイからの威圧感は半端ではない。変化球よりも速球で押していく投手だが、その球速は150kmを越える。県内では間違いなく最速だ。こんな投手から早々ヒットが打てるとは、思えない。
 外野を狙うのは難しい。内野を抜くのも困難。


(どーしろっつーんだよ)


 晴海高校にはこの豪腕に太刀打ち出来るパワーヒッター等殆どいない。
 続く打者、星原もまたボールを詰まらせ、打ち上げた。打球はサード上に上がる。ツーアウト。
 まだ、一点差だ。けれど、たった二度の攻撃で得点の困難さを噛み締め、匠は苦い顔をする。逆転を諦めている訳ではない。絶対に打ってやろうと思う。それでも、胸の内にじわりと広がる痛みに唇を噛み締める。
 中学時代の皐月を思い出す。仲間を道具としか見ていないと、星原は言った。匠もそう思っている。けれど、和輝だけはそれを否定する。実際に皐月は、和輝のことだけは唯一仲間だと思っていただろう。その理由を、匠は知っていた。
 それに、皐月は、初めからあんな人間ではなかった。
 七番の醍醐が三振に終わったところで、匠は小さく咳払いをした。今はそんなことを考えている場合じゃない。三回表の守備が始まる。グラブを取りにベンチに走れば、和輝がやけにぎらついた目で此方を見ていた。
 匠。
 珍しく何処か緊張したような固い声で、和輝が言った。


「俺はやっぱり、仲間が道具だなんて考え、認めたくない。野球は団体競技で、どんなに才能があっても、どんなに力があっても、一人きりじゃ一点だって取れないんだ」
「……別に皐月は、独りで勝とうって思ってる訳じゃねーだろ。ただ、勝つ為に仲間を利用するってだけだ」
「俺は中学時代、独りで得点出来ない四番だった」


 そう言った和輝の声は固かった。
 小学生にも見える低身長で、強豪チームの四番であった理由を、匠は解っている。例えホームランが打てなくても、例え走者を進められるだけの犠打がなくても、臨機応変に打ち分けられるその技術と判断力を監督は買っていた。
 そして、それだけではないことを、仲間は皆知っている。和輝は目を伏せた。


「ホームランが打てれば、もっと楽に勝てる試合もあっただろうし、引退試合もあんな結果にはならなかったかも知れない。仲間の力が無ければ勝てない俺は、仲間を道具として利用してる皐月と同じなのかも知れない」


 でも。
 顔を上げた和輝の瞳には確かな光が浮かんでいた。その眩しさに、匠は目を細める。


「なあ、仲間ってさ、試合で勝つ為だけに存在するのかな? 嬉しい時に笑って、悲しい時に泣いて、一緒にいるだけで楽しい。辛い時には励まし合って、時には喧嘩して、それでも一緒に前を向いて歩いて行く。それが、仲間だろ!」


 チカチカ、する。
 皐月はきっと、ずっとこの光に気付いていたのだろうと思う。匠は、笑った。
 そうだな。小さく頷けば、満足そうに和輝が笑う。――だから、彼が四番だった。キャプテンだった。チームの要で、中心だった。


『三回表、武蔵商業高校の攻撃です――』


 響き渡るアナウンスに、二人は顔を見合わせた。
 行くぞ。どちらともなく突き出した拳をぶつけ合い、グラウンドへ駆け出して行く。先を行く和輝が、真夏の太陽以上に輝いて見えた。
 武蔵商業の攻撃は九番から始まる。蓮見がサインを出せば、常と変わらず醍醐が静かに頷いた。
 初球はボール球だ。カウントが一つ重なる。
 匠は次の球に備えながら、和輝の言葉を思い出す。中学時代、自分達は道を別った。仲間と言いながら互いを信じられず、バラバラになった。それでも和輝が仲間を信じようとするのは、如何してだろう。


「匠!」


 目の前で弾けた打球に、匠が飛付く。そのまま勢いよく放った一塁への送球は僅かにずれたが、それでも星原の危なげない捕球に安堵する。多少のコントロールミスなど、星原にとっては何でも無いだろう。
 ぼーっとすんな。気合い入れろ。あいつが来るぞ。試合に集中し切れない自分を叱咤する。打者は一巡した。よって次の打席は一番に戻る。蝶名林、皐月。


「お願いします」


 にこり、と。あくまで誠実な高校球児の顔付で、決して腹の底は読ませない。細められた目に何が映っているのか、匠には解らない。
 そして、その初球が放たれた。後を追うように響いた声は悲鳴に程近かった。


「醍醐!」


 耳を塞ぎたくなるような鈍い音が、湿気を帯びたグラウンドを這いずった。
 ポジションすら投げ出して、一番にマウンドに駆け寄った小さな少年を、匠は茫然と見ていた。
 周囲の喧騒がまるで嘘のように、匠だけが切り取られたような静寂の中にいた。忙しなく動いている筈の世界がスローモーションに見える。それでも和輝の叫びが匠を現実に引き戻した。


「醍醐!」


 ぽたり。目を焼くような鮮やかな赤がグラウンドに零れて落ちた。
 駆け付ける救護員と審判、晴海ナイン。二塁上で皐月が笑ったのが見えた。
 初球のストレートを真っ直ぐに打ち返した。強烈なライナーだった。投げた直後に体制を崩していた醍醐の、帽子が弾け飛んだ。追い駆けるような和輝の声が、何が起こったかを知らせている。
 担架に乗せられる醍醐が、何時もの騒がしさを見せずに、呻くように何か言った。和輝はその手を強く握っている。遅れて駆け付けた匠にその声は聞こえなかった。
 選手の負傷退場。晴海高校には、初めてのことだった。
 よもや、こんなに早くエースが登板するとは思わなかった。ベンチから走って来た夏川を加え、晴海高校はマウンドで輪になった。


「……武蔵商業は」


 ぽつりと、藤が言った。


「これまでの試合で、必ず怪我人を出してる」


 どよめく仲間の中で、匠は隣の和輝に意識を向けた。
 怒っているのか、嘆いているのか。微かに息を呑む気配がして、和輝は無言だった。キャプテンの声で再びグラウンドに散って行く仲間の中で、マウンドに残った和輝が夏川に言った。


「絶対に、潰されるなよ」


 野球において、バスケットのファウルというものは無い。例え打者が故意に投手を狙って怪我をさせたからと言って、反則退場になるということはない。それが故意に行ったものか如何かなどは本人にしか解らないからだ。
 夏川は俯いた和輝の頭を軽く撫でた。


「潰される筈無いだろ」
「うん。……皐月は俺が、捕まえる」


 顔を上げた和輝の目は、何時もと同じ光に満ちていた。夏川は少しだけ、笑った。
 この一年、夏川は和輝と強い人間だと思ったし、その反面、脆い人間だとも思った。けれど、それでいいのだと夏川は思う。


「ワンナウトー!」


 ワンナウト・ランナー二塁。結局、また皐月は塁上にいる。
 和輝とて、武蔵商業の噂を知らなかった訳じゃない。それでも続く怪我が故意に引き起こされているだなんて誰が信じるだろう。ましてや、それが嘗てのチームメイトの仕業だったなど、誰に言えるだろう。醍醐の怪我を招いたのは本人の油断でも、蓮見の配球でも、皐月の作戦でもない。解っていて対策しなかった和輝の甘さだ。
 でも、もう、関係無い。


「皐月ィ!」


 試合中ということも忘れて、和輝は声を上げた。次の打者へと動き出していた試合が、動きを止める。
 まるで世界に目の前の少年しか存在していないとでも言うように、和輝は皐月を見据えて言った。


「来いよ……!」


 皐月が、息を逃がすように笑った。


「お前に止められるのかよ」
「止める。お前の、元キャプテンとして」


 三塁。和輝は身構える。
 皐月は三塁に止まらない。バントでもホームイン出来るだけの足と技術がある。それだけしかないと、体格に恵まれなかった皐月が中学時代から磨いて来た武器だ。それでも、止めなければいけない。
 二番打者がバットを短く構えた。バントを狙うことなど解り切っている。初球、ストレート。
 当てられる筈のバットは制止したまま、バッターは身動き一つ出来なかった。耳元を通り過ぎた剛球が唸りを上げてミットに突き刺さる。


「トーライ!」


 グラウンドに溢れるどよめきを一掃する剛速球。


「トーライ!」


 モーションに入っても皐月が動き出せない。それだけの、球だ。


「トーライ! バッターアウッ!」


 三球三振――。
 立ち尽くす皐月を一瞥し、夏川が鼻を鳴らす。
 どれだけ足が速くても、どれだけ走塁技術に優れていても、一人で本塁には帰れない。ならば、続く打者を三振に打ち取ればいいだけの話だ。夏川は苦笑を浮かべる和輝を見た。
 心配する必要すらねーよ。仏頂面の夏川が、そう言ったような気がした。

2012.7.9