以降、試合は両者無得点のまま七回を終えた。一点差を追い掛ける晴海高校は、バッター一番に戻る。
 バッター一番、蜂谷和輝。見据える先は投手、三年、古澤隆太。まるで試合のことなど何も感じていないような無表情を忌々しく思いながら、読み取れないその鉄面皮の内心を想像しようとした。
 ワインドアップ。190cm近い巨体が伸び上がる様はそれだけで恐ろしい。更に、長い腕が撓って振り切られる。
 乾いた音が響いた。ストライク。沸き上がる声援と、グラウンドからの励まし。目の前にいる少年は、自分以上に大勢の思いを背負って此処に立っている。この重い球は恵まれた体格が生み出しているのではない。だけど、それでも。
 振り切られた腕が放つ直球。和輝もバットを振り切った。が、掠りもしない。ストライク。
 追い詰められたツーストライクに、祈りにも似た叫びが彼方此方から飛び交っている。けれど、それでも和輝の耳に届くのは馴染んだ仲間の声だけだ。

 打てよ。
 負けるなよ。
 諦めるなよ。

 そんなこと、言われるまでもない。
 三球目、直球勝負。和輝の目はボールと同時にグラウンドを捉え、守備の隙間を見付けている。
 振り切られたバットが悲鳴を上げた。伝わった振動が、右腕に響き和輝は顔を歪ませる。投げ捨てるようにバットを離し、和輝は駆け抜けた。打球は剛球に押され飛距離が出ず、狙った筈のライナーではなくボテボテのゴロになった。ピッチャーがスッテプし、拾い上げる。
 ピッチャーの右腕が唸った。同時に、一塁に砂埃が舞った。


「セーフ!」


 勢いよく転がったランナーに、応援団の太鼓が激しく打ち鳴らされていた。土塗れのまま和輝が顔を上げる。
 セーフ。久しぶりのランナーに、和輝は口の中で呟いて小さくガッツポーズをした。
 二番打者、箕輪が打席に現れる。僅かに強張った表情に緊張感が滲むが、箕輪は和輝を見ると少しだけ笑って肩を落とした。
 投手、古澤がセットポジションに入る。その刹那、大きくリードを取っていた和輝と視線が重なった。


「――ッ」


 一塁に引き返した和輝の頭上で、乾いた音が鳴った。帽子を掠めた白球に、心臓が激しく拍動する。
 セーフ。審判が告げても和輝は起き上がるまで僅かに間を置かざるを得なかった。
 一塁手の返球と同時に、漸く和輝は立ち上がった。牽制に不慣れという訳ではない。ただ、こんな至近距離に投げられたのは初めてだ。投手に目を向ければ、帽子を脱いで謝罪するような仕草を見せたが、その表情は相変わらずの鉄面皮だ。三角ベースならまだしも、硬式野球で投げ当てなどされてしまえば怪我は必然だ。
 事故か、故意か。それがどちらであっても。


(怖くなんか、ない)


 一瞬、顔面を蒼白にした箕輪へ向けて、笑ってやる。こんなもの怖くも何ともない。
 匠には口が酸っぱくなる程言われて来たが、自己犠牲なんて今時流行らない。だけどそれでも、仲間が危険な目に遭うくらいなら、自分が矢面に立つ方がマシだ。
 箕輪の目付きが変わった。古澤が構える。和輝はリードを広げたまま、その背中とバッターボックスを見詰めている。
 腕が振り上げられた。GO! 一塁のコーチャーは蓮見だ。相方が潰されて悔しいだろう。それでも恨み言一つ零さずに、険しい目付きで此処に立っている。蓮見の声を、言葉を無駄にしたくない。
 乾いた音がした。ストライク。和輝は二塁に滑り込んでいる。
 盗塁は皐月の専売特許ではない。晴海高校にも、特攻隊長として幾多の試合で勝利への道を切り開いて来た選手がいる。走塁技術と経験では皐月に敵わなくても、鍛え上げた走力と瞬時の状況判断では和輝も負けていない。
 セットアップ。古澤が振り上げたと同時に和輝は二塁を蹴った。盗塁を警戒していただろうボールは外角に外れ、すぐさま鋭い返球が三塁に突き刺さった。


「セーフ!」


 ノーアウト・ランナー三塁。此処までは和輝とて予想通りだ。皐月にしても和輝にしても三塁まで進むのは難しくない。仲間の力が必要だとしたら、この先だ。
 打ってくれ。祈るように、それでもプレッシャーを掛けまいと薄ら笑いを浮かべる和輝に、箕輪が苦笑を返した。
 けれど、箕輪は続かなかった。バットの手前で変化したボールを、根本に詰まらせて打球がピッチャー頭上に上がる。アウト。転がればまだしも、内野フライでは本塁に辿り付けない。
 ベンチに戻って行く箕輪はヘルメットのツバを下げ、和輝に目を向けない。気にするな、か。ドンマイ、か。和輝は箕輪に掛ける言葉を考えていた。
 三番は藤だ。バッターボックスに晴海高校のキャプテンが現れる。入れ違いにベンチに戻った箕輪は、出て行こうとする匠を呼び止めた。振り返った匠は怪訝そうに眉を寄せている。


「俺、お前等の言う二年前の引退試合、解ったよ」


 箕輪が何を言いたいのか、匠は足を止める。少なくとも、匠は自分の引退試合を箕輪に話したことは無かった。そうすれば和輝が、箕輪に話したのだろう。どのように話したのか、匠は箕輪の言葉よりも和輝の話が気になった。
 蟠りが全て無くなった訳では無い。匠は、そう思っている。箕輪が言った。


「今、バッターボックスに立って、解った。あいつは」


 箕輪は目を細めた。三塁上にいる和輝は普段と変わらず、藤の打球に備えて何時でも走り出せるようにリードしている。
 真剣勝負において、勝敗が如何であれ、それを否定することは間違っている。敵の成功を羨んだり、仲間の失敗を責めたりするのは弱者のすることだ。けれど。


「あいつは、仲間を責めない」


 はっきりと答えた箕輪の目には何も映っていない。怒りも悲しみも喜びもない。ただ、其処にある現実を見詰めている。
 匠も、そんなことは解り切っていた。和輝とは幾度と無く喧嘩した。殆どが他愛の無い、じゃれ合いにも似た喧嘩だ。それは、和輝が我を忘れて思いのままに相手を責めることをしないからだ。本音でぶつかっていない訳ではない。でも、根っこの部分は何時でも冷静だ。
 和輝は優しい。故に冷たい。それは、生まれた時から一緒に過ごした匠が思う、和輝の最大の短所だ。
 ストライク。流れていく試合が、思考から切り離される。匠は黙ったままだった。箕輪は三塁の和輝を見据えている。


「お前等の引退試合、和輝は全打席敬遠だったんだろ。何も出来ないで蚊帳の外のまま負けたのに、和輝は一言もお前等を責めなくて、泣き顔一つ見せなかったんだな」
「……和輝から聞いたのか?」
「いいや、予想。まあ、全打席敬遠だったとは聞いてたけどね」


 そこで箕輪は溜息を一つ零した。


「あいつ、本当に自分勝手だな。自分は責めて欲しい癖に、仲間のことは一切責めないんだろ。期待した結果、自分の思った通りにならなかったからって相手を責めちゃいけない。よく、和輝が言ってたけど、やっと意味が解ったよ」


 匠は目を伏せた。勝手なのは果たして、和輝か自分達か。期待をして、その通りにならなかったからといって責めたりしない和輝か。期待させて、裏切って責めて欲しかった自分達か。恐らくどちらも正解でどちらも間違いだった。
 責めて欲しかった。お前等、何やってんだよ。使えねーな。しっかりしろよ。これじゃ俺が打っても意味無いだろ。お前が返してくれなきゃ如何にもならないだろう。――そう、言って欲しかった。和輝は結局、一度として仲間を責めなかった。頼ることもしなかった。ただ、励ますだけだった。
 苦笑いを浮かべ、匠は止まっていた足を踏み出した。部外者の箕輪にだって解ることが、如何して和輝には解らないのだろう。和輝が仲間を大切に思っているのは痛い程解るけれど、大切にする余り、距離を置こうとする。その優しさが、冷たく感じられるのだ。


「箕輪、サンキュー」


 振り返って匠が笑った。言われるまでも無いと思いながら、ずっと迷っていた。自分の抱える思いが正解か不正解か、ずっと悩んでいた。だけど、もういい。遠慮ばかりしている幼馴染相手に、此方まで遠慮していたら何時までも平行線だ。


「試合が終わったら、あいつのこと、ぶん殴ってやるよ」
「……そーしてくれ」


 珍しく苛立っていたような箕輪は、すっかり毒気抜かれたように力無く笑っていた。
 箕輪は優しいと、和輝は以前言った。それは真実だと思う。世界には才能溢れる人間も、存在が奇跡のような人間もいる。だけどもし、本当の意味で人を救える人間がいるとしたら、それはきっと箕輪のような人だろうと思う。
 ストライク。藤の放った鋭いライナーは着地する寸前にショートに掬い上げられた。通常ならヒットになり得た打球を捕まえたのはファインプレーだ。良い当たりをこんな形で潰されるのには苛立つけれど、匠は仏頂面のままバッターボックスに立つ。ツーアウト・ランナー三塁。七回裏の攻撃で、一点差。試合は幾らでも引っ繰り返せる。そう思うけれど、確信は持てなかった。和輝がランナーでそう感じるのは二年ぶりだった。


『バッター四番、白崎君』


 右手にバットを掲げれば、観客の悲鳴にも似た歓声が沸き上がる。三塁で和輝が口角を釣り上げていた。
 古澤は無表情だ。馴染の投手を思い出させられて気分は最悪だ。恵まれた体格も、愛嬌無しの仏頂面も、切れ長な鋭い瞳もそっくりだ。ただ一つ違うのは、沸き上がるような熱が其処に無いということだ。
 和輝がリードを広げる。三塁コーチャーの雨宮がリードを促す。守備は相変わらずの前進守備。バントするとでも思うのか。それとも、内野を抜ける筈が無いと嘗められてるのか。どちらにしても不愉快だ。
 嘗めるな。グリップを確かめるように指先で撫でる。口元から除く舌先が、乾いた唇を舐めた。その意味に気付いたのはたった一人だ。三塁の和輝は匠の弧を描いた口元に、笑みを返す。変わらない幼馴染のその癖を見たのは久しぶりだ。
 中学時代、シニアリーグでのことだ。投手の暴投により、ヘルメットの上からとは言え頭部にデッドボールを受けた和輝が倒れた。流血と共に下げられたベンチで見た、匠の横顔。赤い舌先が鋭い犬歯を覗かせ、乾いた唇を舐める。


(遅ぇよ、匠)


 待ち草臥れてしまった。
 初球。古澤の腕が撓り、唸りを上げて白球が匠に迫った。顔面に襲い掛かるようなギリギリのボール球を、匠は不敵な笑みを浮かべたまま、器用に腕を畳んで打ち返した。鋭い高音に打球の行方が消え失せる。
 ジャッ。土を跳ねさせた打球はニ遊間をぶち抜いた。和輝が三塁を飛び出す。
 レフトからの一直線の送球は本塁に向っている。和輝は滑り込んだ。巻き上がる土と砂埃の中でキャッチャーの大きな足が、勢いよく踏み出された。声にならない声を発し、するりとキャッチャーを避けた和輝の掌がホームベースを叩いた。


「セーフ!」


 七回裏、漸く初得点。四番の打ち上げた反撃の狼煙に沸き立つ観客席。声援を送り続けたベンチでは土塗れの和輝を、諸手を上げて受け入れる仲間が待っている。
 大きく息を逃がし、和輝は立ち上がったと同時に膝に手を突いた。頬を滴り落ちるのは冷や汗だ。顎に伝い、落下する。
 ホームベースを狙ったその腕を、踏み潰されるところだった。故意か事故かは解らないけれど、避けられなかったら今頃此処にはいられなかった。一年前の傷害事件を思い出し、ぞわりと悪寒が走る。それでも、ベンチから呼び掛ける仲間が、過去に回帰しそうな思考を繋ぎ止めてくれる。
 苦々しげなキャッチャーに、和輝は振り返った。


「俺を潰したきゃ、もっと本気で掛かって来いよ」


 わざとらしく挑発するように、和輝は不敵に笑った。
 ラフプレーを卑怯だなんて言うつもりは無い。どんなスポーツにも怪我は付き物だ。相手のプレイスタイルを否定する前に、自分のプレイをもっと磨くべきだ。プレイヤーなら主義主張はプレイで示さなければいけない。


「叩き潰そうとするなら、叩き潰される覚悟をしろ」


 尤も、目には目をなんて時代遅れの法律を倣うつもりは無い。此方は正々堂々と、正攻法で叩き潰すだけのことだ。




17.迷子の僕に<後編2>




 ツーアウト・ランナー一塁。晴海高校の攻撃はそれ以上続かなかった。しかし、匠の放ったヒットは晴海高校の反撃の狼煙となってベンチに活気を出し、観客席を大いに沸かせた。得点に至らなければ意味が無いなんて、誰が言えるだろう。
 八回は両校共に無得点。そして迎える最終回、同点延長も有り得る状況で、その少年がバッターボックスに立つと同時に晴海高校に肌を刺すような緊張感が走った。打者は一番。最後にして最高の打順。
 蝶名林皐月が、バッターボックスで笑う。その視線はマウンドではない。合わさったまま外そうともしないで、和輝は皐月を見詰めていた。中学時代のチームメイト。嘗ての仲間。今は敵だと割り切れる訳じゃない。けれど、今の皐月を止めるのは自分しかいない。他の誰にも譲らない。
 初球。マウンドに視線を戻した皐月は、唸るような剛速球を身動き一つせずに見送った。


「トーライッ」


 直球。身動き一つしない皐月は薄ら笑いを浮かべている。
 夏川は無表情だ。醍醐に比べ中々のポーカーフェイスだが、親しい間柄の仲間達にはその沸き上がるような苛立ちが解る。それはそうだろう。まるでやる気の感じられない皐月は、薄ら笑いを浮かべて相手にもしないような態度を崩さない。わざとらしい皐月の大欠伸を、和輝と匠だけが理解している。
 相変わらずだな、と二人は思う。バッターボックスは皐月の舞台。敵を欺く為の演技は解っていても冷静ではいられない。相手を挑発することもあれば、怪我や病気を真似ることもある。仲間の中にはそのやり方を否定する者もいたけれど、和輝は同じ打者として、皐月の出塁への執着は尊敬に値すると思っていた。そして、それを誇らしいとも思っていた。
 仲間を道具と思うとか、そんな難しいことじゃない。皐月が出塁するのは。
 カツン、と微かな音と共に打球がピッチャー正面に転がって落ちる。絶妙な力加減はキャッチャーとピッチャーの間で動きを止めた。それすら予想していたのかは解らない。拾い上げた夏川が振り返った先に皐月はいない。二塁上で動きを止めた皐月が、相変わらずへらへらと笑っていた。ただのバントが二塁打になるのは皐月が天才なのでもなく、妙な能力を持っている訳でもない。ただ、只管に足が速く、走塁技術が並外れているということだ。その技術を自分のものにする為に、皐月はどれ程、その身を削ったのだろう。
 皐月の努力を知っている。皐月の涙を知っている。皐月の叫びを知っている。――だから、此処で止める。
 二番打者が現れる。皐月は確実に盗塁するだろう。夏川は癖が無い訳でなく、和輝に言わせれば盗塁し放題のフォームだ。皐月がそのモーションを読めない筈が無い。そんなこと、如何だっていい。
 夏川は足元を踏み締める。投手板。此処に触れている者が投手だ。マウンドに立つ前に、和輝と匠が真っ直ぐな目をして言った。
 良いからお前は前だけ見てろ。皐月は俺達が止める。
 彼等の因縁が如何いうものなのかは知らないが、任せろとはっきり言った彼等の言葉は信頼に値する。夏川は腕を振り上げた。
 クイックモーションでは無い。ランナーなど頭に無いというように振り上げられた腕に、皐月は当然ながら二塁を飛び出して三塁に滑り込んだ。ストライク、遅れて審判の声が響いた。
 ノーアウト。夏川は、どんなにランナーが優れていても打者を三振に抑えれば意味が無いと思っている。同時に、何時でも完全に打者を抑えるだなんて断言出来ないことも解っている。だから、仲間がいるのだ。自分に出来ないことは仲間がしてくれる。だから、自分は仲間の出来ないことをすればいい。
 皐月は三塁上からリードすることもなく、片足に体重を預けたまま薄ら笑いを浮かべている。
 なあ、和輝。試合中ということも御構い無しに、皐月は和輝を呼んだ。


「俺のこと、軽蔑するか?」


 へらりと放たれた言葉もまた、相手の心を乱す為の一つの手段なのだろう。三塁側に寄っていたショートの匠が苦々しく口元を歪める。
 言いたいこともあるだろう。でも、今は黙って置け。皐月の思い通りになってしまう。匠が内心で祈るような気持ちでいれば、全ての期待と予測を裏切るように和輝は平然と言い返した。


「如何して?」


 ぴたりと、皐月は動きを止めた。和輝の瞳が揺るがない。


「皐月の何を軽蔑すればいいんだよ。俺にとっては今も昔も皐月は皐月だ。何も、変わってない」


 報われない努力を嘆いた皐月も、野球を止めようと泣いた皐月も、独りきりで練習していた皐月も、全部知っている。ボロボロの掌も、疲弊して立ち上がることすら困難だった姿も、汗と一緒に拭い去った涙も全部解っている。周りが何を言っても、和輝にとって皐月は変わらない掛け替えのない友達だ。


「何も変わってないんだよ、皐月」


 視線は真っ直ぐバッターボックスを見詰めている。それでも向けられる意識の重さは、中学時代と何も変わらない。
 出塁する為に手段を択ばないのは、仲間が必ず還してくれると信じているからだ。それは偏に、当時の四番、和輝への信頼に他ならなかった。何時でも本塁に還してくれる和輝を、皐月が信頼するのは当然だった。何時でも、手を引いて、光の元へ連れて行ってくれる。


――なら、付いて来い!
  俺が可能性を見せてやる!



 あの頃から、何も変わっていない――。
 立ち尽くす皐月に、和輝は視線を向けない。
 ツーストライク。打者が追い詰められた。夏川の放った直球が、鋭くミットに突き刺さる。ストライクを審判が高々に宣告した。三球三振。直球勝負を挑んだ夏川はポーカーフェイスを崩して僅かに口元を歪めていた。
 バッターボックスに三番打者。茫然としていた皐月は咳払いを一つして、身を低く構えた。広げられたリード。和輝は三塁上でバッターを見据えている。夏川には牽制しないでくれと伝えてある。ただし、蓮見にはコースを要求している。
 打ち取って欲しい訳じゃない。打たせて欲しい。皐月を捕まえる為に。
 三番の放った打球は三遊間に弾け飛んだ。グラウンドを抉った打球が跳ね上がる寸前、滑り込むように匠が飛び付き、皐月が三塁を蹴った。匠の視界に、揺れる陽炎と駆け抜ける皐月の姿が映る。ダイレクトキャッチしたその手を振り上げた瞬間にはもう、皐月は本塁を奪い取っているだろう。
 考えるより早く、呼吸するのと同じように身体が動いていた。匠の腕は着地と同時に後ろに回された。硬球を受け止めた衝撃に痺れる掌から離れる感触は、確かに、確かに届いた。
 背面からのパス。示し合わす必要すら無く、和輝は左腕を振り切っている。
 皐月は、此処で止める。
 滑り込む皐月、本塁上の蓮見。送球はレーザー光線のように白い閃光となって内野を貫いた。七回裏を思わせる滑り込みに誰もが皐月の走塁技術に舌を巻いたことだろう。だが、それ以上に放たれた送球は鋭かった。
 審判が声を上げた。


「――アウトッ!」


 球場を割れんばかりの歓声が包み込む。沸き上がる歓声の中で、滑り込んだ皐月だけが驚愕に目を丸め動けずにいた。
 止められるとは、思わなかったのだろう。事実、これまで武蔵商業の試合で皐月は打率十割を保って来た。幾度と無く勝利へ導いた最速の一番打者が、止められたのだ。グラウンドでは匠が座り込んだまま、和輝は投げ切った体勢のまま、その姿を見詰めていた。


「はは、」


 乾いた笑いが、漏れた。それが誰のものかすら解らず、審判は視線を泳がせた。
 本塁。皐月は、額に手を置いて笑っている。


「はははは」


 笑ってなどいないだろう。それでもクツクツと喉を鳴らして去って行く皐月の後姿を和輝はじっと見詰めていた。
 その後、武蔵商業の攻撃は途切れて崩れ落ちた。両者得点に至らず最終回、膠着した試合が動き出したのは九回裏、晴海高校の攻撃。
 長く沈黙を守っていた五番、千葉のバットが一閃した。断末魔のような高音がグラウンドに鳴り響き、コーチャーがぐるりと腕を回した。一瞬の沈黙。そして、続いた悲鳴のような歓声。腕を突き上げた千葉がダイヤモンドを駆け抜ける。
 ホームラン。最終回のこの場面で、引導を渡すかのような一打に惜しみない拍手が降り注ぐ。
 ベンチで和輝は呼吸を忘れて見惚れて、匠は浮かべた笑みを隠すように目を伏せ、皐月はグラウンドで茫然と立ち尽くす。嘗ては同じ場所に立った仲間だった。何が自分達を変えたのだろう。定義付けすることは、匠には出来なかった。
 ホームインする千葉に駆け寄る晴海ナイン。手荒な歓迎に苦笑いしながら千葉がベンチに戻る。勝利の喜びに浸る間もなく整列に向かう。たった一試合の間にやつれた相手の顔を見ても、晴海高校は何も言わず表情も変えない。それは相手に対する礼儀だった。


「武蔵商業高校と晴海高校の試合は、一対二を以て晴海高校の勝利! 両校、礼!」
「ありがとうございました!」


 響き渡った選手の声に、敵味方無く賞賛の拍手が送られる。ベンチに引き返す両校は振り返らない。
 皐月は背中に得体の知れない重さを感じながら、上手く動かない足を無心に動かそうとした。脳が痺れて思考出来ない。起こった現実を受け入れられない。視界が白く歪む。呻き声すら上げそうな息苦しさの中、背中を叩かれた。


――皐月


 懐かしい声に呼ばれた気がして振り返る。けれど、其処に和輝はいない。
 三年、古澤が疲れ切った顔で立っている。


「皐月」


 一年の頃から、世話になっている先輩だ。蝶名林という憶え難く呼び難い苗字から、一番素早く皐月と呼ぶようにした先輩だ。幾度と無く呼ばれたその名をもう一度呼び、古澤は変わらぬ仏頂面で言った。


「今まで、ありがとうな」


 礼を言われることなど、何も無い。否定の言葉を紡ぎ出そうとする。
 俺は、あんた達のこと、仲間なんて思ってない。勝つ為の道具だと思っているんですよ。御人好し過ぎますよ。そう思いながら、錆び付いたように動かない口は無言だった。


「お前を止めてくれる人がいて、良かった」


 古澤が、チームメイトが振り返る。三年生主体のチームで、唯一の二年生である皐月を見て、皆が微笑んだ。
 皆、知っていた。上辺で笑いながら、何処か昏い目をした後輩が何を思っていたのか。それを面白く思わないことが無かった訳じゃない。けれど、それ以上に努力する皐月を誰もが知っていた。今の自分に慢心することなく、誰に認められなくても努力を続けた皐月を誰が否定出来るだろう。人一倍ストイックに勝利を目指した後輩を、誰が見捨てられただろう。
 言葉の意味を悟った皐月は鼻を鳴らした。下らない。馬鹿馬鹿しい。――だけど。


――皐月!


 何処かから、懐かしい声が自分を呼んでいる。
 瞼に浮かんだ思い出が滲む。その眩しさに固く目を閉ざせば、古澤が後ろから皐月の頭を乱雑に撫でた。


「泣いてんじゃねーよ」


 泣いてねーよ。
 言い返したいと思いながらも、皐月の喉からは止め処無く嗚咽が漏れている。頬を伝う生温かさを信じられなかった。
 泣いてんじゃねーよ。
 もう一度繰り返された古澤の声は震えていた。皐月が笑う。


「泣いてんじゃねーよ」


 集まる仲間の眩しさに目を細めながら、一言だけ吐き捨てるように零した。

2012.7.13