着衣水泳したように、体中が重い。足枷でも付いているのだろうかと、軋む腕を押さえながら和輝は思う。左肩に食い込む鞄を背負い直そうとすれば、まるで当然のように匠は仏頂面でそれを奪った。
 前だけ向いて先を進む匠は和輝に目を向けない。何を怒っているのだろうと思いながら、日常茶飯事な幼馴染との些細な喧嘩に苦笑いを浮かべる。匠の苛立ちに立ち向かう程、余力は無かった。大きく溜息を零すと、隣に追い付いた箕輪がへらりと笑った。


「匠、怒ってんな」
「うん。まあ、その内、頭冷えるさ」


 釣られるようにへらりと笑う和輝は、匠の苛立ちの理由など解らないし、知ろうともしないのだろう。それだけ、二人は距離が近過ぎる。
 呆れながら箕輪は溜息を漏らす。


「この後、病院行くんだろ?」
「当然」


 訊くまでも無かったな、と箕輪も思う。自分も当然行くつもりだったけれど。
 普段通りの笑顔を浮かべる和輝に、箕輪は冷ややかな目を向ける。泣けばいいのに、と思う。張り付けた笑顔に何の意味があるのだろうと疑問を感じる。それでも、その仮面を外そうとしないチームメイトに箕輪は呆れたように肩を落とす。
 醍醐の見舞いに行くのか。それとも、目覚めることのない高槻に会いに行くのか。箕輪は問い詰めはしなかった。和輝は前者と答え、それ以上何も言わないことが容易く予想出来たからだ。
 試合中の匠との会話を思い出し、切り出すべきか、と箕輪が目を向けた先。和輝は前方をじっと見詰め足を止めていた。
 蝶名林皐月が、泣き腫らした赤い目で此方を見ていた。


「和輝」


 掠れるような声で、皐月が呼んだ。和輝は苦笑し、箕輪に目を向ける。
 先に行っててくれ。追い付くから。そう言って悪戯っぽく笑い、和輝は匠の背中を一瞥する。
 匠には内緒だぜ。胡散臭いウインクがこれほど様になる男を、箕輪は今まで一度だって見たことがない。和輝は小走りに皐月の元へ走って行った。




18.敗者の刑




 会話は無かった。皐月が何処へ向かっているのか和輝には解らなかったが、黙って歩き続ける皐月の歩調は淀みない。行先不明のまま、先程負かした相手にどんな話をすれば正解なのか解らない和輝は、隣の皐月に倣って沈黙を保つ。不思議と居心地は悪くなかった。
 皐月は駅前の、広場で足を止めた。背高のっぽの突き出るような時計台と、溢れ返る自転車の路上駐車。無言で擦れ違う大勢の通行人は老若男女様々だ。中にはあの試合を観ていた人もいるのだろう。茶色のガードレールに皐月が凭れ掛かり、和輝は傍の銀色の柵に座った。
 雑音が、沈黙を塗り潰していく。和輝は何も言わなかった。昼下がりの街並みは午睡でも始めるかのように微睡み始めた。試合後の心地良い倦怠感は眠気を誘う。いっそこのまま眠ってしまおうか。そんなことを思った時、漸く皐月が口を開いた。


「試合、お疲れ」


 担いだスポーツバッグから、清涼飲料の缶を取り出すと、皐月はそれを投げて寄越す。
 水滴の張り付いた缶は今し方買ったばかり、といった様子だった。サンキュ、と短く返せば皐月も同様に缶を片手にプルタブを持ち上げているところだった。
 空気の抜ける音がした。喉を鳴らしながら勢いよく飲み下す様は実に美味しそうで、清涼飲料も幸せだろうな、と和輝が笑う。
 皐月は口元を乱暴に拭うと悪戯っぽく笑った。


「まさか、負けると思わなかった。しかも、匠相手なんて悔しいぜ」
「お前、本当に匠のことばっかりだなぁ」


 和輝が何処か嬉しそうに笑う。理解出来なかった皐月がきょとんとしても、和輝は変わらず微笑み続けるだけだ。
 皐月が匠を嫌っていることは周知の事実だ。まともな会話すら殆どしたことがない。話題にも出したくない。――それでも、和輝には違うものが見えていた。


「二人して、ウザったいくらい張り合って、良いライバルだったな」


 ライバル。その言葉を口の中で繰り返し、皐月は茫然とする。
 そう思うのか。目の前の少年は、自分達をそう評価するのか。ただ仲が悪かったのではないと、嫌っていたのではないと、そう思うのか。言葉を失った皐月に、和輝は言った。


「お前は仲間のこと道具だとか言ってたけど……、俺はそう思わないよ」


 和輝が否定の言葉を吐くことは解っていた。皐月が苦笑いすると、和輝は続けた。


「だって、普通、道具と張り合ったりしない」


 言葉の意味を追い掛ける皐月は、耳を疑う。
 仲間を道具という価値観を否定するのではない。皐月自身が本心でそう思っていなかったと、主張するのだ。和輝が何処か嬉しそうなのは何故だろう。皐月は解らなかった。
 二年越しに会った友人は、何も変わらない。変わる筈が無かった。皐月は、目を伏せて口元を歪ませる。
 自分よりも小さな少年は、今も昔もヒーローのままだ。思わず皐月は掌を翳し、目を細めた。其処に太陽でもあるかのように、眩し過ぎて直視することが出来ない。皐月にとって和輝は、何時だって光で、道標だった。


――何も変わってないんだよ、皐月


 あの言葉に嘘は無い。そう理解し、皐月は胸が軋むような痛みを覚えた。


「引退試合、俺は出られなかったけど。お前はあの試合、全打席敬遠で負けちったのに」


 一言一言を噛み締めるように吐き出す皐月を、和輝は急かすことなく待っている。
 少し離れた街路樹の影、二人分の鞄を背負った少年が立っている。皐月と和輝に悟られないように息を殺しながら、その会話に耳を欹てる。匠だった。


「お前は文句の一つも、言わなかった」


 皐月の澄んだ瞳が見詰める。和輝は苦笑いをするばかりだった。


「文句も言わなかったし、涙も見せなかった。悔しいとも、悲しいとも、ムカつくとも、何も、」


 言わなかった。皐月の声は、傍を通過した乗用車のタイヤに掻き消された。それでも確かに届いた声無き言葉に、和輝は閉ざしていた口を漸く開く。


「お前等、俺を馬鹿にし過ぎ」


 呆れたように、溜息交じりに言った和輝の眉間には皺が寄っている。普段から笑顔を絶やさない和輝には珍しい、険しいその表情は本当に不快を感じているのだろう。皐月は言葉の真意を探ろうとするが、解らなかった。
 和輝は腕を組み、小首を傾げる。何で解んねーんだろうな。やれやれ、と和輝が言う。


「真剣勝負の結果、勝敗が如何あれ、文句なんて言っても所詮ただの負け犬の遠吠えだろ。悔しくなかった訳じゃねーし、悲しくなかった訳でもねーよ。ただ、俺はキャプテンだったからな。最期くらい格好付けたかったんだよ」


 捲し立てるように言い切った和輝の目は鋭い。


「試合に負けたからって、俺が仲間に八つ当たりするとでも思ったのかよ。自分の立場も忘れて、皆の前で泣きじゃくるとでも思ったのかよ。そこまで馬鹿じゃねーよ」


 珍しく早口になって言う和輝は純粋に苛立っているのだろう。皐月は瞠目する。
 和輝の言葉は正論だ。正論は正解ではない。それは、多くの人が理解出来ても実行することが難しいからだ。感情のある人間に正論を押し付けても受け入れられなければ拒絶される。そのくらい、解るだろう。皐月は眉を寄せた。
 和輝はふーっと息を吐き出し、ぴんと伸ばしていた背を丸める。


「……まあ、そういうところが、皆の癇に障るんだろーな」


 あの頃の匠が、青樹が、赤嶺が何に怒りを感じ、何に悲しみを覚え、何を思って離れて行ったのかなんてもう解っている。
 何を求めていたのかだって、解っている。


「あの試合の後、皆は頼って欲しかったんだよな」


 悔しい。ただ、一言でもそう零せば良かった。堪えていた涙を一粒でも、正直に零してしまえば良かった。仲間に迷惑を掛けたくない、仲間に心配させたくない、そういう他人行儀な正論が、一番仲間を傷付けた。
 街路樹の影、匠は黙って和輝の言葉を聞いている。
 和輝は皐月を見て言った。


「勝つ為には仲間が必要だよ。でも、本当に必要なのは、負けた時なんじゃねーかな」


 敗北して全てを失くして、立ち上がれない程に疲弊して。そういう時にこそ、励まし支え合える仲間が必要なんだろう。
 二年前、自分は間違った。肝心な時に頼ったのは親友でも幼馴染でも仲間でもなく、兄だった。仲間の誰にも知られぬように声を張り上げて泣きじゃくった在りし日の自分を思い出し、和輝は苦笑いする他無かった。


「皐月が、匠達のこと嫌いになったのって、その後だろ」


 大凡、見当は付いていたのだ。和輝は困ったように笑う。
 全打席敬遠。和輝にとっては痛い思い出だ。そうして負けて、仲間は皆、和輝から離れて行った。和輝の非を知らない皐月は、一方的な匠達を責めただろう。


「あの頃は、皆、間違ってたんだよ。離れて行ったのはお互い様だ。俺も、あいつ等を避けてた。あの情けない試合の後で、合わす顔が無かったからな」


 過去を後悔するのではなく、他愛の無い失敗を思い出すように、和輝は苦笑する。
 和輝は後悔などしていない。現状に満足している。皐月はそれを悟り、息を吐くように笑った。


「……全部、終わったことか」
「そうだよ」


 すぐさま切り返した和輝に、皐月は瞠目する。迷いの無い真っ直ぐな目は変わらない。
 和輝は柵から勢い良く立ち上がると、元来た道を辿ろうと爪先を向けた。進む先を提示しながら、振り向いた和輝が笑う。


「終わったのは事実。仲間じゃなくなったのも事実。でも、友達には変わりねーよ」


 そうだろ?
 そう言って、笑った和輝が輝いて見えた。眩しくて直視出来ない。目を細める皐月に、じゃあな、と短く告げて和輝は歩き出す。振り返ることの無い小さな背中は迷いなく進んで行く。それは嘗て見た、揺るぎないキャプテンの背中だった。
 残された皐月は、胸の奥に残る奇妙な温かさに込み上げる笑いに額を押さえた。


「……おい、匠」


 街路樹の影に隠れたままの匠に向けて、皐月が呼び掛ける。気付かれていたとは思わなかった匠だが、呼び掛けに応えるように姿を晒せば皐月は薄ら笑いを浮かべていた。


「盗み聞きは悪趣味だろ。こそこそしやがって、胸糞悪ィな」
「お前が女々しく昔の話なんざ始めなけりゃ、最初から出て行ったよ」


 不満げに鼻を鳴らし、匠は担いだ二人分の鞄を背負い直す。それが誰の物か悟り、皐月は目を細めた。


「相変わらず、お前は和輝の金魚の糞だな」
「お前に言われたくねーよ。大体、お前、和輝のこと好き過ぎて気持ち悪ィんだよ」


 呆れたように匠が言えば、皐月は笑みを深くする。


「当たり前だろ。和輝は俺の、たった一つの光だからな」


 その意味を、匠は知っている。
 誰にも認められず、独り消えようとした皐月を見付けて手を引いたのは和輝だ。幾ら走塁技術に優れていても一人では得点出来ない。そんな皐月をいつも本塁へ還していたのも和輝だ。何時だって、当たり前のように仲間の元へ帰してくれたのは、和輝だった。
 皐月は持たれていたガードレールから起き上がると不敵に笑う。


「幼馴染だからって、和輝の隣にいるお前が大嫌いだよ。一年前に和輝が起こした傷害事件、俺は信じてない。でも、傷付いたのは事実だろ。俺が傍にいたら、何を犠牲にしても守ってやったぜ?」
「……守ってもらうとか、そんなタマじゃねーよ」
「そんな話じゃねーよ。俺が言いたいのは、これ以上、あいつを傷付けるなってことだ」


 それまでの笑みを消し去って、皐月は凍り付くような冷たい目をした。


「もう二度と、あいつを、独りにするな」


 匠の返事を聞くことなく、皐月は歩き出していた。駅前の喧騒が遠退く程に冷たい声に、匠も声を出せなかった。
 それでも、返す言葉は決まっていて、皐月もそれを理解している。当たり前だ、言われるまでもない。その言葉はきっと届いている。
 匠が駅に行けば、待ち草臥れたと千葉が和輝の頭に拳骨を落としているところだった。既に姿の無い蓮見と藤は先に病院に向かったとのことだった。携帯には既に、異常なしと報告が入っている。
 和輝同様に拳骨を貰った匠は、電車に揺られながら、いつものように車窓を眺める。試合終了後にあった苛立ちは既に霧散していた。箕輪が仲直りしたんだな、なんて軽口を叩いたが和輝は首を傾げるばかりだった。それでいい。知らなくていい。
 ただ、匠は疑問だった。あの引退試合の後、自分達が何を思ったのかを正確に和輝が把握していたということについてだ。一人で導き出せる答えとも思えなかった。あの迷いの無い口ぶりは恐らくきっと。

 検査だけで終わった醍醐が、先に病院に向かった藤と蓮見と並んで改札で待っていた。
 明日に控えた決勝戦には、流石に出場出来ないとのことだった。悔しそうな醍醐を軽口交じりに箕輪が励ます。蓮見は残念そうではあったが、相棒の無事に安心したようだった。
 決勝戦前日だが、予定は同じだ。練習の為に学校へ帰還する面々の中で和輝だけが別の道を行く。病院に向かうのだ。


「……付いて行ってやれ」


 察した藤が、言った。匠は頷いて走り出す。
 通い慣れた大学病院。受付を済ませた和輝は真っ直ぐにエレベータに向かう。擦れ違う患者がユニホーム姿の和輝を怪訝そうに見遣るが気付いていないようだった。滑り込むように匠も同乗するが、和輝は視線すら向けない。
 それまでの和輝が嘘のように、別人のように静寂を保つその目は虚ろだった。まるでこのエレベータが向かう先が地獄であるかのように、包み込む空気は重く冷たい。それでも進む足を止めようとしない。
 六階。陳腐な音を立ててエレベータが止まる。通い慣れた病室だった。
 白を基調とした個室の中央のベッドもまた、白に呑み込まれている。微かな電子音がその生命を知らせていた。
 埃塗れの状態で病室に入ることは躊躇われたが、和輝は迷いなくベッドの傍まで歩いて行く。仕方なく、匠も入室した。
 死人のような青白い顔だった。言葉にしても、和輝は何も言わないだろう。縁起でもないことを言うな、とも言い返す余裕は無い筈だ。


「高槻先輩」


 掠れるような声が、横たわる青年の名を呼ぶ。栄養摂取を点滴の身に頼った高槻の顔は窶れ、嘗ては太陽の下で共にグラウンドに立った姿も夢のようだ。過ごしたのは半年にも満たない短い間だった。それでも、和輝は高槻が眠りに着いて一年、此処に足を運び続けている。
 過ごした時間は短くても、思い出は強く深く残っている。
 もうじき、一年が経つ。後、二日。


「高槻、先輩」


 骨ばった掌を、和輝の小さな手が掴む。崩れ落ちるように座り込んだ和輝の表情は見えず、匠は掛ける言葉を持たなかった。


「高槻先輩」


 振り絞るような声が、病室に響く。唇を噛み締める和輝の横顔が見え、匠は心臓が軋むような痛みを覚える。
 二度と目覚めない。立ち上がることも、声を聞くことも無い。ただ眠り続けるだけの青年だ。それでも、この場所が和輝にとって唯一、肩の荷を下ろす場所なのに違いなかった。


「高槻先、輩」


 返事は無い。それでも呼び掛ける声は止められない。
 付いて行ってやれ、と。藤の言葉を思い出し、匠は胸が苦しくなった。得体の知れない黒い塊が、胸の中に突っ掛っているようだ。
 此処で自分に出来ることは何も無い。それでも、置いて行くことが出来ない。この弱り切った背中を何度見ればいい。この消え入りそうな声を何回聞けばいい。救いの無い願いが叩き潰される様を、何度知ればいい。誰か、教えてくれ。八方塞の闇の中、誰でもいいから道を提示してくれ。
 皐月の光が、和輝なら。


「明日、決勝戦です」


 俯いていた和輝が言った。


「必ず、甲子園に連れて行きますから」


 立ち上がり、鼻を啜った和輝は微笑んでいた。泣く筈が無いことくらい、解っていたけれど。
 振り向いた和輝は何時もの和輝で、匠は安心すると同時に泣き出したくなる。負けた時にこそ仲間が必要だと和輝は言うけれど、例え勝っても報われない闇の中で、本当に必要なものは何なのだろう。
 仲間がいて、友達がいて、家族がいて、誰も和輝を見捨てない。世界は温かい。同時に、凍り付く程に冷たい。


「この世は冷静な天国なんだよ」


 和輝が言った。
 意味は解らなかった。

2012.7.16