二回表の攻撃を如何にか一失点に抑え、晴海高校は自軍のベンチへと駆けて行く。
 夏川は好調だ。一回裏のファインプレーが無ければ、先取点は晴海高校だった。どの試合に置いても言えることだが、晴海高校は勝つか負けるか解らないギリギリのクロスゲームをする傾向にある。それはスロースターターという性質が含まれている。後半戦に見せる爆発力を前半に出せれば危なげなく勝利出来た試合も少なくは無い筈だった。
 ベンチに着けば、本日はベンチ要員となった醍醐が喧しく出迎えた。誰も落ち込んでなどいないのに、励まそうと空回っている。そういう愚直さを、仲間は嫌いではない。千葉が後頭部を軽く叩けば、醍醐は踏み潰された蛙のような声を上げた。
 二人の他愛の無いやり取りを横目に、和輝は玩具みたいな色のプラスチック性のカップを手に、ウォータージャグのコックを捻る。注がれる半透明の液体は、飲み下せば脳幹が痺れる程に冷え切っていた。蒸し暑さに茹だる頭には丁度良かった。
 二回裏の攻撃が始まる。アナウンスが急かすように、晴海高校の打者を呼び掛ける。五番、千葉はバッターボックスで帽子のツバを抓んで挨拶をしていた。
 暑かった。脳が溶けてしまいそうに。
 何処かから誰かに呼ばれた気がして、和輝は振り返る。其処には一心不乱に千葉へ声援を送る仲間と、データを記録する青葉と、興味も無さげに欠伸をする名ばかり顧問の轟がいるだけだ。何も変わらない。変わる筈が無い。
 ストライク。津波のような声援と、降り注ぐ蝉時雨に混ざる審判の声。陽炎の上るグラウンドと、頼もしい仲間の背中。砂嵐のように霞んだ視界に、足元がぐらつく。


――試合は楽しいか?


 聞こえる筈の無い声を、確かに聞いた気がして和輝は視線を彷徨わせる。当然のことだが、其処に臨んだ人物はいない。
 一年前、この球場で、この対戦相手で、この場所にいた少年。もう、二度と戻らない。
 右腕が疼くように痛んだ。まるで皮膚の下で得体の知れない生き物が骨に齧り付いているようだった。
 光陵学園、延いては見浪翔平は勝利の為には手段を択ばない選手だった。相手の弱味を握り、重箱の隅を突くように、相手の精神的外傷を抉る。昨年は随分と苦しめられた。当時の禁忌だった袴田翔貴と同じプレースタイルの選手を用意して、苦い記憶を呼び起こそうとした。同時に、チームの柱だった高槻智也の亡き弟そっくりの選手を出したこともあった。今の光陵学園が同じ手口を使うとしたら、用意されるのは高槻のそっくりさんだろうか。そして、和輝は冷静に対処し得る自信がまるで無かった。
 もう、一年も前なんだぞ。自分に言い聞かせる。
 グラウンドに上がった打球はピッチャーの頭上だった。ワンナウト。
 苦い顔でベンチに戻る千葉を、またも喧しく醍醐が出迎える。試合に出られない分、体力が有り余っているのだろう。
 じくじくと体の何処かが痛む。右腕か、右肩か、頭か、心か。和輝には解らない。随分と前から、何かが胸の奥につっかえている。それが何だったのか、和輝はもう覚えていなかった。
 晴海高校の攻撃は続かなかった。三者凡退。呆気無く切り上げられた攻撃に肩を落とす必要は無い。それでも下がる士気を食い止めようと鼓舞する藤の言葉に、仲間の瞳に光が宿るのが解った。それでも、和輝は自分の心の中が冷え切っていることを知っていた。
 早く、グラウンドに出たい。日の当たらないベンチにいたら、出口の無い吹き溜まりで風が腐るように、自分もそのまま腐り落ちてしまうような気がした。それはまるで、熟れ過ぎた果実が崩れ落ちるように。
 藤の号令でグラウンドに飛び出す。先頭は和輝だった。傍から見れば試合が待ち遠しくて堪らない子どものような仕草に、違和感を覚える者は皆無だった。そして、それまでの淀んだ気持ちは、吸血鬼が日光で朽ちるように、音も無く消え失せていた。
 三回表、光陵学園の攻撃。下位打線から始まる打順ではあるが、最低でも一番までは回る。すれば次の回は晴海高校としては避けたい見浪との二度目の対戦になる。
 夏川は何時もの仏頂面を崩しはしないけれど、炎天下の中、マウンドに立っているだけで体力を消耗する筈だ。日に焼けた頬から滑り落ちる汗の滴を捉え、和輝は唇を噛み締めた。楽させてやりたいと、切に思う。


「打たせろ!」


 一際大きく上がった声に、思わず隣の匠が肩を跳ねさせた。
 晴海高校とて得点のチャンスが無かった訳ではないのに、今、試合の流れは光陵学園にある。それも絶望的な実力差や戦略等ではない。たった一つのファインプレーだ。
 キャッチャーの蓮見が、和輝を見て頷いた。プロテクターに触れるサインは、夏川へのサインではない。野手、それも内野への指示だ。
 夏川は球威で押していくタイプの投手ではあるが、蓮見は決め球で三振の山を築くよりも打たせて取る堅実な配球を好む。考え方に違いはあれど、根柢は同じ。勝つ為だ。
 八番は左打者だ。内角から逃げて行く変化球に、一瞬戸惑った打者が、それでも目一杯バットを振り切った。バットの先で捉えた打球はふわりとヘリウムガスで膨らんだ風船のようにファウルゾーンに打ち上がる。
 カウントが嵩む。――その刹那。
 明らかなファウルボールに、フェンスを蹴った和輝が大きく伸び上がる。打球は吸い込まれるようにグラブの中へ落下した。


「――アウト!」


 着地した和輝が笑う。
 こんなの、ファインプレーでも何でも無いんだぜ。ベンチの見浪に言うように、不敵な笑みで視線を流す。
 この程度で試合の流れが戻るなら安いものだ。三塁に戻りながら、「ナイピー」と微笑み掛け、夏川は返球する。ばつが悪そうに視線を逸らした夏川が舌打ちした。照れ隠しであることは、明白だった。
 次の打者が現れる。同様に声を出そうとして、和輝は体が軋むような痛みに呻いた。電気が走ったような衝撃は一瞬で通り過ぎたけれど、微かに残る倦怠感は勘違いだったとは思わせてくれない。目聡く気付いた匠は怪訝そうに見遣るが、和輝は無視した。
 何かがおかしい。何処かが痛い。そう思っても口にしない。出来る筈が無かった。




19.ジターバグ<中編>




 其処からの試合展開は異様だった。
 まるでバスケットの試合でも見ているような点と点の取り合い。ラン&ガン。そう例えてしまうくらい、互いの攻撃は拮抗している。
 一点差で追い掛ける晴海が返せば、光陵が突き放す。蝉が僅かな間、命を散らして泣き叫ぶように、グラウンドにいる選手はエラーも厭わず全身全霊のプレーをする。後半を迎え、七回に達する頃には両校それまで感じたことも無い程に疲労していた。
 勝つか負けるか解らないギリギリのクロスゲーム。如何してか、晴海高校と光陵学園の試合は意地と意地のぶつかり合いのような子ども染みた展開になる。誰も手を抜いてなどいない。極度の緊張感の中、全力でプレーする楽しそうな選手に釣られて観客もまた蝉のように声を振り絞る。
 七回表、三番打者がボテボテのゴロ。それでも転がるように滑り込んだ一塁で審判はセーフを告げた。
 沸き立つ応援の中で見浪がバットを掲げた。ホームラン宣言にも見えるその構えに狂喜する観客と、狂ったように叩かれる太鼓の音。爽やかな優男も今では汗に塗れ見る影も無い。――それでも。
 マウンドで夏川が笑う。楽しい。心から、そう思う。厳しい試合展開で、疲労困憊にも関わらず誰もがそう感じていた。和輝はグラウンドを見渡しながら、自分がある筈の無い背中を探していることに気付く。
 高音が響き渡る。打球は二回表を思わせる鋭いライナーとなって三塁、和輝の真正面に襲い掛かった。一瞬の躊躇。反応し切れず打球がグラブの弾かれ零れ落ちた――と、思われた。
 滑り込むように、和輝の零した打球を匠が着地寸前に受け止めた。


「アウト!」


 手の中の白球を確認し、匠がほーっと空気の塊を吐き出す。
 サンキュー。声にせず、和輝が言った。
 続く五番のサードゴロは難無く捌き、5−4−3と併殺。チェンジ。
 ベンチに戻った和輝は、そのまま黙って通路に消えた。ランナーズハイにも似た興奮状態のベンチで、その沈み込んだ様子を寧ろ異常と感じた匠が黙って後を追う。
 薄暗い通路だ。和輝がベンチに戻る度にこの先へ行くことも、知っている。
 ベンチで青葉から氷嚢を貰い、向かう先は男子トイレだ。正方形のタイルの敷き詰められたトイレは古いが、綺麗に掃除されている。静かな空間で、激しい水音だけが何かを掻き消すように騒いでいた。
 それまで入り口から先へ入り込まなかった匠も、意を決したように中へ足を踏み入れた。洗面台に両手を突く和輝は振り返らなかった。正面の鏡は、前髪から滴り落ちる汗の滴と上気した頬を僅かに映していた。
 心配など、死んでもされたくないだろう。
 匠は持って来た氷嚢を押し付けるように、和輝に手渡す。サンキュー。デジャヴのように、和輝は声にせず言った。


「痛いんだ」


 ぽつりと、和輝が言った。それが弱音や泣き言の類だとは思えなかった匠は次の言葉を待った。


「体の何処かが、膿んで行くみたいに、じくじく痛むんだ」
「それは」


 故障した右腕と肩のことだろう。匠は何時までも使われない氷嚢を引っ手繰るようにして、和輝に代わってその肩に押し当ててやる。
 熱かった。氷が驚く早さで溶けて行く。
 限界だな、と思う。醍醐が故障さえしていなければ、こんなに長時間試合になど出させたくなかった。藤に言って交代してもらおうと匠が考えていると、鏡越しに射抜くような鋭い視線が突き刺さった。
 引き下がりはしないだろう。否、下げるという選択は敗北と同義だ。何時だって世界は八方塞の暗闇で、身動き出来ない泥濘だった。
 大きく溜息を吐き出し、匠は思い出したように言った。


「前に、この世は冷静な天国だって言ってただろ。あれ、どういう意味だ」


 作り笑いすら浮かべる余裕の無い和輝が、虚ろな目で答えた。


「どんなに苦しくても、辛くても、この現実以上の世界は無いんだよ」
「……誰の言葉の引用だ」
「高槻先輩」


 解っていたことだ。匠は口を噤む。


「……箕輪がまた、呼びに来ちまうな。帰ろう」


 漸く、和輝が笑った。匠の手をさり気無く払って、氷嚢を持ち変える。
 こんなところで隠れて腕を冷やすのは仲間に心配を掛けたくないということではない。光陵学園に弱味を見せない為だ。それはつまり、和輝は如何あってもこの試合に勝ちたいのだ。高槻との約束を、果たす為に。
 ベンチに戻ると、晴海高校の攻撃は依然として続いていた。仲間へ向けて声援を送るべく、十分にアイシング出来ていない腕を引き摺って和輝もベンチから身を乗り出す。匠も如何にも出来ない状況に溜息を吐きつつ、和輝の隣に並んだ。
 その時だった。



「人殺し!」



 活気に満ちた空気を壊す暴言に、一瞬、試合が凍り付いた。
 顔を上げられない和輝の隣で、匠が目を向ければ観客席から一人の若い女が、フェンスを握って叫んでいた。


「人を自殺に追い込んで置いて、よくも平然とプレー出来るわね!」


 何を。
 匠が目を丸める。


「あんたが、死ねば良かったんだわ!」


 それを今更、何故この場面で訴えるのだ。言葉を失った匠の横で、和輝はグラウンドから視線を動かせなかった。
 明日が、水崎亜矢の命日だからだろうか。一瞬で空気を変えた暴言に球場がざわめき立つ。ぽたり。蒼白な和輝の頬から、汗の滴が一つ零れ落ちた。


「ぐ、」


 呻き声。口を押えた和輝が、一歩後ずさる。
 素早かったのは箕輪だった。暴言から庇うように和輝の前に立つと、その背中を撫でた。
 短い呼吸。吸い込むばかりで吐き出せない。両手で喉を押さえ込んだ和輝がベンチに崩れ落ちる。
 ぐるぐると視界が回るのは、過呼吸故の酸素不足が原因なのか。それとも。
 それまで胸の中につっかえていた得体の知れない何かが零れ落ちてしまいそうで、和輝は必死で口を押えた。ふと上げた視線の先に、慌ただしく気遣う仲間の姿がある。そして最奥で、冷ややかな目を向ける霧生青葉の姿があった。


――裏切り者
――嘘吐き
――偽善者

――人殺し



 それが誰の声で、誰の言葉だったのかすら思い出せない。
 自分は今、何処にいるのだろう。何をしているのだろう。如何すればいい。何をすれば。
 恐慌状態に陥った和輝が蹲る。それまで黙っていた轟が流石に駆け寄るが、それでもグラウンドには暴言が投げ続けられる。女の後ろに警備員が迫るのも構わず、罵倒が続く。
 匠が、躊躇する。言い返すべきか、和輝の傍にいるべきか。
 その一瞬の逡巡。その刹那、グラブを嵌めた少年が酷い剣幕で捲し立てる女の前に躍り出る。


「うるせーんだよ」


 空気が凍り付く。見浪翔平は、冷め切った胡乱な眼差しで上方にいる女を、見下すように睨む。


「倒産寸前のマスコミ風情が、下らねー茶々入れしてんじゃねーよ」


 マスコミ風情。その言葉で、匠は理解する。
 若い女は水崎亜矢の関係者ではない。一年前の事件を掘り起こして話題にしようとする、ハイエナのようなマスコミの一人だ。こんな下劣な遣り方で、こんな場所で実行する程度には性根が腐っている。
 警備員に連行されようとする女が、鬼の形相で見浪とベンチ奥の和輝を交互に睨む。捨て身の戦法だろう。女が更に余計なことを言う前に和輝の耳を塞いでしまいたかった。
 けれど。


「高槻君だって、お前を恨んでいるわ!」


 それは死刑宣告だ。蹲っていた和輝が大きく震えた。
 口元を押さえた和輝が、覚束無い足取りで立ち上がる。金切声で捲し立てる女の言葉は形を成していない。転がるように、壁に衝突しながら和輝が通路の奥へ走り出す。


「和輝!」


 真っ先に追い掛けた匠の背後で、グラウンドから見浪が怒声を放っている。
 うるせー、黙ってろ、関係無ぇだろ、知ったような口を利くな。敵の筈が、自分のことのように見浪が言い返していた。
 目的地すら解らないまま和輝は疾走し、曲がり角の壁に衝突し、そのままずるずると崩れ落ちた。


「――い」


 噛み締めるような声で、和輝が言った。聞き取れなくても、それが誰を呼ぶものなのか、匠には痛い程解った。


「高槻先輩……!」


 いない。来ない。もう、永遠に。
 それでも、呼ばずにはいられない。壁に突き立てた爪が不快な音を立てる。


「高槻先輩……」


 今日程、その背中が小さく見えた日は無かった。匠は掛ける言葉を失ったままだった。
 幼馴染のこの少年が、それまで何かを抱え込んでいたことは解っていた。鍵の掛かった鋼鉄の箱に仕舞い込んだそれを開けることが出来るのはもう何処にもいない。吐き出す感情も言葉も、何処にも無い。
 返事が無いと解っているのに、名を呼び続けている。
 ぽつりと、匠の目から大粒の涙が零れ落ちた。
 もういいだろ。好い加減、こいつを助けてくれよ。許してくれよ。頼むから。
 大粒の涙が、床のタイルに衝突しては弾けて行く。掛ける言葉も無く、駆け寄ることも出来ず、匠は立ち尽くす。不本意だが、試合は中断されただろう。このまま、また、何もかもぶち壊されるのか。まるで賽の河原だ。積んでも積んでも崩される石の山。報われぬ努力。終わらない地獄。
 誰でもいい。誰か、こいつを救ってくれ。
 耳を塞ぎたくなるような不快な音で、和輝の切り揃えられた爪が割れた。煤けた白い壁に一筋の赤が刻まれた。


「高槻先輩……」


 ゴツ。
 額を壁に押し当て、和輝がその名を呼んだ。
 その時だった。

 カツン、カツン。タイルを叩く乾いた音が、廊下に響き渡った。仲間では有り得ない前方からの足音にも、和輝は反応一つしない。
 カツン、カツン。足音は、和輝の真横で停止した。


「おい、何やってんだ」


 和輝は顔を上げない。匠が涙を拭いながら、見覚えのある顔だなと思った。
 決して長身ではない体型は標準か。一見すれば穏やかな青年だ。淡い色を重ねたシャツと、インディゴのジーンズ。ラフな服装と聊か長い髪はいかにも大学生という風体だった。
 それが誰かなど匠は知らない。和輝も、もう興味が無かった。


「桜橋先輩?」


 追い掛けて来た箕輪が、青年を呼んだ。
 野球部のOBで、昨年の副キャプテンだった青年だ。桜橋は箕輪の姿を認めると、少しだけ笑った。


「ほら」


 桜橋は、身動き一つしない和輝の傍に膝を着くと、ポケットから取り出した携帯を見せる。顔を上げない和輝は携帯の存在すら気付かないようだった。桜橋は溜息交じりに、それを和輝の耳に押し当てた。

 小さな通話機器から、消えてしまいそうな、微かな声が、した。


『――和輝?』


 その瞬間、微動だにしなかった和輝の指先がびくりと震えた。
 返事しろよ。
 電話の向こうから届く声に、和輝は顔を上げる。夢か、何かの冗談か。思わず耳を疑うけれど、聞き間違う筈の無いその声に、和輝の鼓動が高鳴った。


「たかつき、せんぱい……?」


 嘘だ。馬鹿な期待をする自分を叱咤する。それでも、和輝は小さな通話機器を取り落すまいと割れた指先で強く握った。
 携帯電話の向こうから、声がした。


『そうだよ』


 たった一言。待ち望んだ、有り得ないと理解していた言葉。求め続けた返事だった。
 この電話の向こうにいるのは、高槻智也。
 二度と目を覚ます筈の無い高槻の顔が脳裏を掠め、和輝の視界は涙で滲んだ。


「高槻、先輩。高槻先輩。高槻先輩。高槻先輩……」
『うるせーよ。そんなに呼ばなくても、聞こえてるよ』


 堪え続けた何かが、氷が解けるように消えて行く。見開かれた大きな瞳から一筋の滴が零れ落ちた。頬を伝った滴は顎に到達し、足元に小さな染みを作った。


「ついさっき、病院から連絡が入ったんだ。何の前触れも無く、目ぇ覚ましたんだってよ」


 だから、其処にいるのは偽物じゃねーぞ。桜橋がそう言って笑った。
 電話の向こうで、高槻は静かに言った。


『迷惑掛けたな』


 長い間発声しなかったせいか、声は掠れている。ばつの悪そうな高槻の顔が目に浮かび、和輝は笑った。
 電話ということも忘れ、和輝は首を振った。迷惑だなんて思ったことは一度たりとも無い。願ったのは、祈ったのは、望んだのはたった一つだけだ。


「高槻先輩、俺、ずっと、待ってたんです……!」
『ああ』


 右肩から腕が、燃えるように熱い。このまま焼け落ちてしまうんじゃないかと。
 グラウンドのざわめきも、仲間の心配も、見浪の怒声も、蝉時雨も、何もかもが遠い。和輝は震える声で、絞り出すように言った。


「俺、頑張ったんです……」


 誰に認められなくても、馬鹿にされても、否定されても。願ったものは、たった一つだ。
 電話の向こうで、高槻が息を吐くように笑った。


『バァカ』


 お前が頑張ってることなんて、知ってるよ。
 ぽつりと、涙が零れ落ちた。

2012.7.22