球場を包む異様な空気は、迫り来る豪雨の前触れだろう湿気と混ざって表現し難い不快なものへと変化していた。試合中に野次が投げられることは珍しくないけれど、若い女の捨て身の金切声は一人の少年の人生に大きな傷を残すに十分だった。
 どよめき立つ観客を一瞥し、見浪は悪態吐く。
 野球に関係無いものを、この場所に持ち込まないで欲しい。不愉快だ。それでも、見浪一人では抑え切れない膨大な猜疑心は彼方此方で目を出し悪意の花を咲かす。一年前の傷害事件の折、和輝は一言も言い返さなかった。一人で罪を背負って自己満足していたのではない。不特定多数の人間の悪意を相手に、たった一人の少年に何が出来るだろう。何も無かったみたいに黙って堪え続けるだけで、十分だった筈だ。
 何で、皆解らないのだろう。如何して、解ってやれない。見浪は歯痒く思う。
 ベンチの奥に消えた和輝を気遣いながら、審判へ試合再開を訴える晴海高校を見遣る。
 その時だった。
 騒ぎの張本人が、それまでの騒ぎを忘れたような、凛と背筋を伸ばした堂々とした姿で現れた。向けられる無数の好奇の目と、野次罵倒。それでも揺るがない足は真っ直ぐ、本塁の審判の元へ進んで行く。
 グラウンドを外したほんの僅かな時間に、何があったのかなど解らない。見浪は和輝を見遣る。正面を見据える目には光が宿っているけれど、赤い目元と睫に留まった滴が、何があったのかを物語っているようだった。
 擦れ違う刹那、和輝が見浪に笑い掛けた。


「ありがとな」


 口角を釣り上げた笑みは、彼の兄である蜂谷祐輝そっくりの、王子様と呼ばれ得る爽やかな笑みだった。
 思わず高鳴った鼓動を誤魔化すように、見浪は勢いよく首を振る。冗談だろ。顔が熱い。


「ご迷惑を、お掛けしました」


 審判に向けて大きく頭を下げ、和輝が顔を上げる。それまでの蜂谷和輝とは何かが違う。グラウンドにいる誰もがそう思った。
 一瞬の静寂が球場を包み込む。降り注ぐのは悪意か、罵倒か。和輝が覚悟するように固く瞼を下ろした時、予想しない声が降り掛かった。


「お帰り!」


 はっとして顔を上げれば、先程の若い女を彷彿とさせるように、観客席の最前列で、一人の少女が叫んでいた。
 奈々だった。今にも泣き出しそうに大きな目を歪ませて、鼻を赤くして、張り裂けそうに声を上げている。


「待ってたぞ!」


 その隣で叫んだのは、皐月だった。観客に混ざる私服姿はこっそりと試合を見守っていたのだろうと解るけれど、こんな派手なことをしては無意味だろう。
 奈々が、皐月が、声を上げる。
 そして。


「頑張れ!」
「負けるんじゃねーぞ!」
「応援してるぞ!」
「こちとらお前を見に来てんだ!」


 罵倒されることも、野次られることも予想していた。けれど、こんな声は予想していなかった。
 何で、応援してくれる。何で、受け入れてくれる。理解出来ないまま、和輝は茫然と立ち尽くす。こんな時、どんな顔をすればいいのか解らない。――解らない、けれど。


「負けねーよ!」


 大きく拳を突き上げた和輝に、球場を割れんばかりの歓声が包み込む。敵も味方も無く降り注ぐ激励の声に、和輝は目頭が熱くなるのを感じていた。


――この世界は冷静な天国なんだよ


 何時かの高槻の言葉を思い出す。どんなに辛くても苦しくても、この現実以上の世界は存在しない。
 ずっと、世界は冷たいと、汚いと思っていた。でも、違うのかも知れない。見るべき目を持っていれば、この世界の温かさに、美しさに気付けたのかも知れない。
 球場の空気に、審判は試合中断などという判断は下せない。渋々といった調子で試合再開を告げれば、球場全体が沸き立った。
 振り向いた和輝は、突き上げていた拳を突きだす。見浪は苦笑交じりに、拳をぶつけた。




19.ジターバグ<後編>




 世代交代なんだろうな。
 雨宮は漠然とそう感じた。和輝と見浪の突き合わせた拳を感慨深く思いながら、一点差で追い掛ける七回裏の攻撃を締め括るべくバッターボックスに立つ。
 ツーアウト・ランナー無し。七回表を零点に抑えたのだ。此処で得点出来なければ一点差は更に重く圧し掛かるだろう。此処まで良いところ無しだった自分のプレーを振り返り、雨宮は苦笑する。それでも、ベンチで叫ぶ仲間が、後輩が、命を振り絞るように訴え掛ける。
 初球、高めに入った直球をバットの根本で引っ掛ける。転がったぼてぼてのゴロに、雨宮は堪らず走り出す。足の怪我を主な理由として、部内位置の鈍足である自分が間に合うとは、露程も思わなかった。もう諦めてしまおう。俺が頑張る意味は無い。そんな考えが頭の隅に浮かんだ瞬間、一塁コーチャーである醍醐が声を張り上げた。


「雨宮先輩!」


 声が届いた瞬間、雨宮の体が軽くなった。追い掛ける白球と同時に、転がるように滑り込む。湿気を帯びたグラウンドの土をユニホーム前面に擦り付けながら、雨宮は縋り付くようにベースに手を這わせた。


「セーフ!」


 一瞬、審判の言葉が理解出来ずに雨宮は動けなかった。けれど、ゆるゆると顔を上げれば顔面を紅潮させた醍醐が何かを叫んでいる。背後に聞こえる歓声が、蝉時雨がノイズのように混じり合っている。
 間に合ったのか、俺が?
 何かの間違いだろうと思うけれど、審判の判定は覆らない。ゆっくりと起き上がった雨宮は、背を丸めて拳を握った。


「――っしゃあ!」


 降り注ぐ歓声の雨を凌ぐものなど何も無い。
 突き上げた拳の先、観客席で場違いな程に穏やかに微笑む桜橋の姿があった。

 引退にゃ、まだ早ぇよ。

 そんな言葉が、聞こえたような気がした。
 無死・走者一塁。沸き立つ応援の中、一年、蓮見はバッターボックスに立つ。きっとこの先何十年野球を続けたって、今日のような試合をすることは二度と無いだろう。打ちひしがれた先輩の背中、真っ直ぐ伸ばされた背中。零れた涙と、心からの笑顔。
 賛否両論のその少年を、蓮見は心底尊敬している。蓮見がそう思うのは、生まれて初めてだった。そして、その先輩が自分の後ろに待っている。ネクストバッターズサークルで、降り注ぐ期待を背負い膝を着いて、真っ直ぐ此方を見据えている。
 此処で応えられないような、男になりたくない。
 初球のボール球を見送る。二球目、変化球。その球を待っていた、と蓮見のバットが振り抜かれる。
 鋭い金属音と共に空気を切り裂いた白球は三遊間へ。長打コースを誰もが予想した瞬間、鉄壁の守備を誇るショートが飛付いた。
 ワンナウト。審判の声と共に雨宮は二塁に滑り込んだ。一死・走者二塁。
 ちくしょう、とバットを下げ天を仰いだ蓮見の肩に、小さな掌が乗せられる。


「落ち込んでんじゃねーよ」


 いい仕事したぜ、お前。そう言って、蜂谷和輝が笑う。
 目深に被られた帽子の影で、真夏の太陽にも似た輝く双眸が歪められたのが見えた。
 バッター一番、蜂谷君。背番号――。
 皆の待ち望んだヒーローが登場し、球場の興奮はピークに達する。それまでの彼と何かが明らかに違う。それが何なのかなど、誰にも解る筈が無かった。
 ただ一人、県内の大学病院、ベッドの上で中継を見守る高槻智也以外には。


「ちょっと見ねー内に、腑抜けた面になりやがって」


 悪態吐く高槻の横、萩原が苦笑する。
 一年ぶりに目を覚まして、現状すら殆ど把握出来ていないのに、後輩のこととなると誰より聡い。不満げに口を尖らせる高槻の目に映る後輩の表情など見えなくても、予想する必要も無いくらい、呼吸するようにその心中が読み取れる。


「こんなところで、終わる男じゃねーだろ。本気で行けよ、喰らい付けよ」


 小さなブラウン管の中、ストライクの宣告が突き刺さる。
 あっという間のフルカウント。互いに後が無い状況で、それでもバッターは不敵に笑う。高槻もまた、笑っていた。


「行け!」


 その声が合図だったように、和輝の目が光った。鋭く振り抜かれたバットは、横滑りの白球を真芯で捉えている。キン。威勢の良い音と共に打球が内野をするりと抜けて伸びて行く。
 ぐんぐん伸びて行く打球はセンターとライトの間に落下した。GO! コーチャーが叫び、雨宮が駆け抜ける。
 センターが白球を掴んだ時、雨宮は三塁を蹴っていた。振り被るセンター、和輝が一塁を蹴った。
 ボールが向かう先はショートだ。中継に入り、向かう先は本塁ではない。本塁は間に合わない。見浪が白球を掴んだ瞬間、雨宮はもう滑り込んでいる。


「セーフ!」


 本塁到着の雨宮。これで、同点。
 逆転は、させない。見浪の目が鋭く光る。それでも、投げられた先、三塁で和輝は身を低く屈めた。するりとサードのタッチを潜り抜けた和輝が、何の迷いも無く本塁を狙う。
 冗談だろ?
 見浪は目を疑う、三塁手と捕手に挟まれても和輝の走りは淀みない。それ以上に加速する。


「行け!」


 誰かの声が、和輝の耳には届いている。当たり前だ。こんなところで、立ち止まる訳には行かない。
 和輝が滑り込むと同時に、本塁にボールが届いた。捕手の視線を受けながら、審判は苦い顔で両手をゆっくりと開いた。


「――セーフ!」


 逆転――!
 わっと溢れた歓声。和輝はその判定を聞きながら、ひっそりとほくそ笑んだ。
 起き上れないのは右肩の痛み故か、それとも疲労か、それとも。
 滑り込んだ姿勢のままの和輝に、手が差し伸べられる。ゆるりと顔を上げれば、その目に映ったのは相棒の嬉しさを押し殺した仏頂面だった。差し出された匠の手を取り、和輝は起き上がる。
 電光掲示板に、二得点が記録される。匠に肩を担がれながら、和輝は誰にともなく拳を向けた。それが誰かの拳と重なることを、祈って。
 ブラウン管の奥で、高槻が笑っていた。

 その後、八回、九回と互いに無得点無失点に抑え、試合は幕を下ろした。
 整列する両校。和輝の正面に、見浪翔平が立っている。


「光陵学園と晴海高校の試合は、五対六で、晴海高校の勝利! 両校、礼!」
「ありがとうございました!!」


 互いに深く下げられた礼。頭を下げた瞬間、和輝の目から、大粒の涙がグラウンドに零れ落ちた。
 あれ、と思う間も無い。顔を上げても止まらない涙の訳を、和輝だけが知らない。


「……おい、和輝」


 呆れたような匠の声にも、和輝は自身の涙を拭い動揺を隠せない。
 この試合の勝利は、甲子園への出場権の獲得だ。甲子園――。和輝の脳裏に浮かんだのは夢見た甲子園の舞台でも、再会を誓った仲間との約束でも無い。ただ一つ、自身の灯台だった高槻智也の仏頂面だった。
 会いたい。切にそう願う。
 今すぐ走り出したい衝動に駆られる和輝の前に、影が落ちる。


「和輝」


 呼ばれて顔を上げれば、苦々しげに笑う見浪が立っていた。
 ゆるりと上げられた拳が向けられる。


「甲子園、頑張れよ」


 今度こそ、最後まで。
 くすりと笑い、和輝も拳を向ける。突き合わされた拳が重なり、和輝は笑った。
 何かを言おうと口を開いたところで、応援席から名を呼ばれた。


「和輝!」


 ヘルメットを脇に抱えた青年が、フェンスを掴んで叫んでいる。黒い短髪と猫のような大きな瞳は流石兄妹と言うべきか、そっくりだった。和輝の隣で匠が小さく「兄貴」と呼んだ。
 白崎匠の兄、白崎浩太が手招きをしている。バイクのヘルメットを抱えている様から、彼が何処かへ連れて行こうとしているのは明白だった。そして、それが何処かということも、察しが付いている。
 その人物の顔が過り、居ても立っても居られず、和輝は藤を見る。ここ一年、見なかった和輝の興奮した様子に藤は手を振った。
 行って来い。言葉にしないまでも、藤の示す意味に和輝は満面の笑みを浮かべ、走り出した。


(まるで、犬だな)


 主人の元へ駆ける犬のようだ。藤は、挨拶もそこそこに荷物を抱えて駆け出した和輝の背中を見送った。
 球場を出れば、出入口に中型のバイクが停まっていた。シルバーボディのMAGUNAに跨る浩太がヘルメットを投げて寄越す。和輝はそれを被りながらバイクに跨った。
 行くぞ。浩太が言った。
 弾かれるように走り出したバイクは恐らく、スピード違反だろう。それでも、こんな日くらいは見逃して欲しい。そんな和輝の願いを受け入れたかのように、二人の乗るバイクは一般道をするりするりと抜けて病院へ向けて走って行く。
 間も無く、通い慣れた大学病院に滑り込んだ。ヘルメットを浩太に投げて寄越し、振り返ることなく和輝は病院へ入って行った。
 エレベータに乗って、六階。通い慣れた病室。進路を塞ぐ白い横開きの扉を壊しそうな勢いで開く。
 見慣れた白い部屋、白いカーテン、白いベッド。未来永劫変わることのない白亜の空間で、静かに響き続ける生存を知らせる電子音は消え失せていた。代わりに、見たことの無い光景が目の前に広がっていた。


「よう」


 まるで、先程まで顔を合わせていたかのように。
 ベッドの上で起き上った高槻が、和輝を見て笑った。傍で微笑む彼の母親が、仲間である萩原が、泥塗れの和輝を見ている。


「高、槻、先輩」


 夢じゃない。嘘じゃない。目を擦りながら、病室の扉を片手に押さえ、和輝は自分の頬を抓りたい衝動に駆られた。
 これが冗談でも構わなかった。――高槻に、会えるのなら。


「高槻、先輩」


 すぐに、彼のトレードマークである仏頂面に戻った高槻が、和輝を怪訝そうに見る。それでも、和輝は彼を呼び続けた。


「高槻先輩、」
「何だよ、うっせーな」


 要領を得ない和輝に、苛立ったように高槻が言った。それでも、和輝は高槻を呼び続ける。
 高槻先輩。高槻先輩。高槻先輩。高槻先輩。その意味を、萩原は知っている。


「応えてやれよ、高槻。お前が寝てた一年間、こいつはお前を呼び続けてたんだぜ?」


 返事が無いと解っていても掛け続けた声だ。それが今は、応えてくれる。
 呼び続ける意味を悟った高槻が、ばつが悪そうに言った。


「俺は此処だ。さっさと、此処に来いよ」


 溜息交じりに言えば、和輝は漸く扉から手を離して病室に脚を踏み入れた。
 一歩、また一歩とベッドへ距離を詰める。そして、その手がゆるりと伸ばされ、躊躇した。
 届く筈がない。応えられる訳がない。有り得ない未来への期待は、自分自身が裏切られ疲弊するだけだ。そうして俯いた和輝の手を、高槻が捕まえた。


「遅ぇんだよ」


 捕まえた右手を捕まえ、勢い良く引っ張る。呆気無い程簡単に、和輝は高槻の元に滑り落ちた。
 小さな手だ、細い腕だ、薄い背中だ。けれど、真っ直ぐ歩いて来た強い少年だ。その全てを受け入れるように、強く抱き締めた高槻の目から、予測出来ない涙がぽつりと零れ落ちた。
 その意味を高槻は知らない。身動き一つ出来ないまま、顔すら上げられないまま和輝が零した。


「高槻、先輩」


 その言葉に、何だよ、と不機嫌に返しながら、高槻は不意に零れた涙を拭う。
 それでも、和輝は高槻の名を呼ぶ。返事が無いと諦観したあの頃とは違う。今は。


「うるせーよ」


 抱き締める腕に力が籠る。縋り付くように、和輝もまた掌に力を込めた。
 静かに瞼を下ろす。両目から、涙が零れ落ちた。
 右腕が、肩が焼け落ちそうに熱い。和輝も、高槻もそれに気付いている。それでも、離せなかった。それだけ、大切な先輩で、後輩だった。
其処にいるのが当たり前だった。


「馬鹿じゃねーの」


 高槻が言った。
 自分の眠った一年の間に、何があったのか。高槻は概要しか知らない。世間からの痛烈なバッシングも、理解されない苦痛も、敵になった世界も概要しか知らない。それでも、もっと楽な道はあったのに敢て棘の道を選んだ。その意味を、高槻は知っている。



「馬鹿だろ……!」


 ベッドのシーツに、丸い染みが出来上がる。高槻は絞り出すように言った。
 萩原が、高槻の母に声を掛けて病室を後にする。二人きりになった病室で、和輝が言った。


「お帰りなさい……!」


 絞り出すような声が、高槻に訴え掛ける。和輝の目から、涙が零れ落ちる。
 ただいま、なんて、口にすると思うのか。高槻はゆっくりと瞼を下ろす。
 真夏なのに、和輝が長袖の服を着用する意味を高槻は知っている。隠された左の手首も、熱を帯びた右肩と腕も、解っている。


「馬鹿野郎……」


 崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ和輝を抱き締めながら、高槻が言う。


「言ったじゃねーか」


 この一年の間に、この後輩はどれ程の苦痛を味わい、苦悩し、自分の名を呼んだのだろう。
 その痩躯からは想像も出来ない程の強い力で、瞼を押し開けた高槻は和輝を抱き締める。


「世界中の誰がお前を責めたって、俺はお前を否定しねーよ。お前は、それでいいんだよ」


 一年前、確かに自分は彼にヒーローになれと言った。だからといって、自分を殺さないで欲しい。
 独りきりにならないで欲しい。全てを背負わないで欲しい。この場所にいて欲しい。格好悪くていい。惨めでいい。弱くていい。


「お前はそのままでいいんだよ。俺は、お前がいい。今の、お前がいい」


 迷ってもいい。間違ってもいい。弱くてもいい。怯えてもいい。死にたくてもいい。
 でも、俺の前でしろ。
 零れ落ちる涙を止める術を持たないまま、高槻は和輝の細い肩を抱き締める。


「ただいま……!」


 和輝の目から、涙が零れる。
 その返事を、この一年どれ程期待して、裏切られただろう。その言葉を夢見て、何度冷たい現実に打ちひしがれただろう。
 でも、もう違う。


「高槻先輩……」


 返事をするように、高槻が腕に力を込める。一年間、眠り続けた為に嘗ての力はもう無い。それでも動き出すだけの力があるのは、この一年間続けた和輝のリハビリによるものだ。切り続けられた爪と共に、高槻の腕が和輝を抱く。


「お帰りなさい……!」


 零れ続ける涙とその言葉に応えるように高槻が腕に力を込める。


「もう、置いて行かないで下さい……!」


 和輝が、泣き叫びながら訴える。高槻は目を閉ざした。
 置いてなんて、行かない。それでも、この一年待ち続けた和輝の心中を思えば容易く応えられなかった。
 自分は、彼を置いて行った。高槻は、噛み締めるように後輩の名を呼ぶ。置いて行ってしまったのだ。自身がそれを望んだか如何かなど、もう別次元の問題だ。


「もう、置いていかねぇよ……!」


 告げた高槻の言葉を、和輝は噛み締める。
 期待して裏切られるくらいなら、期待しなければいい。それでも、願わずにはいられなかった。
 置いて行かれないように、和輝は高槻の腕を掴む。一年の間に筋肉の落ちた腕は細いけれど、自分を抱き締める力は緩まない。高槻は此処にいる。もう、置いて行ったりしない。
 互いに止め処無く零し続ける涙を拭うことも出来ないまま抱き締める高槻と和輝を、病室の外から、匠は窺っていた。その隣で、奈々は苦笑を漏らした。


「男の子は、いいね」


 何処が。
 匠が答える前に、奈々が言った。


「あたしだって、和輝の傍にいたかったよ」


 それこそ、俺の台詞だ。匠は言葉にはせず、内心呟いた。
 それでも、二年前、独りきりになった和輝を支えてくれたのは高槻だった。八方塞の闇の中、手を差し伸べたのは高槻だった。身動き一つ出来ない泥濘の中から和輝を救い上げたのは、高槻だけだった。


「こればっかりは、仕方無ぇよ」


 ぽつりと零された匠の言葉の意味が、奈々には解っただろうか。
 匠は壁に凭れ掛かったまま、病室に入ることも出来ないまま二人を窺うばかりだった。それでも、漸く泣くことの出来た親友を、心から祝福したい。抱え込んだ弱音や泣き言を漸く零せた幼馴染に、親友に拍手を送りたい。
 そして、二人の声が消えた。室内を窺うように匠が顔を覗かせると、声が掛かった。


「おい、其処のお前」


 仏頂面の高槻が、鼻の頭を僅かに赤くして匠を呼んだ。
 一年前、河川敷で会った以来、匠は高槻と顔を合わせてはいない。それでも一年間の記憶の無い高槻にとってはそれが昨日のように鮮やかだ。
 ゆっくりと病室に足を踏み入れた匠の目に映ったのは、高槻のベッドで穏やかに寝息を立てる幼馴染の姿だった。
 呆れながら、匠は和輝の傍に歩み寄る。悪夢に魘されることなく、こんなに穏やかに眠る和輝の横顔を見るのは久しぶりだな、と匠は思った。高槻が言った。


「こいつのこと、頼むぞ」


 眠る和輝の髪を梳きながら、高槻が言う。
 言われるまでも無い。匠は寝息を立てる和輝を背負いながら、笑った。


「なあ、高槻さん」


 匠が言った。


「こいつ、あんたのこと、ずっと待ってたんだぜ」


 高槻は苦笑した。


「知ってるよ」


 匠は首を振った。


「いいや、あんたは解ってねーよ」


 辛くて苦しくて、自ら命を絶とうとしたこともあった。そんな和輝を繋ぎ止めたのは、未来永劫目を覚ますことのないと言われた高槻だった。目を覚ましても脳に障害が残ると言われた高槻だった。その高槻が何の障害も無く、まるで何事も無かったかのように目覚めた。その奇跡を、高槻はきっと解らない。


「こいつの苦しみを、欠片も解っちゃいねー」


 高槻は、何かを噛み締めるように目を閉ざした。ここ一年の記憶の無い高槻に、全てを理解しろと言うのは酷な話だ。それでも高槻は解ってやりたかった。


「……眠っている間、和輝の声を聞いたような気がするよ。泣きながら、俺を呼んでたな」


 一年前、高槻は和輝に言った。和輝の人生に、何時でも自分がいてやれる訳では無い。
 匠に背負われた和輝を見遣り、高槻は苦笑を漏らした。


「和輝に伝えてくれ」


 微笑んだ高槻が、言った。
 続けられた言葉は高槻らしくて、そして、自分に言えなかった言葉だった。
 最後に微笑んだ高槻に返事をして、匠は歩きだす。背中の幼馴染は目を冷ます素振りも見せないけれど、高槻の言葉は必ず伝えよう。

 だから、今は眠れ。
 彼の世界が、少しでも優しい世界でありますように。

 背負った和輝の睫に留まった滴が、一つ零れ落ちた。

2012.7.26