それを聞いた時、なんて卑怯なのだろうと、奈々は思った。

 周囲は浸水しているかのように、其処此処に湖のような水溜まりが出来上がっている。昼前だというのに空を覆い隠す鉛色の雨雲は、大粒の滴を撒き散らすことはあっても、光など微塵も差し込ませはしない。救いの無い世界そのもののようだと、奈々は感傷的に思う。
 遠く響く読経が、雨音に掻き消されノイズとなって耳に届いた。墓所に集う無数のビニール傘と烏のような黒い傘は豪雨と疲労によって度々揺らいでいる。墓石に刻まれた名前を見遣り、奈々は胸の内が黒い靄で淀んで行くような気分だった。一年前、自ら死を選んだ少女、水崎亜矢の墓石だった。そして今日は、その一周忌だ。同年代の友人達だろう多くの若者が手を合わせる。先頭には只管に経を唱え続ける僧侶と、肉親であろう中年の男女が連れ添っている。
 参列者の中には見覚えのある顔も見受けられたが、大して興味も持てず名前すら憶えてはいない。ただ、最後尾で手を合わせることもなく、退屈そうな態度を隠す事無く傘を肩に担ぐ匠の姿に、奈々は少々呆れるばかりだ。
 首都圏を中心に規則的な豪雨が襲った。まるで、泣くことの出来ない誰かの分まで空が涙を零しているようだと、奈々は勝手に思った。
 今日で一年。やっと一年。漸く一年が経過した。野球部を襲った傷害事件に纏わる全ての因縁は、一年前のこの日に起こった。
 無遠慮で飽きを知らない僅かなマスコミがカメラを向け、物事の分別も出来ないような若いアナウンサーが遠くで何か喚いている。
 やがて、人だかりがぽつぽつと解散を始めた。皆が寺の本堂へと移動を始めた頃、墓前には黒い傘を傾けた匠が、虚ろな目をして立っていた。全くの部外者である奈々に掛ける言葉は無かったけれど、憔悴し切ったように立ち尽くす匠を放ってはおけなかった。
 奈々が声を掛けようと歩き出したと同時に、匠はくるりと踵を返して歩き出した。まるで其処にいるのが解っていたかのような迷いの無い足取りで奈々の元へ歩み寄ると、力の抜けた声で「よう」とだけ言った。その隣に、何時だっている筈の少年はいなかった。
 和輝は何処に行ったのだろう。奈々が問い詰めようと口を開くと同時に、匠は奈々を元の場所へ押し込んだ。水崎亜矢の墓石からは死角になるその場所で、匠は耳障りな雨音の中だというのにも関わらず、口元に指を立て、息を殺した。

 じゃっ。

 アスファルトで整備されている筈の墓所で、まるで砂利を踏み締めるような音がした。
 豪雨の中、傘も差さずに立ち尽くすのは、見間違う筈も無い幼馴染の姿だった。どれ程の間、雨に濡れたのか。蒼白となった顔色と、ずぶ濡れの髪から止め処無く水滴が滴り落ちている。思わず、先程と同様に声を掛けようとした奈々を、匠が押し留めた。
 和輝は墓石を見詰め、俯いた。喧しいマスコミが消え失せた墓所に、雨音以外の騒音は存在しない。
 微かに、和輝の口元が動いた。何かを、呟いている。奈々は聞き取れなかったが、匠は苦い顔をした。

 こんなの、おかしいぜ。

 忌々しそうに、匠が言った。遣り切れないといった調子で、溜息と共に肩を落とす。
 一年前、水崎亜矢は実父の虐待を苦に自殺を選んだ。にも関わらず、世間が責め立てたのはその実父ではなく、彼女が死の間際に電話を掛け続けた相手である和輝だった。彼女を救えなかったことに責任を感じ、和輝は黙って全ての罪を背負った。
 今も、背負い続けている。

 こんなの、おかしいよ。

 匠の言葉を繰り返すように、奈々もまた、言った。
 もしも、自分が部外者ではなく、関係者だったなら、声を大にして叫んでやるのに。こんな、たらればを幾ら言ったところで意味なんて無いのだ。事件は起こり、終わってしまった。残されたのは癒えない傷だけだ。

 ぱしゃん。

 水の跳ねる音がした。和輝の後ろに、人影があった。見覚えのある奈々は思わず傘の柄を握り締めた。
 事件後、昏睡状態から目覚めた和輝を罵った少女。それが、奈々の青葉に対する印象だ。青葉は入水後のようにずぶ濡れの和輝を労わることも、傘を傾けることもしない。ただ、何かを無心に繰り返し呟く背中を睨むように見詰めるだけだ。


「誰も、あんたを許さない」


 雨音の中、嫌にはっきりと声が響いた。
 呪いの言葉にも似た声に、和輝は振り返らない。居た堪れずに匠が介入しようと身を乗り出した。
 けれど、その瞬間。胡乱な眼差しで和輝が振り返った。


「許して欲しいとも、願ったことはねーよ」


 口元に僅かに浮かんだ笑みの意味が、彼女には解るだろうか。
 足を踏み出せぬまま、匠は俯き拳を握った。
 細められた目は笑みを作るけれど、目尻からは正体不明の滴が零れ続けている。和輝はそれきり、口を噤んだ。
 雨音が喧しかった。時々、遠雷が唸るように空気を震わせた。コンクリートさえ穿とうとする豪雨に、傘を握る匠の掌が揺れる。前髪から雨粒を滴らせる和輝の表情は窺えなかった。それでも、泣いていないことだけは明白だった。


「亜矢に、言うことは、無いの」


 侮蔑するように、青葉が吐き捨てる。和輝は、喉を鳴らすように皮肉っぽく笑った。
 許してくれる筈の無い、許して欲しいとも思っていない相手に、謝罪をすることは無意味だ。それでも、全身ずぶ濡れになっても墓石の前で繰り返し続ける言葉の意味を、誰が解ってくれるだろう。
 それが誠心誠意の謝罪でも、形だけの言葉の羅列でも、その行為に何の違いも無い。だって、水崎亜矢はもうこの世にいないのだから!


「言うことなんて、何も、無い」


 絞り出すように、掠れる声が訴える。その瞬間、激昂したように、青葉が叫んだ。


「薄情者!」


 青葉の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。雨粒に混ざり切れなかった滴は滑らかな頬を滑り落ちる。
 弁解も反論もしない和輝は墓石の前で、俯くだけだった。堪らず、墓石の影から奈々が躍り出る。


「薄情者は、あんたじゃない!」


 叫んだ奈々に、驚いた和輝が弾かれるように顔を上げた。


「この一年間、和輝が何の為に、全部抱え込んで堪えて来たと思ってるのよ! 何時までも向き合おうとしないで、人に責任転嫁ばっかりしてるあんた達の為じゃない!」
「関係無い癖に、でしゃばらないで!」
「あんたは、ずるい!」


 声を上げた後、奈々は口惜しそうに唇を噛み締めた。


「あんたも、水崎亜矢も、その親も、世間も、マスコミも全部全部、ずるいよ!」
「私がずるいなら、あんただって薄情じゃない!」


 涙声で、青葉が訴える。


「死んでしまったのに、責められるなんて、可哀想だよ……」


 二人の怒鳴り合いにも似た言葉を、和輝は固く目を閉ざして聞いていた。それでも、何も言い返さないだろうことも、匠は解っていた。この程度で言い返すような安っぽい神経なら、こんなに苦しむことも無かった。
 けれど、その時。
 自分達以外、無人だった筈の墓所に、連れ添う中年の夫婦が現れた。反射的にその二人を見た和輝が、凍り付いたように硬直する。


「……お前は、」


 和輝が拳を握ったのが、匠は見えた。
 雨音に掻き消されそうな程の小さな声で、男が言った。妻は驚愕に目を丸める。それが、誰かなんて。


「お久しぶりです」


 それまでの沈黙を破り、和輝が言った。浮かべられた笑みは、ぞっとする程に薄く冷たい氷の刃のようだった。
 一年前、和輝が犯した傷害事件。水崎亜矢の葬儀で、自分の罪を一切認めず責任転嫁し、世間からの同情を煽った彼女の実父を殴ったのだ。世間や法律が何と言おうと、匠はそれが間違っているだなんて思わない。自分でもそうするだろう。
 けれど、今も男は自身の罪から逃げ回り、和輝は黙って苦汁を嘗めている。
 男は一瞬、顔面を引き攣らせたが、すぐに何事も無かったように傘を持ち直して忌々しげに吐き捨てた。


「どの面下げて、こんなところにいるんだかな。娘も私達家族も、お前を許しはしない」
「お前に許してもらう謂れもねーよ」


 さらりと吐き捨てた和輝は、普段の人懐っこさが嘘のように冷ややかに男を一瞥した。
 和輝が言い返すことを予想していなかったのか、男は急にいきり立って声を荒げた。


「人殺しがふんぞり返って何様のつもりだ! 漸く安らかな眠りにつけるというところで、事件を穿り返す気か!」
「安らかな眠りなんて」


 其処で和輝は言葉を区切った。胸の中で溢れる感情を処理し切れず、言葉を形に出来なかったのだ。
 黙った和輝に、男は尚も詰め寄った。


「人を一人死に追いやっていながら、よくもまあ、野球なんてやっていられるな!」
「テメェ、」


 言葉の続けられなかった和輝を庇うように、匠が前に進み出る。
 和輝が反論しないことも、弁解しないことも解っている。だからと言って、このまま言われっ放しでいい筈が無い。


「死んだら何でも正当化されるのかよ! こいつが黙ってるからって、俺達が何も知らないとでも思うのか!」


 脅迫めいた言葉に、男が身体を強張らせた。
 彼等は、全てを知っている。言いようのない恐怖が、男を包み込んだ。漠然とした禍々しい感情は、恐らく殺意と呼ぶに相応しかった。この少年を生かしておいてはいけない。口を閉ざさなければいけない。男が大きく足を踏み出した。


「俺は何も悪くない! あの子は可哀想だったが、」


 けれど、それを押し留めたのは殺意すら抱かせる少年の、刺すように鋭い眼光だった。一年前のあの日から変わらない、明確な憎悪だ。
 ぐるりと視界が一瞬、立ち眩みのように回転した。同時にミキサーでも掛けたように思考が液体化し混ざり合う。衝動を抑え切れず理性が悲鳴を上げる。
 錆び切った思考回路を振り切る激情が、抉じ開けるような強引さで口を開かせる。もう、全て解ってしまった。
 嘆いても祈っても、縋っても願っても、背負い込んでも立ち止まっても、抱え込んでも抱き締めても、大切なものは守れない。
 不意に、高槻の声が聞こえた気がした。


――踏み止まっても守れないなら、


 一瞬の逡巡。けれど、錆び付こうとする思考回路を高槻の声が動かしてくれる。


――踏み止まっても守れないなら、踏み込むしかないだろう!


「――じゃあ、」


 ゆるりと顔を上げた和輝は、殆ど反射的に叫んでいた。


「じゃあ、あの子が悪かったって、言うのかよ!」


 振り絞るように吐き出されたその声は、この一年の間、抱え続けた世界への怒りだった。
 無責任な大人達と、自分勝手なマスコミと、無知で愚かな級友達への諦観にも似た憤怒だった。匠が止める間も無く、奈々が口を挟む余裕も無く、青葉が反論する余地すらない声だった。


「可哀想なんて、一言で片付けてんじゃねーよ!!」


 脳裏に過る大量のゴシップと三面記事、テレビに映る悪意に満ちた出鱈目の数々。どれも現実とは程遠い、亜矢を悲劇のヒロインに仕立て上げる為だけに作られた虚構だ。血の通わない機械と同じだ。利益の計算は出来ても、感情は全て置き去りにされている。


「何も、」


 ぽつ、と和輝の声が途切れた。
 打ち付ける雨がその相貌を濡らす。それが雨なのか汗なのか涙なのか、誰にも判別出来ない。言葉を詰まらせた和輝を、掻き毟りたくなるような焦燥感が襲う。今更、こんなことを言っても仕方が無い。それでも叫ばずにいられなかった。


「何も、知らない癖に! 何も解らない癖に! 何も出来なかった癖に!」


 頬を伝う滴が顎に到達し、零れ落ちて行く。
 言い放った言葉は全てナイフとなって自分に返って来る。何も出来なかったのは、自分も同じだ。それでも、叫ばなければならなかった。もう全て、解ってしまったからだ。


「お前になんか、永遠に解らない!」


 漸く吐き出された言葉の重みが、男に伝わる筈も無かった。恐怖に戦く男の、保身ばかりを考えるその心に何処までも絶望する。こんな男のせいで、こんな男の為に。


「毎日親に殴られて、人間としての尊厳まで踏み躙られて、行き場を失くしたあの子が自ら死を選んだことが!」


 声が掠れ、語尾が震える。それでも、和輝は叫び続ける。


「可哀想だったねと、ご愁傷様と、楽になれて良かったねと、そう言って笑うのかよ!」


 叫びながら、和輝は自分の言葉を否定する。
 こんなことを言ったって仕方ない。亜矢は望まない。だけど、それでも、何もしないのなら、死んでいるのと同じだ。


「あの子は、戦ったんだよ! 頑張ったんだよ! どちらが前かも解らない闇の中で、必死に生きたんだよ!」


 殴られても、罵られても、踏み躙られても、生きて行こうとしたんだよ。
 誰に否定されても、誰に認められなくても、あの子は自分自身を誇れるくらい、強く美しく生きようとしていたのに。


「何も知らないお前が、勝手にあの子を語るなよ!」


 この一年、和輝の抱え続けた後悔を、絶望を、激情を、その時誰もが初めて知った。
 自分が責められることに疲弊していただけなら、幾らでも逃げ道はあった。ただ、水崎亜矢に、他人行儀な同情が寄せられなければ。
 可哀想と言われれば、その人権が守られると思うのだろうか。被害者であれば救われると思うのか。和輝にはそれが理解出来ない。加害者でも被害者でも、必死に生きようとした亜矢の思いを誰も汲み取ってやれないことが、辛かった。
 解ってくれとは言わない。人に期待しようとも思わない。それでも、何も無かったみたいに通り過ぎられてしまうのは、もう限界だ。

 雨音が激しい。世界を洗い流すかのような豪雨だ。

 立ち尽くす和輝と、沈黙を守る世界。その時、それまで存在しなかった第三者の声がした。


「――やっと、言ったな」


 皺の寄った白いシャツ、浅黒い肌、無精髭。脇に抱えられた黒いジャケットから小さな手帳を取り出し、碓氷研吾が薄く笑った。
 スポーツ雑誌の記者だった筈の男だが、何時の間にか蜂谷祐輝のゴシップを狙うようになり、弟である和輝に魅せられた数少ないマスコミに通じる味方の一人だった。
 碓氷は亜矢の父親を一瞥し、指を突き付ける。


「何時でもお前を検挙出来るように、元々証拠は挙がってたんだ。こいつが一年間、黙ってさえいなけりゃな」


 亜矢が死んだあの日、形式的ではあるが検死が行われた。遺族からの猛烈な反対によってそれはすぐに取り止めとなり、正式記録としては何も残っていない。ただ、水崎亜矢が投身自殺したという事実だけが残った。
 自殺の動機として、和輝への思いが裏切られたことが挙げられた。和輝は否定しなかったが、肯定もしなかった。何を答えれば正解なのか判別が付かなかったからだ。


「水崎亜矢が性的虐待を実父より受けたことはもう解っている。だが、俺がそれを世間に公表しなかったのは」


 一年前、世間を騒がせた悲劇の真相を掴みながら握り潰そうとさえした記者の意図など、誰にも解らない。碓氷は運動後のように肩で荒い呼吸を繰り返す和輝を見て笑った。


「こいつの口から、こいつの答えを聞きたかったからだ」


 その行為の意図を、意味を、訳を示して欲しかった。知りたかった。
 すれば、和輝は今にも倒れそうな胡乱な目で笑った。
 狂っている。少なくとも、碓氷はそう感じた。光の失せた瞳に底知れぬ闇の片鱗を見た気がした。


「答え、なんて、初めから解ってたさ」


 瞳に浮かぶのは涙でも無ければ、絶望でも無い。
 何かを手に入れる為には、何かを捨てなければならない。そういう選択をしなければならない時が、必ずやって来る。


「解ってて、解らない振りをして来た」


 和輝の目に、小さな光が灯ったのが、見えた。それまでの剣幕を消し去った、穏やかに凪ぐ水面のように和輝は水崎亜矢の墓石に向き合った。周囲を包み込み聴覚を侵す雨音が一瞬、遠退いた。
 ゆっくりと口を開き、外見に見合ったボーイソプラノが、絞り出すように告げた。


「ごめん……!」


 何時か、こんな日が来ることは解っていた。和輝は深々と、項垂れるように頭を下げた。


「俺はもう、お前を背負ってやれない……!」


 彼女の死に対する責任からの謝罪では無かった。過去への悔恨では無かった。和輝とて、一年前の事件に対して今更謝罪して許されようとは思っていない。
 亜矢は死んだ。もう声は届かないし、手は掴めない。救ってやることも、守ってやることも出来ない。それを知ることが恐ろしかった。そして、仲間はそれを責めなかった。
 罰が欲しかった。お前は間違っている。そう指を突き付けて、変えられる筈の無い過去への執着を許して欲しかった。
 けれど、昨日、高槻が目を覚まして全てを理解した。高槻と水崎亜矢は違う。

 水崎亜矢は、死んだのだ。

 匠は目を伏せた。この一年間、匠が幾ら説き伏せ訴えても、和輝は自責の念に囚われ続けていた。
 この世は冷静な天国だ。同時に、祝福された地獄だ。
 死者は許さない。それでも、生者は歩き出さなければならない。その為に、生者は過去を記憶として受け入れなければならなかった。

 墓石の前で、和輝が繰り返し続けた呟きは、謝罪ではない。
 ただ、水崎亜矢の名を呼んでいただけだ。返事が無いことは解っている。この一年、和輝は二人の名を呼び続けた。そして、返事をしたのは高槻一人で、水崎亜矢は未来永劫沈黙を守り続ける。


「別れを、言いに来たんだ」


 ぽつりと零した和輝の声を、匠は生涯忘れないだろうと、思った。


「さよなら」




20.Time To Say Goodbye.




 時間は万能薬ではない。
 規則正しい呼吸を繰り返す和輝を背負いながら、匠は黙って帰路を辿っている。天の底が抜けたような豪雨はやがて、霧のような小雨へと変わった。昼時を過ぎれは空腹に虫が鳴く。両手の塞がった匠に傘を傾けながら、奈々は眠る和輝の横顔を眺めた。
 それまで気付かなかったが、目の下には深い隈があった。それでも深い寝息は漸く、それまで背負い続けた重荷を下ろしたかのように穏やかだった。


「やっと、終わったんだね」


 奈々が言った。匠は、和輝を背負い直しながら頷く。
 墓場に残された生気の無い抜け殻のような男は、間も無く社会的に抹殺されることだろう。そして、碓氷の告発によってこれまでズタズタに切り裂かれた和輝の社会的立場も回復する筈だ。水崎亜矢に同情が寄せられることを恐れて沈黙を守って来た和輝だが、彼女へ寄せられる奇異の目と同情は最早変えられない。そんなこと、本当は一年前に解っていた筈なのに。
 別れを告げた和輝はそのまま葬儀に参列することなく、座り込んだ寺の石段で眠った。匠がずぶ濡れの体を背負えば、その正面には先程見かけたばかりの中年の女が立っていた。亜矢の、母だった。
 突き付けられるだろう罵倒を覚悟して匠が身を固くすれば、女は深々と頭を下げた。
 ありがとう。涙を零しながら、女が言った。それは一人娘の矜持を守ってくれた和輝への感謝であり、何も出来なかった己への叱責であり、自ら死を選んだ娘への謝罪だった。
 死者が許すことはない。けれど、その言葉で、和輝がどれ程救われただろう。匠は、目を覚ました和輝にそれを伝えることを約束してその場を後にした。
 普段の喧しさを見せない奈々が穏やかに微笑んでいるのに違和感を覚え、匠は怪訝に目を細める。


「お前が静かだと何だか気持ち悪ィな」
「和輝が寝てるのに、騒げる訳無いでしょ」


 さらりと言い返す奈々の言葉は尤もだが、彼女にそんな気配りが出来ることに感心する。
 そんな匠の心中を察したように奈々はじとりと睨み、咳払いをした。


「あたしね、水崎亜矢って子のこと、嫌いだった」


 突然放たれた言葉に、匠は眉を寄せる。自由気ままな奈々とはいえ、会ったこともない故人に対してそんな言葉を投げ付けていい訳がない。匠がそれを諌めようと口を開くより早く、奈々が続けた。


「だって、ずるいよ」


 不貞腐れた子どものような物言いで、奈々が言う。


「和輝の優しさに付け込んで、甘えるだけ甘えてさ。最期は思い通りにならないからって、責任を全部押し付けて逃げちゃうんだよ?」
「……責任を押し付けるって?」
「だって、そうじゃない。自殺直前に何度も電話したなんて履歴残したら、和輝がどんな風に思われるか解らない訳無いじゃない」


 それに、と奈々は続けた。


「本当に和輝に助けて欲しかったなら、会いに来れば良かったのに。それもしないで、ただ迎えに来てくれるのを待ってるだけなんてずるいよ」
「それは、要するに、あの電話に和輝が出ても出られなくても、水崎亜矢は死んだってことか?」


 奈々は困ったように眉を寄せ、首を振った。


「電話が繋がれば、きっと和輝は助けてあげたと思う。あたしが言いたいのは」


 思ったことをそのまま口にする奈々にしては珍しく言い淀みながら、それでも言った。


「水崎亜矢は、和輝に助けて欲しくて電話したんじゃなくて」


 其処で奈々は口を噤んだ。
 自分の考察を的確に表現出来る言葉が浮かばなかったからだ。
 水崎亜矢は、一年前の夜、和輝に電話をしながら死を選んだ。死ぬ直前に掛けた電話の意図は、別れを告げる為だろう。その内容が感謝か謝罪か叱責かはもう解らない。けれど、水崎亜矢は、自分の存在を和輝の中に刻み付ける為に電話を掛けたのだと、奈々は思う。
 奈々の続かなかった言葉の先を悟り、否定も肯定もせず苦い顔をする。
 死の直前に掛けられた、異常とも思わせる程無数の電話の数々。


(あれはきっと、和輝に対する、水崎亜矢の執着だったんだろう)


 背中に確かな重みを感じながら、匠は苦く思った。死ぬことで繋ぎ止めようだなんて、馬鹿馬鹿しい。
 何時しか霧のようだった雨は上がり、曇天の隙間から黄色い太陽が滲んでいた。明日には地面に染み込んだ水滴は消えて無くなるだろう。

 これが、一年に渡る水崎亜矢の自殺に関わる事件の結末だ。
 全ての終結を祈りながら、匠は拳を握った。

2012.7.29