白に霞む病室で、和輝は白昼夢でも見ているかのように、薄ぼんやりと窓の外を眺めていた。
21.Somewhere Over The Rainbow<前編>
その声で、過去へ回帰していた思考は、シャボン玉が弾けるように戻った。 真っ白い病室は思い出したくなかった記憶を彷彿とさせる。奈々は、目の前のベッドで上半身だけ起こした高槻に目を向ける。小柄な体格と生白い顔は一見、元高校球児とは思えない。 外は豪雨だった。重大な用事が無ければわざわざ外出しようという物好きもいないだろう。奈々は、高槻と二人きりという可笑しな状況に戸惑いながらも、投げ掛けられた言葉に首を振る。 「あたしは何もしていません。何も、出来なかった……」 匠のように傍にいることも、高槻のように支えになることも出来なかった。それでも、高槻は鉄面皮を崩す事無く否定する。 「其処にいたことが、あいつの救いだっただろう」 全て解っているような物言いで、高槻は鼻を鳴らす。それは自嘲のようだった。 窓に打ち付ける雨がモザイク硝子のようだ。この病室を現実と切り離そうとしている。 「救いだったのは、あなたです。高槻さん」 奈々は、精一杯の強がりで微笑んでみた。悲しい以上に悔しかった。 匠と奈々は、高槻のことを先輩とは呼ばない。高槻の後輩であるのは和輝であって、自分達は部外者だ。けれど、その名を呼ぶ度に自分の弱さに泣き出したくなる。 高槻は少し黙り、静かに言った。 「……俺が寝てる間、あいつがどんな状況にあったのか、少しだけ聞いた。……悲惨だったな。俺が知る以上に現実はもっと、苛烈を極めたんだろう」 あいつが自殺未遂をする程度には。 そう続けられた言葉に、奈々は胸が締め付けられるような痛みを覚える。あの事件は奈々にとっても大きなトラウマだった。 高槻は其処で、少しだけ眉を下げて困ったように笑った。 「あいつ、強がってただろ?」 予想付いていると、高槻が笑う。それまでの高槻からは想像出来ない程、穏やかな微笑みだった。 「一年前も、そうだった。何時でも堂々としているヒーローみたいなのに、目的地さえ見失ってる迷子みたいだった。自信満々で余裕綽々なのに、何時も何処か泣き出しそうだった」 そういう弱さが気付かれていないと、和輝は思っていたのだろうか。高槻は嗤う。 「でも、あいつは顔を上げようとしてた。迷うし、泣きたかっただろうさ。だけど、あいつは――」 其処で突然、病室の引き戸が勢いよく開かれた。現れたずぶ濡れの二人組に、高槻は瞠目する。 雨に濡れただけなら、解る。けれど、二人の頭は白く染まっていた。 「ど、どーしたの?」 動揺を隠せず奈々が問えば、ぶすっとした匠の横で、和輝が困ったように後頭部を掻いた。 「野球部に、祝われて来た」 よく見れば、それはクリームだった。大半は豪雨によって強制的に流れたのだろうが、それでも酷い格好だった。それでよくも病院の中を歩いて来たものだと、幼馴染ながら奈々は呆れてしまう。 パイ投げされたんだ。和輝が照れ臭そうに言った。用意の手間を考えるとそれは愛されているのか如何か微妙なところだ。それでも何処か和輝が嬉しそうだったので、奈々は自分の頬が緩むのを感じた。 七月二十三日。和輝と匠の誕生日だった。 「……一度家に帰ろうって言ったんだけどな」 匠が不満げに零す。和輝は隣でからりと笑った。 「だって、面会時間、過ぎちまうじゃねーか」 雨とクリームでどろどろの格好で、和輝は高槻の傍に歩み寄る。リノリウムに跡を作る濁った白。けれど、高槻は突然現れた後輩を見ると眩しそうに目を細めた。 「誕生日、おめでとう」 この日、和輝と匠は十七歳になる。 高槻はそう告げた後、ばつが悪そうに目を逸らした。それでも、大きな瞳を爛々と輝かせる和輝を前に、口籠りながら言った。 「生まれて来てくれて、ありがとな」 締め切った室内の筈が、何処からか風が吹き込んだような気がした。 それは淀み腐った空気を一掃し、新しいものへと入れ替える。連れ去られた空気は流れ、やがて一陣の風に生まれ変わるだろう。また、何処かで淀み腐る空気を浚う為に。 予想していた筈の言葉を、返事を、表情を、瞬間を、和輝は逃すことが無いようにと全神経を傾ける。 それは一年前の約束。 ――なら、お前の誕生日に差し出す言葉は“おめでとう”ではなく、“ありがとう”だな そう告げた高槻の言葉が、漸く届いた。拾い上げられる。掴むことが出来る。 緩みそうになる涙腺を誤魔化すように、和輝は笑ってみた。 「……――です」 掠れた声が、考えるより先に口から零れた。 「――それ、俺なんです」 声と共に、大粒の涙がぽつりと零れ落ちた。 本当に感謝を伝えたいのは。 「生きていてくれて、ありがとうございます……!」 汚れた頬を滑る涙の粒が、リノリウムに落下しては弾けて行く。 棒立ちの和輝の頭を、汚れることも厭わず高槻が乱暴に掻き混ぜる。 ああ、もう、しょうがねー奴だな。ファンが泣くぞ。顔くらい拭け。そう言いながら高槻は嬉しそうだった。 二年前、和輝は仲間と道を別った。 人に期待しない。全部自分でやってやる。そう決めて、独りで強くなろうとした。 苦しくて、悲しくて、辛くて、それでも、何処にも逃げ場が無かった。 身動きの出来ない泥濘の中で、前すら見えない暗闇の中で、手を引いて導いてくれたのは、高槻だった。 仲間を信頼するということ、自分が自分らしく生きていいこと、逃げるのではなく立ち向かうということを、教えてくれたのは高槻だった。 高槻が、和輝の光だった。 それを理解すると同時に、匠は胸を掻き毟りたくなるような焦燥感を覚える。 この一年間、傷付き続ける和輝を一番傍で見て来た。守ることも救うことも、匠は出来なかった。 泣きたくなる程、叫びたくなる程、逃げたくなる程、自分は無力だった。 けれど。 「ずっと、ヒーローになりたかった」 ぽつぽつと零れ落ちる声に、病室が溶けるように静まり返る。 「ヒーローに、なりたかった……」 一年前の高槻との約束が、今も胸の中にある。 ヒーローになれと、伸ばされる手を一つだって無視するなと、高槻が訴え掛ける。けれど、高槻がクリーム塗れの和輝の頭を撫でた。 「馬鹿言うな。お前はもう、ヒーローだよ」 不死身の勇者でもなく、正義の味方でもなく、危機に駆け付ける五人組でもなく。 ただ一人の、小さな小さなヒーローだった。 鼻を啜り、普段の通るボーイソプラノを忘れてしまうような涙声で、和輝が言った。 「でも、俺は救えなかった」 それが誰のことなのか、匠には解らなかった。和輝がぽつりと零す。 「水崎も、袴田先輩も……!」 自殺した水崎亜矢、服役する袴田翔貴。傷跡だけを残した二つの事件。 高槻は暫しの逡巡の後、ああ、そうか、と理解する。 やっぱり、お前は、あいつ等を救いたかったんだな。 解ってはいたけれど、と高槻は肩を落とす。 「……もういい」 もういい。そう繰り返し、高槻が拳を握る。 故障した右肩と腕も、自ら切り裂いた左手首の裂傷も、無意識に浮かべられる作り笑顔も、彼が前を向いて来た勲章だ。 だから、それでいい。 ハッピーエンドの望めない世界でも、先の見えない暗闇の中でもいい。 ただ一つ願うのは。 この世界が少しでも、優しい世界でありますように、と。 |
2012.8.9