白に霞む病室で、和輝は白昼夢でも見ているかのように、薄ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 思い出すそれは冬だった。日本列島を襲った大寒波は、悪夢のような積雪であらゆる災害を引き起こした。それでも、連日報道される屋根雪の崩落事故等、まるで興味が無いと言うように、捲し立てるアナウンサーの口調をBGMに、点けたままのテレビを視界に入れることもなく和輝は雪の降り続く窓から視線を動かさない。
 左手首に巻かれた包帯が、痛々しい。夏には健康的に浅黒かった肌は、数か月という僅かな時間で病的な程の青白さに染まっていた。
 和輝が初めて自らの命を絶とうとしたその瞬間、奈々は同じ部屋の中にいた。衝動的に切り裂かれた手首を、必死の思いで止血する彼の兄である祐輝の背中越しに、駆け寄ることも出来ず奈々は立ち尽くしていた。
 高槻さんのこと、待ってんだろ!
 そうして叫んだ匠の言葉が、和輝を如何にか現実に縛り付けた。目を覚ますことなど無いと言われた彼の存在に縋るようにして生きる和輝はきっと今も、死にたいのだろうと奈々は悟る。夢と現を彷徨うような茫洋とした双眸に奈々は映らない。
 マスコミの連日の出鱈目な報道と、中傷記事。何も知らない他人の囁き合い。至る所に貼られた悪意の数々に、疲弊し切っていた。何時しか頬は窶れ、目の下には消えることのない深い隈が刻み込まれ、大きな瞳は人を映さなくなり、笑顔は消え失せた。日常生活すら困難になったその頃の和輝に、奈々は何を言えば正解だったのかすら解らない。それでも。


「なあ」


 ぽつりと、何の前触れも無く、窓の外を眺めていた和輝が呟いた。
 奈々の返事を聞くこともなく続けられた言葉は独り言に近かったのだろうと思う。


「前が見えないんだ」


 その言葉に、胸が締め付けられるように痛んだ。
 奈々にとって和輝は、何時でも明るくて前向きなヒーローだった。その時になって初めて、本当はそうではなかったのかも知れないと気付いた。本当は悩んだり迷ったりして、苦しかったのかも知れない。誰にも知られないところで泣いていたのかも知れない。誰にも見られないところで弱音を吐いていたのかも知れない。そういう和輝の弱さに、見向きもしなかった。
 どうしよう。
 弱々しく、和輝が言った。それが誰に対する問いなのか、奈々には解らない。ほとほと困ったというように、語尾を震わせる和輝は振り返らなかった。


「約束したんでしょ。夢があるんでしょ」


 そう言って、奈々は自分の狡猾さに嫌気が差す。そんな薄っぺらな言葉で、人一人の命を縛り付けようだなんて卑怯だ。
 それでも現状、和輝を此処に留めているのはその言葉だけだった。和輝はそんなこと言われるまでもないと言うように、微動だにしなかった。
 やがて、重い沈黙が空間を占拠する。長い時間共に過ごして来たけれど、居た堪れないと感じたのはこの時が初めてだった。和輝は酷く緩慢な動作で、包帯に覆われた右腕を撫でた。


「――そう、だよな」


 自身に言い聞かせるように、和輝がぽつりと言った。それはまるで独白だった。
 その時になって漸く、奈々は自分の放った言葉の残酷さに気付く。夢や約束の為に生きているのに、その手段を和輝は失ってしまった。それはもう二度と取り戻せないものだ。
 撫でていた手が止まり、包帯をきつく握り締めた。


「此処で、立ち止まってたら、駄目だよな」


 その時の和輝が何を思ったのかなど、奈々には解らない。
 立ち止まっていいよ、なんて奈々には言えなかった。奈々は拳を握った。


「そうだよ」


 和輝の言葉を受け入れ、奈々は言った。


「右が使えないなら、左があるじゃない」


 頓智のような馬鹿げた言葉に、奈々は自分で自分が悲しくなる。野球に携わって来た和輝が、これまでの右腕を捨てて左に転向することがどれ程困難なのか解らない訳じゃない。
 奈々は握られた和輝の拳を解くように、優しく撫でた。


「大丈夫だよ」


 振り返らない和輝に、奈々が言った。ベッドの傍に歩み寄っても視線も向けない和輝の右手を握る。肉刺と胼胝だらけの歪な掌だった。体格に見合った小さな掌だった。
 大丈夫だよ。聞き間違うことのないように、奈々が言う。漸く、和輝が胡乱な目を向けた。


「だって、和輝は生きてるよ」


 繋いだ手が離れないように、存在が消えてしまわないように、奈々は掌に力を込める。


「生きているから、何でも出来る。何度だって、やり直せる」


 再起不能の右腕を、右肩を撫でる。和輝の目はガラス玉のように透き通り、其処はがらんどうのままだった。
 だけど、それでも。


「諦めたらいけないよ」


 言えば、漸く和輝がからりと乾いた笑みを浮かべた。それは今にも泣き出しそうな笑顔だった。




21.Somewhere Over The Rainbow<前編>




「ありがとうな」


 その声で、過去へ回帰していた思考は、シャボン玉が弾けるように戻った。
 真っ白い病室は思い出したくなかった記憶を彷彿とさせる。奈々は、目の前のベッドで上半身だけ起こした高槻に目を向ける。小柄な体格と生白い顔は一見、元高校球児とは思えない。
 外は豪雨だった。重大な用事が無ければわざわざ外出しようという物好きもいないだろう。奈々は、高槻と二人きりという可笑しな状況に戸惑いながらも、投げ掛けられた言葉に首を振る。


「あたしは何もしていません。何も、出来なかった……」


 匠のように傍にいることも、高槻のように支えになることも出来なかった。それでも、高槻は鉄面皮を崩す事無く否定する。


「其処にいたことが、あいつの救いだっただろう」


 全て解っているような物言いで、高槻は鼻を鳴らす。それは自嘲のようだった。
 窓に打ち付ける雨がモザイク硝子のようだ。この病室を現実と切り離そうとしている。


「救いだったのは、あなたです。高槻さん」


 奈々は、精一杯の強がりで微笑んでみた。悲しい以上に悔しかった。
 匠と奈々は、高槻のことを先輩とは呼ばない。高槻の後輩であるのは和輝であって、自分達は部外者だ。けれど、その名を呼ぶ度に自分の弱さに泣き出したくなる。
 高槻は少し黙り、静かに言った。


「……俺が寝てる間、あいつがどんな状況にあったのか、少しだけ聞いた。……悲惨だったな。俺が知る以上に現実はもっと、苛烈を極めたんだろう」


 あいつが自殺未遂をする程度には。
 そう続けられた言葉に、奈々は胸が締め付けられるような痛みを覚える。あの事件は奈々にとっても大きなトラウマだった。
 高槻は其処で、少しだけ眉を下げて困ったように笑った。


「あいつ、強がってただろ?」


 予想付いていると、高槻が笑う。それまでの高槻からは想像出来ない程、穏やかな微笑みだった。


「一年前も、そうだった。何時でも堂々としているヒーローみたいなのに、目的地さえ見失ってる迷子みたいだった。自信満々で余裕綽々なのに、何時も何処か泣き出しそうだった」


 そういう弱さが気付かれていないと、和輝は思っていたのだろうか。高槻は嗤う。


「でも、あいつは顔を上げようとしてた。迷うし、泣きたかっただろうさ。だけど、あいつは――」


 其処で突然、病室の引き戸が勢いよく開かれた。現れたずぶ濡れの二人組に、高槻は瞠目する。
 雨に濡れただけなら、解る。けれど、二人の頭は白く染まっていた。


「ど、どーしたの?」


 動揺を隠せず奈々が問えば、ぶすっとした匠の横で、和輝が困ったように後頭部を掻いた。


「野球部に、祝われて来た」


 よく見れば、それはクリームだった。大半は豪雨によって強制的に流れたのだろうが、それでも酷い格好だった。それでよくも病院の中を歩いて来たものだと、幼馴染ながら奈々は呆れてしまう。
 パイ投げされたんだ。和輝が照れ臭そうに言った。用意の手間を考えるとそれは愛されているのか如何か微妙なところだ。それでも何処か和輝が嬉しそうだったので、奈々は自分の頬が緩むのを感じた。
 七月二十三日。和輝と匠の誕生日だった。


「……一度家に帰ろうって言ったんだけどな」


 匠が不満げに零す。和輝は隣でからりと笑った。


「だって、面会時間、過ぎちまうじゃねーか」


 雨とクリームでどろどろの格好で、和輝は高槻の傍に歩み寄る。リノリウムに跡を作る濁った白。けれど、高槻は突然現れた後輩を見ると眩しそうに目を細めた。


「誕生日、おめでとう」


 この日、和輝と匠は十七歳になる。
 高槻はそう告げた後、ばつが悪そうに目を逸らした。それでも、大きな瞳を爛々と輝かせる和輝を前に、口籠りながら言った。


「生まれて来てくれて、ありがとな」


 締め切った室内の筈が、何処からか風が吹き込んだような気がした。
 それは淀み腐った空気を一掃し、新しいものへと入れ替える。連れ去られた空気は流れ、やがて一陣の風に生まれ変わるだろう。また、何処かで淀み腐る空気を浚う為に。
 予想していた筈の言葉を、返事を、表情を、瞬間を、和輝は逃すことが無いようにと全神経を傾ける。
 それは一年前の約束。


――なら、お前の誕生日に差し出す言葉は“おめでとう”ではなく、“ありがとう”だな


 そう告げた高槻の言葉が、漸く届いた。拾い上げられる。掴むことが出来る。
 緩みそうになる涙腺を誤魔化すように、和輝は笑ってみた。


「……――です」


 掠れた声が、考えるより先に口から零れた。


「――それ、俺なんです」


 声と共に、大粒の涙がぽつりと零れ落ちた。
 本当に感謝を伝えたいのは。


「生きていてくれて、ありがとうございます……!」


 汚れた頬を滑る涙の粒が、リノリウムに落下しては弾けて行く。
 棒立ちの和輝の頭を、汚れることも厭わず高槻が乱暴に掻き混ぜる。
 ああ、もう、しょうがねー奴だな。ファンが泣くぞ。顔くらい拭け。そう言いながら高槻は嬉しそうだった。

 二年前、和輝は仲間と道を別った。
 人に期待しない。全部自分でやってやる。そう決めて、独りで強くなろうとした。

 苦しくて、悲しくて、辛くて、それでも、何処にも逃げ場が無かった。
 身動きの出来ない泥濘の中で、前すら見えない暗闇の中で、手を引いて導いてくれたのは、高槻だった。
 仲間を信頼するということ、自分が自分らしく生きていいこと、逃げるのではなく立ち向かうということを、教えてくれたのは高槻だった。

 高槻が、和輝の光だった。

 それを理解すると同時に、匠は胸を掻き毟りたくなるような焦燥感を覚える。
 この一年間、傷付き続ける和輝を一番傍で見て来た。守ることも救うことも、匠は出来なかった。

 泣きたくなる程、叫びたくなる程、逃げたくなる程、自分は無力だった。
 けれど。


「ずっと、ヒーローになりたかった」


 ぽつぽつと零れ落ちる声に、病室が溶けるように静まり返る。


「ヒーローに、なりたかった……」


 一年前の高槻との約束が、今も胸の中にある。
 ヒーローになれと、伸ばされる手を一つだって無視するなと、高槻が訴え掛ける。けれど、高槻がクリーム塗れの和輝の頭を撫でた。


「馬鹿言うな。お前はもう、ヒーローだよ」


 不死身の勇者でもなく、正義の味方でもなく、危機に駆け付ける五人組でもなく。
 ただ一人の、小さな小さなヒーローだった。
 鼻を啜り、普段の通るボーイソプラノを忘れてしまうような涙声で、和輝が言った。


「でも、俺は救えなかった」


 それが誰のことなのか、匠には解らなかった。和輝がぽつりと零す。


「水崎も、袴田先輩も……!」


 自殺した水崎亜矢、服役する袴田翔貴。傷跡だけを残した二つの事件。
 高槻は暫しの逡巡の後、ああ、そうか、と理解する。

 やっぱり、お前は、あいつ等を救いたかったんだな。

 解ってはいたけれど、と高槻は肩を落とす。


「……もういい」


 もういい。そう繰り返し、高槻が拳を握る。
 故障した右肩と腕も、自ら切り裂いた左手首の裂傷も、無意識に浮かべられる作り笑顔も、彼が前を向いて来た勲章だ。
 だから、それでいい。
 ハッピーエンドの望めない世界でも、先の見えない暗闇の中でもいい。

 ただ一つ願うのは。
 この世界が少しでも、優しい世界でありますように、と。

2012.8.9