晴海高校野球部の夏が終わった日、三人の上級生が引退した。年甲斐も無く泣き喚いてからの昼食は味気無く、まるで砂でも食べているかのように喉に突っ掛った。野球部として最後の食事を終えたキャプテンの藤は、真っ直ぐに俺を見て笑った。泣き腫らした赤い目に映り込む自分の姿も大概酷いものだったけれど、意味深に向けられるその視線の意味を探ろうと咀嚼を急いだ。
野球部を頼んだぞ、和輝。
にこり、と。
悪意の欠片も無い子どものような笑みを浮かべた三年生に異論を唱える者はいなかった。後から聞いた話、状況が呑み込めず呆然とする俺とは違い、皆からすれば当然の成り行きだったそうだ。三年生の引退とキャプテンへ就任した翌日、晴海高校は甲子園の結末を見届けることなく関東に帰還した。行楽シーズンにも関わらず、高速道路は渋滞することなくバスはすいすいと帰路を辿った。
副キャプテンに就任したのは箕輪だった。先輩からの叱咤激励に涙声で必死に返事する様は、責任感の強い努力家の彼らしかった。
本拠地に戻って一週間の休暇が与えられた。スポーツ推薦枠を多数取り入れている晴海高校には一般入試を受けていない、所謂脳味噌筋肉という生徒が多数存在する。課題は平等に配布される為、どの部活動にも一定期間の休暇を取ることは義務化されている。年々、偏差値を上げ続ける晴海高校の夏季休暇の課題は中々に過酷だ。一週間で捌き切れるとは到底思えないが、捌くしか無いのも事実だった。
課題に追われる一週間の合間、野球部二年で図書館に集合しては黙々と腕のみを動かしていく。キャパシティを大幅に超えた勉強のお蔭で屍と化した自分を見兼ねて、箕輪が外に連れ出してくれたのが一時間前。数日ぶりに触れるボールに鉛のように重かった体が軽くなるのが解った。
嵐のようだった数日。けれど、甲子園ではまだ激闘が続いている。何処か現実離れした足元の浮遊感に酔いながら追い掛ける白球は、突き抜けるような蒼穹に放物線を描いて飛んでいく。重量141.7g、円周22.9cmの公式球。同じ空の下、浮かんでいるのは同じ公式球だというのに、この場所は甲子園とはまるで違う。
箕輪の放り投げた白球を追い掛けて、倒れ込んだ河川敷のグラウンド。右手グラブの中に収まった白球を左手に持ち直す。空に掲げれば灼熱の太陽が嘲笑う。
同じ、空の下なのに――遠い。
脳裏に浮かぶ赤嶺陸。青樹大和。浅賀達矢。同じ年に生まれた同じ年の少年が、同じ空の下同じボールを追い掛けている。ただ、立つ場所が違うだけで、こんなにも。
「……おい、和輝」
中々戻らない自分を心配してか、匠が青空を遮って覗き込む。
持ち上げていた右腕が怠い。ゆるゆると下ろせば心配そうな匠の不機嫌な顔が見えた。
「遠いなあー……」
他意無く呟いたが、匠は盛大な溜息を零して隣に座り込んだ。
穏やかに流れていく律見川のせせらぎに耳を澄ませば、突然、握っていた白球が引っ手繰られた。
「遠くねーよ!」
猫のような丸い目が、此方を睨んだ。苛立ったような匠の強い口調に暫し瞠目する。
けれど。
「ああ! 走って行けば、すぐ其処だ!」
諦めなければ夢が叶うとは言わない。それでも、諦めたら叶わないことは事実だ。
勢いよく起き上れば、驚いた顔をした匠がいた。
晴海高校野球部は現在総勢七名。夏の選抜後の公式戦である新人戦、更に春の選抜には出場出来ない。助っ人を頼めば出場出来るかも知れないが、問題続きで主に悪い意味で有名な野球部にわざわざ肩入れしようなんて物好きはそうそういないだろう。
来年の夏が、最後だ。
最後。再度そう呟いて口を噤む。あっという間、あっという間の三年間だ。入学当初、晴海高校の真新しい校舎に向けて握った拳を今も覚えている。あの頃に比べて自分は大人になって、色々なものを得て、失った。モラトリアム。高校生活は所謂、大人になる為の準備期間、猶予期間だ。悩むことを、挫折することを、熱中することを許される僅かな時間。人生の大半はこの青春時代で構成されるという。
自分を構成するものは何だろう。家族と仲間と、それから野球。自分を形作るものなんて極僅かだ。だけど、それでいい。それだけあれば十分だ。
同じ空の下、同じ白球を追い掛ける仲間を思い浮かべ、和輝が拳を握る。込み上げる得体の知れない何かを呑み込むように奥歯を噛み締める。と、その時。隣の匠が何か間の抜けたような奇妙な声を上げた。
「何で、こんなとこにいるんだよ」
愚痴っぽい匠のぼやきに目を向ければ、グラウンドの端に小さな影が見えた。
小柄な少女だ。背の中程まで伸ばした緩いパーマの掛かった髪は薄茶色で、それが染髪でないことは長い付き合いの自分達が誰より知っている。
奈々だ。グラウンドから立ち上る陽炎にも消されそうな儚い姿に目を疑う。
弾みを付けて勢いよく立ち上がり、大きく手を振る。
「おーい、奈々ぁ」
此方に気付いているだろうが、奈々は遠くで僅かに微笑むだけで駆け寄っては来ない。何か違和感を覚え、此方から距離を縮める。奈々はやはり、少し困ったように微笑むだけだった。
「奈々」
声を掛けると同時に、違和感に気付く。
痩せた。――というよりも、やつれた。今にも倒れてしまいそうに血の気の失せた白い面。
「なあ、奈々」
如何した、と問い掛ける前に、奈々の大きな瞳に水の薄い膜が張った。
あ、と思う間も無く零れ落ちたその滴は、すぐさまその小さな手の甲に拭い去られた。その涙を拭い去る術を持たぬまま、何が起きたのかと追求することも出来ず、唸りながら視線を泳がせた。
「……お前、学校は」
奈々は西東京のとある野球の強豪校のマネージャーだ。甲子園に出場したことは聞いているが、その後が如何なったのかは把握していなかった。
まだ甲子園本選真っ最中だった筈だけど。
何かを訪ねようと口を開いた瞬間、奈々が言った。
「和輝はいいね」
「え?」
「仲間がいて、いいね」
言われて見渡す。其処で漸く、気付く。
二年生だけで行っていた筈の自主練が、何処から沸いたのか一年の醍醐、蓮見、星原がグラウンドに立っている。課題を終わらせる為の夏季休暇に自分達は一体何をやっているのかと、内心呆れつつほくそ笑む。馬鹿だな。俺も含めて。
そうしてグラウンドに目を向けていれば、奈々がまた言った。
「甲子園で、政和賀川に負けたの」
「ああ、マジか。俺らと一緒だな」
23-0という思い出すのも恐ろしい惨敗だ。
苦笑交じりに言えば、奈々が漸く僅かに微笑んだ。
「何で、笑ってられるの?」
「はあ?」
「あんだけ惨敗したのに、よく笑ってられるね」
「惨敗したことと、今此処で笑ってることは別の問題だろ。何時までも引き摺ってられねーよ」
何事も切り替えが大事だよ。そう言うと、奈々の綺麗な顔がくしゃりと歪んだ。
「和輝はいいね……」
漸く止まった筈の涙がまたぽつりと、零れ落ちた。
俺が何をしたって言うんだ。少なくとも、針の蓆のように仲間からじと目で睨まれる謂れは無い筈だ。周囲から向けられる冷たい眼差しに溜息を零す。
「何が良いんだよ。お前、訳解んねーよ」
「仲間がいて」
「仲間なら、お前だっているだろ。こんなとこいていいのかよ。お前等は俺達と違って新人戦も、春甲もあるんだから練習しろよ」
「……出来るものなら」
意味深な言葉。奈々らしくないな、と思いながら先を促す。
「圧倒的才能の前じゃ、努力なんて下らないよ」
「うるせー。何事もやってみなきゃ解んねーよ」
「解るよ」
「解んねーよ」
終わりの無い水掛け論を続ける様に呆れたように、匠が漸く仲裁に入る。それでも泣きじゃくる奈々を宥め切れずに匠が呆れたように溜息を零した。
他愛の無い言い争いは数え切れない。泣かせたことは数知れない。けれど、少なくとも、奈々は人前で涙を見せる程に弱くはなかった筈だ。それが自分の思い上がりでは無いと思い込めるくらい過ごした時は長い。
それでも、奈々に決め付けて欲しくなんてない。
「俺の未来を、お前が勝手に諦めるなよ」
しゃくり上げていた奈々が動きを止めて、じっと此方を見詰めていた。瞳を覆う涙の膜は今にもまた零れ落ちそうだったけれど、それを拭い去るのは自分の掌では無い筈だ。奈々が決めて歩き出した結果を、俺が勝手に決め付けて慰めて良い筈が無い。
黙っていると、隣でまた匠がわざとらしいくらいに大きな溜息を零した。
「……泣くのは勝手だけど、此処で泣くな。救いを和輝に求めんなよ」
「――救い、なんて」
仰々しい言葉を使うな、と奈々が鋭く睨む。猛禽類を思わせる視線に、奈々と言う人物を取り違えていたことに気付いた面々が顔を見合わせる。奈々が、皮肉っぽく笑った。
何処か遠くで蜩が鳴いている。夏が終わろうとしていた。
24.リトル・ヒーロー<前編>
青空に浮かんでいた雲はやがて雷雨を引き連れてやって来た。バケツを引っ繰り返したような豪雨にずぶ濡れになりながら帰路を辿る足は速く、夏の温い空気すら掻き消す程に体中の熱を奪っては流れ落ちて行く。
雲が無いのに降る雨は、空が泣いているのだそうだ。じゃあ、この突然の豪雨は一体誰の涙なのだろう。泣くことの出来ない人の為に雨が降るのなら、災害でしかないと排水溝に吸い込まれていくだけでは趣が無い。日本には雨に関する単語が沢山あり、それだけ日本人は雨というものに思い馳せていた。だからといって、ずぶ濡れで鼻歌混じりに歩く程に酔狂では無いから、結局は水溜りを踏み締めながら走って行くのだ。
こんなことを言えば、匠は呆れるだろうな。
「早く走れ!」
先を行く匠が叫んだ。せっかくの自主練が急遽中止になった帰り道だった。
水溜りを何でもないように跳ねさせて走って行く匠の目には何が見えているのだろう。偏差値の低さの割に、頭でっかちな自分が不釣り合いだと笑われるかも知れない。
滑り込むようにしてバス停の屋根の下に辿り付く。全身余すところなくずぶ濡れの自分達を見て、バスを待つ人間は訝しげに眼を細めていた。気付かない振りをして鞄を漁るけれど、中身も漏れなくぐっしょりと水分を吸い取り、タオルの類は全滅だった。
「……走るか」
覚悟を決めるようにして、匠が言った。
走れるか、と訊かないところが好きだ。無用な心配はしない。さり気無く自分を尊重してくれる匠の優しさが大好きだ。
「走ろう」
大きく頷くと、匠が少し笑った。
屋根から飛び出そうと身構えたその瞬間、何かを思い出したように匠の足が止まる。
「お前って、甲子園の中継とか見てる?」
「ん? いや、見てないな」
そういえば。
あの惨敗以来、甲子園については殆ど意識していなかった。思い出したくない訳では無いけれど、それ以上に目の前に立ち塞がる壁を如何したら打破出来るのかを思えば、立ち止まって等いられなかった。要するに、忙しかったのだ。
匠が苦笑した。
「西東京代表だった坂戸高校、政和賀川に20-0で惨敗だったんだ」
奈々がマネージャーをする野球部は坂戸高校だ。初戦敗退した自分達の後、奈々達もまた、赤嶺のあの圧倒的な実力の前に惨敗したのだ。
惨敗が響かない訳ではないけれど、と言葉を返そうとする前に、匠が言った。
「お前今まで、コールド負けってしたことあるか?」
首を振る。匠が「そうだよな」と笑った。
「この前の試合は、実質コールド負けだった。規則上コールドゲームは無いけど、あれ程恐ろしい展開は無いよな」
「どういうこと?」
「だから、負けって解っているのに、それでもグラウンドから逃げられない状況が、だよ」
圧倒的大差で負けが確定しているのに、九回が終わるまでグラウンドから逃げられない。視界の端に映る絶望的な点差、退場していく観客、応援団の溜息。それでも、逃げることは許されない。
どんな状況だって、逃げ道は必ず無ければならない。この一年を通して、俺は身に染みてそれを思った。世界が敵だったあの頃、家族や仲間という逃げ道が存在しなければ生きていられなかった。
匠は数日前のことを、まるで遠い昔の出来事のように遠い目をして話す。
「あの状況で諦めない、なんて漫画じゃあるまいし。逆転なんて不可能だった。それでも、俺達は最後の一瞬まで諦めずにボールを追い掛けてた。ランナーズハイだったのかも知れないけど、それ以上に、俺達にはお前がいた」
「……?」
意味が解らずに首を傾げれば匠が微笑む。
「お前が当たり前みたいに笑って、諦めないって言うからさ」
僅かに向けられた顔には笑みが浮かぶ。こんなことを言うのは匠らしくない。
諦めなかったのは一人じゃなかったからだ。一人きりだったら挫折も早かっただろう。そう、思うけれど。
何故だか、それは言う必要の無い言葉に思えた。
「……さて、そろそろ行こうぜ。帰ったら風呂直行だな」
「だな」
顔を見合わせ、降り続く雨を見据える。同時に踏み出した筈が、豪雨に霞む先に匠はいなかった。
取り残されたように目を見開いて、匠が立ち尽くしていた。如何したんだよ、なんて言葉もいらなかった。
「行くぞ!」
置いてなんていかない。待っていてなんてやらない。俺達は何時だって、前を見て走って来た。振り向けば肩を並べるこの距離感は唯一無二で、生涯で出会えるかも解らない親友を俺は持っている。
手を伸ばしはしない。差し出すのは拳だ。笑った匠が屋根から抜け出す。
馬鹿じゃねーの。匠が言った。
帰宅しても雨は降り止む気配すらなかった。
向かい隣りの家に匠が滑り込む。匠が玄関を開けると同時に、母親だろう怒鳴り声が響いて苦笑した。対象的な自宅は相変わらず闇に沈んでいるけれど、それももう慣れてしまっている。兄がプロ入りしてからは帰宅の遅い父と二人暮らしだ。
ずぶ濡れの鞄から家の鍵を探そうと手を突っ込むけれど、目当ての物は中々見付からない。
何処にしまったかな、なんて思いながら見付けられず屋根のある庭先に移動する。土の露出した庭は一切手入れをしない為に雑草がジャングルのように広がっていた。けれど、その鬱蒼とした景色に見慣れない一つの小さな背中があって。
「……奈々?」
幼馴染の、女の子。
先程別れたばかりの奈々が、声に反応してゆっくりと振り返る。自慢の髪がびしょびしょだぞ、と笑ってやろうとして止める。歪んだ顔が濡れているのはきっと、雨のせいだけでは、無い。
好い加減、泣くなよ。そんなことを思いながら距離を詰める。
「人の家で何してんだよ。風邪引くぞ」
伸ばした手は取られない。奈々が口を開いた。
「如何して、私は和輝じゃなかったんだろ……」
何を言っているのか解らないのは、俺の頭が悪いせいではない筈だ。
それでも、僅かに開かれた口から零れ落ちる言葉は聞き逃せなかった。
「私には、何も出来ない……。私は、いらないんだね……」
いらない人間なんて、いない。そんなのきれいごとだ。所詮、命なんて代替出来る代物だ。
「私の居場所なんて、何処にも無いよ……」
考えるよりも先に、体が動いていた。
思うよりも先に、口が開いていた。
「馬鹿言うな」
冷たく冷えた小さな体を引き寄せる。水分を吸い取った髪が衣服に纏わり付いているようだった。
奈々は幼馴染で、近所に住む女の子だ。自分に素直で、時々我儘で、けれどそれ以上に優しい人間であることを知っている。トラブルメーカーで、甘えん坊で、小さくて、俺が昔から守ってやらなきゃいけない存在だった。それなのに、この小さい体で俺のことを必死に守ろうとして来たことも知ってる。
何時だって傍にいてくれたのは匠だけじゃなくて。
「居場所が無いなんて言うなよ。……俺じゃ、駄目か?」
凍えているのか寒さに震える肩を抱き締める。小柄だと言われる自分よりも細くて小さな背中だ。抱いてみて初めて、こんなに小さかったのかと驚く。
何を背負って来たんだろう。何を守って来たんだろう。俺に見えない何を見て来たんだろう。独りぼっちで、こんなところで。
見た目以上に強い女の子だ。俺の前では泣き虫だったけど、そんなこの子が如何しようも無いと、何処にも行けないと最後に縋ったのがこの掌だったなら、如何してそれを振り払える。手を伸ばさずにいられる。
「俺の隣は、お前の居場所になれねーか?」
雨が、煩い。拍動が耳障りだ。
声が聞こえないだろう。少しくらい、黙っていてくれよ。
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