「何処にも行かない」


 親友の声が震えていた。俺が背中を向けた先であいつは泣いていたのかも知れない。





3.ダウト





 毎年恒例となった三年生の春の遠足は県内にある山登りだった。都内から一時間も掛からないその山を、設置されているケーブルカーやリフトに頼らず自力で列を崩さず登り切るという軍隊のトレーニングのような内容だ。気分も乗らないまま、けれどボイコットなど出来ないように早朝家まで迎えに来た和輝に悪態吐きつつ、俺は集合場所である学校へ向かった。
 既に殆どの生徒が集合し、これから始まる登山のことも忘れて何処か皆浮足立っていた。反比例するように俺の気分は急降下し、逃げないように常に隣を離れない和輝は妙にテンションが高くて兎に角喋りっ放しだった。余程楽しみにしていたのか、充血した眼の下には隈が刻まれていた。
 バスの座席は勝手に決められ、案の定、和輝の隣だった。ただ、窓際だったので喋り続ける和輝を無視するには丁度良かった。
 退屈なバスレク、内容の無い和輝のマシンガントーク、クラスメイトの白い眼。何もかも胡散臭くてウザったくて、かといって中々訪れない睡魔に苛立ちながら何度も舌打ちをした。
 和輝の蟀谷には小さな瘡蓋が出来ていた。遠足のしおりに記載された通り、和輝は兄のお下がりのキャップを被っていたので一瞬しか見えなかった。別に俺が怪我をさせた訳では無いけれど、何の非も無い訳では無かったから、ばつが悪かった。だから、和輝が帽子を被っているのは都合が良かった。
 新鮮な森の空気を肺に満たしながら一時間程、急斜面を登れば頂上に辿り付く。女子なんかは息を切らせてだんだんと歩調が緩くなるけれど、何がこいつを掻き立てているのかと思うくらい和輝は饒舌だった。少しは黙ればいいのにと思うけれど、それは和輝を労わっているようで何だか薄ら寒くて全て無視した。それでも和輝は嬉しそうに何か喋り続けていた。
 昼食と自由時間。先日の言葉を裏付けるように和輝は俺に付き纏った。無理矢理俺の手を引いて仲間のところに連れて行く。一瞬、空気が悪くなる。それは俺だって不本意なのに、和輝はお構いなしにマシンガントークを続けた。仲間も流石に和輝の妙なテンションに気付いたようだけど、何も言わなかった。そのお蔭か、昼食中に気まずさは感じなかった。
 帰り道も和輝は喋りっ放しだった。内容は欠片も覚えていない。慣れない山歩きに疲れたせいか、バスの中で俺は眠っていた。
 家に帰り付いた頃はもう夕暮れだった。流石に疲れたのか、和輝は黙っていた。俺も話すことが無いから黙っていた。黙って帰路を辿る内に、こうして歩くのは久しぶりだなと思った。俺の怪我は順調に回復していて、もうじきギプスも取れるだろう。そうしたらまた前みたいに野球が出来る。ブランクも、猛練習すれば徐々に本調子を取り戻せるだろう。そんな確信があった。
 向こう隣りにある蜂谷家。玄関で祐輝君が和輝の帰りを待っていた。
 不機嫌そうな仏頂面で、着いた早々和輝の頭を撫でた。それを横目に俺が家に入ろうとすると、背中に祐輝君の声が突き刺さった。


「おい、匠」


 祐輝君は無表情だった。和輝は玄関に押し込まれたのか、姿が見えなかった。


「お前の怪我、何時治るって?」
「……明後日病院に行ったら、多分もうギプスも外れると思うけど」
「そうか」


 それだけ言って、祐輝君は背中を向けた。何処か苛立っているような祐輝君の調子は俺には解らない。
 それ以上に何だか酷く疲れた気がして、今すぐ眠りたかった。けれど、階下から母の声が響いた。


「さっさとお風呂入っちゃいなさい!」


 洗濯物も洗い物も早く出しなさい。
 ああ、そうだった。面倒臭く思いながら、ベッドに寝転んだまま遠足鞄を引き寄せる。芝生の上に投げ出したせいか、鞄は泥がこびり付いている。微睡みながらファスナーを開けて、――目を疑った。
 それはある筈の無いものだった。
 皺の寄った何の変哲も無いコピー用紙。こんなもの入れたかな、なんて思いながら開いた先にあった一本の雑草。押し花にしたのだろうそれは干からびてまるでミイラのようだった。長い茎は途中で手折られ、瑞々しかっただろう四つの葉は歪んでいる。けれど、それはきっと和輝が探し続けた


 四葉のクローバーだった。


 意味が解らなかった。何でこれが此処にあるんだ。
 微睡は一瞬で消え去り、勢いよく起き上る。解らない。解らない。解らない。だってこれは、幾ら努力しても認められないで、苦汁を嘗め続けた和輝が報われるように、彼がレギュラーになって俺達と一緒にグラウンドに立てるように探し続けた小さな希望だった。
 コピー用紙の隅に、鉛筆の走り書きがあった。


 匠の怪我が治りますように。


 馬鹿じゃねーの。いや、馬鹿だろ。
 起き上った俺は転がるようにして家を飛び出した。母親が何か言っていたけれど、俺は蜂谷家に駆け込んだ。チャイムを鳴らしても和輝は顔を見せなくて、代わりに現れたのは仏頂面の祐輝君だった。


「……和輝は!」
「寝たよ。何か用か」


 祐輝君は俺の手の中の紙と四葉のクローバーを見て、何か合点がいったように目を細めた。


「それ、昨日やっと見付けたんだ。大事にしろよ」
「……そうじゃなくて!」


 要領を得ない俺の言葉も理解したらしく、祐輝君は大きく溜息を吐いた。学力でも学年で一、二を争う祐輝君は、学年ぶっちぎりの最下位の脳味噌を持つ和輝より理解も話も早い。
 祐輝君が言った。


「お前が事故に遭った日から、空き地でずっと探してたんだ。何時もの自主練の後、外灯の無いあの空き地で毎日毎日」


 馬鹿みたいだろ。祐輝君の言葉に、俺は頷けなかった。


「何でお前が事故に遭ったのかは知らないけど、和輝が原因なんだろ? それであいつ、一日でも早くお前に治して欲しかったんだよ」


 俺は何も言えなかった。和輝が原因だなんて、――思わなかった訳じゃない。
 あの日、和輝が俺のこと理解して付いて来てくれればこんな怪我しなかった。なのに、あいつは一度だって謝りもしないで、毎日纏わり付くだけだった。当たり前みたいに自主練しに行く和輝が憎かった。俺はボールも握れないのに、変わらず野球をする和輝が恨めしかった。
 何で、俺のこと選んでくれなかったんだ。俺は何時だって和輝の為にしてるのに、何で解ってくれないんだ。ずっと、そう思ってた。だって、そうだろ?
 あいつはどうせ、どんなに練習したって認められないんだ。俺がいなきゃ何も出来ないんだ。俺の言うこと聞いていればいいのに、逆らって来て。
 其処で、漸く気付く。俺は和輝と、友達だったのかな。ちゃんと、友達してやれてたのかな。
 あいつのこと、ちゃんと見てやれてたのかな。認めてやれたのかな。――向き合っていてやれたのかな。
 祐輝君は黙った俺をじっと見詰めて、言った。


「和輝のこと、何時までも見下してんじゃねーよ」


 それはこれまで聞いて来た祐輝君の凛とした声とは違う、まるでお前が憎いと言うような冷たい声だった。
 話は終わりだ、と言うように祐輝君は玄関の扉を閉めた。俺は立ち尽くしていた。ここ数日の和輝を思い出していた。
 教室で被害者面して腐ってた俺を、何度突っ撥ねられても仲間の元に連れて行こうとした。無視されてもずっと喋り続けていた。出て行けば追い掛けて、突き放せば縋り付いて。
 和輝の為にしてやってるのに、なんて、あいつは一度だってそれを口に出して望んだことは無かった。思えば全部、俺の押し付けがましい親切の自己満足だった。和輝の面倒を見てやっていると善人ぶっていただけだった。
 体中が鉛になったように重かった。玄関で兄貴が立っていた。祐輝君の声が聞こえていたみたいで、何とも言えない複雑な顔をしていた。それでも、慰めるなんて甲斐性も優しさも持ち合わせていない兄貴は容赦無く俺の知らない真実を告げた。


「お前が付き合ってやってると思ってる自主練だけど、和輝はもっと前から一人でやってたんだぞ」


 流石に祐輝君のようにそのまま立ち去りはしなかったけれど、兄貴ははっきりと言った。


「お前なんかに言われなくても、和輝は始めから努力してたんだぞ。お前は付き合ってやってると思って満足してたかも知れないけど、自主練すればいいなんて言われた時の和輝の気持ち、少しは考えてやれ」


 そう言って、兄貴は困ったように眉を下げた。
 そうか。あいつ、ずっと一人で練習してたんだ。じゃあ俺は、あいつに努力が足りないって言ったのか。あいつの頑張りを一番知った気になって、不当な評価に憤って、自己満足の為にあいつをずっと傷付けてたのか。
 理解すると同時に酷く悔しくなった。和輝を殴ってやりたかった。何で、そういうこと言わねーんだよ。怒れよ。泣けよ。
 そして、すぐに思う。あいつが文句とか弱音とか泣き言とか、零したこと一度も無かったな、なんて。
 手の中の四葉のクローバーはぐしゃぐしゃだった。
 俺が事故に遭ってから三か月。台風の日もあった。雷の日もあった。昇格試験で落ちた日もあった。でも、毎日毎日馬鹿みたいに、これを探していたんだろうか。


 匠の怪我が治りますように。


 相変わらず汚い字だ。俺が左手で書いても大差ない。
 馬鹿じゃねーの。それは如何やら声に出ていたらしく、兄貴が「馬鹿はお前だよ」と言った。違いない。
 和輝は頭は悪いけど、馬鹿じゃなかった。その証拠に、あいつの周りは何時も人が集まっている。
 俺は学校を飛び出した日のことを思い出した。追い掛けてくれたのは和輝だけだった。何処にも行かない。和輝が言った。何処にも行かないんじゃない。何処にも行けなかったんだ。凍り付いたみたいに立ち尽くした和輝が何を思ったのかなんて、俺の想像でしかない。今はただ、和輝に会いたかった。
 風呂に入ってベッドに倒れ込んでも、睡魔は一向に訪れなかった。ここ三か月の和輝の行動を思い出して、胸が軋むように痛んだ。今日のバスの中で、和輝が何を話していたのかも思い出せない。そんなに話題があった訳でもないだろう。でも、ずっと何かを話していた。一体何を、話したかったんだろう。
 ダウトで和輝が負けたことは一度も無い。それは嘘を見抜くのが上手いだけじゃなくて、嘘を吐くのがそれ以上に上手かったんだ。ずっと一緒にいた俺でさえ見破れないくらいに。

 なあ、和輝。
 お前、どんな気持ちで俺の傍にいたの。どんな気持ちでクローバーを探したの。なあ、教えてよ。お前の隠し続けた本音を俺に話してよ。

 次の日は土曜日だった。昇格試験の日だった。
 俺は四葉のクローバーを握り締めて試験を見守ったけれど、結果は相変わらずだった。和輝の守備は完璧だったし、打撃もバッチリだった。それでも、和輝の名前が呼ばれることは最後まで無かった。何が悪いのかも正直解らない。大人の事情だったのかも知れない。それでも、和輝は目を伏せて何も言わなかった。
 練習が終わった後、自主練もしないで和輝は真っ直ぐ家に帰った。珍しいと思ったけれど、和輝はジャージに着替えてすぐに家から出て来た。其処にいたのは何時もと何も変わらない和輝で、玄関先にいる俺を見ると驚いたように目を真ん丸にした。


「どーした、匠」


 俺は握り締めていた四葉のクローバーを和輝に押し付けた。


「返す」
「え、何で」
「俺の怪我が治っても、お前がレギュラー落ちしてんじゃ意味無いんだよ」


 だってこれは、お前がレギュラー入りする為のものだろ。
 そうしたら、和輝は可笑しそうに顔をくしゃりと歪めた。


「尚更受け取れねーよ」
「何で」


 和輝が笑った。


「四葉のクローバーに頼って背番号貰ったって、嬉しくも何ともねーんだよ」


 その言葉で俺は漸く理解した。
 俺が事故に遭ったあの日、和輝は自分の為に四葉のクローバーを探してた訳じゃないことに。始めからそんなものに頼る気なんて無くて、ただ、奈々の為に付き合っていただけなんだ。だから和輝は俺の手を取らなかった。自分の為にクローバーを探そうとする奈々の為に。
 俺は何も解っていなかった。何も見えていなかった。
 和輝は笑っていた。


「じゃ、俺そろそろ行くから。レギュラー落ちしてんだ。こんなところでサボってらんねーよ」


 へらりと、何でもないみたいに笑って。


「負けてらんねーよな。匠の言う通り、お前の怪我が治って俺がレギュラー落ちしてたら意味無ぇし」


 半袖のTシャツを着た和輝の肘は擦り剥いて血が滲んでいた。昇格試験の守備で、意地の悪い監督が放ったゴロがイレギュラーとなってとんでもない方向に跳ねた。それを跳び付いて捕球した和輝はそのままグラウンドに派手に倒れ込んだんだ。如何にか送球した和輝に監督は遅いと怒鳴り付けていたけど。
 最後まで名前を呼んで貰えなくても和輝は背筋を伸ばして前を見据えていたけど。


「ダウト」


 俺の言葉に驚いたように、和輝は走り出そうとした足を止めた。


「笑ってんじゃねーよ。悔しくない筈、悲しくない筈、ねーだろ」


 だって俺は、お前の努力を人一倍知ってる。
 こいつの世界は小さくて狭くて、――冷たい。何時だって逆境だ、慣れていたとしても、何も思わない訳じゃない。
 俺は生まれて初めて、こいつの嘘を見破った。和輝は心底驚いたらしく、これ以上ないくらい狼狽していた。何時もの減らず口も無く、何かを言おうとして口籠る。


「もう、お前の嘘は俺に通じねーよ。だから、好い加減、弱音くらい零せよ。愚痴くらい言えよ。――泣けよ」


 そう言いながら、先に涙を落としたのは俺だった。無性に悔しくて苦しくて、辛くて悲しくて、涙が引っ切り無しに零れた。
 和輝は走り出そうとしていた足を俺の元に向けて、止められない涙を一生懸命に拭った。


「何で、匠が泣くんだよ。お前が泣いてたら、俺まで……ッ」


 ぽつりと、和輝の目から涙が零れ落ちた。
 二人で声を上げて泣いた。崩れ落ちるように膝を着いて、互いに肩を抱き寄せて泣いた。驚いた祐輝君と兄貴が駆け付けたけれど、俺達は泣き続けた。和輝は泣くばかりで終に弱音なんて零さなかったけれど、それでも俺には和輝の気持ちが手に取るように解った。
 置いて行かないで。独りにしないで。和輝が願ったのはレギュラーではなくて、本当は。


「俺、匠と一緒にいたいんだよ……!」


 ここ三か月の孤独を思い返しては和輝が泣き喚く。釣られて俺も泣いた。
 その後のことはよく覚えていない。兄貴の話では、そのまま眠ってしまったらしい。如何にか互いの家に連れて帰ったそうだけど、俺の手の中には和輝が見付けてくれた四葉のクローバーがあった。
 翌日、俺は病院でギプスを外して貰った。怪我は完治していた。

 その翌月、俺達は揃ってレギュラー入りを果たす。同じグラウンドに立った和輝は泣きながら笑っていた。

 そして、もう一つ余談。
 二人で泣き喚いたその日以来、俺は和輝とカードゲームが白熱するようになった。和輝の圧勝だったダウトで、俺は初めて和輝に勝利した。表情やゲームの流れから相手の嘘を見破る和輝は相変わらず海内無双だったけれど、俺は時々その思考が手に取るように解ってしまって、その嘘を見破れるようになったのだ。
 負けた和輝は悔しいと言ったけれど、嬉しそうだった。

 和輝は今日も皆の中心で、皆を惹き付けて離さない。
 勉強は相変わらず担任の悩みの種だけど、運動面ではその頭角をぐんぐん現して来て天才と呼ばれている。
 時々熱が入り過ぎてオーバーワークしてしまう和輝だけど、俺がそれを見破ると観念したように傍に来て休むようになった。


「お前には敵わないな」


 和輝が笑う。そんなのお互い様だろ。



 なあ、ヒーロー。

 其処で笑っていてくれて、ありがとう。