たった一晩の間に何が起こったのかなど、昏睡状態だった和輝に解る筈も無かった。目まぐるしく変化する日常に付いて行くことなど出来ず、何も知らぬまま白痴の如くぼんやりと窓の外を眺めているだけだった。
右肩から腕に掛けて覆う包帯の下の傷が、どの程度のものなのか聞かなくとも解っていた。絶望して泣きじゃくることが出来たなら、まだ幸せだったかも知れないけれど、まだ起きたばかりの愚鈍な脳では処理し切れない情報量だったのだ。
袴田は逮捕されたらしい。そして、彼を止めようとした高槻は植物状態。たった一日の間に起こった連続する悲劇が未だに信じられない。嘘だと否定する自分がいる。
「キャプテーン……」
窓の外に広がる蒼穹に向けて、和輝は呼び掛けた。返って来る筈の無い声を、何時までも待っていた。
そして今日、和輝は十六歳になった。
「キャプテン……」
俺、十六になりましたよ。如何して、何も言ってくれないんですか。
真っ白いベッドの上で、疲労と怪我で動かすことの出来ない下半身を埋めながら和輝は俯いた。傍に並ぶ無数の管は、まるで幼い頃のデジャヴだと思った。
野球部は如何なったのだろう。まさか、参加選手がいないのに試合に出られる筈も無いけれど、目の前だった甲子園への思いは語り尽くせない。
その時、乾いたノックの音が転がった。此方の声を待つより早く開いた白い扉の向こうから祐輝が現れた。目の下に深い隈を刻むその様は寝不足というよりも心労が大きいのだろう。
「お客さんだぜ。如何する、和輝」
背後にいるのだろう何者かの気配に和輝は顔を向けた。
無理をして会う必要は無いのだと、不機嫌そうな祐輝の顔や態度が訴えて来る。和輝は苦笑して、後ろの気配に声を掛けた。
「こんにちは」
遠慮がちに扉の奥から顔を覗かせたのは、萩原と桜橋だった。二人とも酷く疲れた顔をしている。たった一晩の間に随分と年老いたような気さえする。そんなことを口にしても彼等は何時ものように小突くことも笑うことも、呆れることもしてはくれないだろうけど。
萩原はベッドから降りることの出来ない和輝を見て、伏せ目がちに言った。
「高槻のことは、聞いたか?」
突然、本題に入った萩原の言葉に、和輝は身を固くした。その様を横から祐輝はじっと見詰めている。
暫しの沈黙を挟み、和輝は頷いた。
「伺いました。……植物状態、って」
「そうか……」
萩原は沈黙した。何かを言い淀み口元を噤んだというのが正しいのかも知れない。こんなに歯切れ悪い萩原は初めてだなと思いながらも、当然の行動であることも十分に理解出来た。
和輝は窓の外に目を向けた。脳裏に過るのは、どちらが前かも解らない闇の中、強い力で手を引いてくれた高槻の後ろ姿だった。
「でも、生きてる」
失われたものが戻って来ない喪失感を、和輝はもう知っている。けれど、高槻がそうではないことを解っていた。
「生きていれば、何度でも遣り直せる」
中天の太陽を受けながら、和輝は微笑んだ。消えそうに儚い笑みは、病室という特殊空間が見せる幻ではないだろう。萩原はこんな時でも前向きな後輩を見て、悲しく思った。
泣けばいいのに、と思う。はっきりと言い切るのは確信があるのか、それともただ、信じたいのか。二度と目を覚ますことがないと医者に宣告されても、脳に障害が残ると言われても、それでも信じたいのか。また笑って、以前の高槻が帰って来ると。
言葉を見付けられない萩原に、和輝は話を切り替えるように言った。――否、切り替えたかったのかも知れない。
「そういえば、袴田さんは……?」
自ら名を口にした和輝は、無意識に暴行を受けた傷を押さえていた。純粋に痛みが原因とは思えなかった。
萩原は話題が切り替わったことですらすらと答えた。
「逮捕されたよ。一年前の暴行未遂事件も明るみに出て、今は少年院行きの手続き中ってとこかな。留置場に行けば会えると思うが……」
「そうですか……」
真面な神経ならば、自分を暴行した男に会おうとは思わないだろう。
和輝は少しだけ考え込む素振りをして、困ったように笑った。
「会いになんて行きませんよ。ただ、自分のしたことの結果は知らないと行けないから」
和輝が何をしたのだろう。何かしたのは、袴田の方だ。
萩原はそう言いたかった。けれど、駆け付けた頃には全て終わってしまって、何も出来なかった自分に言えることは何も無い。後から難癖付けるのは卑怯者だ。
黙り込んだ萩原に、和輝は殊更明るく言った。
「俺、今、携帯無いから人と連絡取れなくて……。来てくれて助かりました」
「無い?」
「何処かで落としたみたいです」
小首を傾げて何処か子どもっぽく笑う和輝は、何処か演技掛かっている。それはきっと、何かを誤魔化しているからだ。
もしも廃工場跡に落としたのなら、今頃警察に保管されていることだろう。事件への関連性が無ければ返してくれるだろう。
「なあ、そろそろ帰ってくれねーか?」
それまで沈黙を守っていた祐輝が言った。酷く不機嫌そうに細められた目は鋭く、テレビで見る王子様と呼ばれる彼からは想像も付かない姿だ。尤も、当分の間、テレビなど見たくも無いだろうと萩原は思った。それも、お互いに。
萩原は頷き、踵を返した。桜橋も同様に後を追う。けれど、ふと思い出したように桜橋が振り返って行った。
「和輝、誕生日おめでとう」
その言葉に深い意味など無かっただろう。桜橋はそれだけ言って病室を出て行った。祐輝は横目に和輝を確認し、溜息と共に扉に手を掛けた。
人形のように硬直する和輝の目に何が映っているのか、祐輝には痛い程解った。
「泣いてもいいんじゃねーか?」
祐輝の呟きが、吹き抜ける風と共に和輝の胸に舞い込んだ。俯いた和輝は何も言わない。祐輝は病室を出て行った。
声・1
届くことの無かったその声を、
病室を出た祐輝は、少し先を歩く萩原と桜橋に追い付いた。驚いたように目を丸くする二人を余所に、ポケットから取り出したキャップを深く被って祐輝は無表情にだった。
暫く無言で歩き続け、エレベータの前に立つ。祐輝はポケットから、一つの携帯電話を取り出した。傷だらけで見覚えのあるシルバーボディに、桜橋ははっとした
。
「あんた、それ」
「ん」
掌で弄ぶように、祐輝は携帯を開く。
「和輝のだよ」
萩原は閉口した。先程の様子からして和輝は知らないのだろう。祐輝がそれを隠す理由が解らずに困惑していると、携帯は震えながら羽虫のような音が響いた。
それから立て続けに鳴り続ける音に違和感を覚え、病院内では電源を落とせと言わず仕舞いだった。
「ずーっと鳴ってんのさ」
だから、普段は電源を落としてる。
胡乱な目で祐輝はそう言った。
「昨日の今日だってのに、マスコミが煩ぇからな。心配する振りして、この事件のこと探ってんのさ」
祐輝は、静かに電源を落とした。
「人間の器が見えるようで、嫌になるぜ。逆に野球部の連中は一切連絡寄越さねぇけど」
「そりゃあな……」
流石に、昨日の今日で声など掛けられる筈が無い。和輝の性格を知っているからこそ、そっとしておくことしか出来なかった。
今頃、テレビでは昨夜の事件を大々的に報道していることだろう。学校も警察の捜査の為に休校になっている筈。父が手を回したお蔭で病院まではマスコミも押し寄せなかったけれど、きっと、それも時間の問題なのだろう。
「そういうあんたは平気なのか?」
しれっとした顔で、桜橋は言った。
甲子園常勝チームである翔央大付属の蜂谷祐輝の弟がこれだけ世間に騒がれて、予選真っ最中の祐輝に何の支障も無いとは思えなかった。けれど、祐輝は思い出したように顔を上げた。
「まあ、監督から休んでもいいとは言われてっけど……。休む訳にゃいかねーよ」
其処で漸く、祐輝は笑った。それはテレビでいつも見せる輝くようなヒーローの微笑みだった。
「俺はお前等の夢も、背負ってるつもりだからな」
強制的に出場を辞退せざるを得なかった晴海高校の為に、自分を犠牲にしても人を救おうとした弟の為に、祐輝はその舞台に立ち続けるのだろう。だから彼は強くて、誰もを魅了する。
エレベータが到着した。開いた扉の中から何も知らぬ一般人が溢れ出る。祐輝はキャップのツバを下げて顔を隠している。
萩原は背中を向けた。口元には隠し切れない笑みが残っている。
(こいつ等は、罪悪感も、贖罪行為すら許してくれねぇのか)
袴田の事件は、和輝にも祐輝にも全く無関係のものだった。巻き込まれた和輝が重傷で、当事者である自分達が無傷だと言うのに、恨み言一つ、涙一つ零しはしない。お前のせいじゃないと、態度でそれを知らせる。
エレベータに乗り込んだ桜橋が、そういえば、と言った。
「あんた、テレビ見てないんでしょう?」
「ああ。それが何か?」
「じゃあ、知らないんだな」
「……ンだよ。要領を得ねーな」
扉を押さえながら、桜橋は溜息を零した。
「あの夜、野球部の人間が一人亡くなったんだ」
「――あ?」
「マネージャーの水崎亜矢が、高層ビルの屋上から投身自殺した。和輝の事件との関連性は無さそうだけど……、一応ね。あの子、和輝と仲良かったらしいから」
聞いたことも無いと、祐輝は思った。
どの道、それを本人に教えるつもりもない。祐輝はしれっと言った。
「それが、如何した?」
酷い言い様だとは祐輝も思ったけれど、弟が生死を彷徨った直後、他人のことなど如何だって良かった。
桜橋は、彼らしい返答だと思いながら、事実を在りのままに伝えた。
「死の直前、彼女は和輝に十回以上の電話を掛けていた。他殺の線は無いそうだけど……。あの子は最期に、和輝に何を伝えたかったんだろうな」
エレベータは閉まった。
2012.2.1
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