ノックの音が転がった。俯いていた和輝は顔を上げ、返事をしようとして喉を引き攣らせた。声と共に、堰き止めていた別の何かまで溢れ出てしまうような気がした。
 こんな顔で人に会えない。そう思うのに、扉は此方の返事を聞くことなく開いた。合わせる顔が無いと目を背けようとして、其処にいるのが誰なのか気付いて動きを止めた。
 不機嫌そうに唇を尖らせて、猫のような大きな目が此方を睨んでいる。
 何でこんなところにいるんだ、とか。お前腰が軽過ぎる、とか。叩きたかった軽口は全て空気に霧散して行った。


「匠……」


 幼馴染で親友で、甲子園予選真っ最中の今は決している筈の無い少年。
 匠は和輝の姿を認めると、「よお」と気の抜けた返事をした。


「酷ぇ面」


 硬直する和輝を見て匠は笑った。話には聞いていたけれど、此処までの重傷だとは思わなかったのだ。それでも普段の態を崩さない幼馴染のそれが強がりだと、匠は知っている。産まれた時から共に過ごして来たのだ。兄弟以上の繋がりを感じるのは当然だろう。匠と和輝は、同じ日にこの世に生を受けた。つまり、今日は二人の誕生日だった。
 匠は笑みを浮かべたまま和輝に歩み寄ると、呆然と此方を見上げるその顔を見下ろした。真ん丸に開いた目は驚愕故か、恐怖故か。匠は腕を振り上げた。
 肉を打つ、乾いた音が響き渡った。
 頬を打たれた和輝は暫しの間、動作一つ起こせず停止していた。そして、油の切れた人形のようにゆっくりと首を回す。和輝の目に、匠の笑顔が映った。


「誕生日おめでとう、和輝」


 ベッドから起きられない和輝を、匠は抱き締めた。
 消毒液臭い室内で、ぐるぐる巻きの包帯姿で、今も碌に動けやしない。それでも、生きている。


「生きていてくれて、ありがとな」


 匠の言葉が合図だったかのように、和輝はゆっくりと瞼を下ろした。涙が頬に筋を作った。
 数秒遅れた嗚咽が、匠の耳に届いた。
 やっと泣いたな、なんて。匠は笑う。
 扉から様子を窺っていた奈々は、息を吐くように笑った。同じ幼馴染である奈々も、そろそろ入っていいだろうかなんて思う。きっと、自分の前で彼は泣かない。
 そしてその時、奈々の後ろから一つの影が擦り抜けるようにして室内に入り込んだ。高い身長も福与かな体も、奈々は見覚えが無い。呼び止めようと口を開いた奈々に一瞥もすることなく、和輝のベッドまで早足に押し寄せる。
 顔を上げた和輝だけが、其処にいる少女の名前を知っていた。


「――霧生?」


 人形のように無機質でがらんどうの瞳が、和輝を見ている。
 同じ野球部でマネージャーの少女、霧生青葉。彼女が此処にいる理由に察しが付かない訳の無い和輝はその名を呼んだきり、青葉の出方を窺った。
 匠が傍を離れると、青葉は黙ってポケットから一つの携帯電話を見せた。
 機能するのかすら疑わしい、傷だらけの携帯だ。可愛らしいピンク色の、男勝りな青葉には見合わないものだった。訝しげに眼を細めた和輝に、感情を窺わせない抑揚のない声で青葉が言った。


「如何して、助けてくれなかったの?」


 何を言っているのだろうと思うと同時に、その冷淡な声にぎくりとする。
 開かれた携帯。ディスプレイに無数の発信履歴。これは、誰の携帯だ。


「亜矢が死んだ」
「――え?」


 これは、水崎亜矢の携帯か。自分への無数の発信履歴。その、意味は?
 否定の言葉を待つ和輝と、状況を呑み込めない匠と奈々。表情を崩さない青葉が淡々と事実を告げる。


「昨日の夜、高層ビルから飛び降りて自殺した。即死だったって」
「じさ、つ?」
「死の数分前から、あの子はあんたに何度も何度も電話してた。あんたはそれを、無視した……!」


 昨夜の記憶など和輝には無い。あるのは唯一、袴田から受けた暴力の記憶だけだった。けれど、あの嵐のような暴行の中で、落とした携帯は自分を呼び続けていたのだ。
 確かに亜矢と携帯を通して会話をした。何処か様子がおかしかった。あの時、彼女は何を伝えたかったのだろう。何を願ったのだろう。
 愕然と言葉を失った和輝を忌々しく睨み付けながら、青葉は声を荒げた。


「あの子はずっと、あんたに助けを求めていたのに!」


 病室が、青葉の声に震えたようだった。


「あんたは見殺しにした! あんたが殺したようなもんよ!」


 和輝の脳裏に亜矢の顔が過る。
 声が聞こえる。掌が見える。


「この、人殺し!」


 ビシリと、空間が罅割れたような気がした。力を失った掌がベッドに落下し、和輝はそれを見詰めている。
 置いて行かないでと伸ばされた手を、助けてと上げた声を、自分は無視した。掴んであげることが出来なかった。


――ただ、少し、疲れちゃって
――置いて行かないで……! 独りにしないで……!



 全身から、血の気が引くのが解った。
 鼓膜を貫くような耳鳴りがして、和輝は身を固くした。
 青葉は肩で呼吸を繰り返しながら、目の前の少年に全てをぶつけるように叫んだ。


「あの子の傷を知っていた癖に……!」


 怪訝に匠と奈々が顔を見合わせる。状況によっては出て行こうと思っていたけれど、そうもいかない。
 蒼白なまま一言も反論しない和輝を置いてはいけない。


「あの子、慢性的に酷い虐待を受けてた……。あの夜は、お父さんから性的な虐待で……」


 和輝は何も言えない。
 あの日、彼女がして来た電話は、助けを求める声だった。


「何で助けてくれなかったのよ……!」


 青葉の両目から、大粒の涙が零れ出た。振り絞るような掠れた声が響き渡る。和輝は動くことの出来ないベッドの上から、叫ぶ青葉に向けて同じ言葉を繰り返すことしか出来ない。


「ごめん……」


 あの手を取って上げられなかった。あの声を拾ってあげられなかった。
 彼女を殺したのは。


「ごめん……!」


 手を伸ばしてたのに、声を上げていたのに!


「あんたは人殺しよ……!」
「止めなさいよ!」


 叫んだのは、奈々だった。


「如何して、和輝が責められなきゃならないの? 和輝が何をしたって言うの? 知ってて助けられなかったなら、貴方だって人殺しじゃない!」
「部外者は黙ってて!」


 その瞬間、振り上げられた奈々の掌が青葉の頬を打った。小気味いい乾いた音が反響する。奈々の目に消し去ることの出来ない怒りが浮かんでいた。


「……誰かが引き上げてくれるのを待っているばっかりで、自分で這い上がろうとしない。そんな人間、一体誰が助けられるっていうのよ!」


 女って怖ぇな。匠が呟いた。亜矢の件に関しては干渉する権利など無いのに、それすら関係無いと踏み込んで行く奈々の気の強さには相変わらず感心する。
 奈々は振り向いた。その目は和輝を見ている。


「あんたも謝ってないで、言い返しなさいよ! あんたは最善を尽くしたんだから、堂々と胸張りなさい!」


 和輝は目を丸くした。その言葉の影に、目を冷ますことの無い高槻の声が聞こえた気がした。
 崩れるように膝を負った青葉が、両手で顔を覆って泣き出す。悲鳴のように嗚咽が零れ落ちる。掠れるような声が、潰れるような声が和輝を呼んでいる。


「和輝……、助けて」


 俯いた青葉の顔は見えない。それでも、届いている声を聞き逃すまいと和輝はじっと目を向けていた。じわりと胸の内に染み込む声が、渇いていた瞳を潤していく。
 動かない筈の足が、浮かび上がる。包帯だらけの脚が、裸足がリノリウムの床に着地する。しゃがみ込んだ青葉を見下ろす和輝の目には零れそうな涙が浮かんでいた。


「助けるさ……、必ず」


 掴んであげられなかったあの子の為に。
 和輝の目は前を見据えていた。


声・2

正論では救えない世界がある


 何処かで落としたと思っていた携帯を、兄が隠し持っていたことは何と無く察していた。傷だらけのそれを受け取り、和輝は自嘲気味に笑った。
 祐輝は渡すつもりの無かった携帯を見下ろし、ばつが悪そうに目を逸らす。責める気など無かったけれど、見るのも嫌になる程の着信履歴とメールの数々に和輝は苦笑した。渡さなかった理由も、訊かずとも解ってしまう。
 包帯に覆われた右腕を吊ったまま、和輝はそれをポケットに押し込んだ。半ば強引に退院した病院の前で、当分の間着る予定の無かった制服を整える。未だ目を覚まさない高槻の病室の窓を見ながら、和輝は自分の覚悟を決めるように深呼吸した。


「じゃあ、行って来る」


 夕暮れの病院の前で、制服姿の箕輪と夏川が待っていた。
 あの事件から一週間と経っていない。学校から警察は撤退したけれど、未だにハイエナのようなマスコミが校門に押し寄せている。これから向かう場所にもうようよ集っていることだろう。


「よう」


 何時もの態を崩さぬまま、声を掛ける。
 腕を吊る和輝を見て、何と声を掛けるべきか言葉を探す箕輪に代わって夏川が言った。


「怪我の具合、如何よ」
「ああ」


 他人事のように右腕を眺め、和輝が嗤った。


「ぶっ壊れちまった。もう、治んねーって」


 箕輪が口を噤む。けれど、平然と笑う和輝に夏川は尚も問い掛ける。


「じゃあ、もう野球は……?」
「止めねーよ。まだ、左があるから」


 包帯に覆われた掌を見せ、和輝が言った。
 それでも、元々右利きだったものを左に換えて出来るものなのだろうか。疑問はあるけれど、否定することは出来なかった。才能や努力云々ではなく、ただの意地だろう。
 踊るような軽やかな足取りで歩き出した和輝の後を、二人は顔を見合わせつつ追った。


「迷惑掛けたな」


 背中を向けたまま、和輝が言った。
 晴海高校は甲子園目前まで勝ち進んでいたけれど、ぎりぎりの部員だった。一人でも欠ければ即刻辞退なのは解り切っていたことだ。今更それを咎める気も無いけれど、御門違いな謝罪には多少の苛立ちを覚える。


「お前、何も悪くねーだろ」


 突き放すように、夏川が言った。とばっちり食って再起不能の怪我してる癖に、勝手な罪悪感を背負われても此方が困る。
 吐き捨てた夏川に、和輝が息を吐くように笑った。目的地が迫るに連れて人通りが増えて行く。擦れ違う同じ学生服。和輝の姿を認めると連れている人と囁き合っていた。
 夏川はそんなこと気にも留めずに言った。


「お前って本当に自己中だよな」


 呆れたような呟きに、振り返った和輝が瞠目する。


「よく解ってるじゃん、夏川」


 言われるまでも無いと、和輝が嗤う。
 目前に迫ったその場所は人で溢れ返っていた。白黒の垂れ幕が何かなど説明される謂れもない。
 葬儀場だった。袴田の起こした事件とは無関係の場所で、同じ野球部の少女が自ら命を絶った。押し寄せるのも当然だと思いながら、入り口で雁首を並べるマスコミを一瞥する。現れた和輝を視認すると同時に一斉に切られるシャッターも、マイクを押し付けるアナウンサーも、一つの微笑みで沈黙させる。
 颯爽と葬列に並ぶ和輝は無表情だった。黙り込んだ和輝の内心が読めない箕輪が怪訝な目を向ける。
 関係者が安っぽいパイプ椅子に着席する。壇上に壮年の男。涙ぐむスピーチなど聞く耳持たぬと和輝が口角を釣り上げた。


「箕輪、夏川。もう一つ、迷惑掛けていいか?」


 どうせ此方の意見など聞く気も無い癖に、と夏川が見た和輝の面に笑みは無かった。燃えるような怒りを瞳に映して、和輝は席を立った。
 静かだった葬儀場に渇いた足音が響く。現れた乱入者にどよめき立った。


「な、何だ君は!」


 近付く少年の影に、男が動揺する。――亜矢の、父親だった。
 男が何かを発声するより前に、壇上に登った和輝の拳が振り上げられていた。
 こんなものが贖罪になるとは思わないけれど。
 こんなものであの子が救われるとは思えないけれど。

 振り下ろした拳が男を壇上から叩き落した。耳を劈く悲鳴の中で、肩で息をする和輝だけが場違いな程に静かだった。


「本当に、殺してやりてぇよ……!」


 殺気にも似た怒気が、陽炎のように体から立ち上る。
 左手を覆う包帯に血が滲んでいた。

2012.2.2