「人を殴ったって聞いたぜ?」


 警察から解放された和輝を待ち受けていたのは無遠慮なマスコミの一人だった。意外にも長い付き合いだと思いながら、和輝は碓氷の顔を一瞥して歩き出す。
 葬儀中に、亜矢の父親を殴ったのだ。親族に押え付けられ、警察に連行されて厳重注意。学校側からは一週間の停学。この状況で停学にする意味など殆ど無いだろうとは思ったけれど、これだけ世間で賑わっている今、噂の張本人が学校に来るのは極力避けて欲しかったのだろう。
 軽薄な笑みを浮かべて影のように後を追う碓氷にはもう何の興味も無いと歩き続ける和輝。碓氷が失笑する。


「ポーカーフェイスが崩れてるぜ」


 和輝の頬には涙が伝っていた。
 悲しいのか悔しいのか、腹立たしいのか。判別する気も無いけれど、碓氷は口元を真一文字に結んで沈黙する少年の内心を思った。
 自分は、この少年の悲劇を書くつもりだった。世間は悲劇のヒーローを求めていたからだ。碓氷にとっては願ったり叶ったりの状況だったけれど、それを素直に喜べずにいた。
 唯一の拠所だったキャプテンの高槻智也は植物状態。救いたかった袴田翔貴は逮捕。マネージャーの水崎亜矢は自殺。自身は野球の出来る右腕と右肩に重傷を負って再起不能。その上、人を殴って停学処分。これだけ集まった悲劇を、マスコミ各社は面白いように書き立てるだろう。父親の伝手による重圧の為に多くは闇に葬られるだろうけれど、社会から抹殺することは容易い。
 立ち止まった和輝は左手で乱暴に目元を擦った。碓氷も足を止め、当然の疑問を投げ掛けた。


「如何して、あの男を殴ったんだ?」


 理由は大体、察しが付いている。ただ、この少年の口から真実を聞きたかった。
 だが、何があってもこの少年はそれを口にはしないだろう。


「むしゃくしゃしてたんだよ」
「嘘吐け。水崎亜矢の自殺と関係があったんだろ?」


 和輝は何も言わない。すぐ前には迎えだろう祐輝が、壁に寄り掛かって待っている。携帯を開くその姿からは、此方の様子に気付いていないようだった。


「調べたところ、水崎亜矢は幼い頃から慢性的に身体的な虐待を受けていたそうだな。司法解剖の結果、お前が事件に巻き込まれていた頃、彼女は父親から性的な虐待を受けていた」
「……それを、他に知る人は?」
「まあ、俺ぐらいのもんだろう」


 目元を腫らしたまま、和輝が言った。


「じゃあ、黙っててくれないか」
「……何故?」
「あんたなら、知られたいと思うかよ」


 その言葉が、動機を語っているようだった。
 その子の為に、殴ったんだろう。世間も法も裁いてくれない汚れた大人を、救われることの無い被害者の少女の為に。例え、それによって自分が社会から抹殺されたとしても。
 向けられた背中は小さい。ヒーローの面影を失くした落第者だった。
 けれど。


――あいつはもっと強くなる。いつか、本当のヒーローになる


 二度と起き上がることのない高槻の言った言葉が、今も碓氷の中に残っている。
 碓氷は左手の薬指に嵌められた銀色の指輪を見詰め、歩き出した和輝に向けて言った。


「来年、俺に息子が生まれる」


 何を言っているのだと和輝が振り返る。既婚者だったことにも驚きだが、子どもがいることには二重の驚きだった。
 目を丸くする和輝を見て、碓氷は笑った。


「“かずき”と、名付けようと思う」


 一陣の風が吹き抜けた。瞠目する和輝に言葉は無い。碓氷はポケットに手を突っ込んで歩き出す。


「俺の知っているヒーローの名前だ。息子にも何時か、そう教えようと思う」


 未だ顔を見ることの無い息子を思い、碓氷は微笑む。
 立ち止まる和輝の傍を通り抜け、聞き間違うことの無いようにはっきりと告げた。


「本物のヒーローになれよ、蜂谷和輝。こんなところで終わるんじゃねぇぞ」


 去って行く碓氷の背中を見詰め、和輝は鼻で笑った。


声・3

それは始まりの約束


 面会時刻の終了が迫っている。高槻の病室で、和輝は固く閉ざされた彼の目を見ていた。当たり前のように過ごした日々が懐かしく思える。
 二度と目を覚まさない。意識が戻ったとしても脳に障害が残る。人形のような彼が呼吸をするには莫大な資金が必要なのだ。決して裕福ではない彼の家族では当然養える筈も無かった。それでも唯一の肉親である彼の母は、高槻を生かそうとしている。それが自己満足だなんて、誰に言えるだろう?
 きれいごとでは救えない世界だ。だけど、それでも和輝は高槻に生きていて欲しかった。人形のような人生だとしても、踏み止まった彼の意志を他人に消す権利など無い。今も懸命に生きている彼に、死なせてやれたら良かったなんて言って欲しくない。


「キャプテン。俺、決めましたよ」


 サイドテーブルに置かれた口の大きな花瓶。瑞々しい花が活けられたそれは、彼の母が用意したのだろうか。
 ポケットから取り出したのは未だ鳴り止まぬ携帯電話だった。
 前にもこんなことしたな、なんて思いながら、和輝は携帯を花瓶の中に落とした。小さな気泡を上げながら沈んで行くシルバーボディ。機能しなくなったのだろう。喧しかったバイブレーションは消え失せた。


「俺はヒーローになります。人に馬鹿にされても笑われても何を言われても、俺は俺の信じた道を絶対に裏切らない」


 帰って来ない答えに、初めから期待などしていない。


「これが俺の選んだ道だから。他の誰にも譲らない」


 高槻は何時だって先頭で、皆に代わって風を受けて来た。相手を労わることも振り返ることもしないけれど、何時だって歩調を緩め追い付くのを待っていてくれた。どちらが前かも解らない闇の中で、彼は皆の灯台だった。
 だから今度は、自分が彼の道標になる。
 面会時刻終了の鐘がなる。和輝は病室を出て行った。
 日の落ちた道を、一人で歩いていた。夜道に恐怖やトラウマが無いとは決して言えないけれど、家に帰る為には仕方が無い。
 僅かな外灯が照らす道。あれ以来、川沿いの道は歩いていない。薄暗い路地裏を通り、遠回りしながら和輝は立て続けに起こった全てを脳内で整理しようと思った。けれど、キャパシティを越えたデータは処理し切れない。
 溜息を零そうとして、失敗する。目の前に匠が立っていた。


「迎えに来てやったぞ、和輝」
「……頼んでねぇよ」


 そう言いつつ、和輝は笑った。
 二人で並んで家に帰るのは随分と久しぶりだった。懐かしく思いながら、他愛の無い話をする。ぎりぎりで事件に触れない匠の巧妙さに感心しつつも、今は立ち直れないくらいずたずたに切り付けて欲しくもあった。
 家の前に着くと、脈絡無く和輝が言った。


「今日、約束して来たんだ」
「約束? 誰と」
「キャプテンと」


 目も覚ましていない入院患者と、何を一方的に約束したというのだろう。匠が首を傾げた。


「何の約束をしたんだ?」
「ヒーローになるって、約束」


 馬鹿馬鹿しい口約束に、匠は笑う。勿論、和輝が冗談など言っていないことは解っている。


「相変わらず、お前といると退屈しないぜ」
「褒め言葉だよな」
「うん」


 飄々と言う匠に、和輝もまた笑った。
 転校も、和輝の選択肢にはあった筈だ。この風当りのきつい場所で態々生きて行く必要も無い。逃げたくないと口癖のように繰り返す和輝が、その選択をしないことは十分に解っていた。
 和輝が逃げないのなら、匠の選択肢は既に決まっていた。


「お前の約束、俺も一緒に背負ってやるよ」
「はあ?」


 言葉の意味が解らず、和輝は目を細めた。匠は濃紺の空を見上げ、歌うように話し続ける。


「来年の春、晴海高校に転入する」
「何言ってんだよ」
「俺は本気だぜ、和輝」


 匠の目に映る光は、揺るぎない決心だった。
 例え大災害が起こったとしても、彼の決心は変えられない。和輝は呆れたように思った。


「それでお前に何の得があるんだよ。エトワス学院は? 投げ出すのか」
「だから、今年一杯は続けるよ。甲子園予選真っ最中だし」
「一年契約ってか? 勝手過ぎる」
「俺がいなくてもあのチームなら甲子園常連だ」
「そういうことじゃない。自分で決めた道を簡単に投げ出すなよ」
「投げ出してない。俺の夢は全国制覇。場所に拘りはねーよ」
「めちゃくちゃだ!」


 叫んだ和輝の口元には、確かに笑みが浮かんでいる。
 自分も大概めちゃくちゃだと言われるけれど、この幼馴染も随分いかれてる。


「ヒーローには相棒が必要だろ?」
「余計なお世話だよ。足引っ張るんじゃねーぞ、相棒」


 和輝は拳を向けた。これも随分と久しぶりだな、なんて思いながら。
 ぶつけ合った拳に、二人は顔を見合わせて笑った。

2012.2.2