ハンプティ・ダンプティが 塀の上
ハンプティ・ダンプティが おっこちた
王様の馬みんなと 王様の家来みんなでも
ハンプティを元に 戻せなかった






 ばしゃん。

 引っ繰り返された500mlのペットボトルは枯渇した。零された日本茶の大半は乾いたアスファルトと、如何にも酔っ払いという風体の中年男性のスーツに染み込んで行った。
 出会いと別れの季節、賑わう駅前の通りは飲み会帰りの会社員と大学生で溢れている。平日の真っ只中、午後九時過ぎ。和輝はポケットに片手を突っ込んだまま、酷く整った顔に不機嫌さを張り付けて真正面を睨んでいる。何かを告げようと開かれた口は声を発さなかった。ヒステリックに声を荒げた中年男性が唇をぶるぶる震わせて、顔面を酔いではないものに紅潮させて喚き立てた。
 突き付けられた指先に視線が集中する。周囲に広がるどよめきにも、捲し立てる馬事雑言にも顔色一つ変えずに、声を荒げることなく和輝がさらりと言い放つ。


「そんなところにいられると、通行の邪魔なんだよ」


 黄色の点字ブロックを顎でしゃくる。たった今気付いたと言わんばかりに男が、足元にゴキブリでも見付けたかのように片足を跳ね上げる。和輝が男に向って何か言おうと一歩進み出た瞬間、空間を切り裂くようなホイッスルの高音が鳴り響いた。
 此方に向って駆けて来る二人組の警官に中年男性の顔色がさっと変わる。警察沙汰になることを恐れたらしい中年男性が何か捨て台詞を吐いて夜の喧騒の中へ駆けて行く。一人の警官が後を追い掛ける。和輝はほっと一つ息を吐き出すとくるりと踵を返すように振り返ると、小刻みに肩を震わせる少女の染髪された頭を撫でた。丈の短いスカートをぎゅっと握り締めていた少女が口を開いたけれど、和輝は片目を閉じて悪戯っぽく笑った。
 顔面蒼白だった少女が赤面する。化粧の施された両目に張られた水分の膜が零れ落ちないようにと、眉尻を下げて困ったように和輝が言った。


「泣かないで」


 それだけ言うと、周囲の野次馬に事情を聞いていた警官の横をするりと抜けて人込みの中に溶け込んで行く。蚊帳の外でやりとりと茫洋と見詰めていた匠は溜息を一つ零すと、その背中を追い掛けた。
 足元に転がる煙草の吸殻と桜花の残骸。春眠暁を覚えずなんて言うけれど、界隈の人々は睡眠を忘れてしまったかのように酒を酌み交わし騒いでいる。学生鞄を肩に背負い直した和輝が警官に見付からないように、不自然でない程度に歩調を速めながら人込みを抜けて行く。平均身長を大きく下回る背中は一見すれば小学生にも見えるのに、纏う空気は常人と一線を引く。整った顔立ちに惹き付けられた人々が振り向くけれど、気にもしないで和輝は黙々と道を進んで行く。
 喧騒を抜けて漸く和輝の足取りが止まる。部活帰りの体は着衣水泳でもした後のように重かったけれど、律見川を撫でて抜けた夜風が心地良かった。
 群生するシロツメクサが緑の絨毯のように川べりを埋めている。古い桜木から舞い落ちる桜花は着水すると静かに川下へと流れる。何処か現実味を帯びない茫洋とした心地で見送っていると、和輝が不意に「あ」と零した。
 匠が視線を向けると、和輝はまるで羽虫でも追い掛けるような動きで空を掴んでいる。何をしているんだ、と問い掛けるよりも早く、その小さな掌からするりと抜け出した雪にも似た桜花を見て理解した。立ち止まった和輝は乾いたアスファルトに着地した桜花を見詰めて嘆息した。
 また一枚。
 秒速1mで舞い落ちる桜花は、子どものようにむきになってなって追い掛ける和輝の掌を嘲笑うように擦り抜けては零れ落ちて行く。


「大和が」


 和輝が言った。掌を逃れた桜花が風に舞って運ばれて行く様を見詰める和輝の目は遠い。


「桜の花弁を捕まえられたら、願い事が叶うって言ったんだ」


 青樹大和は橘シニアの元チームメイトで、現在は大阪府の強豪北里工業高校で優秀な捕手を務める長身痩躯の少年だ。飄々とした態度ながら根は御人好しで面倒見が良い。中学時代は和輝にとっての唯一とも言える相談相手だった。
 人懐こく笑う大和を思い浮かべながら、匠は曖昧に頷いた。下らない迷信だ。
 そんなものは流れ星に願い事とか、財布にコンドームとか、そういったものと同義だ。和輝は元来子どもっぽいところがあるが、その実、現実主義者だ。
 それでもただ一片の桜花を掴んで、根拠の無い迷信に縋ろうとする理由に興味があった。


「ジンクス」


 和輝が口角を釣り上げた。悪戯を思い付いた悪童のような笑みだ。


「縁起の悪い言い伝えのこと。流星も不吉な意味合いが多い。人の死、とか」


 ああ、やっぱりこいつは現実主義者だ。匠は溜息を零した。
 世間では絵に描いたような御人好しの熱血馬鹿と言われているけれど、和輝は決して愚鈍ではないし、表面上は感情豊かでも根っこは何時も冷静だ。


「流星に三回願い事を唱えれば叶うっていうのは、その一瞬の間に三度も唱える集中力があれば叶えられるから。財布にコンドームを入れてお金が溜まるのは、人目を気にして財布を開けなくなるから。桜の花弁も似たようなもんだ」


 夢が無い。風情の欠片も無い和輝の言葉は正しく真理だろうけれど、人が夢を願うことにそんな根拠は必要無いと匠は思う。
 歌うような軽やかな口ぶりで、和輝はすらすらと言葉を紡いでいく。


「四葉のクローバー」


 ジンクス論議はまだ続くらしい。
 また零しそうな溜息を呑み込んで匠は予想した言葉の先を述べた。


「群生する三葉のクローバーの中から、希少な四葉のクローバーを探し出せるだけの根性があれば、夢も叶うって?」


 匠の言葉に、和輝が息を吐き出すように微笑んだ。


「四葉のクローバーが如何して生まれるのか、知らないのか?」


 一体、何の話をしているのだろう。今更な疑問を抱えながら匠は和輝の言葉を待つ。
 和輝は得意げに言った。


「四葉のクローバーは、三葉のクローバーが何度も何度も踏まれることで生まれる、稀な変異種なんだ。そもそもクローバーってのはシロツメクサのことで、元は海外から輸入される硝子製品の包装に緩衝材として利用されていたものだ。日本にあるものは、家畜の飼料用として輸入されたものが帰化したらしい」
「おいおい」


 何の話だ。最早元の話題すら思い出せないまま匠が困惑気味に口を開くと、鼻歌でも唄いそうな上機嫌で前を歩き出した和輝が振り返る。
 月光に照らされた整った面が、やけに幼く映る。和輝は笑っていた。


「緩衝材、家畜の飼料、雑草。それが踏まれて願いを叶える四葉のクローバーになる。――なあ、すごいと思わないか」


 くるりと振り返った和輝の後ろで、月光を乱反射する水面が眩しく煌めいた。
 無重力空間で踊るような軽やかな足取りは、今にも河川敷を転がり落ちてしまいそうな危なげだ。それでも崩れることのない真っ直ぐな体幹は確実にアスファルトの上を一歩一歩踏み締めて行く。


「世界は面白いな」


 和輝は頭を打ったのかも知れない。
 匠は直感すると同時に、頭を抱えたい衝動に駆られた。




ハンプティ・ダンプティ(1)





 嵐のような、悪夢のような、奇跡のような一年を経て、幼馴染は終に本性を現した。
 華やかな入学式と進級式後、晴海高校野球部は昨年度の大会での成績を受けて多くの新入部員に恵まれた。当然の如く、大半の目的は世間を賑わした天才だった。噂の真偽を確かめようと質問攻めする不躾な輩もいたし、中学を卒業したばかりの癖に色目を使って誑し込もうという女もいた。ハイエナのように集っては脚光のお零れに与ろうとする人間もいる。
 けれど、社会現象にも似た入部騒動は、渦中の人物によって呆気無く幕を下ろされた。
 男女犇めく新入部員の群れの前で、和輝が言った。


「モブはいらねーんだよ」


 悪びれもせず、さも当然のように言い放った和輝は心底退屈そうだった。匠は、自分が何時か嵌ったグラビアを見せた時、全くの守備範囲外だったらしい和輝の横顔を思い出した。和輝は脚フェチだ。巨乳を脂肪の塊だとのたまう或る意味罪深い男だ。
 余りに素っ気無い、人間性を疑うその態度に失望した大半は新年度の練習が開始される前に去って行った。
 一気に削ぎ落とされた新入部員は残り僅かだ。それも晴海高校、OB直伝の地獄のトレーニングメニューに脱落し消えて行った。
 部員が多くて困ることは無いだろう。選手不足で新人戦にも春甲にも出場出来なかったというのに、余りの横暴ぶりに匠が難色を示す。だが、和輝はグラウンドを見遣って眉一つ動かさずに言った。


「うちは一見さんお断りです」


 冗談めいた台詞を、本気で真顔で言う男だ。匠は呆れて言葉を失った。如何やら、自分の幼馴染はあくまで少数精鋭を貫きたいらしい。それにしたって遣り方があるだろう。
 匠の文句は、和輝の綺麗な微笑みに掻き消される。


「手間が省けただろ?」


 最近、自分の幼馴染が解らない。昔からこんな奴だったような気もするし、人間として何かが欠落しているような気もする。けれど、和輝の言い分が尤もであることを匠は誰より熟知していた。
 人に言われて止めるくらいなら、所詮その程度なのだろう。強豪橘シニアで培ったシビアな人生の基礎をこんなところで大いに発揮している。
 結果、残った新入部員はたったの三人だ。少数精鋭だからといって、わざわざ出場選手ぎりぎりである必要は無い筈だ。重大な選手不足を抱えながら過酷な夏大を越えて行く気でいる幼馴染はやはり、頭を強く打ち付けたのではないかと思うのだ。
 度々、幼馴染であるが故に名前も知らない女子生徒に紹介して欲しいと頼まれる。和輝がどんな人間かと問われれば外見は最早言葉にする必要も無いので、抜群の運動神経と、成績は常に底辺の致命的な馬鹿であることを伝える。そして、最重要項目。――性格に、難あり。
 尤も、その難を知るのは極僅かな人間だ。それは同時に、和輝が心を許している人間でもある。
 かくして晴海高校野球部の新年度は曲者キャプテンによる波乱の幕開けとなった。
 校内である程度の地位を確立しつつある野球部も部員が少数であることを理由にグラウンドの使用権は限りなく零に近い。結局は使い慣れた学校非公認の山奥のグラウンドまで自転車に重い用具を載せて運んでいくのだ。それもトレーニングだろうとのたまうキャプテンは、殺人的なメニューの生産、実行の手を緩めたことは無い。
 生まれてから共に過ごして来たけれど、匠にとって和輝は掴み所の無い、所謂、浮雲のような人間だ。風が吹けば姿を変え、場所を変え、消えたかと思えば現れる。青空に平和的に浮かぶ真っ白な雲かと思えば、雷雨を齎す鉛色の雲にもなる。だからこそ、面白いと思う。
 そんな和輝は新年度か開始されてから全体に支持を出しつつも殆どは自主トレーニングに費やしている。一年前の後遺症の為のリハビリを含むメニューは、部員達の筋力増加等のトレーニングとは異なる為だ。ノックなどは副キャプテンである箕輪に一任され、当然ながら不満は無い。
 メニューが異なれば休憩時間も異なる。練習中にキャプテンと会話することは稀だ。それも如何なものかと思うが、今にも倒れそうな覚束無い足取りでベンチにやって来た和輝が、グラウンドを遠く見詰めてぽつりと零した。


「鏡みてーだ」


 休憩時間の終了を告げる箕輪の声に、匠の意識は奪われた。和輝の言葉の真意を追求出来ぬまま、匠はグラウンドに向って走り出さなければならなかった。

 帰り道、和輝が言った。


「就職試験で出題されるものに、覆水盆に返らずっていう故事に準える問題があって」


 こいつ熱でもあるのか、と匠が疑問符を浮かべているのも構わず、和輝は何時もの楽しそうな笑みを浮かべていた。
 傍に聞こえる電車のけたたましい通過音も、細やかな律見川のせせらぎも消し去る抑揚の無い声で和輝が言う。


「土に零した水を回収するには、どんな手段が考えられるでしょうか」
「それ、俺に出題してんの?」


 和輝は踊り出しそうな軽やかな足取りで、確実に帰路を辿りながらも視線を何処か遠くに彷徨わせていた。感情の読めない笑顔に水面の眩い金色の光を映しながら、ゆっくりと頷く。
 如何して就職試験の出題をされているのか、なんて問いは最早無意味だ。和輝の話は何時も唐突で、掴み所が無い。


「一帯の土を掘り起こして、日光に当てて蒸発させるとか?」
「そりゃー、大規模な話だな」
「うるせぇな、正解は何なんだよ」
「正解なんて、無ぇよ」


 じゃあ、自分に何を求めているのだ。
 要領を得ない唐突な和輝の問いに、呆れる。


「模範解答では、其処に植物を植えるそうだ」
「それは気の長い話だな」


 自分の回答と差して変わらない。そうして一笑しようとして匠は動きを止めた。
 和輝は笑っていなかった。先程と同じ遠い目をして、凍り付いたような無表情で、慎重に言葉を選ぶような静謐さで、嘆くように呟いた。


「時間と手間を掛ければ水は盆に返るなんて、世間知らずの甘言だよな」


 匠には、和輝が何を言おうとしているのかは解らなかった。けれど、和輝の言葉は何時だって意味がある。自分が気付かないだけで、その言葉は確信めいて真実を貫いている。
 さあ、早く帰ろうぜ。
 無表情を一瞬で消し去った和輝が、薄く微笑む。歩き出したその背中に糸で繋がれているように、匠もまた歩き出した。
 相変わらず、掴み所の無い――得体の知れない、幼馴染だ。

2012.11.03