女の子は誰しも白馬の王子様に憧れるという。けれど、私は王子様よりも跨る白馬に目が行くようなちょっと変わった女の子だった。
 白雪姫やシンデレラに憧れて、淡い妄想を抱く気持ちは解らない。けれど、もしも運命というものが存在するのなら、縋ってみたいと願うことはあった。




君を殺した(1)




 それは最早見慣れた日常の風景の一つと化していた。
 神奈川県立晴海高校。校門が開くのは早朝四時。硬式野球部の朝練が始まるのはそれから大体十五分後くらいで、マネージャーの私は練習内容に応じて選手よりも早く登校し、準備をしなければならない。
 人気の無い静まり返った昇降口は、夏場にも拘らず寒々としている。


「――よう、霧生」


 足元に落下した幾つかの封筒を慣れた調子で拾い上げる小さな少年。
 野球部キャプテン、蜂谷和輝。思わず見惚れるくらいの整った顔立ちで、早朝の眠気など微塵も感じさせない綺麗な笑顔を浮かべている。
 彼の下駄箱は何時だって、時代錯誤なラブレターが届けられる。下駄箱自体は一年前、特別に鍵付きとなったのだけど、据え付けられた小窓がポストの投函口となって手紙類は滞りなく送られ続けていた。
 嫌味無い動作で手紙をそっと鞄に押し込める。私がそれを黙って見ていると、視線に気付いたらしい和輝が苦笑した。


「それ、どうするの」
「どうって?」
「ラブレターでしょ?」
「ああ」


 携帯電話を持たない彼の元に届けられるのは形として残るラブレターばかりだ。
 和輝はさも当然のように答えた。


「断るよ。そんな余裕、無いから」


 先日、全国高等学校野球選手権大会神奈川大会が開幕した。県内の高校球児が犇めく某球場で、名誉ある選手宣誓の任務を熟したのは昨年度の県優勝チームのキャプテン、つまり和輝だった。
 今まで秘匿されていた過去を暴露するようなスピーチ内容は波紋を呼んだけれど、結局はその美しい容姿と堂々とした態度、これまでの実績から世間には好意的に受け入れられているようだ。
 私は鞄の中に押し込められた、あの一つの封筒に納められた少女の好意を思った。抑え切れなくなった思いを文字で表現し、手紙として記す。其処に込められた思いがどれ程のものだとしても、和輝にとってそれは既に日常茶飯事の他愛も無い通り過ぎ行く出来事の一つだ。否、出来事と呼ぶ程のことも無いかも知れない。路傍に咲く野花に等しいだろうか。
 彼に好意を伝えようとする少女達は知っているのだろうか。
 和輝が彼女達の好意に応えたことはただの一度も無い。それでも伝えようとする意味が解らない。


(結果が見えているのに)


 もしかしたら、なんて一筋の希望に縋るのか。余りにも浅はかで愚かで独り善がりな少女達の願望。
 部室へ歩いて行く和輝の小さな背中。女子より小さい。振り返ることも立ち止まることも無いだろうと、何故かそう確信した。届くのではないかと右手を伸ばしてみる。空を掴んだ掌の向こうで和輝は光の中に消えた。朝練が始まる。




「相変わらずモテるよなあ」


 朝練終了後。ゾンビのように傾いて歩く下級生を引率しながら箕輪が言った。
 野球部三年生で副キャプテンである箕輪は、空気の読めるムードメーカーだ。寝不足だという寝惚け眼を擦りながら、其処に僅かな同情を滲ませて小さな背中を見詰める。朝練終了後、和輝は着替えを早々に済ませて教室へと駆けて行った。部員の引率を箕輪に任せ、今朝のラブレターの返事を告げに行くのだ。返事を長引かせて妙な期待を持たせてはいけない。それが和輝の主張で、私達もそれには概ね同意だった。
 概ね、同意だ。本音では、そんな手紙放って置けばいいと思っている。私達は、最低だろうか?


「私には解らないな」


 口を尖らせて吐き捨てた言葉に、箕輪が解り易く反応した。
 きょとんと眼を丸めて首を傾げる。何が、と言いたげな表情に私は答える。


「結果が解ってるのに、よく手紙なんて書くよね。恥を掻くだけじゃん」


 我ながら中々意地の悪い言い方をしたと思ったけれど、箕輪は口元に何処か嬉しそうな笑みを浮かべていた。


「霧生ってさあ」


 箕輪の後ろで、匠と夏川が怪訝な目を向けている。


「好きな人、いないの?」


 幼子を諭すような穏やかな口調で箕輪が言う。後ろで匠が息を殺して様子を見守っていた。
 質問の意味も意図も理解出来ず、私が黙ると箕輪は笑みを更に深くした。野球部唯一の彼女持ちである箕輪はこういったことに関して、最近は特に自信と余裕に溢れている。
 答えない私に構わず、箕輪が言った。


「人を好きになったこと、ある?」


 侮蔑を含むような物言いに神経がささくれ立つ。
 何かを言い返そうと口を開くけれど、一向に言葉にはならなかった。後ろで匠と夏川が蒼い顔で落ち着きなく様子を窺っているけれど、箕輪は気付いているのかいないのか、普段の態を崩さず続ける。


「本当に人を好きになった時、結果なんて二の次になるんだよ。……二年前のことがあるから、俺は簡単に掌を返すような奴等は欠片も信用してないし、正直迷惑くらいに思ってる。でもさ、人を好きになって、それを伝えようとする勇気を、俺は尊敬するよ」


 青臭いことを言い出した箕輪は、照れ臭さそうに笑っていた。
 部内唯一の彼女持ちである箕輪は、その現在の彼女である神部さんに衆目を集めながら告白したのだ。和輝や匠、夏川からの激励の中で行われた告白の返事はYesだった。


「和輝の何処を好きになったんだろう」


 胸の内で呟いた言葉は口から放たれていた。
 言えば途端に、箕輪達が顔を見合わせる。


「何処って、それをお前が訊くか」


 ぽつりと匠が言った。
 言葉の意味が理解出来ず黙った私を見て、箕輪が何処か嬉しそうにけらけらと笑っていた。




 和輝の何処が良いのか、なんて。




「おーい、霧生」


 茜色に染まるグラウンドで、血のような夕日を背中に和輝が大きく手を振っている。
 放課後の練習も佳境だった。厳しい基礎練習を熟す部員達はベンチで水分補給を行いながら休憩している。猛暑に襲われ、これから更に厳しい戦いに臨んで行くのだ。練習で熱中症にさせる訳にはいかない。それでも、私に出来るのは彼等の練習が円滑に進むように準備をすることと、水分補給出来るようジャグを用意するだけだ。
 屍累々のベンチを横目に和輝が苦笑する。


「いつもありがとうな」


 何を言いだすと思えばこの男。
 夕日を横顔に受けながら、美しい微笑みを浮かべている。
 和輝の何処が良いか、なんて。


「……別に。当たり前のことでしょ。仕事だから」


 予選トーナメントで第一シードを獲得した晴海高校の初戦は二日後だった。最期の夏を迎えるのは選手だけでなく私も同じだった。野球部最後の日を迎える時に、悔いは一つも残したくない。
 ぶっきら棒に吐き捨てた言葉にも、和輝は綺麗な微笑みを浮かべる。単純な熱血馬鹿に見えるのに、腹の底は何時も冷静沈着だった。天真爛漫な子どもっぽい言動の裏で、緻密に打算を積み重ねている。


「当たり前、か。霧生は恰好良いな」


 嫌味無く吐き出された言葉。苦笑いを浮かべて頬を掻く和輝は完成された絵のようだった。
 どんな仕草も、どんな動作も、どんな言動も完璧だった。幼稚な言葉も、青臭い台詞も、綺麗に飾られた嘘も、何もかもが完全で美しい。たった独りで完成された世界だった。きっと、こんな人間は他にはいない。


「恰好良いのは」


 和輝の何処が良いか、なんて。
 呟いた言葉に和輝は反応を示さなかった。機嫌良さそうな鼻唄交じりに、和輝は次のメニューを確認している。


「ねえ、和輝」


 手元のバインダーから顔を上げ、和輝の透き通るような大きな瞳が私を見た。
 小さな背中、細い肩。それでも揺るがない足取りで和輝は何時だって真っ直ぐ歩いて来た。


「あのラブレター、如何した?」


 ビー玉のように目を丸め、きょとんとした後に和輝は合点行ったように頷いた。


「今日の昼休みに、直接会って断って来た」


 まるで何でもないことのように、和輝がさらりと告げる。
 思いを伝えようとする勇気を、和輝は簡単に切り捨てる。全ては二年前の傷害事件の折、何も知らない赤の他人が好き勝手に吹聴した挙句、あっさりと掌を返した結果だ。


「如何して、断ったの?」


 問い掛ければ、和輝は苦笑いを浮かべた。


「随分、詮索するなぁ。お前も恋バナとか興味あるのか?」
「茶化さないで」
「はは」


 そう笑って、和輝は空を仰いだ。燃えるような夕日の隅で、焦げ付いたような夜空が浸食を始めている。都会の光に責められ星は身を潜め、朧月ばかりが自己主張をしていた。
 手元にあったバインダーを弄びながら、和輝は人好きする笑顔で言った。


「なあ、霧生。お前、好きな人いるか?」


 何故か、言葉が出て来なかった。喉がひり付いて呼吸すらままならない。
 和輝は気付いているのかいないのか、綺麗な笑みを浮かべたまま言った。


「俺はいるよ」


 息が、出来ない。
 苦しくて堪らない。動悸が激しい。視界が歪む。それでも耳は鮮明に、和輝の耳触りの良いボーイソプラノを拾い上げる。


「仲間や友達、家族とは違うんだ。人が人に向ける感情なんて、結局は独り善がりな期待だよ。俺はそういう不条理とか、醜さとかずっと見て来た。だからこそ、俺だけはそんなことしたくないと思ってたんだよ。……でも」


 そこで、ぽつりと和輝の声が途切れた。
 綺麗な微笑みが、くしゃりと歪む。掠れるような声で、和輝が言った。


「好きなんだよ。好きで好きで、堪らないんだよ」


 何かに執着しない淡泊な和輝が、絞り出すような声で切に訴える。
 それは目の前にいる私ではなく、此処にいない誰かへ向けられた強い思いだった。


「世間体なんて如何だっていいんだ。でも、その子には何時だって誠実でいたい。格好付けたい。……だから、断ったんだよ」


 和輝が、微笑んだ。
 夕日を受けた瞳がきらきらと輝いている。夜空から消えた星空が其処にあるような気がして、目が離せなかった。


(和輝の何処が良いか、なんて)

2013.8.15