教室は息が詰まりそうに、閑散としていた。 小島のように点在する人の輪。熱気立ち上るグラウンドでの朝練を終え、潜った扉の先で女子の集団が周囲を牽制するように刺々しい空気を放っている。 群れを作りたがる少女達の幼い排他的な心情なんて、男子には理解出来ないだろう。いっそ憐れな程、教室の隅で頭を付き合わせて肩身狭そうに囁き合っている。独りでは弱い少女が群れを作ることで強くなった気になって安心している。そうしなければ生きていけない。それは暗黙の掟だった。 そして、このクラスにも昨今の教育現場で度々問題視されているカースト制度というものが存在する。私は所謂二軍に在籍する女子生徒の一人で、クラスの中心にはなれず、陰でグチグチと文句を垂れるような陰険な存在だった。 同じ二軍仲間の元へ行けば、知った面々はそれぞれ顔を見合わせて声を潜めた。 「昨日、蜂谷君に振られたらしくて……」 殊更声を潜めた友人の言葉に合点が行く。 教室を不当に占拠する女子の集団。その中心人物こそが、以前、和輝にラブレターを出した少女だったのだろう。相変わらず一昔前のB級漫画のようにモテるなと呆れ半分、こんな場所で悲劇のヒロインになろうとする少女の愚かさに侮蔑半分。 和輝は名前も顔も碌に知らないような同級生の少女の、身勝手な慕情にも誠実な対応をした。それは彼女に一縷の希望も残さない程、徹底的に。非難の一つも投げられない程、排他的に。 「今、大会中だもん。仕方ないよね……」 少女を慰める取り巻きの言葉。 そうだ、大会中だ。それを知っている癖に、如何してわざわざ無駄な時間を取らせるんだろう。もしかしたら思いが報われるかも知れないなんて浅はかな期待をしていたのだろうか。 泣くくらいなら、初めから好きになんてならなければいいのに。 如何して好きになるんだろう。届かないと解っているのに、如何してだろう。 「仕方ないよね……」 自分に言い訳するように、少女が呟いた。無理矢理納得しようとする少女の泣き腫らした赤い目が、何処か遠くを茫洋と睨んでいた。 やがて、授業開始のチャイムと共に集団が霧散して行く。賑やかさを取り戻した教室は教師の入室によって再び静寂を取り戻そうとしていた。 友人の一人が、言った。 「和輝君に人気があるのは、所謂、高嶺の花だからだろうね」 少年にもその言葉が適用されるのかは解らないけれど。 高嶺の花。 誰のものにもならないと解っているから、諦められる。仕方が無いと自分に折り合いが付けられる。和輝は誰のものにもならない。何時だって野球部のキャプテンだ。 でも、私は嘗て、和輝を手に入れた人を知っている。 小さくて細くて、触れたら壊れてしまいそうな硝子細工みたいな女の子だった。透き通るような声で、誰にでも優しくて、何時も穏やかで笑顔を絶やさない美しい女の子だった。 私の親友だった。私は、水崎亜矢の親友であることを誰より誇りに思っていた。 二年前、自殺した私の親友は、確かにあの時、和輝を手に入れた。後にも先にも、和輝を手に入れることが出来るのはあの子だけだ。責任という縄と、罪悪感という枷で和輝を雁字搦めにした。 手に入れた筈だったのに、和輝は一年前、亜矢の墓前で別れを告げた。あの日の和輝を、私は生涯忘れないだろう。 君を殺した(2) 妙な噂が立ち始めた。 私の席を中心に何故か嫌な緊張感に包まれている。遠巻きに何かをひそひそを話したてるあの女子集団。仲が良い筈の二軍仲間も近寄り難そうに同情の視線を向けて来る。 このクラスにイジメなんて無かった。私が目の敵にされる覚えもない。何が起きているのか解らない。 晴海高校野球部が初戦をコールド勝ちに収めた翌日だった。ホームルームが始まる前の賑やかな筈の時間はまたあの閑散とした空気に包まれた。 チャイムと同時に群れが散って行く。その波に紛れて、友人が教えてくれたことはただ一つだった。 私と和輝が近過ぎる。 野球部のキャプテンと唯一のマネージャーなのだから、話くらいするだろう。放課後の部活で毎日顔を合わせているのだから、仲が険悪ということも可笑しいだろう。 そうして反論する場は何処にも無い。此処は裁判所ではないから、弁解なんて出来ない。 嘗て、和輝はそういう二年間を過ごして来た。妙な緊張感に指先が冷えて行く。まるで夢でも見ているんじゃないかと視界が歪む。遠巻きに、珍しいものでも見るような目でクラスメイトが嗤う。嗤う。嗤う。 得体の知れない恐怖が、背中からじわじわと上って来る。 何で、何が、如何して。 怖い。怖い。怖い。このまま独りきりになってしまうんだろうか。二年前の和輝みたいに、行く人々に後ろ指差されて、罵られて、理不尽な暴力に晒されて――。 「おーい、霧生」 一日の記憶が殆ど無いまま、放課後のグラウンドに私は立っていた。習慣と化した着替えと準備を済ませ、私は何事も無かったようにバインダーを片手に柔軟する選手を見ている。 練習は昨日の疲れも感じさせず、滞りなく進むだろう。私一人いなくたって、何の問題も無い。 私がいてもいなくても同じなのに、如何してこんな目に遭わなければならないんだろう。野球部になんて思い入れも無いし、惰性で続けているだけなのに、如何してこんなに苦しまなければならないんだろう。私が何をしたって言うんだろう。 「おい、聞いてるか?」 思考の渦に囚われていた私の前に、綺麗な顔がぱっと現れる。大きな栗色の瞳に、吃驚した私の顔が映り込んでいた。 和輝が、きょとんと小首を傾げた。 「何か変だぞ、お前」 何も知らない癖に。 口を開けば無用な不満が飛び出しそうで、私は唇を噛み締めることしか出来なかった。今日のことは野球部の誰も知らない。 「別に。和輝に関係無いでしょ」 つっけんどんに言い捨てれば、和輝はきょとんと目を丸くする。こんな言葉程度で怒るような細い神経じゃないことは百も承知で、これが八つ当たりであることも十分解っている。 けれど、和輝は不満そうに口を尖らせた。 「ふざけんなよ、霧生」 久しく聞かなかった強い口調で、和輝がぴしりとベンチを指差す。 練習の準備は整っている。用具も点検してある。ジャグも準備万端だ。けれど、和輝は形の良い眉を怪訝そうに寄せて言った。 「何で、ジャグの中身が水道水なんだよ」 「――え?」 そんな筈無い。何時も通り、スポーツ飲料の粉を投入した筈だ。熱中症対策で味が薄めにしてあるだけだ。 和輝の言葉が信じられなかった。けれど、和輝が続けた。 「大体、何で日当たり抜群のベンチに置くんだよ。温くなるだろうが」 「……ご、ごめん」 「別にこのくらい、良いんだけどさ」 そう言って、和輝は一年に声を掛けて移動させる。 粉も投入し、水道水は立派なスポーツ飲料になった。時間にして僅か三十秒。たったそれだけの間違い。 「関係無くねーだろ。お前が不調だと、俺達が困るんだよ。お前は、野球部のマネージャーだろ」 「ごめん……」 「謝ってんじゃねーよ、調子狂うだろ」 困ったように眉尻を下げ、和輝が言った。 子どもっぽい動作が、元来の童顔と相まって絵になる男の子だった。同級生の女子から見ても、守ってあげたいと思わせる存在だった。 「言いたくねーなら、言わなくていいよ。でも、俺は勝手にするからな」 「勝手って」 「俺がやりたいことを、やりたいようにやるんだよ」 「はあ?」 意味不明。何言ってんだと馬鹿馬鹿しく思うのに、緊張で固まった掌が微かに解けた。 和輝の後ろで、柔軟していた筈の選手が此方を見ていた。揃って微笑むその様は奇妙だけど、如何してか頼もしく思えた。それは昨日、コールドゲームを勝ち取ったせいではないだろう。 |
2013.8.16