息が詰まりそうだ。 此処に居場所なんてないと解っているのに、それでも向かわなくてはならない。不登校児童の気持ちがほんの少しだけ理解出来るような気がして、自分の思考がまるで悲劇のヒロインのようで空しくなる。 突き抜けるような蒼天はいっそ恨めしい。教室を覗けばあの下世話な少女達が今日も飽きもせず下らない勘繰りで、根も葉もない噂を垂れ流している。排他的な小グループが教室の中央を牛耳って、好き勝手な暴言を吐き出している。女は陰険だ。自分も漏れなくその一人だ。 野球部は何かと問題続きで、教師陣からも厄介者扱いだ。トラブルメーカーが多いのも事実だけど、それ以上に運動部として優秀な成績を収めているし、世間からの好意的な評価を受けていることも事実だ。手に余る存在なのだろう。だからきっと、野球部の誰かが注目されれば、野球部に原因があると教師陣は考える。 学校には期待しない。友人だって信用出来ない。なら、私は誰を頼れば良いんだろう。 独りきりだと理解すると同時に、まるで奈落の底に突き落とされたような浮遊感で足が震えた。 怖い。 こんな時、亜矢なら如何しただろう。 怖いよ。 「大して可愛くも無い癖に、男の子に囲まれて喜んで馬鹿みたい」 「っていうか、全然可愛くないよね。ブスじゃん」 「スポーツに興味なんて無い癖に」 そうだよ。私が野球部のマネージャーなんてやってるのは、一年の頃、和輝に誘われたからだよ。 野球なんて全然興味無いの。ルールも正直うろ覚えだ。 「さっさと辞めたら良いのに」 「本当、目障りだよね」 余計なお世話だと思うのに、輪の内側で囁かれる声を、耳が拾い上げる。 聞こえるように言っているのだろう。でも、直接は向けて来ない悪意に対抗する手段が私には無い。向き合う度胸だってない。でも、堪えられる程、強くもない。 女の子は白馬の王子様に憧れるというけれど、私には解らない。だって、そんなものいないって解ってる。運命なんて信じない。それでも、縋りたいと願う気持ちが憧れならば、こんなに空しいことは無いだろう。 扉の前で立ち止まった私に、当然気付いている筈の少女達が薄ら笑いを浮かべながら談笑し続ける。教室に入れない。何が悪いのか、何を責めたら良いのか。このまま引き返していなくなってしまおうかと拳を握ったその時、ぽんと誰かが肩を叩いた。 導かれるように顔を上げた先に、箕輪がいた。その後ろで、見慣れた野球部の面々がやけに厳しい目で此方を見ていた。 其処は和輝だろう。そう思えるくらいには、冷静になれた。心の余裕が、出来た。 「大丈夫」 何が。 問い掛ける言葉が出て来ない。喉に焼き付いた言葉。箕輪の根拠の無い言葉に、何故だか酷く安心する。 アイドルのような顔面偏差値集団が、揃って教室を睨む。その異様な空気に、談笑が止んだ。 途端に止んだ言葉の嵐。注目されれば止める卑小な覚悟で、人を傷付けて喜んでいる。なんて醜い。――でも、それはきっと私も同じだった。 それなのに、過去のことなんて忘れたというように野球部の仲間が、私に向けられていた筈の敵意と対峙する。 嫌な緊張感は、リノリウムの廊下を叩く上履きの足音によって崩された。 ぺたん、ぺたん。締まりのない足音に、何故だか可笑しくなってしまう。格好付ければいいのに。格好いいんだからさ。 ねえ、和輝。 「楽しそうな話してるな。俺も混ぜてくれよ」 綺麗な笑顔を張り付けて、和輝が言った。 教室に半身を乗り出して、其処に境界線を引くようにして和輝が笑う。笑う。笑う。――怒る。 和輝は何時だって微笑みを絶やさない穏やかな性格だ。少なくとも、親しくない生徒達にはそう認識されている。けれど、私達は知っている。和輝は、笑いながら泣いて、怒る。 水を打ったような静寂の中で、和輝がぎゅっと目を閉じる。そして、ゆっくりと開かれた大きな瞳に、燃えるような怒りが浮かんでいた。 「文句があるなら、正々堂々と来い!」 びりり、と。 拡声器でも使っているような大声に教室が震えた。根っからの体育会系の声量を嘗めてはいけない。耳を塞ぎたくなる怒声は、教室全体に向けられていた。 それは、あの二年、和輝が、仲間がずっと言いたくて言えなかった本音なのだろう。 正面から敵意を向けられるのなら、幾らでも弁解したし、謝罪もしただろう。けれど、誰もそうしなかった。自分だけは安全な場所で、好き勝手に人の心を傷付けて嗤っていた。 和輝の眉間に皺が寄る。それでも崩れない綺麗な横顔を、私はじっと見詰めていた。 君を殺した(3) 「卑怯だと思ったんだよ」 まるで、何でも無い世間話を語るように、和輝が夕日に背を向けて言った。 私が和輝と会うのは、決まって部活動の時間。早朝と放課後。練習に励む彼等と会話をすることなんて実は極稀で、用件が無ければ一週間、挨拶以外交わさないということも珍しくない。そんな私と和輝の仲を疑って、揚句、八つ当たりの道具にするなんて正しく卑怯だ。 他人のクラスまで出向いて、チームメイトだからという理由だけで、殆ど関わりも無い級友達を一喝した和輝は、不機嫌そうな空気を隠す事無く漂わせ、最後は黙って背を向けて帰って行った。お前等に興味は無いと言わんばかりの冷ややかな一瞥を受けた級友達は重い沈黙の中で確かに動揺していた。和輝の後を追うようにチームメイトはそのまま霧散して行った。どうやって収拾をつけるつもりなのか、私自身も諦め如何にでもなれという気分だった。訳の解らない事態に、私の悩みなんてちっぽけなものだと思い知らされた。 何故か唯一残った箕輪が教室をへらへらと覗いている。下世話なあの少女が、箕輪の様子を窺いながら恐る恐るといった調子で問い掛けた。 和輝君と付き合ってるって、本当? 漸く与えられた公正な弁解が出来る場面。私は動揺することなく、少女の目を真っ直ぐに見詰めて即答した。 有り得ない。 言えば途端に教室の空気が、氷解するように和らいだ。 何だよ。良かった。びっくりさせないでよ。勝手なことを言い合う教室はそれまでと同じ生温い空気に包まれた。 それが今朝の顛末。仲直りと呼ぶのが正しいのかは解らないけれど、兎に角、私はあの居心地の悪さから解放された。私の所属する小グループからは謝罪され、あの下世話な少女達からはちゃっかりと和輝へのフォローを任された。 次のメニューに移り変わる前の小休憩で、それを告げれば和輝が冒頭の言葉を告げた。 「全部、知ってたの?」 昨日の遣り取りを思い出す。和輝は私が悩んでいたことも、その内容も知っていた。その上で解決法まで想定していたのだろう。 癪だと思う私に、和輝は悪戯っぽく笑う。 「全部は知らねーよ。ただ、お前が何か抱え込んでて、それが部活とは関係無いことが原因だってことは察しが付いてた。……だから、まさか俺とお前が付き合ってるなんて馬鹿げた噂があったなんて、寝耳に水だよ」 けらけらと、可笑しそうに和輝が言った。 有り得ないよな、と和輝が朗らかに謳う。その陰りの無い笑顔に、胸の何処か奥底がずきりと痛む。正体不明の棘が、喉まで縫い付けたように声が出なかった。 練習の準備へと早足に動き出した和輝は振り返らない。それはまるで、教室から立ち去った時のように、まるでお前に興味が無いと訴え掛けるような態度だった。 「本当、あいつデリカシー無いよな」 頭の後ろに手を組んで、何処から現れたのか箕輪が言った。 何時から何処まで聞いていたのだろう。デリカシーが無いのはどっちだと言いたいのを呑み込んで、振り返れば箕輪がへらへらと笑っている。 「無神経でも、愚鈍でもないと思うんだけどな」 気休めのようなフォローをして、箕輪が困ったように笑う。 「俺からすれば、一目瞭然なんだけどな。お前、解り易過ぎ」 「何が」 「何、言われたいの? 口にしなきゃダメ?」 小馬鹿にするような、箕輪らしかぬ口調の裏に潜むものが何かなんて私には解らない。そういう感情の機微を悟れる程、私達は繋がっていない。 背中を向けた和輝は、振り返らない。おどけた口調の裏に隠す本音を、箕輪は口にしない。けれど、彼等ならばそれ等を理解し合えるのだろう。 それが、何故だか無性に悔しくて、悔しくて。 あ、と思った時にはもう間に合わない。 「……おいおい」 呆れたように箕輪が言った。 頬を伝った滴が汗だと誤魔化すことも出来なくて、こんな姿は情けないと思うのに取り繕う術も無い。 「何で泣いてんだよ……」 突き放すような言葉と異なって、その面は動揺に満ちている。 何で、なんて解らない。同じ野球部でありながら、其処には選手とマネージャーという明確な境界線が存在する。それでも仲間には変わりないと和輝は言うけれど、彼等ならば解り合える感情の機微や行動の真意が私には解らない。 悔しい。――本当に、それだけ? 「好きなら、好きって言えばいいじゃん」 「うるさい」 「そんな悩むことか? 和輝なら後腐れ無く即答してくれるよ」 「うるさい」 悔しい。悔しい。悔しい。 今日は、朝から緊張していたから疲れたんだ。突然、訳の解らない状況に放り出されて、神経張り巡らせたから疲れただけなんだ。 「勘違いしないでよ。あんたまで、あの馬鹿女みたいに変な噂流す気?」 失言だと解っていた。 箕輪がそんな人間じゃないってことくらい、知っている。野球部の馬鹿な面々に比べて空気が読めて、ちょっとお節介なだけだ。 けれど、箕輪は気を悪くした風も無く答えた。 「俺が和輝を貶めるなんて、天地が引っ繰り返っても有り得ねーよ」 さらりと告げられた揺るぎない信頼。私には無いものだ。 それすら悔しい。和輝が仲間に、箕輪に向ける信頼を、私に向けることは無いだろう。 私って何なんだろう。仲間と言いながら、頼りにされる訳ではない。女でありながら、恋愛対象に無い。 「うだうだ悩むなんて、お前らしくねーよ。何で踏み止まる必要があるの?」 箕輪の穏やかな問い掛けに、私の口から言葉がするりと零れ落ちた。それは、ついさっき正体不明の針に縫い付けられた隙間から、何でもないように。 「和輝は、亜矢のものだよ」 言った瞬間、箕輪が凍り付いた。試合中でも見ないくらい、目を真ん丸にして口元を真一文字に結んだ箕輪が動きを止める。 「ふ、」 笑顔を絶やさないお調子者の箕輪とは思えない硬い声で、何かを言おうとした。 その瞬間だった。 「和輝ー」 遠くから私達のキャプテンを呼ぶ少女の声。透き通るような、触れれば壊れてしまいそうな硝子のような声。 小柄な体格にふわふわのロングヘアー。色素の薄い髪と大きな瞳。整った顔立ちは一般人とは思えないくらいだった。 他校の制服で衆目を集めることも気にせず、和輝の幼馴染だという少女、北城奈々がフェンス越しに笑顔を振り撒いている。 やれやれというように和輝が歩み寄る。芝居掛かったその動作は最早、恒例だった。 「おい、奈々。敵チームが勝手に来るんじゃねーよ」 「いいじゃない。これだけ観客がいるんだから、一人二人増えたって変わんないでしょ」 「そういうことじゃねーよ」 「偵察なら、ビデオもカメラも持って来るよ」 今日も化粧で繕った一様な顔面を鈴なりにして、少女達がありもしない希望に縋るようにフェンスに並んでいる。特殊な練習をしている訳ではないし、秘匿性がある訳ではないから観客がいたところで困ることは無い。練習の邪魔にならないように声を潜めるその様は訓練が行き届いているようだけれど、流石の彼女達もイレギュラーであるその少女の存在は気に食わないらしい。 針のように鋭い視線を向けられても一向に気にする素振りも無く、北城奈々は今日も美しく微笑んでいる。 外野の変化など興味が無いというように、和輝はその少女以外に視線を一切向けることは無い。 苦言にも眉一つ動かさないその様に、根負けしたのか和輝が大きく息を吐いた。 「……ったく、邪魔だけはすんなよ」 「りょうかーい」 けろりと少女が笑う。美しい少女が、この世の不幸も不条理も知らぬように朗らかに笑う。 まるで其処が境界線のようだと思った。あの子は日向、私は日陰。私とあの子、一体何が違うというの? 「おーい、箕輪。ノック始めんぞ」 グラウンドのホームポジションで、和輝が声を上げる。呼ばれた箕輪は意味深に苦笑し、駆けて行った。私には終に一瞥もくれなかった。 其処が境界線。私はお城に入れてもらえない。例え入場出来たって、私の落とした硝子の靴を拾ってくれる人間はいない。 和輝がノックする時、ボールを手渡すのは何時も箕輪か匠の仕事だった。それが和輝以外ならば、それは私の仕事だった。取り残されたまま立ち尽くし、自分のいる位置も何をすればいいのかも解らない。 「……何あの子」 「生意気よね」 「幼馴染だって」 ひそひそと耳打ちし合う少女達の声なんて、あの子は気にしない。 他校生だからだろうか。私にはきっと堪えられない。教室での、あの息の詰まりそうな苦しさはもう二度と味わいたくない。 口さがない少女達の井戸端会議は終わらない。何故だか無性に苦しくて、悔しくて、凛と背筋を伸ばすあの子が少しでも困った顔をすればいいのにと意地の悪いことを考える。 けれど、それでもあの子はいっそ清々しい程美しく、微笑んで見せた。 |
2013.8.29