北城奈々の完璧な美しい微笑みは、少女達の醜い嫉妬を一掃する。まるで一陣の風が吹き抜けて腐った空気を浚っていくように、北城奈々が口元に笑みを浮かべる。
 透き通るような細く綺麗な声で、大きな美しい瞳を歪ませて、北城奈々が言う。


「練習に興味無いなら、帰れば?」


 それは至極尤もな言葉だった。囁き合いを続けていた少女達は、それが誰に向けられた言葉なのか一瞬理解に遅れる。その僅かな逡巡の内に、北城奈々は興味を失って視線をグラウンドに戻していた。
 少女達の飾り付けられた顔面が、一瞬にして紅潮する。
 醜い罵詈雑言が飛び出す。けれど、北城奈々は柔らかな髪を風に靡かせ見向きもしない。
 まるで、其処に何の価値も無いように言い捨てる。


「私、間違ったこと、言った?」


 ことりと小首を傾げ、北城奈々は私を見ていた。
 大きな目を伏せ、日焼けの無い白い肌に睫の影を落とす。シンデレラや白雪姫のような所謂お姫様というものが存在するのなら、きっとこんな出で立ちをしている。
 私が無言でいれば、少女達はそれを都合よく解釈し喚き立てる。


「あんたこそ、他校生の癖に図々しい!」
「でしゃばってんじゃないわよ!」
「むかつく女!」


 耳障りな罵声に、流石の部員も練習を中断して視線を向けた。
 北城奈々は眉一つ動かさない。


「……此処は学校の敷地内じゃないんだから、他校生がいたっていいでしょ。第一、敵チームの偵察は私の仕事よ。野球のルールも碌に知らない話題性だけで此処にいるあんた達の方が、よっぽどでしゃばりで、むかつくと私は思うけど」


 どう思う?
 肯定も否定も出来ないまま、私は沈黙するしかない。少女達は感極まったというように、ちゃちな捨て台詞を吐いてグラウンドを離れて行った。
 それまで人垣のように連なっていた少女がいなくなれば、グラウンドは静寂に包まれ、森林からの涼やかな風が吹き込んだ。


「練習の邪魔になっちゃったかな。ごめんね」


 其処で漸く北城奈々は表情を崩し、困ったように微笑んだ。妙な緊迫感が緩み、彼方此方から笑いが漏れる。その場の空気を支配するようなカリスマ性を、私は知っている。
 和んだ空気のまま、いい感じに力が抜けたらしい部員がまた練習を始める。
 北城奈々は、偵察と言いながらその手には何も持たず、ただグラウンドを見詰めている。――否、見ているのはホームポジション、蜂谷和輝だけだった。


「あんたも、しつこい女ね」


 負け惜しみのように吐き捨てれば、それまでグラウンドに釘付けだった視線がちらりと此方に向けられた。
 私が北城奈々を好まないように、北城奈々も私を好まないだろう。生理的に受け付けない、毛嫌い、犬猿の仲。どんな言葉も正解で不正解のような気がした。
 北城奈々は意地悪そうに目を細めて、鼻で嗤う。


「あんたに言われたくないわよ。今まで散々和輝のこと否定して来た癖に、今更手の平返して一体何のつもり? 目障りなのよ、根暗女」


 その外見に見合わない口汚さで、北城奈々が言う。前言撤回、お姫様はこんなこと言わない。
 慎ましいお姫様なんかじゃない。


「部外者が喚かないでよね、尻軽女。どうせ練習に興味なんて無いんでしょ? あんたこそ、帰りなさいよ」
「お飾りマネージャーに言われたくないわよ。さっきのも本当はあんたの仕事じゃない。感謝しなさいよね」
「余計なお世話。どうせ何時ものことなんだから、もう誰も気になんてしてないっつーの」


 舌戦。繰り広げられると思いきや、北城奈々は怪訝そうな顔をした。


「何時ものことだからって、放って置くの? あんた馬鹿じゃないの? 気にしてないなんて誰が言ったの? あんな馬鹿女が集まっていて、選手が気分良く練習出来ると思ってんの?」


 正論だった。咄嗟に言葉を詰まらせたけれど、北城奈々は呆れたような目を向けるだけだった。
 沈黙。北城奈々が口を開く。


「練習に興味無いなんて言ったけど、そんな筈無いじゃない。和輝と匠が野球を始めた頃から、ずっと傍で見て来たのよ。好きな野球の練習、興味無い訳無いわ」


 口汚いと思うし、狡賢いとも思う。けれど、彼女は堂々としている。自分の意思を、意見をしっかりと持っている。自分の立ち位置を正確に把握し、何をすべきかも理解している。
 此処が境界線。私はまた、置いてけ堀にされる。


「好きなのは、野球じゃなくて、和輝なんでしょ」


 こんなことを、言うべきじゃない。こんなことは卑怯だ。
 それでも滑り落ちた言葉は止められなかった。


「和輝が振り向かないことくらい、解ってるでしょ。見っとも無い。惨め。縋り付いて馬鹿みたい」


 人の思いを、簡単に値踏みして嘲笑うなんて最低の行いだ。けれど、それはきっと、自分には出来ない潔さを持つ彼女への羨望だった。
 彼女を通して私は、自分に向けて言葉を放っている。まるで、其処に北城奈々なんていないかのように。


「皆、そう思ってる。恥を知りなさいよ!」


 思わず張り上げた声に、練習再開した筈の部員が動きを止める。
 ああ、これじゃ、本当の邪魔者は私じゃない。選手にはなれず、マネージャーとしては未熟。仲間として支えることも出来ず、女として恋愛対象にもなれない。私って、一体何なんだろう。
 けれど、北城奈々は小首を傾げるだけで気を悪くした様子も無い。


「人が如何言おうと関係無いわよ。私が好きで、一緒にいたくて、一番傍で見ていたいんだもん」


 大人びた彼女の、少女のような純粋さが顔を出す。


「振られた訳でも無いし、迷惑掛けている訳でもない。自分の気持ちさえ嘘で誤魔化すあんたが、私を笑うの?」


 心底理解出来ないというように北城奈々が言った。
 傷付くことを恐れない勇敢な女の子。自分の領分を弁えた賢い少女。彼女に当てられるスポットライトが、私に向けられることは未来永劫、無い。



君を殺した(4)




 好きなんだよ。好きで好きで、堪らないんだよ。
 和輝の言葉を覚えている。それが私に向けられないことも理解している。
 野球部員にしては日に焼けていない肌。透き通るような綺麗な瞳。くっきりとした二重。女の子みたいな長い睫。通った鼻筋。小さな口。私が和輝の顔を見るのは、何時だって夕暮れだった。
 練習でへとへとの癖に、誰よりも小さな身体でてきぱきと指示を飛ばしながら片付けを先導している。勉強では驚異的な馬鹿だと教師陣目下の悩みの種の癖に、情報処理能力は異常に高くて、意外に語彙力もある。
 普段は笑顔を絶やさない穏やかで優しい性格なのに、部活になると途端に鬼のように厳しくなる。けれど、人に優しく自分に厳しくを地で行くその背中を仲間は信頼していた。誰にでも優しいようでいて、実は親しい人間にしか見せない顔がある。
 和輝の良いところなんて、幾らでも挙げられる。そのくらい、私は近くで和輝を見て来た。
 そう思うのに、幼馴染だと言うあの子の前では全て霞んでしまう。
 それは、やがて消え行く夕陽のように。


「おーい、霧生」


 夕陽。夕焼け。夕焼雲。
 オレンジ色に霞むグラウンドの中で、和輝がその美しい顔に僅かな微笑みを浮かべている。私と和輝が会う時間は何時だって、終わりの見えるこの僅かな時間だけだ。
 練習が終わり、部員はそれぞれ部品を片付けている。この後は筋トレに重点を置いたメニューが続く。
 つまらないメニューを、大縄跳びや鬼ごっこ等の面白味のあるメニューに替えたのは和輝だった。


「この後のメニューなんだけどさ、ちょっと変更したいんだよ」


 部員の調子に合わせてメニューを替えることは少なくない。それだけ、和輝は仲間をよく見ているし、気に掛けている。キャプテンの鑑だった。
 そんな和輝は一年前、世間の敵だった。彼を悪人呼ばわりした報道が何処まで真実を把握していたのかは解らないし、部外者ではない筈の私も全てを理解しているとは言い難かった。
 他人からどんな誹謗中傷を受けても、どんな罵詈雑言を浴びせられても、理不尽な暴力をどんなに受けても、和輝は否定も弁解もせず前だけを見据えていた。それが正しかったか如何かなんてもう誰にも解らない。けれど、あの頃の和輝を縛り付けていたのは――亜矢だった。私の親友の死が、誰のものにもならない和輝を唯一捕えて離さなかった筈だ。
 だから、和輝は亜矢のものだ。あの天の底が抜けたような薄暗い土砂降りの日までは、そう信じていた。
 亜矢の命日、墓石の前で和輝は初めて謝罪をした。深く頭を下げて、絞り出すように言った。
 自分はもう、お前を背負ってやれない。
 何事にも真摯に向き合い、途中で投げ出すことの無かった和輝が初めて諦めたのだ。
 亜矢がどんな気持ちで高層ビルから飛び降りたのか、私は知らない。実父からの性的な虐待だと後から聞いたけれど、その亜矢が死の直前に如何して幾度と無く和輝に電話を掛け続けたのかなんて解らない。けれど、あの日、和輝は亜矢に背を向け、前に進むことを決めたのだ。
 また、あの夏が来た。亜矢の死から、二年が経とうとしている。
 私の手元のバインダーを覗き込み、あれこれと指示を出す和輝の顔に陰りは無い。全ては終わったことだと割り切ってしまった。
 だから、訊きたくなってしまった。


「もしも、」


 声が喉に焼き付くようだった。和輝は顔を上げ、私を覗き込む。色素の薄い栗色の大きな瞳に、私の顔が映っていた。


「もしも、亜矢が生きていたら、付き合った?」


 晴天の霹靂と言うように、和輝は目を丸くした。
 突然、話を切られたにも関わらず、和輝は嫌な顔一つせず、顎に指を当て思案する。考え事をする時の、彼の癖だった。
 過去のトラウマを呼び起こすような話題。それでも、和輝は屈託なく笑った。


「さあね」


 けろりと微笑み、和輝が言う。


「不毛なこと、考えてんなよ」


 不毛。確かにこの話題は、亜矢が既にこの世にはいないのだから、生産性の無い、誰も救われない酷い話だった。
 美しい横顔を夕陽が照らす。綺麗な微笑みが、夕焼雲に隠されるように僅かに陰った。
 静かに和輝が目を閉ざす。長い睫が頬に影を落とす。掠れるような声で、和輝が言った。


「――でも、俺にとっては、今も昔も、大切な仲間だった」


 現実感の失せた紅い世界で、消え入りそうな呟きだった。
 如何して、高望みしてしまうんだろう。其処にあるものに満足出来ず、もっと多くを求めて、本当に大切なものを見失ってしまう。私達は何時でも無いもの強請りで、何時だって足りないと叫び続けている。
 其処にいるだけで、特別だった。それに気付けず、より多くを求めて、結局は全てを失ってしまう。
 本当は、解っていた。和輝は意思のある人間だってことも、仲間だと言って無条件に信頼してくれていたことも。思い通りにならないと愚痴って、それでは足りないと嘆いて、もっと多くと喚いて、結局、この手には何も残らない。
 濃紺の沁みて行く空を見上げ、和輝が殊更明るく笑った。それは彼が意図的に、その場の空気を換える為に見せる笑みだった。
 ナイター設備の無い山奥のグラウンドではこれ以上の練習は出来ないし、山道を下るのも危険だ。このまま用具を抱えて学校に戻ることになる。
 何時の間にか北城奈々は帰ったようだった。もしかしたら、和輝には何か一言くらい声を掛けて行ったのかも知れないけれど、私には解らなかった。幼馴染だという彼女が和輝に向けるのは家族愛に似た情愛ではな。そういう明確な区別を持って接していることは明らかだ。そして、あの時の和輝の言葉が彼女に向けられていることも解っていた。
 それでも和輝が彼女の好意に応えない訳も知っている。彼女が大切だから、傷付いて欲しくないから、守りたいから。良くも悪くも名が知れ渡っているから、それが彼女にどんな影響を齎すのか計り知れない。そういうところも全部解っているんだろう。
 話は終わったとばかりに背を向けようとする和輝に、願いを込めて問い掛ける。


「じゃあ、私は?」


 言えば、和輝は半身になったまま、すぐに答えた。


「バーカ、同じだよ」


 大切な仲間。此処が境界線。
 背を向けて歩き出した和輝は振り返らないだろう。泣いて縋ったところで何も変わらないことも解っていた。
 夜が浸食していく。これから山を下らなければならないというのに、もっと早く、夕陽が沈めばいいと願った。だって、真摯に向き合ってくれた和輝に、こんな情けない姿は見せられない。
 少し離れたところで、箕輪が此方を窺っている。互いの領分を理解している私達の間に甘っちょろい慰めなんて有り得ない。その明確な境界線が、今は何より有難かった。

 二年前の春、昇降口で出会ったのは小さな少年だった。思わず振り返るくらい美しい少年は、入学して右も左も解らない私と亜矢を野球部のマネージャーに誘った。それが全ての始まりだった。
 練習に励む姿も、自分の弱さに打ちのめされる背中も、唇を噛み締めた横顔も、初めての勝利に流れた涙も、逆風の中の真っ直ぐ前を見据えた眼差しも、輝くような笑顔も、全部全部見て来た。

 気付くのが、遅過ぎた。

 淡く、儚く、消え行く泡沫のようで。
 強く、眩しく、じりじりと胸を焦がすようなこの想いは、もう二度と戻らない。

 これは確かに、――恋だった。

2013.8.31