全国高等学校野球選手権、神奈川県大会に置いてその戦力は大凡三つに分けられる。
 一つは兼ねてより強豪と名高かった私立武蔵商業高校。優勝経験もあり、特に今年は全国トップレベルの一番打者、蝶名林皐月を中心に高い得点力が期待されている。
 更に、私立光陵学園は、全国から名選手が集まる野球の名門校だ。恵まれた環境設備と厚い選手層は以前より高く評価されている。チームを率いる見浪翔平は監督としての役割を務め、鋭い観察眼と高い分析力で幾度と無く勝利に導いて来た。
 そして、最後に今大会のダークホース。昨年度の優勝校でありながら問題児を多く抱えた良くも悪くも名の知れた県立晴海高校。少数精鋭を貫く、所謂色物チームだ。キャプテンの蜂谷和輝に加え、栃木からの編入生、白崎匠等の実力ある選手が集う注目のチームである。
 散々世間を騒がせて来た和輝が最後の年を迎えるということから、今大会は前年以上に注目が集まっている。それはルール等殆ど理解していないだろう女子生徒すら炎天下の球場に押し掛ける程だった。
 陽炎の昇るグラウンド、県予選は正に佳境を迎えている。トーナメントは準決勝、対戦カードは晴海高校と古豪として名高い大井田高校だった。少数精鋭の晴海高校に比べ、選手層の厚い大井田高校に軍配が上がると思われた試合は、多くのスポーツライターの予想を裏切り、実に一方的な展開を見せていた。
 五回表にして得点差は十七点。準決勝でありながら五回コールドを勝ち取った晴海高校の選手に疲労の色は見えない。それどころか、このままもう一試合も二試合も行えそうな調子だった。
 主審が試合終了を宣告する。大井田高校の夏の終わりに、蒼天にはサイレンが響き渡る。ベンチ、グラウンド各所より駆け付ける選手達の表情は対照的であった。
 無得点に抑え込まれた大井田高校は、涙を流す者、目を赤くして堪える者、呆然と立ち尽くす者と様々であった。一方で晴海高校の選手は誰一人その表情を崩さず、一様に人形のような無表情だった。


「両校、礼!」
「ありがとうございました!」


 響き渡る挨拶に観客より拍手が送られる。
 其処で漸く、晴海高校の選手は表情を崩し、隣り合う仲間と拳をぶつけ合った。その無表情が対戦相手に向けるせめてもの礼儀だと気付いた観客は両校に更に惜しみない拍手を送った。
 応援団に感謝を告げ、退散して行く中で和輝は大井田高校のキャプテンに呼び止められた。その腕の中にあるのは色取り取りの千羽鶴だった。


「これを、貰って欲しい」


 一瞬の逡巡の後、和輝は固い表情でそれを受け取った。
 その千羽鶴は彼等の思いと共に、後輩に受け継ぐべきではないか悩んだのだ。けれど、最後の夏を終えた彼等の願いを突っ撥ねることは出来なかった。感謝と激励の言葉と共に、背を向ける。同い年の少年は、圧倒的に不利な体格を持つ和輝にとっては山のように大きく逞しく見えた。
 グラウンド整備に勤しむ仲間の背中を見遣り、和輝は拳を握る。これで、決勝戦進出。あと一つ勝てば甲子園だ。ぐっと近付いた夢の舞台に、懸念があるとすればただ一つ。この後に控える第二試合。県内の三大勢力の内二つ。武蔵商業と光陵学園の試合だった。
 そのどちらとも対戦経験のある身としては、どちらが勝ったとしても強敵であるということを痛い程に理解している。思い浮かぶ蝶名林皐月と見浪翔平。今日、どちらかの夏が終わるのだ。
 感傷に浸っても仕方ないとトンボを手に和輝もグラウンドへ飛び出して行った。



One minute(1)




 決勝戦の対戦カードを決める本日の最終試合、球場は正しく老若男女の観客が犇めき合っていた。
 逸早く決勝戦への切符を手にした晴海高校は対戦相手の偵察を兼ね、三塁側の観客席に腰を下ろす。先程までグラウンドにいた選手達に周囲の人間は色めき立っていたが、一切の興味を向けないそのストイックな様に自然と波が引くように静まり返っていた。
 グラウンドでは武蔵商業が練習をしている。その中に見知った選手達を見掛け、僅かに気分が高揚する。数か月前に合同合宿で寝食を共にし、練習で切磋琢磨した謂わば戦友だ。応援したい気持ちを呑み込む、じっとグラウンドを見詰める晴海高校の選手の目は真剣そのものだった。
 試合前の僅かな練習。武蔵商業が退場すると、入れ違いに光陵学園がグラウンドに足を踏み入れる。そのどちらも一分の隙も無い堂々たる佇まいで、きびきびと行動している。


「……なあ、どっちが勝つと思う?」


 声を潜め、箕輪が問い掛けた。
 和輝は顎に指を当て思案する。先程の練習を見る限り、武蔵商業の投手は好調であり、攻撃の要である皐月の準備万端といった調子だ。嘗てのチームメイトとしては皐月を応援したいところだが、対戦相手が悪過ぎる。というのも、光陵学園の見浪翔平が切れ者どころか曲者過ぎて、試合展開が全く読めないのだ。
 これまでの試合成績を見ても、両校共にコールドゲームが多く、特にレギュラーの露出が少ない。皐月は変わらず全試合出場しているものの、情報云々で止められるような選手ではなかった。あの俊足を止められるか如何かが鍵になる。
 鳴り響いたサイレンに、和輝は顔を上げる。グラウンドに整列する両チームに表情は無い。


「どっちが勝つかなんて解んねーよ。どっちが勝ち上がって来ても、俺達が打ち破るしかねーんだ」


 主審の宣告。両校、礼。
 響き渡った少年達の声に球場からは拍手が零れた。
 皐月とは再戦の約束をしている。見浪には昨年の借りを返していない。どちらが勝ち上がって来たとしても、自分達の選択肢は一つだけだ。
 先攻は武蔵商業。先頭打者は当然ながら蝶名林皐月だった。応援団からの声援を一身に受けながらも、皐月は揺るがない。投手をじっと見詰めている。
 身長157cm、体重50kgというのは、和輝に次ぐ今大会最少の選手だった。その並外れた俊足と走塁技術はプロにも劣らないという。加えて鋭い観察眼と瞬間判断力は更に磨きが掛かり、強敵と呼ぶに相応しい。
 対する投手は三年、桐谷岳。大きな体格に恵まれた豪腕投手で、コントロールに若干の不安要素はあるものの、鋭いカーブとその持前の剛速球を組み合わせた巧みな配球の攻略は容易でない。
 その体格差から、皐月の力負けを予測する者も多いだろう。けれど――。
 初球。放たれたのは見せ球だろう得意の剛速球。インコースに突き刺さるその一球はボール球だった。しかし、皐月はそれを意にも介さず、腕を器用に畳むと驚く程正確に、ピッチャー・キャッチャー間に転がして見せた。
 自身の非力さは元より、痛い程に理解している――。
 皐月は持ち前の俊足で一塁を走り抜けた。否、走り抜ける必要すら無かっただろう余裕のプレーだった。
 打ち鳴らされる応援団の太鼓が、拍動のように和輝の胸に響く。
 自分なら如何するだろう。皐月と自分を重ね見る。あの初球に手を出したか。相手の意表を突く意味合いを持っていたのだろうけれど、自分なら二塁も狙った。確かに危険を冒す場面ではないけれど、用心するような状況でもない。
 グラウンドでしか感じられない何かしらの駆け引きが行われているのだろう。和輝は口を結んで唸る。
 夏川が言った。


「蝶名林君なら、二塁も余裕だったんじゃないか?」


 対戦経験のある夏川も同意見らしい。和輝が頷くと、匠が答えた。


「余裕だっただろうけど、まだ無茶するような場面じゃないだろ」
「でも、進めるなら一つでも進むのが定石だ」
「懸念材料があるとすれば、一つだろ」


 匠の目は、光陵学園のベンチを捉えている。
 ベンチの奥で、名監督宜しく目を光らせているのは見浪翔平だ。光陵学園には監督もコーチも存在する筈だが、選手に指示を出す様子は一切見られない。
 以前、見浪と会った時には監督を軽視するような発言をしていた。もしかすると、彼等が引き下げられるような弱味を握ったのかも知れない。そのくらい、男子高生にしてはえげつない少年だった。


「見浪翔平か……」


 正直、何処にどんな罠があるか解らない。彼の考えを予想しろというのが無理だ。
 二番打者、古谷武則がバッターボックスに立つ。和輝と同じ三塁手だ。同じポジションを守る選手として、彼の堅実な守備は参考になるところが多々あった。
 桐谷は一塁を一瞥し、すぐに打者に向き直った。端から相手にしていないようだった。確かに皐月の盗塁は解っていたからと言って容易く止められるものではない。下手に牽制しようものなら本塁まで盗られるだろう。
 そして、その予想通り皐月は易々と二塁を獲得した。拍手が巻き起こる。


「流石だな。危なげない」


 犬猿の仲でありながら、匠が手放しに賞賛する。
 珍しいなと思いつつ、和輝は内心ほくそ笑む。流石に元チームメイトだ。
 桐谷が大きく振り被る。その隙に皐月は三塁に滑り込んだ。初回、無死走者三塁。いきなりの得点のチャンスは、正しく武蔵商業の攻撃の要、皐月が作り出したものだった。
 ゲームメイク能力という意味では、皐月も見浪に負けてはいないだろう。
 難無く二盗した皐月だが、問題は此処からだ。和輝達が対戦した時も、二盗までは許した。本塁だけは独りの力では掴めない。もしも此処で得点出来たなら、流れは武蔵商業に向くだろう。
 最初の勝負所だ。和輝は無意識に拳を握った。
 皐月は臨戦態勢だ。本塁を狙っている。対する桐谷は目もくれず、打者である古谷は真っ直ぐ向き合っていた。カウントは1−2だ。これまでの桐谷を見れば、此処であの切れの良いカーブを入れて来る筈だった。ただ、塁上に皐月がいなければ。
 此処で初得点を上げさせる訳にはいかないだろう。となれば、来るのは必然的に直球一択。
 グラウンドの緊張が、観客席にまで届くようだ。ごくりと唾を飲み下した瞬間、桐谷が振り被った。
 同時に皐月が三塁を蹴った。ぐうの音も出ない素晴らしいスタートダッシュだ。サインが出ていたのか、初めから作戦通りなのか、古谷は迷いなくバットを短く構え、ボールを転がした。
 桐谷がポジションを飛び出す。けれど、皐月は本塁を風のように通り過ぎていた。


「先取点――」


 和輝の隣で、箕輪が息を呑む。
 これだ。武蔵商業は、これが恐ろしい。一度動き出したこの攻撃の流れを断ち切るのは困難だ。
 転がした古谷は一塁セーフ。無死走者一塁。
 先取点に沸く三塁側は武蔵商業ベンチの真上だ。彼等の味方ではないけれど、嘗てのチームメイトの活躍に胸が躍る。


「相変わらず、すげーな」
「春より速くなった気がする。あれを如何止める?」
「打たせて挟むしかねーだろ。それか、走らせないか」


 箕輪、夏川、匠が口々に訴える。同じ一番打者として思うことはあるが、皐月の実力は認めている。和輝はベンチに戻って行く皐月の頭を見下ろし、グラウンドに目を向けた。相変わらず、見浪は食えない不敵な笑みを浮かべている。


「……笑ってるな、見浪翔平」
「ああ。不気味で仕方ねーよ」


 見浪翔平の所属する光陵学園との対戦は過去に二度ある。初対戦時は此方のトラウマを抉るような、冗談では済まないような試合を展開させた。二度目は去年の夏大会決勝戦、強烈なバッシングに晒された和輝、延いては晴海高校を身を挺して庇ってくれた。そのどちらも彼の本性なのだろう。猫のような気紛れで人を傷付け、救うことが出来る。
 自分達が思う程、悪い人間ではないのだろう。けれど、世間が評価する程、良い人間でも無い。


「如何する、見浪翔平」


 晴海高校の視線も意に介さず、見浪は仲間に言葉一つ掛けはしない。目の前の試合展開にしか興味が無い。彼にとってはテレビゲームと同じ感覚なのだろう。
 定位置から動きもしない。キャプテンでありながら仲間を気にも掛けないというのは、和輝にとっては理解の及ばない範疇だ。チームメイトのケアもキャプテンの仕事だ。それがチーム全体の士気に関わる。けれど、光陵学園はそれを当然のように受け止める極めてドライな対応だ。それで準決勝まで勝ち進んでいるのだから大したものだと思う。
 光陵学園と武蔵商業は対照的だ。どちらが正解かなんて答えは無いのだろうけれど、晴海高校と似ているとするなら後者だった。故に、武蔵商業に肩入れしたくなる。


「呑まれるなよ、皐月」


 ぽつりと呟いた声は、誰にも届くことなく音の波に呑み込まれて行った。

2013.9.13