頬を撫でるような霧雨だった。
 昼間の晴天が嘘のような悪天に和輝は内心で驚く。夕立にならなかっただけ、まだマシなんだろう。観戦を終えた足で帰路を急ぎ、玄関の門を越えたところで匠が呼んだ。
 興奮冷めやらぬ紅潮した頬は、もしかしたら日焼けなのかも知れない。冷めた性分とは裏腹に幼い顔立ちをした幼馴染が、掌に収まる通話機器を翳した。それは最早通信機器の範疇に収まらないのかも知れない。依存症すら引き起こすそれが、まるで開けてはならないパンドラの箱のような不吉な代物に見えて和輝は躊躇する。防水を謳うディスプレイに浮かぶ元チームメイトの名前に、和輝は肩を落とした。
 蝶名林皐月。
 匠が彼の情報を知っていて、尚且つこの携帯電話に記録していたことにまず驚く。業務連絡すら必要無い殆ど無縁に等しい間柄だが、惰性で機種変更する度に情報を引き継いでいるのだろう。
 和輝は再び門を越え、皐月の呼び出しに応えるべく手を伸ばした。


『和輝か?』


 匠の携帯電話でありながら、通話の相手が和輝であると悟っている辺りに、彼等の関係性が垣間見えるような気がした。
 皐月の声は掠れていた。疲労の為だろうか。和輝は平静を装って応える。


「ああ。珍しいな。お前が、匠に電話するなんて」


 言っていて、意地が悪いというか、回りくどいなと和輝は思った。
 皐月が匠に電話を掛ける訳が無い。匠を媒介として、自分へ繋がると解っているのだ。皐月は、電話の向こうで声を殺して笑ったようだった。
 良かった。大丈夫そうだ。訳も無く、顔も見ていないというのに安堵する。言葉にして気遣うことは憚られた。怪我か、気持ちか。何を心配するべきなのだろう。
 沈黙が訪れる前に、和輝は口を開く。皐月に、自分の馬鹿な気遣いを悟られたくはないし、気まずい沈黙も感じて欲しくない。


「如何したんだ?」


 気遣いでもなく、労いでもなく、口から出たのはそんな言葉だった。
 結論を急ぐような言葉は失敗だっただろうか。旧知の仲である皐月相手に、こんな駆け引きを必要とする自分の卑小さにほとほと嫌気が差す。こんな時、箕輪なら上手く相手を慰められるんだろう。匠なら、不器用ながらに励ませるんだろう。夏川なら、遠慮なく何でも言い合えるんだろう。
 皐月は此方の逡巡等に気付かず、或いは気にせずに言った。


『終わっちまったよ』
「何が」
『夏が』


 七月の下旬。けれど、夏が終わるというには、一般的には気が早過ぎる。
 夏が終わる。その意味を、痛い程に知っている。


「……惜しかったな、試合」


 勝敗を分けたものは、一体何だったのだろう。試合を振り返ってみても、和輝には解らない。見浪の戦略か、皐月の意地か、チームプレーか、結束力か。それとも、時の運か。そのどれもが正解であることを、和輝は知っている。
 皐月が足を負傷したあの瞬間、もしも、あと一秒。あと一秒違えば、勝敗は逆転していたのだろうか。


「最後の一瞬まで、グラウンドに立ち続けた皐月は、本当にすげーよ」
『慰めなんていらねーよ』
「慰めじゃねーよ。素直に、そう思っただけだ」


 選手交代が最良の判断だったとは思わない。勝負は時の運で、グラウンドにいる選手にしか解らない試合の空気、流れと言うものもあるだろう。後から難癖付ける馬鹿な批評家にはなりたくない。


『そう言ってくれる和輝がいて、本当に良かった』


 電話の向こうで、皐月が肩を落としているような気がした。
 掛けるべき言葉が思い浮かばないまま、結局、和輝は沈黙した。自分の語彙の少なさや、配慮の足らなさに溜息が出そうだった。


『約束、守れなくて悪かったな』
「何言ってんだよ」
『なあ、和輝。――悔しいよ』


 電話の向こうで、絞り出すような微かな嗚咽が聞こえた。
 泣いている。あの皐月が、この小さな通話機器の向こうで泣いている。
 目の前にいたら、抱き締めてやれるのに。傍にいたら、寄り添ってやれるのに。腕が投げ出されていたら、掴み取ってやれるのに。何処にも姿の無い声だけの皐月を、霧雨の中に思い浮かべる。


『悔しいんだ……』
「ああ」


 仲間に零せなかっただろう彼の弱音を、受け入れることしか出来ない。
 その甘えにも似た弱さを、和輝はよく知っていた。
 匠が、正面で何とも言えない顔で居た堪れなそうに立っている。立ち去るべきか、待っているべきか悩んでいるのだろう。


「今日さ」


 諭すように、和輝は言った。


「お前に、何て声を掛けようかずっと考えてたんだ」


 和輝が言うと、電話の向こうで皐月が苦笑したようだった。
 鼻水を啜る音がする。和輝は釣られるように笑う。


「試合が始まる前に、試合中に、試合終了後に、何て言えば良いのかなって、ずっと考えてた」


 それは勝敗とは関係の無い、和輝から皐月へ宛てる言葉だった。
 掠れる声で皐月が先を促すように問い掛ける。


『それで?』
「元チームメイトとして、とか。元キャプテンとして、とか。色々考えたけど、そんな難しいことじゃなかったんだ。俺と皐月は元チームメイトで、ライバルで、友達だから、掛ける言葉なんてどんな時も一つしか無いんだ」


 勿体付けるように、和輝は殊更ゆっくりと言う。


「頑張れ」
『はあ?』
「頑張れ。頑張れ。頑張れ。――それしか、掛ける言葉が無いんだよ」


 それがまるで酷く悲しいことであるように、和輝の眉が泣き出しそうに寄った。
 祈ることも、願うことも、頼ることも出来ない。自分達は今、隣り合って立っているのではない。並んで同じものを見ているのではない。向かい合っているのだ。
 頑張れ。君が信じた道だから。
 頑張れ。この言葉を知っている自分だから。
 頑張れ。頑張れ。頑張れ。


『和輝らしいな』


 何かを悟ったように、皐月が静かに言った。
 和輝は肩を竦めるように笑う。鉛色の雲が塞いだ空を、皐月も同じく眺めているだろうか。離れた場所にいても、同じ景色を見ていることを切に願う。



One minute(4)




 通話を終え、重い足取りで和輝は匠と別れた。
 着替えもせず、荷物整理もせずに自室のベッドへ倒れ込む。体中が鉛のように重かった。皐月との通話を振り返り、如何してもっと、上手い言葉を掛けてやれなかったんだろうと後悔する。
 病院へ搬送された皐月への診断は、周囲が想像する以上に深刻だった。右足十字靭帯損傷。当分は松葉杖生活だと皐月は笑っていたけれど、笑える筈も無いだろうと和輝は苦く思った。その怪我で、よくも試合終了までグラウンドに立ち続けられたものだと医師は賞賛する。炎天下のグラウンドで一月近くも死闘を繰り広げるこの大会は、海外に言わせれば無謀で時代遅れなのだそうだ。けれど、大和魂を謳うこの国では当たり前のことだった。
 皐月は、すげーよ。
 口の中で呟く。窓からは雨粒がぶつかり、弾ける音がする。
 眠ってしまいたいと思う。体中を包む心地良い倦怠感が、泥濘のような睡眠へ誘う。けれど、神経はささくれ立って急くように入眠を妨害する。
 匠の言葉を思い出す。もしも、今と違う出会い方をしていたら?
 皐月の努力を知っている。血を吐くような叫びを、知っている。けれど、努力が必ず報われるとは限らないのだ。
 無性に叫び出したくなり、寸でのところで衝動を呑み込む。目の奥が熱くなり、鼻がつんと痛くなった。
 どんなに祈っても願っても、届かないものを知っている――。


(泣くな)


 拳を握る。


(今は未だ、泣く時じゃない)


 何度でも、自分に言い聞かせる。
 同情か、後悔か。眼底にある熱の正体を自分に問う。彼等の努力を、夢の結末を、他人である自分の勝手な涙で汚してはいけない。
 起き上り、窓の外を見遣る。夕暮れ時に差し掛かる街路は、夏だというのに雨天の為か薄暗かった。
 ああ、そうか。
 もう、二年か。
 窓に映り込む自分が泣き出しそうな顔をしていたので、自嘲する。
 二年前の夏だった。水崎亜矢が死んだのは、丁度二年前の明日だった。甲子園の切符を賭けた最終決戦当日だ。
 繋がらなかった携帯電話。拾えなかった彼女の言葉。あの子は如何して、何度も自分に電話を掛け続けたのだろう。もう真相は解らないし、彼女の死を背負って生きることも出来ない。
 薄暗い思考の渦に呑み込まれてしまいそうだった。底無し沼のように、足を囚われずぶずぶと沈み込んで行く。
 和輝は勢いよく立ち上がった。思い立ってからは早かった。素早く着替えを済ませ、財布も持たずに部屋を飛び出す。無人のリビングを抜け、濡れたスニーカーに足を入れる。
 向こう隣りの家に行く為に、傘は必要無い。
 霧雨の中を濡れることも厭わず、和輝は正面の一軒家、白崎家の門を抜けた。勝手知ったるとばかりに玄関の横を抜け、小さな庭に顔を出す。縁側では匠が仰向けに寝そべっていた。
 両手を頭の後ろに組んで枕にしながら、匠が目も向けずに言った。


「来ると思ってたよ」


 長い付き合いだからな。
 走った訳でも無いのに、何故だか酷く息切れしていたことに和輝は驚いた。
 雨を避けるように縁側に座る。匠がゆっくりを身を起こした。


「何、考えてた?」


 無表情の匠に、問い掛ける。
 匠はがしがしと頭を掻きながら答えた。


「二年前のこと」


 思考回路は似通っているな、と、幼馴染で親友との繋がりに感動する。
 和輝は「そうか」と短く相槌を打った。
 匠が言った。


「二年前、あの事件があった日。俺は栃木の寮でだらだらテレビ見てたんだよ」


 何の番組を見ていたかなんて、思い出せない。バラエティだった気もするし、ドラマだった気もする。そう言って匠は不機嫌そうに目を細めて言う。


「仲間がいて、友達がいて、周りはすげー騒がしくて、俺も輪に入っていた筈なのに、如何してかお前の顔が浮かんだ。今思えば、虫の知らせだったのかな」


 何と答えるべきか解らず、和輝は先程の同じく「そうか」と短く言った。
 匠は続けた。


「一瞬、迷ったんだよ。お前に連絡しようかなって。でも、しなかったんだ。理由も思い出せない」


 まるで懺悔のようだ。匠が気負う必要なんて無いのに、と和輝は申し訳無く思った。


「すれば良かった。否、するべきだった。そうしたら、今とは違う未来になっていたかも知れない」
「……そんなの、解んねーだろ」
「そうだな。でも、本当に一瞬、迷ったんだよ。あの一瞬、もしも電話に手を伸ばしていたら、何が変わっただろうって」
「栃木にいたお前の電話が通じても通じなくても、何も変わんねーよ」


 冷たく突き放すように言う和輝のそれが、気遣いであると匠は解っている。
 匠は苦く笑いながら言った。


「あの一瞬、せめて一秒でもいいから、考えたら良かった。まあいっかなんて思わずに、悩めば良かった」
「一秒」
「たった一秒で何が出来るかなんて解らないけど、何か出来たかも知れないよな」


 胡坐を掻き、匠は雨だれが穿つ地面を見詰める。
 少しずつ、雨脚は強くなって来ているようだ。決勝戦は延期だろうか。そんなことを考える。


「明日なんだ」
「そうだな」


 ぽつりと零した和輝の言葉に、匠が頷く。
 和輝が言った。


「水崎亜矢の命日」
「墓参り行くのか?」
「解らない。決勝戦があったら、行けない免罪符になるなんて考えてた。俺って、薄情だよな」
「いいや」


 匠は首を振る。


「お前が行くって言ったら、止めてたと思う」
「何で」
「だって、誰の為にもならないし」


 さらりと告げた匠に、和輝は苦笑する。何処までも真っ直ぐで、正論だった。
 結局は生者の自己満足なのだ。薄情か、偽善者か。


「墓参りに行くくらいなら、高槻さんのところでも行けよ」
「それはいいな」


 ぱっと明るい表情をした和輝に、匠は笑う。


「高槻先輩、退院したんだぜ」
「知ってるよ。一年遅れて東大生だろ」


 一年間も昏睡状態でいたのに、翌年には国内有数の難関校を簡単にクリアしたのだ。生まれ持っての頭の出来が違うなと思い知る。自分には到底無理だと理解している。


「なあ、匠」


 和輝は言う。


「明日もしも雨で試合が無かったら、一緒に高槻先輩のところに行こうぜ」


 何で俺が。
 その言葉を呑み込んで、匠は答えた。


「いいよ」


 きっと明日、和輝は独りになりたくないのだろう。
 自分も、和輝を独りにはしたくない。試合に集中して何も考えずに済むなら万々歳だ。それが叶わないなら、彼の唯一とも言える逃げ場所へ着いて行ってやろう。匠は思った。
 たった一言の肯定に、和輝が酷く嬉しそうに笑う。それが明日に対する鬱屈とした気持ちの表れでもあるような気がして、彼がまだ過去に囚われていることを理解する。
 まだ、二年しか経っていない。表面上は明るく笑って、すっきりしたようだけど、過去は消えないように傷が完全に癒えることは無いのかも知れない。


「なあ、匠」


 歌うように、和輝が言う。


「最後の一瞬まで、頑張ろうな」


 拙い言葉の裏に隠された祈りに、気付かない匠では無い。
 困ったような笑い顔で言った和輝の後頭部を叩き、匠は肯定を示した。

2013.2.26