今夜は雨だ。きっと、明日も。



 決勝戦は翌日へ延期となった。首都圏を中心に台風の如くゲリラ豪雨が襲っている。
 施錠した部屋の窓が強風に煽られ、がたがたと音を立てる。窓に打ち付ける雨が硝子をモザイクへと変容させていた。和輝はベッドに座り込んだまま、ぼんやりと天井を眺めている。
 蛍光灯の白い光が眼球を焼く。明日の決勝戦の延期が決まったと知ってから、和輝は部内へ連絡を回すよりも早く高槻へ一通のメールを送っていた。
 明日、会いに行きます。
 ただそれだけの文章。挨拶も無い。けれど、すぐに返事があった。
 解った。
 選択肢から判断したのではなく、自分の文章に隠した感情の機微すらも理解したということだ。和輝は携帯を持っていないので、匠に借りて送ったのだ。名乗りもせずに理解出来てしまう彼は一体何者なのだろう。
 カーテンの向こうは闇だ。外灯すら霞んでしまう。窓は鏡のように、自分の顔が情けなく映っている。酷い顔だ。さっさと寝てしまおう。起きたら朝が来て、高槻先輩に会いに行くんだ。あの夜はもう来ない。
 振り上げられた金属バットも、踏み付けるスニーカーも、罵倒も悲鳴も怒号も、繋がらない携帯電話も、届かなかった手も。
 耳を塞ぐ。目を閉じる。息を止める。
 こんな情けない姿は誰にも見せられない。見せたくない。匠にも、チームメイトにも、兄ちゃんにも、高槻先輩にも。
 誰に弱音を吐けばいい。怖いんだ。もう二年も前のことを今も女々しく引き摺って震えているだなんて、誰にも言えない。
 大丈夫。大丈夫。もうあの夜は来ない。絶対に来ないんだ。
 大丈夫。


「ただいまー」


 間延びした長閑な声が響いた。無人だった家に光が灯る。
 父だった。何故だか胸が軋むように痛んだ。


「おーい、和輝。寝てんのか」


 階段を上る音がする。足音が近付く。
 塞いでいる筈の両手は離れている。開いた瞼に白く照らされた部屋が浮かぶ。扉が、開く。
 ひょっこりと顔を覗かせた父が、和輝の姿を認めると微笑んだ。


「何だ、帰ってるじゃねーか」


 ベッドに腰掛けたままの和輝を、父――裕が覗き込む。相変わらず若作りで、二十代と言っても通用するだろう。和輝の顔を見ると一寸ばかり驚いたように目を丸め、くしゃりと微笑んだ。


「酷い面してるぞ。何かあったか」
「……親父」


 裕は和輝の隣に座った。糊の利いたグレーのスーツを瀟洒に着こなしている。
 何か話をした訳でもない。けれど、何故だか隣にいると安心する。ざわついた心が落ち着く。


「ちょっと、色々思い出して」
「そうか」


 微笑みを崩さないまま、裕が言った。落ち着いた物腰も口調も、職業柄必要なものだろう。言うなれば、父は人の話を聴くプロだ。
 和輝が言葉を続けないと悟ると、裕は口を開いた。


「嫌なことは何時までも考えなくていいんだよ。忘れられなくても、忘れた振りしていればその内、思い出になる」
「そんな単純な話ばっかりじゃねーだろ」


 くすり、と和輝は笑った。胸の内に溜まった澱のようなものが、僅かに昇華された気がした。和輝が笑ったことに安心したのか、裕もまた、くしゃりと笑った。


「物事は考え込む程、難しくないんだよ。納得できないものは、無理に納得しなくていい」


 わはは、と豪快に声を上げて裕が言った。


「落ち込める間は落ち込んでいたら良いんだ。其処が底辺じゃないってことだ」
「底辺、」
「お前は底辺を知ってる筈だ。其処は底辺じゃない。それだけは忘れるなよ」


 ああ、疲れた。ビール呑も。
 立ち上がった裕が上機嫌で部屋を出て行く。蛍光灯の白々しい光が、まるで初夏の太陽のように感じられた。


「親父、ありがとう!」


 背中を向けて手を振った裕を見送って、和輝はベッドに倒れ込んだ。
 今夜も雨だ。明日も雨だろう。
 出口の無いトンネルを歩く気持ちを覚えている。見上げた先に無い空も、底冷えする寒気も知っている。だからこそ、忘れてはいけない。大丈夫だ。



夜光樹の(2)




 ビニール傘に透ける雨を見ている。
 空に太陽は無い。鉛色の雲に覆われた空は憂鬱で、足元を侵食する水溜りは煩わしい。それでも、昨日想像した以上に心は沈み込んでいない。――例え、今日が二年前の事件の起こった日であろうとも。
 駅前の珈琲ショップに向かう。人通りは少ない。約束の時間まであと十分。この分なら五分前には到着するだろう。
 豪雨の為か珈琲ショップの客も疎らだ。ガラス張りの店内を見遣ると、端の席に見覚えのある青年が座っていた。清潔感のある白シャツをラフに着た青年は同世代に比べれば聊か低身長ではあるが、その落ち着いた雰囲気が大人びて見せる。
 雑誌を見ていた青年は、店頭に立った和輝に気付くと軽く手を上げた。


「――高槻先輩!」


 変わらない仏頂面が嬉しくて堪らない。駆け寄った和輝を苦笑いで高槻が迎え入れる。


「とにかく、先に注文すんぞ。奢って遣るから」


 話は後だと、高槻が風のように軽やかに横を擦り抜けカウンターへ向かう。
 ブレンドコーヒーを注文し、受け取ると和輝に代わって席まで運んだ。
 奥の席に座った高槻と対面するように、和輝も席に着く。高槻は口元にカップを運びながら言った。


「元気そうで安心したよ。試合があったら、見に行こうと思ってた」


 口元に僅かな笑みを浮かべる高槻に、自然と和輝も笑ってしまう。


「元気無かったんですけど、親父と話したら元気になったんです」
「何だ。じゃあ、俺もお役御免かな」


 慌てて和輝が否定する。その様を高槻は悪戯っぽく笑った。


「夕方には雨も止むみたいだな。明日は決勝戦出来るだろう」
「はい」
「光陵か。因縁の相手だな」
「――でも、これが最後です」


 俺も、もう最後の夏になったんですよ。そして、チームのキャプテンなんです。
 そう言う和輝に、高槻が酷く優しい目をする。高槻は足元にあった鞄を引き寄せ、中からタブレットを取り出す。


「前の試合、録画して来たから見ようぜ。店内だから音は出せねーけど」
「十分っす。ありがとうございます」


 テーブル上に上がったタブレットを覗き込む。
 大学で使うんだろうな、と想像しながら和輝は操作を見守る。


「蝶名林君、怪我の具合どうだった」


 プレイボール。スピーカーからの宣告を聞きながら、高槻が言った。
 和輝はディスプレイから視線を動かさずに答える。


「結構、重傷でした。でも、それよりメンタルの方が厳しそうでした」
「……ああ、そうだろうなあ」


 和輝は既に試合へ意識を向けている。今に集中して此方の声すら届かなくなるだろう。
 真っ直ぐな視線を向ける和輝を見遣り、高槻は思った。
 異常な集中力だ。必要外の情報が遮断され、感情すら排除される。意識せずとも必要な時、必要な瞬間に集中出来る。そして、簡単には途切れない。


(才能とか、身体能力とか色々謳われてるけど、結局はこの集中力はその全てを活かしてんだよな)


 天才と呼ばれる集中力を、高槻は初めて知ったのだ。きっと、未来もこの集中力が彼を活かすだろう。
 ディスプレイにはグラウンドが映る。一回表、バッターは蝶名林皐月。インコースに突き刺さる見せ球を、驚く程正確に捉えたのだ。転がった打球、危なげのない出塁。高槻は感嘆に唸りつつ言った。


「蝶名林君は安定してるよな」
「はい。初球のボールに対して器用に腕を畳んでいます」
「配球を読んでいたのか?」
「いいえ、多分、その場で対応したんだと思います」


 言うのは容易いが、一朝一夕で出来る業ではない。この技術を得る為に、彼はどれ程の練習したのだろう。
 言いながらも和輝の集中力は切れない。高槻はその顔を見遣り、ふと思い言った。


「お前、進路如何するの?」


 この質問で集中力も途切れるだろうか。
 試合中なら許されないが、グラウンドでない此処なら良いだろう。けれど、和輝は一瞬だけ高槻を見遣っただけですぐに視線を落とし、さらりと答えた。


「考えてます」
「へえ」


 条件反射的な答えでは無さそうだと、何と無く高槻は察した。
 この体格と怪我の影響を考えて、まさかプロは目指さないだろう。否、現実問題として不可能だ。ならば、進学か就職か。
 和輝が言った。


「進路というか、将来の夢があるんですよ」
「ああ」


 唸るように高槻が相槌を打つ。
 ディスプレイは丁度、見浪翔平の隠し球を映している。このタイミングで、高校野球の公式戦で隠し球なんてするか?
 度胸も才能も、見浪翔平は化物だと痛感させられる。
 和輝は食い入るように画面を見ている。


「俺、高槻先輩や親父みたいに、誰かを支えられる人間になりたいです」


 さらりと言ったその言葉には、縋るような祈りが込められているように感じられた。高槻は和輝を見遣る。透き通る瞳は入学当初の輝きを取り戻し、吸い込まれそうな水面の光を宿している。


「その為の道を、俺はもう見付けました」
「道?」
「だから、俺はもう、迷わない」


 きらりと何かが光った。
 鋭い刃のようで、柔らかな星光のようだ。二年間――否、三年間の末に和輝が手に入れた力だ。
 闇に包まれた夜の森。一寸先さえ見えない暗闇の中で仄かに光る、確かな輝き。
 二つの瞳。けれど、その後ろにある無数の光は希望という名の光だ。出口の無いトンネル、身動きの出来ない泥濘を歩いて来た和輝が確かに掴んだ光。


(ああ、夜光樹か)


 夜に光る大木。闇に沈む森を照らす美しい光。
 こいつも大概、化物だ。
 高槻は息を漏らすように笑った。

2013.8.11