「よおー、和輝! 会いたかったぜ!」


 いっそわざとらしいくらい大袈裟に見浪翔平が言った。
 神奈川県予選決勝、互いの練習を終え、サイレンの鳴り響く中で整列へ向かう。和輝は審判の側で冷ややかに見浪を見遣っている。


「俺は別に、会いたくなかったよ」
「またまた」


 何が、またまた、だ。
 吐き捨てるように和輝は思った。


「因縁もこれが最後かと思うと、感慨深いなぁ」
「そうだね」


 あっさり肯定した和輝に、拍子抜けしたように見浪が肩を落とす。和輝は笑った。清々しい程に爽やかな笑みだった。


「楽しい試合にしようぜ」
「楽しい?」
「そうさ。真剣に、全力で、最高に楽しい試合にしようぜ。俺はそういうチームに出会ったんだ」


 偏に、自分だけの力ではなく、仲間ってあってこそのを力だと言っているようだった。
 それがまた、見浪の癇に障る。何を言っているんだろう、この男は。時代錯誤の熱血スポーツ少年か。
 けれど、和輝の目に嘘偽りは微塵も見られず、その言葉が本心で吐き出されたことは明白だった。馬鹿らしいと心底思うけれど、天才と呼ばれる聖人君子が、自身の傷も顧みず先頭に立って率いてくれると知れば、付いて行かぬ道理も無いだろう。
 見浪は皮肉っぽく口角を釣り上げた。
 才能に物を言わせて、なんて卑屈なことは言わない。言ったところで、この男は微塵も気にしないだろう。


「いいね、そういうの、青春ぽくって」
「真っ盛りだからな。――さあ、始まるぜ」


 主審の壮年の男が、幾らか緊張に強張った顔を向ける。
 そうして高らかに宣言する。


「これより、神奈川県予選決勝、晴海高校と光陵学園高校の試合を始めます。両校、礼!」
「お願いします!」




Fire Cracker(1)




 降り注ぐのは、蝉の声だ。命を振り絞るように叫ぶ声を耳に、和輝は薄暗いベンチからグラウンドを見詰める。
 蝉時雨とは、正しく雨の如く降り注ぐ蝉の声だ。日本語とは美しい。
 じゃんけんで勝ち取った後攻を前に、晴海高校はグラウンドへ散って行く。和輝もまたベンチから身を起こし、鉄板の如く茹だるグラウンドへ駆ける。
 雲一つ無い晴天だ。昨日の豪雨が嘘のようだ。掌を返したような天気に振り回される自分達は馬鹿らしい。けれど、どんなに憎んでも恨んでも、陽はまた昇るし、明日は来る。


「しまってこー!」


 声を上げた和輝に、グラウンドに散った仲間から声が上がる。
 当たり前に返って来る声が嬉しい。同じ場所で、同じ方向を見ている仲間がいる。それがどんなに嬉しいことなのかなんて誰も知らなくていい。当たり前のことを喜べない人間には、なりたくない。
 一回表、光陵学園の攻撃。和輝は光陵学園の打順を思い返す。
 一番打者は柳晴翔。三年間、この光陵学園という強豪チームで戦って来た選手だ。高槻先輩の弟に酷似した選手だった。和輝にとっては何の思入れも無いが、斃すべき相手の一人の一人でもある。ベンチで見浪翔平が嗤っている。
 晴海高校の先発は醍醐だ。聊か緊張気味の硬い表情だが、気にする必要は無い。だって、こいつの後ろは俺達が必ず守っている。


「打たせて行け!」


 振り返る必要すら無いぞ。
 和輝は醍醐の背中に訴える。一球目、内角に外した直球。自分に迫るような一球に柳が仰け反った。ワンストライク。
 強気に攻めるのは、捕手の蓮見だ。鉄砲玉に見えて案外慎重な醍醐をぐいぐいと強引に引っ張って行く。試合と普段の姿は逆転している。
 二球目、外角へ逃げる変化球。対角線の配球は投手も投げ難いと言うけれど、醍醐の不安定なコントロールも大分成長したように思う。ツーストライク。打者は手も足も出ないといった調子だ。三塁定位置で和輝はほくそ笑む。
 さあ、如何する?
 監督を兼任する光陵学園のキャプテンは、変わらず笑みを浮かべている。
 三球目、柳がバットを短く構える。バントか。
 三塁線へ器用に転がした柳が一塁へ疾走するけれど、和輝はそれを危なげなく拾い上げて送球する。柳が技術的に優れた選手であることなんて解っている。こんな無難な戦略で倒せるとは見浪も思っていないだろう。


「アウト!」


 ワンナウト。
 一塁審判が翳す右手は親指が立てられている。
 さあ、次だ。柳がベンチへ帰って行く。二番打者は平嶋壮也。二年生だ。
 彼もまた、醍醐・蓮見バッテリーの餌食になる。内角へ食い込む変化球を打ち上げる。キャッチャーフライを捌いた蓮見に、褒美のように主審がアウトを宣告した。これで、ツーアウト。
 安定した試合展開に嫌な予感がする。和輝は三番打者、神谷に備える。
 あと一人だ、なんて甘えは誰も口にしない。これで打者が切れるだなんて油断は無い。そういう危機を晴海高校は幾度と無く乗り越えて来た。
 此処で打者が切れれば、四番の見浪へは回らない。予測はするが、期待はしない。油断こそが最大の敵だと理解している。
 神谷玲人は二年生ながら、層の厚い光陵学園のレギュラーに抜擢された。実力者だ。
 ワインドアップ。相変わらず荒削りというか、安定しないフォームだ。気分と制球力にむらがあるし、一流の投手とはお世辞にも言えないが、良い投手だと思う。ステップを踏んで、投球。
 内角低めのストレート。良いコースだ。


「トライークッ」


 二球目、蓮見のサインは内角高めのストレート。
 だが、コースが甘い。
 金属音と共に、打球は三塁線へ転がった。待ってましたとばかりに和輝が飛び出す。


「一つ!」


 流れるようなステップで一塁へ送球。ボール到着後、数瞬遅れて神谷が走り抜ける。
 アウト。チェンジだ。
 晴海ナインがベンチへ駆けて行く。初回を三人で切れたことは幸先が良いと思う。けれど、沈黙を守る見浪が不気味で仕方ない。
 ベンチに戻り、水分補給もそこそこに、和輝を囲むように輪を作る。仲間の顔を一人一人見遣る和輝に、箕輪が眉を寄せて言った。


「不気味だな、見浪翔平。何を仕掛けて来るか、解ったもんじゃねーな」
「ああ。でも、そこは幾ら勘繰っても仕方ない」


 努めてにこやかに、和輝が返す。不気味さなら試合開始以前から感じている。


「さあ、点数をもぎ取ってやろう!」


 おう、と声が上がった。
 一回裏、晴海高校の攻撃は、バッター一番、蜂谷君。背番号五番――。
 高らかに響くアナウンスの中、バッターボックスに和輝が立つ。対する投手は桐谷岳。目付きの鋭い三年生。コントロールは若干不安定だが、140kmを超える剛球には定評がある。
 一番打者は、最も多くの打席が回る。先陣を切って攻める先頭打者、特攻隊長。
 初球、内角高めのストレート。恐らくMAXに近いスピードだろう。出鼻を挫こうという魂胆だろうか。


(この程度のストレートで)


 俺を打ち取れると思うなよ!
 出鼻を挫こうという魂胆ならば、同じだ。和輝はバットを振り抜いた。打球は小気味良い音と共にグラウンドへ飛び出した。二遊間を――、抜けた。


「回れ!」


 打席を飛び出した和輝が一直線に一塁を踏み抜き、二塁を狙う。
 二つ!
 グラウンドから声が上がる。センターからの送球が早い。良い肩だ。


(それでも、二塁は貰う!)


 滑り込む必要も無い。余裕のスタンディングダブルだ。
 わっと歓声が上がり、観客席で大太鼓が打ち鳴らされる。無死走者二塁。
 二番、箕輪が危なげなくピッチャー前へ打球を転がす。和輝がスコアリングポジションへ到達し、ワンナウト。
 得点が目前となり、俄然応援が盛り上がる。この状況は、準決勝と同じだ。
 止めるか、諦めるか。三塁上で和輝は光陵の司令塔を見遣る。見浪は相変わらず感情を読ませない無表情でバッターボックスを見詰めている。


「――打たせて行け!」


 見浪が声を張り上げる。
 ピッチャーの背中を押すように、グラウンドの彼方此方から声が上がる。
 三番、星原がバッターボックスに立つ。食えない選手というなら、星原もまた食えない選手だ。
 大きい一発は望まない。転がしさえすれば、走者は必ず還って来る。
 初球はボールだ。バント警戒か、前進守備を敷いている。
 打たせて行け、なんて口だけじゃないか。星原はほくそ笑む。二球目もボールだ。
 和輝は訝しげにそれを見ている。右投手からの三塁への牽制は難しい。和輝はファールグラウンドでリードを取る。これまでの公式試合で、星原がバントを決めたことは少ない。不得手ではないが、性格として向いていない。
 何を持ってバントと判断したのだろう。打たせて行け、という見浪の言葉が引っ掛かる。
 武蔵商業の試合でも、皐月を積極的に止めようとはしなかった。同じか。
 三球目、内側に食い込む変化球。バットの根元に当たったボールが空中へ浮かぶ。キャッチャーフライだ。アウト。走者残留のままツーアウトだ。
 悔しげに星原が礼をし、バッターボックスを出て行く。ネクストで片膝を付いていた匠が、静かに立ち上がった。
 バッター四番、白崎匠君。背番号六番――。
 猫のような丸い目がそっと細められ、視線がグラウンドへ巡らされる。その目は確かに三塁上の和輝を捉え、ピッチャーへと定められた。
 決して体格に恵まれた選手ではない。けれど、実力は確かだ。


「匠、先取点だぞ!」


 三塁上で、敢えてプレッシャーを掛けるように和輝が言った。
 途端に苦い顔をした匠が、ヘルメットのツバを僅かに下げて了解を示す。
 初球、ストレートだ。仮にも四番に対して、随分と強気ではないか。


「良い球来てるぞ!」


 ベンチから声援が飛ぶ。
 いや、野次かな。和輝は苦笑した。
 二球目もストレートだ。金属バットが力強くスイングする。ボールはミットに吸い込まれた。
 ツーアウト。


「ラストだ!」


 グラウンドから声が上がる。四番を三球三振で抑えられたら、光陵学園にとって追い風になる。此処を取られる訳にはいかない。
 三球目、ストレート。直球勝負だ。
 タイミングなら、二球目で把握しただろう。匠が完璧なタイミングで、ボールを芯から捉えている。振り抜かれたバットに弾かれた打球が大きな弧を描く。センター返しだ。
 一瞬、匠が苦い顔をする。上がった打球はセンターのグラブに落ちた。


「アウト、チェンジ!」


 走者残留、互いに無得点のままに一回が終わった。
 和輝は小さく息を零し、ベンチへ駆けて行く。すぐに二回表の守備が始まる。
 ベンチでは匠が箕輪に小突かれている。流石に、フォローの仕様も無い。


「打ち上げてんじゃねーよ。何年野球やってんだ」
「うるせーよ。弘法にも筆の誤りって言うだろうが」
「誰だよ、コウボウ」


 口を挟んだ和輝に、匠と夏川が揃って心底残念そうな顔をする。これだから馬鹿は、と顔に書いてあるようだ。
 箕輪が眉間に皺を寄せ、吐き捨てる。


「直球勝負で負けてんじゃねーよ」
「直球じゃねーよ」


 夏川が言った。


「バットの手前で微妙に変化したよな。俺の見間違いか?」
「いや、変化したよ。最後は変化球だった」


 和輝も同意する。確かに直球のようだった。けれど、間近で見なければ解らない程、微かな変化が起こり、匠がバットに詰まらせたのだ。
 桐谷の持ち玉はカーブ・チェンジアップ・スライダーの筈だった。新しい変化球か。それとも誤差の範囲か。現状では判断出来ない。
 和輝は顔を上げた。


「終わったことは切り替えて、二回も無得点に抑えるんだからな」
「解ってるよ!」


 弾かれるように匠はベンチを出て行った。

2014.8.16