二回、三回、四回と互いに無得点が続く。悪戯に消耗される時間と気力。灼熱の太陽が体力を削って行く。どちらも相手の出方を伺っているようであり、攻めの一手を出し倦ねているようでもあった。
 何の因果か互いに監督やコーチの存在しない異色のチームだ。両校のキャプテンは常にグラウンドを睨み状況を把握しようとしている。
 前半戦最後となる五回表、光陵学園の攻撃。攻撃は四番から始まる。
 五回表、光陵学園の攻撃、バッター四番、見浪翔平君――。
 アナウンスが尾を引いて響き渡る。この状況を打ち破る可能性があるとするならば、それはきっとこの男だ。観客席では声援が飛び交う。
 グラウンドに緊張感が走る。この拮抗した状況では、得点を先取したチームが試合の流れを掴む。そういう場面で何かを仕掛けて来るのが、この見浪翔平という男だ。
 ひょろりとした長身痩躯。糸のように細い目。人懐こそうな印象でありながら、その腹の底を読ませない不気味さがある。
 手堅く攻めて調子を崩されるのも、意表を突いて引っ繰り返されるのも、出塁してプレッシャーを掛けられるのも嫌だ。三振で終わるなら最良だけども、それはそれで不気味だ。こういう場面で本塁打を打つことも珍しくない。
 和輝は三塁定位置でバッターを見遣りながら、何かバッテリーに声を掛けるべきか思案し、結局止めた。配球の組立はバッテリー、主に捕手である蓮見に一任している。責任を全て押し付けるという意味ではない。どのように組み立て、打たれても後ろは必ず守っている。


「先頭切るぞ!」


 蓮見の言葉に、おお、と力強い声が返る。
 初球はボールだ。様子を見たい。外から内へ飛び込む変化球。ただのボール球は餌食にされてしまう。
 ボール。
 悠々と見送った見浪は、相変わらず感情を読ませない無表情だ。
 動け。
 動じない見浪へ念じるようにサインを出す。二球目もボールだ。同じ球種で同じコース。見浪がどのように動くのか読めないが、過去のデータから鑑みるに、長い手足故か外角の球を打つ傾向にある。四球覚悟の上で、ギリギリのコースを狙うしかない。
 けれど、見浪は動かない。ボールツー。
 何が狙いだ。思考を巡らせる蓮水をせせら笑うように、僅かに振り返った見浪が言った。


「ちまちまちまちま、ご苦労さん」
「はあ?」


 見浪のあからさまな挑発に、つい返事をしてしまった。蓮見は主審に見つかる前にと早々に視線を戻す。けれど、見浪は踏み込んでもいないバッターボックスをわざわざ均す。時間を稼いでいるとしか思えない。


「よくやるねー。俺なら絶対無理。ちまちまやってても楽しくないでしょ」
「ちまちまって……」


 データ収集をちまちま遣らずに、どうするのだ。苛立ちはしないが、呆れて蓮見もつい返す。


「そのちまちました積み重ねが、勝利に繋がるんでしょう。塵も積もれば山となると言いますし」


 すると、見浪が心底不思議そうに目を見開いて、キャッチャーマスク下の蓮水を覗き込む。
 一見すると何の邪気も感じられないが、安易に信用も出来ない。
 見浪が、至極当然のことであるように、言った。


「塵が積もれば塵の山だろ」


 細い目の奥に、底の見えない奈落を見たような気がして、蓮見は身震いする。
 感情の読めない表情が恐ろしい。言葉の真意を探ろうにも、それがまた罠のようで踏み込めない。


(何なんだ、この人)


 このグラウンドにいる誰もが感じている筈の必死さを、見浪翔平からは感じない。
 三球目、今度こそストライクを入れると思うだろう。次はストライクだ。ただし、ボールぎりぎりのコースのストレート。
 連投された変化球からの直球だというのに、見浪に焦りは微塵も無い。醍醐の手から白球が放たれる刹那、見浪はタイミングを取るかのようにバットヘッドで肩を二度叩いた。そして、その双眸がきらりと光ったと思った瞬間、バットが一閃した。
 地を這うように低い強烈なライナーだ。三遊間を抜けようとする打球を匠が正面で受けようとする。だが、打球はグラウンドに着地すると生き物のように跳ね上がった。
 イレギュラー!
 匠の頭上を越えた打球に、フォローしようとレフトの孝助が詰めている。見浪はバッターボックスを飛び出し、一塁を踏むところだ。
 打球が内野を越える寸前、飛び上がった和輝のグラブに白球が捕らえられる。


「二つ!」


 着地しないままのスローイングは、精密機械のようにセカンドの箕輪の元へ走った。
 見浪が二塁に立つ。スタンディングダブル。一回裏の攻撃を、そっくり返されたような心地だ。蓮見が苦い顔をする。


「打たせて行けー!」


 走者がいる為に、二塁に張り付いている箕輪が声を上げる。
 見浪は笑みを浮かべている。


「やー、箕輪君」


 見浪が試合中とは思えない程、呑気に話し掛ける。箕輪は舌打ちしたい心地だったが、無視を決め込む。此方のペースを乱されたくはない。


「相変わらず、お宅は熱いねー」
「話し掛けるなよ、試合中だろ」
「そりゃ、失礼」


 言葉とは裏腹に見浪は気にも留めない。
 本当に、何なんだよ、こいつ。腹立たしげに箕輪はそっぽを向く。
 五番、寺岡連次郎が打席に立つ。二塁にランナーがいる為、ショートの匠が寄っている。三遊間が開くけれど、その場所は晴海の守備で最も強固な壁だ。


「さて、引っ掻き回そうか」


 ぽつりと、見浪翔平が呟いた。




Fire Cracker(2)





 五番、寺岡のバントが決まり、一死走者三塁。手堅い攻撃は見浪らしくない。
 和輝は三塁に留まる見浪を見遣った。すると、此方をじっと見ていた見浪と視線が合って驚かされた。


「何見てんだよ!」
「お前が言うな」


 冷静に返されて和輝は肩を落とす。その通りだ。
 今は試合中だと言い聞かせてバッターボックスへ目を戻す。六番の犬飼駆は一年生だ。純朴そうな少年だが、光陵学園と思うとそれも疑わしい。全ては見浪翔平という曲者のせいだ。
 頬を伝う汗を拭いながら、見浪が「今日は暑いな」等と世間話を始める。和輝も適当な相槌を打って相手にしない。
 バント警戒の前進守備だ。自分が三塁にいる間は匠が広く三遊間をカバーしてくれる。
 見浪がリードを取る。打っていけよ、なんて胡散臭いことを言う。十中八九、転がすだろうなと和輝は備える。案の定、犬飼は版との構えをしている。
 初球、バントを警戒してのボール。犬飼は手を出さない。
 三塁への牽制が難しいとしても、有り得ない訳ではない。牽制の姿勢を見せる醍醐に、渋々と見浪が三塁へ戻る。
 犬飼の構えは変わらない。だからこそ、蓮見がサインを出し倦ねている。二球目は外から内に食い込む変化球だ。バント警戒に内野が前進する。犬飼はバントから、一瞬にしてヒッティングに切り替える。見浪が本塁へ突っ込む。
 打ち込んだ白球が前進した一塁二塁間を抜ける。ライトの宗助がカバーに入るが、本塁は間に合わない。


「一つ!」


 見浪が本塁へ帰還した。犬飼が一塁へ滑り込む瞬間、宗助からの返球が星原に届いた。
 アウト。ツーアウトだ。だが、先取点は光陵学園だ。五回表になって漸くの初得点だった。


「切り替えるぞ!」


 失点に落ち込む前に、和輝は声を上げた。
 この失点に、責任は無い。弱みを見せれば付け込まれる。油断も慢心も許されない。


「此処で切るぞ!」


 この空気を変えるのは、自分の仕事だ。
 本塁帰還を果たした見浪は、ベンチで待つ仲間とハイタッチを交わしながらグラウンドを見て笑う。そんな言葉で立ち直れるなら、初めから落ち込みはしない。
 五回まで続くこの拮抗で、体力も気力も消耗した状況で失点。エラーでなかったことは残念だが、プレッシャーは与えた筈だ。口角を釣り上げた見浪が、グラウンドへ背中を向ける。その、時だ。


「おー、バッチ来いや!」
「打たせて行け!」
「次は止めてやるよ!」


 次々に零れ落ちる晴海ナインの声援。強がりや空元気では、無い。
 笑っている。


(何だ、こいつ等)


 見浪には理解出来ない。
 信じている。前だけを見ている。敗北なんて考えてすらいない。
 一年前の試合を思い出す。甲子園に初出場した晴海高校が、王者、政和賀川に完敗した試合だ。コールド負けの許されない試合で、嬲り殺しの公開処刑にも程近かった。それでも、彼等は最後の瞬間までグラウンドに立ち続けた。諦めなかった。誰一人、弱音一つ吐かなかった。
 何が違う?
 蜂谷和輝の中学時代、最後の公式戦。全打席敬遠で負けた和輝が、届かないと解っていてバットを振ったこと。対する投手が彼等に罪悪感を持ち、野球を辞めてしまった。
 何が違う。
 楽しい試合にしようぜ。
 和輝の言葉だ。何が楽しい。


「解らないな」


 見浪は、吐き捨てた。

2012.8.16