五回表の攻撃を一失点に抑え、試合は裏へと移行する。しかし、下位打線から始まる晴海高校の攻撃は得点に至らず、試合は一点ビハインドのまま後半戦へ突入した。 見浪はグラブを脇に抱えてベンチを目指す。グラウンド整備の挟まるこの時間は小休止、インターバルだ。トンボを片手に駆け出すチームメイトからの労いを笑顔で受け、見浪は晴海高校のベンチを見遣った。総勢十名の野球部では、レギュラーが整備に向かわなくてはならない。 天才と呼ばれる少年は、その短身痩躯ながら圧倒的な存在感を放ちチームの中心にいる。見浪は水分補給もそこそこにグラウンドへ向かおうと顔を上げた。引っ掻き回すなら、この時間を有効に使いたい。 ベンチを出ようとする見浪の背中に、声が掛かる。 「見浪、お前は休んどけよ」 柳が言った。小さな背と童顔、瞬足はあの天才に似ている。 見浪は苦笑し、頷いた。引っ掻き回しに行きたいところだから、キャプテンと監督を兼任する自分は好き勝手に動く訳にいかない。渋々ベンチに戻り、前半戦を振り返る為にデータを確認する。 晴海高校の投手、二年生の醍醐はコントロールに若干の不安があるものも良い選手だ。直情的な性格を、捕手の蓮見が上手くコントロールしている。醍醐を煽ればもっと得点に繋がりそうな気もするが、後半戦は降板するだろう。 柳が隣に座り、手元のバインダーを覗き込んで来る。 「投手交代だよな」 「多分ね」 見浪が肯定を示すと、柳は資料を取り出し確認する。六回からは晴海高校エースが登板する。前半戦でもっと点を稼いで置きたかったが、もう、種は蒔いた。 柳は眩しそうにグラウンドを睨み、言った。 「ああ、天才、ムカつくなあ」 忌々しげに吐き出された言葉に苦笑する。 努力する人に対する最大の侮辱が天才という言葉ならば、それすら手に入らない凡人は一体何だと言うのか。柳の言葉に共感を示しながらも、本当の意味で彼の心中を理解することは出来ないと見浪は悟っている。 グラウンド整備が終わる。晴海高校の選手もベンチに戻る。見計らったように、見浪は立ち上がった。 「ちょっと、トイレ」 「どうせ、向こう行くんだろ」 引っ掻き回すなら、俺も行く。柳がそう言って笑った。 薄暗い回廊を抜けた先、晴海高校のベンチがある。漏れる日光が眩しかった。ひょっこりと顔を覗かせると、目当ての小さな少年は驚いたように目をまん丸に見開いた。訝しげに細められた目は睨んでいるようだ。けれど、天才――蜂谷和輝は手にしていたコップを置いて歩み寄って来た。 「堂々とした偵察だな」 「偵察じゃねーよ」 笑顔で答えると、和輝が笑った。相変わらず綺麗な顔だ。 じゃあ、何の用だよ。明るく笑いながら、突然の訪問者に問い掛ける。口調も表情も明るいのに、その小さな身体は侵入を阻むように、出入り口を塞いでいる。こういう抜け目無いところは心底好ましい。こいつも純粋で真っ直ぐなガキではなくなったのだ。 見浪はポケットから十枚の紙の札を取り出し、眼前に突き付けた。地元商店街の一角にある古いゲームセンターでのみ使用出来る、手作り感溢れる無料券だ。一枚ワンプレイなので、計十回出来る。 「この前のゲーム、新作が出たんだ。一緒に行こうぜ」 「いいよ。何、それだけ言いに来たの?」 「予定確認したくてね。今日は?」 「今日は無理だよ」 「ああ、あの子の命日だから?」 流石に、和輝の表情が曇る。部外者の自分が軽く口に出していいことではない。 ベンチの奥で白崎匠が睨んでいる。けれど、和輝は微笑んだ。 「いいや、本選の支度をしないといけないから」 負ける気は微塵もないと、自信に満ちた強い目で和輝が言う。挑発でも嫌味でもない本心だというところが彼のすごいところだと、見浪は純粋に思う。 だからこそ、折ってやりたい。 「そんなこと言って、負けたらどうすんだよ」 「勝てるって信じてるのに、負けた時のこと考える必要無いだろ」 当たり前のように和輝は言い返す。彼は、それが当たり前でないと解らないのだ。 前だけを見ていけるのだ。日々の練習で培って来た自信というものだ。 「天才ムカつくなぁ」 見浪の少し後ろで、柳が言った。見浪も彼が付いて来ていることを今、思い出した。普段の単独行動が多過ぎて違和感すら覚える。 和輝は影になっていた柳を見て、小首を傾げた。蜂谷和輝にとって、柳晴翔は、尊敬する先輩の弟のそっくりさんという印象しか無いだろう。それか、瞬足の一番打者。そういう試合での記録しか、無いのだ。通り過ぎていくモブの一人でしかない。 「柳君だよね。後半戦も宜しく」 邪気も無く微笑む和輝に、柳が苦い顔をする。引っ掻き回しに来て、引っ掻き回されてどうする。ミイラ取りがミイラだ。 お互い頑張ろうね、なんて有り触れた言葉を掛ける和輝に吐き気がする。こいつ、人格者なんて言われているけれど、最低だ。此方を見下している訳ではない。敵に塩を送るつもりでもない。純粋な鼓舞で、労わりだ。親しくなくとも解るその真っ直ぐさが、最高に気持ち悪い。 柳が何かを叫ぼうとするのを遮って、見浪が返した。 「馬鹿だなぁ。我武者羅に頑張って勝てるのは、天才だけなんだよ」 「お前の指す天才の定義が解んねーよ。天才でも凡人でも、頑張らなきゃ勝てねーだろ」 「度合いの問題だよ。スタート地点が違うんだ」 「天才が十努力してるなら、二十努力すりゃいいだろ。諦めなきゃ、いいだろうが」 和輝にとってはそれが正論なのだ。そして、正解なのだ。そうして彼は生きて来たし、これからも生きて行くのだろう。追い掛けなきゃ追い付けないと、立ち止まることもせずに前だけを見て行けるのだ。 柳が何かを言いたそうにするが、それは悪手だ。この場面で言うべきではない。見浪は笑みを浮かべたまま言い返す。 「じゃあ、天才が二十、三十、四十努力していたら? 休むことも知らずに、振り返ることもせずに、前だけ見て行けたら? その差は永遠に縮まらないぞ」 「その仮定の話に何の意味があるか解らないけど、少なくとも広がりはしないだろ」 「それじゃ満足出来ないんだよ」 「なら、自分の問題じゃないか。結局、努力なんて自己満足なんだから」 お前が、それを言うのか。 純粋で、残酷だ。和輝は自分が天才だと思っていない。だから、凡人の立場から言っている、つもりなのだ。けれど、世間一般で彼の評価は等しく天才だ。世間の評価を切り捨てて、理想の自分を実現しようとしている。周囲の理想を切り捨ててしまった最終形態がこれだ。見浪は溜息を零す。 「お前、俺に負けず劣らずのクズだな」 「……何か、間違ったこと言ったか?」 「いいや、正しいよ。吐き気がするくらい、正しいよ」 糸のような目を僅かに開き、見浪は和輝を見下ろした。 「天才は努力すんな」 「その天才って、俺のこと言ってんの?」 他に誰もいないだろう。見浪は呆れた。鋭いようで、鈍い。 このままじゃ、引っ掻き回しに来て、引っ掻き回されたようなものだ。見浪自身は痛くも痒くもないけれど、貴重な時間を潰した対価に見合わない。 此処にも、種を蒔こう。見浪は親指で柳を指した。 「こいつ、橘シニア出身だぞ。同じグラウンドにいた筈だろ」 登場時以上に目を丸くした和輝はそのままに、見浪は踵を返す。 帰ろうぜ。柳が、無言で頷いた。 Fire Cracker(3) 「あーあ」 立ち尽くす和輝の後ろで、孝助が笑っている。不満を隠しもせず振り返れば、後頭部で手を組んだ孝助が皮肉っぽく笑った。 「あんた、最低ですねぇ。自分の元チームメイトも覚えてないんですかぁ」 何で味方にまで挑発されなければならないのだ。和輝はそっぽを向く。 中学時代を過ごした橘シニアに、何十人が在籍したと思っているのだ。話したことも、名前も知らないチームメイトなんてざらだ。 だが、言い返すことは憚られた。最低なのは解っている。孝助の言葉は事実だ。和輝はチームメイトのことを殆ど覚えていない。 「あんた、自分が凡人だと思って言ってたでしょ。でも、好い加減、周りの為にも自覚して下さいよ。あんたは天才なんです。凡人とは違う。生まれ持った才能で、人よりずっと前のスタート地点から走り出してるんだ。凡人から見たらズルいんですよ。そんな人間に、努力が足りないとか、諦めたら御終いとか、結局は自己満足だとか、そんなこと言われたら、凡人は立場無いですよ」 返す言葉が無い。和輝は黙っている。 「あの柳って人、死にそうな顔してましたよ。昔のチームメイトに存在を忘れられた上、遠回しに散々罵られて」 あーあ、可哀想。孝助が嬉しそうに笑う。 「いいから、孝助黙ってろよ! すいません、キャプテン」 双子の弟、宗助が割って入る。代わって頭を下げようとするのを押さえた。 「いいんだ。孝助の言ってることが、正しいから」 「そういう一歩引いた態度を、初めから貫き通していれば良かったのにね」 皮肉っぽく言う孝助に、和輝は呆れた。何時になく饒舌じゃないか。 慌てて宗助が孝助の口を塞ぐ。和輝は苦笑いを浮かべ、ベンチに戻った。置いたままになっていたスポーツ飲料を飲もうとすると、箕輪が持ち上げて手渡してくれた。 サンキュ、と礼をすれば箕輪が困ったように笑った。 「気にすんなよ。どうせ、見浪も孝助も、からかってるだけなんだから」 それでも、自分は最低だ。和輝はぎゅっと目を閉じた。 見浪は、相手を撹乱するのが好きだと解っている。これも彼の挑発の一つだろう。前半戦では妙に静かだったから、まさか、真っ向から引っ掻き回しに来るとは思わなかった。 前列で会話を聞いていたらしい星原が振り返った。 「そうですよ、和輝先輩。放って置いたら良いんです。孝助なんて、自分が昔のチームでした不配慮を思い出して八つ当たりしてるだけなんですから」 からりと星原が笑う。忌々しげに孝助が睨むが、宗助が説教を始めているので黙っていた。 「天才とか凡人とか、そんな言葉は自分の可能性を信じ切れなかった弱虫の言い訳なんですよ」 「おお……」 星原らしくないな、と箕輪が驚いている。星原は周囲のことに余りに干渉しない。興味が無いのだろう。ただし、それが尊敬する先輩のことならば、此処まではっきりと発言出来るのだ。 「大体、忘れたことが悪いってんなら、忘れられる方にも問題ありますよ。俺だって、元チームメイトなんて九割九分九厘覚えていませんから!」 「それは、胸張って言うことじゃないだろ」 箕輪が呆れたように言った。星原が余りに力説するので、和輝は笑った。 彼等のやり取りを横に、宗助は黙った。孝助の失言をすぐに止められなかった自分を悔いる。けれど、止められなかったのだ。 甘えだろう。弱虫だろう。孝助の失言だし、見浪の勝手な言い分だ。――けれど、宗助にはそれが解る。 才能の差というのは、歴然と存在する。兄である孝助は天才だった。でも、宗助に神様は微笑まなかった。毎日積み重ねた努力を、才能は一瞬で飛び越えて行く。置いて行かれてしまう。 それでも、追い付きたくて、隣に立ちたくて、一緒に歩き出したくて。届かないと解っている背中を追い掛け続ける苦しさを、宗助は知っている。諦めなきゃ追い付けるとは限らないだろう。そういう諦観が甘えであったとしても、前だけを見て走り続けることなんて出来ない。 歩き出すことも、立ち止まることも辛い。いっそ逃げてしまおうかと投げ出したこともあったけれど、忘れた振りをしても頭の隅に臆病な自分がちらついて苦しい。こんな自分を、彼等は馬鹿だと嗤うだろうか。 「……宗助」 つい黙ってしまった宗助を、孝助が見詰めている。 宗助は苦笑いを浮かべた。もしかして、自分の為に言ってくれていたのかな。 「何でもない」 サイレンが鳴り響く。後半戦の開始だ。 |
2012.8.17