「天才とか凡人とか、よく解んねーけど」 六回表、光陵学園の攻撃。八番の今吉和弥は三年生の捕手で、がたいが良い。晴海高校の投手は醍醐が継続している。 箕輪は先程の会話をぼんやりと思い出している。匠が、ショート定位置で言った。 「自分がやりたいこと一生懸命やっていれば、それでいいじゃん。才能があるとかないとか、関係無いだろ」 心底解らないというように、匠が眉を寄せる。 解らないだろうな、匠には。箕輪は胸の内で呟く。 「柳なんて俺だって忘れてたよ。だって、レギュラーどころか一軍ですらないし。柳の気持ちも解らなくもないけど、和輝が間違ってる訳でも無いだろ」 その通りだ。 今吉が高めの速球に手を出し、打球が浮かび上がる。センター前、空湖が危なげなく捕球し、ワンナウト。 「胸張っとけよ」 励ますでもなく、匠が当たり前のように言った。 聞いていたらしい和輝が、苦い顔をする。 「俺、気にしてるように見える?」 「いや、全然。というか、気にしてないことを、気にしているように見える」 匠が笑う。図星を突かれたと和輝も釣られて笑った。 此処には境界線があると、箕輪は思う。才能の壁が、此処には確かにある。 九番、桐谷は投手だ。釣り上がった目がグラウンドを睨んでいる。 「だって、よく解らないんだよ」 足りないなら、もっと頑張れば良い。十の努力で足りないなら、二十の努力をすれば良い。誰かのせいにしたって、何にもならないだろう。 そんな残酷なことを容易く言える和輝は、事実、そうして来たのだ。けれど、その不屈の精神こそが一つの才能だと、箕輪は思うのだ。和輝の言うことは間違っていないけれど、誰もがそうして強く生きられる訳ではない。 桐谷の打球が一塁線へ転がる。醍醐の送球も紙一重間に合わず、セーフ。 一死走者一塁。バッターボックスに件の柳が立つ。バットを肩に担いで、柳は一瞬、三塁を睨んだ。和輝は苦笑する。 柳は初球から転がし、打球を一塁線へ転がした。醍醐が飛び出す。 「三つ!」 和輝が叫ぶ。醍醐のバックトスを匠が中継する。送球を受けた和輝が、三塁上で捕球すると同時に二塁へ送る。 二塁セーフ。併殺は取れなかったものの、三塁走者を一人刺した。二死走者二塁。 箕輪は二塁上へ戻り、次の打者に備える。自分より小柄な柳を横目に、その走力、走塁技術に驚かされる。才能に恵まれなかったかも知れない。けれど、それだけの実力を持って、どうして卑屈になるのだろう。 彼は相似形なのだ。箕輪は思う。箕輪が三塁を見遣ると、釣られるように視線を向けた柳が苦い顔をする。二番打者がバッターボックスに立った、その刹那。 二塁上から、柳の足が、離れる。箕輪のグラブが、柳に触れた。 「アウト!」 それは、見浪翔平が武蔵商業との試合で用いた――隠し球だ。 純朴そうな箕輪が隠し球をするとは、思わなかっただろう。チェンジだ。 トリックプレイは、意外と思われる人間が行うから効果があるのだ。見浪はグラウンドを見据えながら目を丸くする。グラウンドにいる晴海ナインすら、そのトリックプレイを予期していなかったかのように驚いている。 数瞬遅れて動き出した試合の中で、箕輪と和輝が拳を合わせて笑っている。見浪はやられた、と苦笑いを浮かべグラブを取った。すれ違い様、ベンチに向かう凡人――箕輪が嘲笑するように言った。 「俺、手品が得意なんだ。……隠し球を使えるのが、自分だけと思うなよ?」 Fire Cracker(4) 六回裏、晴海高校の攻撃は下位打線より始まる。八番、蓮見がバッターボックスに立つ。 天才とか、凡人とか、心底下らないと蓮見は思う。青いな、とも思う。けれど、圧倒的な才能を前にして凡人は余りにも無力であることを蓮見は知っている。 どれだけ努力したって、越えられない壁はある。そんなものは当たり前だろう。だからこそ、面白い。少し前まではそんな思考すらイかれていると思っていたのに、今では真正面から受け入れている。蓮見はそういうチームと、出逢ってしまった。 越えられない壁に絶望することは容易い。けれど、目標に向かって努力し続ける、挑戦する楽しさを知っている。それは凡人に与えられた特権だ。否、自分を信じることを止めなければ、誰にでも与えられる権利だ。 ベンチに戻るなり手荒く祝福された箕輪は、湧き上がる力を感じながら言った。隣りには、どうしても越えられない壁、目指すべき目標である和輝がいる。 「壁にぶち当たったこと、俺もあるよ。柳の気持ちも解る。これが個人競技だったなら、俺は野球を辞めていたかも知れない」 さらりと言った箕輪の言葉が、晴海のベンチに響く。 ストライク。声がする。 「でも、チームプレーだったから。届かないと思った目標も、一人じゃなくて皆で挑戦してると思うから、此処まで辞めずに来れたんだ」 互いの足を引っ張り合うのではなく、相手の傷を探すのではなく、立ち止まれば振り向いて、蹲れば手を引いて、俯けば背中を押してくれるようなチームだったから、此処にいられる。 晴海高校野球部は、そういうチームだった。 金属音と共に打球が内野を抜ける。回れ。コーチャーが声を上げる。蓮見が一塁へ滑り込み、審判が両手を水平に開いた。セーフ。 和輝は立ち上がり、ネクストへ向かう。素振り用の錘の付いたバットを担ぎ、ベンチを出て行く。 九番、相方である醍醐が打球を転がし、危なげなく走者を二塁へ送る。ワンナウト。 バッターボックスに入る前に、丁寧な礼をする。顔を上げ、静かにバットを構える。右手にバットを掲げ、二塁上の蓮見へ笑い掛ける。 俺が必ず、お前を還してやる。左手がそっと自身の胸を二度叩く。信じろ。晴海高校だけのサインだ。 初球のボールを見送る。前進守備を敷いているのは、バントを警戒しているからだろう。ヒッティングの構えを崩さない打者に、見浪は前進守備を解いた。 二球目は外角に逃げる変化球だ。流すように強かに打ち付けた打球が、地を這うように低くグラウンドを駆けて行く。バウンド。打球が二遊間を抜ける。塁上に張り付かざるを得なかった見浪の横を摺り抜けて行く。それはまるで、掌から砂が零れ落ちる様に似ている。 さらさらと抜けて行く。――けれど、それはレフトによって掬い上げられる。二塁を蹴った蓮見へ、コーチャーが停止サインを出す。送球先は二塁だ。和輝が滑り込む。 セーフ。聞かなくとも解っているとばかりに見浪が舌打ちをする。一死走者二、三塁。得点のチャンスに沸き立つ応援を背景に、蜂谷和輝が笑っていた。 還せなかったな、と和輝が眉を下げる。けれど、次の打者、箕輪が胸を二度叩いた。 身を低くして、和輝が走塁に備えている。この場面でバントは勿体無い。箕輪を信じているからこそ、ベンチで匠がヒッティングサインを出す。箕輪は冷静に構えている。投手の後ろ、二塁上に和輝と見浪がいる。箕輪は以前、見浪と交わした会話を思い出す。 (前に、お前は俺達が宗教染みてるだなんて言ったけど、そんなこと無いよ。俺達は別に、あいつの言うこと全部肯定している訳じゃないし、盲信もしていない。何時でも正しいとも思っていない) きれいごとで理想論だと思う時もある。面と向かって否定もする。そうやって、ぶつかり合いながら此処まで来た。 強く打ち付けた打球がファールゾーンに浮かぶ。箕輪の構えは変わらない。グラウンドにいる仲間をベンチへ帰す為にバットを握っている。 ファール。ファール。ファール。カウントが全て埋まっても、ファールゾーンに打球が浮かぶ。五つ目のファール。箕輪は頬を滑る汗の雫を拭った。ベンチからのサインは変わらない。自分を、信じているからだ。 六つ目。ピッチャー横に着地した打球が三遊間へ跳ねる。内野を抜ける。蓮見が本塁を駆け抜けた。セーフ。試合は止まらない。二塁走者、和輝もまた本塁を目指している。 レフトからの強烈な送球。けれど、コーチャーのサインはGOのままだ。彼ならきっと帰って来れると信じている。 送球を潜り抜けるように身を低くした和輝が、タッチアウトを避けて本塁をタッチする。セーフ。今吉が立ち上がって二塁へ送球する。アウト。 六回裏にて二得点を手に入れた晴海高校がガッツポーズを取る。点差は逆転した。 見浪は電光掲示板を見据えている。試合展開に対する驚愕はない。起こるべくして起きた展開だ。其処に一々文句を言っても意味が無いし、疲れるだけだ。 見浪翔平は、絶望しない。絶望したって、仕方が無いと解っている。けれど、光陵学園の選手皆がそうではない。 見浪翔平は、解らない。悔しいことは解る。負けて嬉しい人間はいない。だけど、それだけだろう。 見浪翔平は、天才だった。だから、努力の価値が解らない。感情論や根性論が理解出来ない。何をしても人並み以上に出来る――否、天才と呼ばれる領域に達していた。 三番、星原千明。星原もまた、天才と呼ばれる人間だ。特に野球において、越えられない壁にぶつかって膝を着いたことが無い。星原にとって壁ではなく、それは鍵の掛かった扉だ。開け放つ鍵を探している。そして、その鍵は少しの工夫で開くことを知っている。 ツーアウトからの追撃。星原の打球はピッチャーを嘲笑うように股下を抜けた。一塁を走り抜けた星原が小さくガッツポーズをする。 四番、白崎匠。彼も才能に恵まれた選手だ。痛烈なライナーを打ち放ち、走者を一つ進め、自身も一塁セーフを掴む。 五番、鳴海孝助。天才と呼ばれる兄の姿を見詰めながら、宗助の口元は弧を描いている。 (いいのか、それで) 胸の中にすとんと落ちた答えに、宗助は救われた気分だった。 (毎日の挑戦と結果が苦しくてしんどくて、弱い自分に打ちのめされそうになっても、それでいいのか) 才能に恵まれた兄と比べて何をしても劣る自分が嫌いで、認められなくて、誰かを憎んで人のせいにしてみて、結局苦しくて辛くて、それでいいのか。 実を結ばない努力も自分が認めてやれば、価値があるのか。それでいいのか。努力を嗤う仲間なんていない。否定していたのは自分だけだ。 グラウンドから高音が鳴り響く。宗助は声を張り上げる。 「行けーッ!」 星原がホームイン。匠が還る寸前、一塁がアウトとなり、六回裏が終わる。 三得点。ホームインした星原が、ベンチの仲間をハイタッチを交わす。宗助の前に来ると、星原は口角を釣り上げ力いっぱい掌を叩いた。 |
2012.8.23