七回にして登板した晴海高校のエースは、待ちくたびれたとばかりに闘気を漲らせている。六回裏の三失点が堪えている光陵学園にとっては厳しい状況だ。ただ一人を、除いては。 見浪翔平は飄々とした態度を崩さない。劣勢に影響されるような細い神経はしていない。七回表のトップバッターとして打席に立っても尚、口元に笑みを浮かべている。 その腹の其処は読めない。蓮見はマスクの下、打者を観察しながら思う。この打者を躱すのは至難の技だ。初球を外すサインを出そうとして――、止めた。マウンド上の夏川が、燃えるような瞳で真っ直ぐに見ている。 (此処だ) 殆ど無意識に、蓮見はサインを出していた。夏川が静かに頷く。 ど真ん中ストレート。配球の組み立てすら馬鹿らしくなる、清々しい程の自信だ。幼少時から組んで来た醍醐も良い投手だと思うけれど、今の夏川にある圧倒的な存在感と安心感は桁外れだった。 伸び上がるようなワインドアップ。流れるようなステップを踏んで、右腕が大きく振り被られる。投球。周囲の空気を吸い込むような凄まじい直球は、吸い込まれるようにしてミットに突き刺さった。 「トーライッ!」 おお、と感嘆の声が漏れる。球が走っているとは、このことだ。 糸のような目で、品定めするように見浪がマウンドをじっと見ている。驚く様子も無い。 二球目もど真ん中ストレート。エースを信じている。肉を打つような鈍い音と共に、ボールがミットに収まった。蓮見はミットの中でも回転を続けるボールがまるで、小さいが凶暴な生き物のように感じられた。 「トラーイッ」 三球目、ど真ん中ストレート。直球勝負だ。 見浪の口元が僅かに釣り上がる。勢いよく振り切られたバットが、その凶暴な生物のような白球を打ち返す。打球は勢いよくセンター前に弾け飛んだ。 手本になるような癖の無い綺麗なフォームだ。こういう場面でホームランを打つ男だと、知っている。見浪は掌で日光を遮りながら打球の行方を見守っている。マスクを上げた蓮見が叫ぶ。 「センター!」 基本に忠実なセンター返し。見浪翔平は腹の底の読めない不気味な選手だが、プレー自体は徹底的に基本に忠実だ。全てが予定調和に見える。 センター、空湖が追い掛ける。外野はフォローに、内野は送球に備えている。見浪だけが冷静に打球を見守り、蒼穹に浮かんだ白い点を見て言った。 「あーあ」 打球が、伸びない。背中に壁を感じながら構えられた空湖のグラブへ、一直線に打球が落ちた。 ワンナウト。蓮見はほっと胸を撫で下ろす。ベンチに戻った見浪を迎える光陵学園は、些か焦った表情を浮かべている。 光陵学園の攻撃は、見浪翔平が主軸だ。晴海高校との最大の違いは其処だ。一人一人が歯車の一つだと理解して滑らかな連携を狙う晴海高校とは違い、光陵学園は見浪が全てを背負っている。 攻撃は続かなかった。三人で打者を切った晴海高校がベンチへと駆けて行く。 蓮見は夏川に駆け寄った。 「ナイピッチです。最高に走ってますね」 「そうか? 普通だろ」 才能にも体格にも恵まれながら、其処に胡座を掻くことなく常に上を目指している。頼もしいエースだ。向けられる信頼に応えてくれる。 試合は一進一退を繰り返し、互いに無得点のまま、最終回を迎えた。 Fire Cracker(5) 九回表、光陵学園の攻撃。打者は一番、柳晴翔。 最終回に来て二点差が光陵学園に重く乗し掛かる。柳は強張った表情でバッターボックスに立っている。対峙する夏川は相変わらずの無表情でマウンドに君臨する。 自分が出塁しなければ、逆転は厳しい。プレッシャーを感じながら柳は三塁を睨んだ。 小さな身体。秀麗な顔立ち。圧倒的な才能。嘗てのチームのキャプテンを睨む。けれど、その視線が絡むことは無い。橘シニアに所属していた頃、グラウンドにいた彼と視線が交わったことは無い。彼にとって自分は通り過ぎていく他人でしかなかった。そして、それは今も変わらないのだ。 悔しい。しんどい。負けたくない。腹が立つ。当たり年と呼ばれた自分達の代は、先代に比べ比較的平和で仲が良かった。実力差による軋轢も無かった。けれど、其処には明らかな格差があった。 それは、今も埋まらないのか。 高校入学後、苦渋を嘗めた過去を埋めるように繰り返した努力も、才能の前には無意味なのか。 夏川の剛球が唸る。手も足も出ない。自分のチームのキャプテン、見浪翔平も天才だった。非常に高いIQを誇る彼の思考は三年間共に過ごした今でも理解出来ない。それでも、一年の頃、彼が必要だと言ってくれたから、自分が折れそうになっても努力することが出来た。なのに、届かないのか。 味方の応援が聞こえている。聞こえていても、手も足も出ないんだよ。 (和輝) 天才が憎い。努力を惜しまない、苦渋を嘗めない彼等が恨めしい。八つ当たりだなんて解っている。そんなことは今も昔も、解っている! それでも、諦められないから悔しいんだよ! 二球目、濁った音がして打球が転がった。当たり損ねの打球は運良くピッチャーとキャッチャーの間に転がった。マウンドを飛び出す夏川の姿を横目に捉えながら、柳は疾走する。グラウンドを蹴って、一塁を目指す。 届け、届け、届け、届け――! つんのめって転がりながらも、一塁を踏み抜く。セーフ。審判が叫んだ。がばりと顔を上げた柳がガッツポーズをする。届いた。これで、見浪まで繋がる。 走者を出しながら、夏川は涼しい顔をしている。少しくらい焦った顔をしろよ、と苦々しく思う。けれど、彼は微塵も追い詰められていない。 二番、三番と三球三振に抑え、遂に光陵学園最強の打者を迎える。 グラウンドに緊張感が走る。それでも、晴海高校の選手は決して焦りはしない。 『バッタ―四番、見浪翔平君。背番号四番――』 感情の読ませない無表情で、見浪が再びバッターボックスに現れる。 夏川は鋭い目で一塁走者を牽制しながら、構えている。 柳は盗塁の機会を伺いながら、一歩を踏み出せない。此処で自分がしくじれば、三年間が終わる。怖い。怖くて堪らない。仲間達の夢の責任を、自分は背負えない。 見浪が立っている。初回と変わらない。否、一年の頃と何も変わらない。どうしてそんなに堂々としていられるのだろう。柳には解らない。 初球、ど真ん中ストレート。見浪のバットが振り抜かれる。打球は三塁線、更にはフェンスを越える。ファールだ。 ああ、惜しかったな。見浪は胸の内で呟く。 此処に来ると解っていたのに、ボールの軌道が僅かにずれた。凄まじい勢いで起こった空気摩擦が、ボールの軌道を変えたのだ。恐ろしい肩だなと敵ながら感心する。 「見浪!」 「頑張れ!」 ベンチから焦った声がする。何なんだよ、あいつ等。 見浪は解らない。彼等の思考が解るが、見浪にとって感情が付随しない。何時もそうだ。努力も根性も理想も解るのに、心が乖離している。理解出来るのに、共感出来ない。 けれど、負けたくないと思う。グラウンド上の和輝を見遣る。 ――楽しい試合にしようぜ 不意に声が蘇って、見浪は驚いた。試合前に和輝が言っていた。 楽しいって、何だよ。俺は毎日が退屈なんだ。だって、努力が出来ない。努力する必要なんて一度も無かった。練習を繰り返せば技能が向上するのは当然だろう。それを止めれば劣るのも当然だ。お前はそうじゃなかったのか? 壁にぶつかったことなんて無い。俺の前にあるのはハードルだ。コツさえ掴めば越えられる。寧ろ、越えるべき障害物だった。 二球目は外される。見浪は当たり前のようにそれを見送った。ボールカウントが増える。 人生なんてゲームと一緒だ。思考を止めなければ必ず勝利出来る。ただし、リセットが効かない。 三球目は変化球だった。見送ればボールカウントが加算される。次はストライクを入れて来るだろう。自分を出塁させれば、次の打者を打ち取れる確率は上がる。だが、晴海高校はそれを求めない。あくまでも真正面から相手を倒さなければ意味が無いとバカ正直に試合をしている。 (解んねーよ) 四球目、ファール。 見浪は頬を伝う汗を拭い、俄かに驚く。汗を掻く場面ではない筈なのに、何故だか心臓が激しく拍動している。その理由が解らない。 五球目、ファール。 カウントは全て埋まった。夏川は表情を変えない。こんな図太い奴だったっけと一年の頃を思い返し、見浪は首を傾げるばかりだ。 「見浪ィ!」 切羽詰まった声がベンチから響く。 何なんだよ、お前等。そんな声で呼ばれたら、頑張りたくなって来るだろうが。 ――真剣に、全力で、最高に楽しい試合にしようぜ 和輝の声が耳に焼き付いている。意味の解らなかった言葉が、点を線で繋ぐように読み取られていく。 楽しい。その感情が、解る気がした。 この緊張感を楽しむ。全力で挑む。その意味が、何となく、解るような気がする。 声がする。ベンチから、仲間の声が。 ――俺はそういうチームに出会ったんだ 今なら、解るよ。 先の見えない、呼吸すら忘れるこの緊張感を、高揚感を彼は楽しいと言ったのだ。それなら、このドキドキしている今、自分は最高に楽しんでいる。 七球目、ファール。此処に来てストライクゾーンを外さない神経は流石としか称しようもない。 目標に向かって努力し、馬鹿の一つ覚えみたいに立ち向かっていく彼等の神経が理解出来ない。けれど、彼等の強さを賞賛する。 八球目、見浪はバットを振り切った。完全に真芯で捉えた、筈だった。 僅かにバットの上を逸れた白球がミットに突き刺さる。全力で振り切った見浪は動けなかった。 「トラーイクッ! バッター、アウッ!」 審判が叫んだ。途端、どっと歓声が湧き上がった。 ざわめくグラウンドで、見浪は振り切った姿勢のまま動けなかった。理解出来るのに、感情が追い付かない。こんなことは初めてだった。 漸くバットを下ろし、グラウンドを見遣る。マウンド上に晴海ナインが押し掛ける。 「ゲームセット!」 見浪はバットを杖のようにし、体重を預けた。体中から力が抜けて、今にも座り込みそうだった。 風船から空気が抜けるようだ。全てが霧散し、消えていく。 「見浪!」 ベンチを飛び出して来た仲間が駆け寄った。 叱責なんて無い。当然だろうと思うのに、何故だか、それが嬉しかった。彼等にとって誇れる四番、キャプテンであることが嬉しかった。 審判の促しで両校が整列する。 「只今の試合、一対三で晴海高校の勝ち! 両校、例!」 「ありがとうございました!!」 互いに深く頭を下げながら、見浪は込み上げる感情が理解出来なかった。 涙を零す仲間を呆然と見詰め、視線を自分の掌に移す。肉刺と胼胝で硬くなった醜い掌だ。生物学上として理解出来るのに、何故だか、それが誇らしい。 見浪は静かに歩み寄る和輝に気付いた。 和輝は感情を読ませない澄んだ目を向けている。 「見浪、楽しかったな」 確認するように言って、和輝が微笑む。 腹は立たない。寧ろ、それを拍手で迎えたいとすら思った。 「ああ。――楽しかったよ」 自然と見浪も笑っていた。 サイレンが鳴り響いている。試合終了の合図だ。夢の終わり。勝負の行方、決着。 当たり前のように握手を交した。 その手が離れると、静かに柳がやって来た。 「和輝……」 縋るように掛けられた声に、和輝は表情を無くす。 けれど、何か決心したように強い目をして和輝が向き直った。柳が、鋭い眼差しで言った。 「俺は、お前が、お前等が、大嫌いだよ」 噛み締めるように言う柳に、和輝は反論しない。お前等、が指すものが何かも解っている。 柳が言う。 「天才なんて、大嫌いだ」 「――俺は自分が天才なんて思ったことはないよ」 同じように恵まれなかった体格ながら、其処には明らかな格差がある。 和輝の言葉を受けて柳が憎々しげに顔を歪める。 「そういうところも、大嫌いだった……!」 「それでも」 丸く澄んだ瞳で和輝が言う。 「それでも、俺は仲間が大好きだったよ」 柳が、言葉を失くした。和輝の目に嘘や偽りは無い。それが、柳にとって辛かった。 自分達の羨望も、憧憬も、嫉妬も全てが糧だったと訴え掛けている。真正面から受け止められるのは、――苦しい。橘シニアにいた頃、視線も絡まず、視界にすら映っていなかったのに。 「ふざけんな! 天才の癖に!」 負け惜しみだと柳も理解している。それでも止められない衝動を、和輝も理解している。 「お前等が踏み台にして来た三年間は、俺達にとって、圧倒的な才能と向き合って来た三年間だったんだよ。毎日の挑戦と結果が苦しくて、何度も辞めようと思って、それでも捨てられなくて、祈って、縋って、その場所に立ちたいと願って来たんだ!」 中学時代を、振り返る。 グラウンド上に立つ彼等――天才達を、自分は何時も遠くから眺めていた。其処にはどうしたって辿り着けなかった。届かなかった。 それなのに、彼は、消えていなくなったのだ。強豪と呼ばれるチームに在籍することもなく、無名チームで此処まで勝ち進んで来た。それが恨めしい。天才の称号を簡単に捨てた彼が憎い。 「俺達にとって喉から手が出る程に欲しかったそれを、いとも簡単に捨てたお前が、正直憎くて堪らない。――腐るなら、潰れるなら、壊れるなら俺達の前でしてくれよ! そうでないと、俺達はいつまでもありもしない幻想に縋って、歩き出すことも出来ないだろうが!」 和輝は目を逸らさない。全てを受け入れる覚悟で対峙している。けれど、柳は目を伏せた。 「お前等はずるいよ。才能に恵まれてるのに、それに胡座を掻かないで、俺達以上に努力して……。勝手なのは解ってるよ。でも、天才のお前等が頑張っていたら、俺達の努力の行き場が無いだろう!」 弱音で泣き言だと解っている。それでも、止められない。 グラウンドに立つ和輝を覚えている。ベンチにすら入れなかった自分達の夢を背負っても尚、堂々とプレーして来た背中を知っている。通り過ぎていく他人でしかない自分達の努力を見ていてくれた彼を、知っている。だからこそ、悔しい。こんな感情を理解出来るだろうか。 「いっそ突き放して、置いて行ってくれたら良かったんだ。出来損ないの俺達を見下してくれたら良かったんだ。なのに、お前は置いて行かなかった。いつまでもいつまでも待ってた。逃げることを、許さなかった。競い合える訳でも、隣に立てる訳でもないって、初めから解ってたんだ」 和輝を責めるのは、お門違いだ。それでも、柳にとって此処にしか逃げ場は無かった。 「無駄な努力を強いられた俺達の気持ち、少しくらい考えたことあるのかよ!」 其処で漸く、無表情だった和輝の顔が歪んだ。勝利に酔い痴れるべき場面で、泣き出しそうに歪む。 「正直、俺はあの頃のお前等の気持ちなんて、考えたこと無かった」 静かに肯定する和輝の目は変わらず澄み渡っている。 「俺の無神経がお前等を苦しめていたなら、悪かったよ。でも、お前等が追い掛けて、振り返った先にお前等がいたことが、俺にとって、泣きたくなるくらい、嬉しかったんだよ……」 そうして微笑んだ和輝が、ぐにゃりと滲む。 柳は奥歯を噛み締めた。自分の醜い叱責も、お門違いな八つ当たりも真っ直ぐに受け止めている。それに比例して自分の弱さが身に染みた。 和輝は静かに礼をして、仲間の元へ戻って行く。入れ違うようにして、箕輪が柳と対峙した。 「俺は凡人だから、柳君の言ってること解るよ。だけど、仲間だから、和輝の気持ちも解るんだ」 慰めではなく、受け入れるように箕輪が言った。 「いつか、努力した自分を認められる日が来るよ。肩を並べて笑い合える日が来る。だから、その悔しさも遣る瀬無さも全部大事に守っとけ」 そう言って、箕輪が笑った。天才の中で足掻き続けた彼の強さを知って、柳の瞳から涙が零れ落ちた。 去って行く晴海高校の背中を見詰めている。薄汚れたユニホームで、後ろ指差されても真っ直ぐに背中を伸ばして来た彼等の強さを今更になって知った。 ベンチに到着した和輝は手早く撤収の指示を出す。自分も片付けをしながら柳の泣き出しそうに歪んだ表情を思い返す。 ふと止まった手に目聡く気付いた匠が、肩を叩いた。 「天才であろうとなかろうと、俺達は俺達としか、生きられなかっただろうさ」 ああ、その通りだな、と和輝は頷いた。後悔も諦念も抱いてはいない。 和輝は顔を上げた。夏の眩しい日差しが網膜を焼く。甲子園への切符が掌に収まっていた。 |
2012.8.23