破裂音と共に溢れ出した色とりどりの紙吹雪。割れんばかりの歓声が室内を包み込んだ。
 匠は瞠目する。風呂上りのフェイスタオルを首に掛け、言葉を失った自分はさぞ滑稽だったことだろう。
 二年前の夏だった。早朝の練習を熟し、これから授業を受けるのだと気持ちを切り替えた手前だ。黒河という同級生と共同で使う寮の自室には、同級生のチームメイトが悪戯っぽい笑みを浮かべて並んでいる。
 何が起こったのか解らない匠に、黒河が言った。


「サプライズ成功だな! 誕生日おめでとう、匠!」


 言われて、壁掛けのカレンダーを見遣る。
 7月23日、匠の16歳の誕生日だった。彼等が朝から何処か浮き足立っていたのはこの為かと思い至った。
 もみくちゃにされながら手荒く祝福される。夏大会の予選真っ最中で、決勝戦を目前に控えていた。特待生として入学した匠は、一年ながらレギュラーの座を勝ち取り、ベンチ入りを果たしていた。未だグラウンドに立ったことはないけれど、それも遠くない先の筈だった。
 エトワス学院はキリスト系の学校であるが、生徒が皆クリスチャンかといえばそうではない。むしろ、匠の周囲はキリストが何かも理解していないような脳筋馬鹿が大半だった。
 そんな愛すべき馬鹿共に誕生日を、出し抜かれる形で祝われ、匠は癪ながら、嬉しかった。思わず口元に笑が浮かぶ。
 野太いバースデーソングが響き、不気味な儀式のようだ。
 いつの間に用意したのか、ホールのショートケーキがある。この人数で分けたら一口二口で終わってしまうだろう。けれど、乱雑に立てられた蝋燭がしっかりと16本あるものだから、彼等の太い指で一本一本立てたのかと想像すると気味が悪くて笑ってしまう。


「ああ、ありがとうな」


 笑いを咬み殺す匠を取り囲むように、仲間が口々に祝福している。
 ほら、蝋燭消せよ。
 寮番に見付かったら大目玉食らうだろうと黒河が急かす。寮内は火気厳禁だ。匠は顔を寄せ、猫のような目を細めて息を吹き掛けた。
 一息で消えた炎に拍手が鳴り響く。お祭り騒ぎの仲間がいそいそと蝋燭を取り払い、ケーキに群がっている。人の誕生日にかこつけて騒いでケーキを食べたかっただけなんじゃないかと思ってしまうが、匠は笑っていた。

 兄から電話が掛かって来たのはその後だった。
 自分と同じく誕生日を迎えた筈の幼馴染が、意識不明の重体で病院に運ばれたことを知ったのは。




その訳を(2)





 携帯電話を握り締め、寮を飛び出そうとする匠を押し止めたのは黒河だった。彼の助けもあり、適切な手順を踏んで、匠はどうにか栃木を後にした。
 駅まで全力で走り、新幹線に乗り、目的地に着いてからは兄に迎えられ病院へ一直線だった。
 病院の待合室では奈々が待っていた。和輝は昏睡状態で、未だに目を覚まさない。家族同然の付き合いの自分達でさえ面会謝絶だった。それが匠を一層焦らせた。花束を抱えて歩く和輝の兄、祐輝に駆け寄っても事件の詳細を聞こうにも、彼は黙ったままだった。
 漸く目を覚ました和輝は、体中包帯に巻かれ、幾つも管を刺して、ぼんやりと窓の外を見ていた。虚ろな目には何も映っていなかった。景色も人も、感情すらも。
 俺は。
 俺は、こいつにこんな顔をさせたかった理由じゃない。
 後悔。罪悪感。憤怒。悲哀。憎悪。絶望。挙げられた拳を避けようともせずぼうっと見ていたがらんどうの瞳。けれど、一度決壊すれば止めど無く涙が溢れた。泣きたかったのは、俺も同じだった。




「匠」


 呼ばれて、振り向く。
 帽子を目深に被った和輝が呼んでいる。日光照り付ける鉄板のようなグラウンドは整備されていた。
 今日も暑くなるだろう。甲子園本選の初戦を前に、ぼんやりしていた自分は図太いのか、それとも。
 和輝が訝しげに目を細める。二年前の傷は癒え、その面は憎たらしい程綺麗だった。がらんどうだった瞳は光に満ち、真っ直ぐに此方を見ている。


「先攻だぞ」


 バットを取り出し、和輝が言う。ヘルメットを片手に、和輝がベンチを出ようとする。
 晴海高校に監督はいない。コーチもいない。チームの司令塔は和輝で、彼が不在の場合は主に匠が担っている。それぞれが独立して動くこともあるが、最終判断は和輝だ。
 先攻は久しぶりだな、とぼんやり思う。マウンドには見覚えのある投手がいた。


「じゃあ、行って来ます」


 それが和輝にとってのジンクスだと知ったのはつい最近のことだ。
 行って、帰って来る。そういう願いを込めている。行ってらっしゃい。箕輪が朗らかに答えた。
 甲子園初戦、神奈川県代表晴海高校と栃木代表エトワス学院の試合。一回表、晴海高校の攻撃は、バッター一番、蜂谷和輝。背番号五番。
 一年ぶりの大舞台だというのに、恐れは微塵も見られない。大した神経だ。匠はバッターボックスで静かに礼をする和輝を見ている。
 対するエトワス学院の投手は二年、平井将生。すっと背の高い少年だ。
 事前調査に拠るところ、平井は、アンダースロー投手。
 マウンドの平井が構え、ステップを踏んだ。左手が地面を抉るように振り切られる。投げ放たれた白球がまるで野兎が何かのようにホップし、キャッチャーミットへ飛び込んだ。
 ストライク。
 アルプスから歓声が沸くが、バッターは顔色一つ変えない。
 左のアンダースローなんて珍しいな、と思う。左投手というだけで貴重なのに、アンダースローで此処まで来たのだ。二年ながら、相応の実力がある。色物投手という訳ではないだろう。決して早い球ではないが、通常と異なる球筋はストレートすら変化球に等しい。
 浮き上がるような軌道。通常ならば、相当打ち難いだろう。だが、和輝は黙ってバットを構え直すだけだ。
 二球目。上がって来るボールに対し、バットを叩き付けた。キャッチャー前で跳ねた打球が投手の頭上を越える。バッターボックスを飛び出した和輝が一塁に立った。二塁手、淀川浩哉が投げる姿勢を取ったが腕を下ろした。セーフ。
 バッターボックスに箕輪が入れば、星原がベンチを出てネクストへ向かう。厳しい日差しの為か、形の良い瞳が僅かに歪む。
 箕輪が和輝と同様にボールを叩き付け、三遊間へ転がす。コースが若干甘く、投手の守備圏内だった。箕輪が一塁アウトとなっても、それでも和輝が三塁まで進む。
 三番、星原に出された指示は当然ながら『打て』だ。反論するまでもなく星原が了解のサインを返す。
 前進守備。これまでの試合、確かに晴海高校は内野ゴロが多かった。痩せ型の選手が多くバッティングの飛距離が伸びないのだ。それでも勝ち残って来たのは滑らかな連携と優れた観察力、そして、圧倒的センスだ。
 浮き上がって来るボールに対して星原は真正面から地面に叩き落とす。打球はピッチャー前。痛烈な打球を受け止めた平井がすぐさま振り被るが、ランナーはその視界にはもういない。キャッチャーの後ろからホームベースをタッチしている。
 先取点。
 呆気ない程、簡単に。応援団の太鼓が喧しく叩かれている。
 エトワス学院が驚いたような顔をするが、黒河が声を上げた。


「気にするなー! 切って行くぞ!」


 そうだ、気にしちゃいけない。
 今の攻撃は、ある意味、仕方が無かった。エトワス学院に非はない。ランナーが蜂谷和輝でなければ、得点には至らなかった筈だ。
 和輝の手を掴んで引き起こす。入れ違うようにバッターボックスに立った瞬間、緊張感が走ったのが解った。後ろにいるキャッチャー、高梨悟史。嘗てのチームメイトで、同級生だった。
 こいつが俺のケーキ、半分も食い尽くしたんだったな、とぼんやり思い出す。
 ツーアウト、ランナー無し。この場面で慎重に行く意味は無い。打っていけよ、と声に出して応援するように和輝がベンチから身を乗り出している。当然だろう。
 浮かび上がるようなアンダースローの軌道に対し、和輝等は叩き落とすようにして対処した。対戦するに至って立てた方針だ。掬い上げれば本塁打にも成りうるが、非常に難しい。
 だからといって、やらない訳じゃない。
 浮かび上がるその一点を狙い、バットを振り上げた。かあん。ボールが青空に浮かぶ。


「ピッチャー!」


 平井が構える。打球がすとんと落下した。アウト。チェンジ。
 先程のボールを思い出しながら、匠はシミュレーションする。タイミングを思い出す。僅かな遅れが本塁打をピッチャーフライにしたのだ。
 バットをベンチへ戻し、グラウンドへ戻って行く。
 エトワス学院の選手とすれ違う。一瞬、黒河と目が合ったように思ったが、気のせいだろう。匠は駆けて行く。
 相変わらずグラウンドは暑い。陽炎が昇っている。
 晴海高校の先発は醍醐だ。エースはベンチで試合経過を見守っている。
 一番、浦和遊星。守備位置はセンターの一年生だ。走力を買われての抜擢らしい。エトワス学院は実力さえあれば一年もがんがん起用する。最後の年を迎える三年生だから、なんて泣き言は一切通用しない。それは優しさではなく、甘えだ。


「硬いな」


 和輝が、言った。
 表情が硬いと言ったのだろうけれど、よくこの距離で、初対面で解るものだと感心する。そして、その言葉の通り浦和の放った打球は匠の真正面へ飛んで来て、そのままアウトとなった。
 もしも。
 脳裏にそんな言葉が過ぎって、匠は慌てて頭を振った。そんな仮定はいらない。
 二番、谷口悠人。三年生。守備位置は二塁。タレ目で何処か無気力に見えるが、その実、観察力は優れていた。彼が二番と知っても納得だった。
 もしも。
 止めろ、違う。頭を振る。
 打球が飛んで来る。三塁前。予想していたのか和輝が素早く拾い上げ、一塁へ送球。たった一年間の練習で、右投げから左投げへ転向したというのに、恐ろしいコントロールだ。一塁ミットに真っ直ぐ突き刺さった。アウト。
 三番、淀川浩哉。守備位置は一塁。事前に得ていた情報を反芻しなくても、覚えている。練習では幾度と無く彼の持つミットへと投げて来た。当時の自分の送球と、今の和輝の送球。同じ一塁への送球なのに何かが明らかに違うと解る。それが何かは解らなかった。


「もしもさ」


 淀川を三振に抑え、一回裏を無失点に終えてベンチへ戻る。
 気温は上昇していく。水分補給をしていると、グラウンドを見詰めながら和輝が言った。


「もしもさ、匠が今もエトワスにいたら」
「……はあ?」
「匠が四番だったかな」


 何で、人が必死に考えないようにしていることを、当たり前みたいに言うんだ。
 無性に腹が立ったけれど、邪気の欠片も無いので拳を握るに留める。


「どういう意味だよ」
「そのままだろ。エトワスの四番、黒河と競って勝ってた自信ある?」
「馬鹿にしてんのか?」
「どっちを」


 和輝の切り返しに、思わず黙った。これじゃあ、まるで俺が黒河を格下と見做しているみたいだ。


「目ぇ逸らしてんじゃねーよ、匠。お前が選んだんだろ。あいつ等と戦うって」


 痛いところを突いて来る奴だ。逃げも甘えも許さない。
 晴海の五番、鳴海孝助がバッターボックスに立つ。ベンチからの指示は当然ヒッティングだ。今のうちにアンダースローの軌道に慣れて欲しい。孝助は晴海では数少ない、本塁打の打てる選手だ。


「微妙な顔するなよ。いいことだろうが。競い合うって、楽しいんだぞ」


 歌うように、和輝が言った。


「追い掛けて、追い詰められて、どうしたら届くのかって必死に考えて、捕まりそうになって焦って、そういうドキドキするような、わくわくするような感情、解らないか?」


 解るよ。だって、俺は、ずっと、お前と競って来たんだぞ。
 けれど、競うということに違和感を覚えた。


「負けたくない。こいつにだけは、絶対負けたくない。死んでも勝ちたい! そう思える相手がいるって、本当に楽しいんだぜ?」


 ふと、小さな頃の和輝が頭に浮かんだ。
 病弱で、外に出ることすら出来なかった和輝が、野球を始めた。レギュラーどころかグラウンドに立つこともやっとだったこいつが、いつの間にか隣に立っていた。
 最初は早く追い掛けて来いよ、なんて思っていたのに、気付いたら其処に立っていた。あの真っ直ぐな目がすぐ其処にあった。
 来るな。こっちへ来るな。負けたくない。お前にだけは!
 追い付いて来るこいつの存在が日に日に大きくなって、追い抜かされて、悔しくて追い越して、一進一退を続けて。四番の座を争うことなんてしない。同じチームで共通の目的があるから、隣で前を見ている。
 何かを取り合うことが全てではないけれど、負けたくない。勝ちたい。――こいつは、今もそう思っているのか。


「俺は誰にも負けたくないと思ってるよ、勿論、匠にも。負けたくないと思うことに、敵か味方かなんて関係無いだろ!」


 馬鹿だな、と思う。いや、解ってたことだ。
 傍で聞いていたらしい箕輪が、吹き出すようにして笑った。


「和輝らしいなあ」


 その通りだ。こいつらしい。
 だけど、きっと、この場所でなかったら、こんな風には生きられなかった筈だ。こいつの弱さが強さになったのは、この場所だったからだ。


「昔のチームメイトなんだろ? 二年間の成長ぶり、見せつけてやろうぜ」


 不敵に言った箕輪に、夏川が頷く。
 たった四人の同級生だ。それでも、頼もしいと思う。


「晴海高校の四番の実力、見せてやってくれよ?」


 挑発するように夏川が言うものだから、反射的に言い返していた。


「当たり前だ!」


 したり顔で笑う和輝に、まんまと乗せられたことは解っていた。
 だけど、これでいいと思う。これが、良いと思う。

2013.8.29