エトワス学院、黒河晋平は思い出す。二年前のことだ。

 白崎匠は才能に恵まれた選手だった。
 所謂苦手分野を持たない万能選手で、慢心もせず貪欲に上達を目指している。中学時代は全国区に知られる強豪シニアチームに所属し、スポーツ特待生として入学して来た。一年生ながらベンチ入りを果たした華々しい経歴ながら、それを微塵も鼻に掛けることのない姿は非の打ち所が無かった。
 球拾いばかりだった俺達は、雑用も平然と熟す匠にその理由を訊いたことがある。匠は、普段の仏頂面を崩して照れ臭そうに言った。


「絶対に負けたくない奴がいるんだよ」


 蜂谷祐輝の弟だ。俺達は直感した。
 白崎匠が蜂谷祐輝と二つ年違いの幼馴染だと知った時、俺達は震撼した。世間は狭い。あの有名人と一緒に育ったなら、上手くて当然とも思った。けれど、匠の競っている相手はその弟だった。
 蜂谷和輝の存在も有名だった。兄の前では霞むけれど、その走力には目を見張るものがあるし、何より、才能に恵まれた選手だった。彼がチームにいる時は士気が上がるし、得点力が違う。人形のように整った可愛らしい顔をしていた。
 親友で、ライバルで、幼馴染。匠は彼のことをそう語った。
 一度仲違いをしたらしいけれど、入学後には和解したそうだ。彼を語る匠の目は何時も輝いていた。生まれた時から一緒に育った間柄だ。そう容易く介入できるものではないだろう。
 けれど、三年の月日で築かれるだろう信頼は、それに匹敵し得ると思っていた。
 一年の夏、匠とその幼馴染の誕生日だった。匠は今まで見たこともないような真っ青な顔で、動転していた。文字通り転がるようにして寮を飛び出そうとするのを皆で宥めて、どうにか送り出した。
 テレビを見て、何が起こったのかを知った。
 まるで世紀の大悪党みたいに、大々的に報道される匠の幼馴染。匠の語る彼からは想像も付かない報道の数々を、俺達はデタラメだと確信した。
 三日後、疲れた顔をして返って来た匠が、何時になく真剣な顔で俺に言った。


「来年、神奈川に戻ろうと思う」


 それは希望ではなく、決意だった。理由も解っていた。
 幼馴染の為なんだろ。何でそこまでするんだよ。そう言った俺に、匠は苦笑いを浮かべた。


「幼馴染とか、義務感とか責任感とか、そんな次元じゃねーんだよ。其処にいることが当たり前で、一緒にいないと息苦しくなる。俺はあいつを放って置けない。もう、そうなっちまってるんだよ」


 俺にとってかけがえのない存在なんだよ、癪だけど。
 そういった匠に、どうやって返答したらいいのか解らなかった。
 編入の事実は直前までチームメイトに知らせなかった。人の口に戸は立てられないから、同級生だけなら兎も角、上級生のいるこの状況で知らせても余計な軋轢を生むだけだと解っていたからだ。
 匠は普段と変わりなくストイックに練習してレギュラーで有り続け、俺達の目標だった。そして、立つ鳥跡を濁さずと言うように匠は何事も無かったかのように去って行った。



 五回が終わったところで、エトワス学院は無得点のままだ。対する晴海高校は三得点に至っている。全て一番打者、蜂谷和輝が絡んでいる。彼が出塁した時の得点率は100%だ。事前に知っていたことだが、あの走力と走塁技術はプロにも引けを取らないだろう。
 グラウンド整備に差し掛かる。黒河は谷口と連れ立ってベンチを抜けトイレへ向かう。
 小さな影があった。通路の僅かな蛍光灯の下で、堂々と背中を伸ばして歩いて来る姿は圧倒的な存在感を放っている。
 蜂谷和輝だ。谷口が言った。
 呼ばれて顔を上げた蜂谷和輝は恐ろしく綺麗な顔をしている。イケメンというよりも、美形だ。


「あ、どうも。ええと、黒河君と谷口君」


 名前なんてよく覚えているな。俺達なんて、お前にとっては通り過ぎている他人だろう。
 卑屈な此方の考えなんて気付きもしないて、蜂谷和輝はそれはそれは美しく微笑んだ。なるほど。これは確かに同じ男でも放って置けない。守ってやりたいと思うだろうな。


「後半戦も宜しくお願いします」
「ああ、此方こそ」


 そうしてトイレへ入って行く蜂谷和輝に、何故だか俺達は入ってはいけないような気がして顔を見合わせた。あの蜂谷和輝もトイレに行くのか、なんて呑気に考え、彼が用を足して出て来るのを待っていた。
 けれど、水音はするのに中々出て来ない。谷口が壁に寄り掛かった。
 試合中に大便はしないだろう。というか、日常でもするのは甚だ疑問だ。そんな失礼なことを谷口が言うけれど、概ね同感だった。
 廊下の向こうから、誰かが駆けて来る。猫みたいな丸い目、黒い短髪、整った顔立ち、薄い体。
 白崎匠が、此方に気付いて足を止めた。気まずそうに目を逸らし、何かを背中に隠す。
 居た堪れなくて、谷口が口を開いた。


「よう、元気そうだな」
「……ああ、そっちこそ」


 解り易い奴だな、なんて呆れる。谷口は、匠が神奈川に編入する直前まで事実を知らされなかった。気まずいのも当然だろうが、事実を知っていたところで谷口の性格的に疎んだり蔑んだりすることはなかっただろう。
 何か言い難そうに目を逸らしながら、匠が訊いた。


「和輝来なかったか?」


 俺がトイレを指差すと、匠は扉に手を掛けた。同時に向こう側から開け放たれて匠は驚いたらしく猫みたいに肩を跳ねさせた。


「何だよ、お前もションベン?」


 そんな綺麗な顔して、ションベンとか言うんだ。
 馬鹿馬鹿しいけれど、俺はそんなことを思った。


「ほら、ちゃんと挨拶したのか?」


 ぐいぐいと匠の背中を押す蜂谷和輝。それだけで二人が親しいと解る。
 相変わらず気まずそうにする匠の気持ちが痛い程解る。俺だって何て声を掛けたらいいか解らない。谷口だって同じだった。


「挨拶って何だよ……」
「宣戦布告だよ」


 さらりと答えた蜂谷和輝の言葉に納得する。そうか、それしか無いよな。


「負けない、じゃないぞ? 俺達が勝つって言え」
「もうお前が言えよ」


 違いない。現実の蜂谷和輝は、想像の蜂谷和輝と違って、良く言えば気さくて、簡単に言うと馬鹿っぽかった。俺達は吹き出すように笑ってしまった。
 けれど、蜂谷和輝は当たり前のように言った。


「お前が言うことに意味があるんだろう」


 丸くて澄んだ目に、ぞっとした。
 何だ、この感覚。吸い込まれそうな気迫、内面を見透かされているような感じがする。思いついたまま口に出している訳ではなく、全ての点が線で繋がっているように吐き出されている発言だ。底の見えない感じが酷く恐ろしく感じた。


「お前に関係無いだろ」
「あるよ。四番がしみったれた顔してたら、チームの士気に関わるんだから」


 四番。チーム。
 その言葉が、匠はもう俺達の仲間ではないと言っているように感じた。事実、その通りなのだけど。
 匠はわざとらしいくらい盛大な溜息を吐いて蜂谷和輝を此方へ押した。匠が、蜂谷和輝が真っ直ぐに俺達を見ている。


「後半戦も宜しく。俺達が勝つ」


 不機嫌そうに鼻を鳴らして、これでいいだろ、と匠が言った。
 上出来だと蜂谷和輝が白い歯を見せて笑う。童顔み見合った子供らしい無邪気な笑顔だ。あの吸い込まれそうな気迫とのギャップに戸惑う。
 じゃあ、と嵐のような二人が立ち去った。背中を向けた一瞬、匠の手の中にあったものが氷嚢だと気付く。猛暑の為か、怪我でもしたかと勘繰るがさして意味も無い。


「何か、匠、変わったな」


 谷口が言った。
 変わったのか、変えられたのか。あれが本当の姿だったのか。今更俺達には解らなかった。




その訳を(3)





 和輝と一緒にベンチに戻ると、帰りが遅いと箕輪が心配していた。
 母親かよ、と呆れ半分申し訳ないとも思った。匠は持っていた氷嚢を和輝に押し付ける。連日の試合で体力を消耗し、古傷を庇っているのは明らかだった。
 素直に礼を言って和輝が受け取ると、グラウンドから見えないようベンチの奥で右肩を冷やす。
 安心したらしい箕輪が試合経過の確認を始めた。その横顔に、和輝が言った。


「さっき、向こうの選手と会ったよ」
「へえ。どの人?」
「黒河君と谷口君」


 名前を聞いてもぴんと来ないらしい箕輪がスターティングメンバー表を確認する。納得したらしく箕輪が顎をしゃくるようにして先を促した。


「宣戦布告して来たんだぜ、匠が」
「はあ、やりそうだな、お前が」


 皮肉っぽい箕輪の言葉に和輝が無邪気に笑う。
 箕輪が言った。


「引かれなかったか?」
「何が?」
「お前、たまに怖い時あるからな」
「仲間に怖いとか、ショックなんだけど」


 不満げに口を尖らせた和輝に、箕輪が笑う。


「なんつーか、お前容赦無い時あるじゃん。大体はこっちが逃げたい時に匿ってくれたり、迷ってる時に背中を押してくれたりするんだけどさ。たまに、普通ブレーキ踏むところで、横からアクセル全開にするようなところあるから」
「俺はスピード狂か」
「そうだ。だから、車の免許は絶対取るな」


 そう言って箕輪がからからと笑った。
 何となく、解るような気がした。さっきのも、一緒にいたのが箕輪や夏川だったなら何事も無く終わったのだろう。間違っても宣戦布告なんてしなかった筈だ。だけど、それが間違いだと言えないところがこいつの怖さなのだと思う。
 グラウンド整備が終わり、後半戦が始まる。既に意識は試合に向いている和輝は振り返らない。
 孝助がベンチの奥で困惑に眉を寄せている。


「元チームメイト相手に、宣戦布告させるなんて、鬼みたいですね」
「鬼だよ、あいつは」


 俺は笑った。

2013.8.29