後半戦、アンダースローの軌道を捕らえられるようになって来た晴海高校の猛攻が始まる。下位打線もヒットを平然と打つようになるが、其処でエトワス学院のエースが登板する。
 漸くお出ましか、とアルプスから浅賀達矢は見下ろしていた。隣に座っている青樹大和は真剣な表情で選手の仕草や癖、表情を具に観察している。そういう細かい情報収集が趣味なのだろうと浅賀は考えている。
 八回裏、六対零。全ての得点に晴海高校の一番が絡んでいる。これだけ露出が多いのに攻略されないところが恐ろしい。解っているのに止められない。けれど、終盤へ向かうにつれて送球が鈍っていることに浅賀は気付いている。


「なあ、和輝って怪我しとる?」
「ああ、多分、右肩かな。庇ってるよね」


 流石に気付いていたらしい青樹がさらりと答えた。エトワス学院は気付いているのか。否、気付いていても狙えないのか。
 晴海高校の投手は夏川啓。エースだ。立ち上る陽炎のような存在感がある。加えて、その球威とキレのいい変化球に押されて上手く打ち返せていないのだろう。観客席ですらそう感じるのだから、バッターは余程恐怖しているに違いない。


「エトワスも惜しいんだけどな」


 出塁もするし、スコアリングポジションにランナーがいる時もある。けれど、決定力が足りない。
 必要なのは本塁打の打てるスラッガーではなく、必要な時に的確な打ち分けの出来る打者だった。そして、青樹は本来ならば其処にいただろう選手を知っている。
 白崎匠が、もしもエトワス学院にいたならば、この試合はどうなっていたのか解らない。
 グラウンドで対峙しただろう嘗てのチームメイトを想像する。その時、彼等はどんな顔をするのだろう。
 金属音がした。弾かれた白球がピッチャーの横を抜け、二遊間へ飛んだ。三塁にはランナーがいる。グラウンドから跳ねた打球が浮かび上がる。匠が、獰猛な猫のようにそれを捕らえた。同時にバックトス。顔を見なくても解るというように待ち構えていた和輝がそれを受け、左腕を唸らせ本塁へ送った。
 アウト。滑り込む間も与えない滑らかな連携だ。
 もしも、此処に白崎匠がいなければ、今のワンプレーも無かった。試合は引っ繰り返っていたかも知れない。


「なんちゅーか、皮肉やねぇ」


 浅賀が言った。


「俺はエトワスにちょっと同情するわ。白崎匠がいたらって、思わずにはいられん」
「そうだな」
「あいつ等は、選ばれんかった」


 そうだな、とは言えなかった。青樹は黙ったままだ。
 アウト、チェンジ。晴海高校最後の攻撃は一番、蜂谷和輝から始まる。エトワス学院にとってはこの状況を作り出した元凶だ。それが平然とバッターボックスに立っている。
 無表情に構えるその様は、まるで其処だけが切り取られたかのように静まり返っている。グラウンドに緊張感が走る。初球のボールには手を出さなかった。圧倒的に不利な体格ながら、巧みなバットコントロールで守備の隙を突いて長打へ繋げて来た。的確な打ち分けの出来る打者だ。遣り難いだろう。
 二球目、外角のボールを、バットの先で掠めるように当てる。音も無いヒッティングに浅賀は思わず立ち上がりそうになった。バントを予想していなかっただろうエトワスの守備が駆けて来る。三塁、投手、捕手のど真ん中に転がされた打球が停止する。これを狙って打ったのだろうか。投手が掬い上げる。二つ。声に応えるようにして振り被るが、視界に既に走者はいない。放たれたボールを掻い潜るようにして和輝が二塁を蹴った。
 二塁手、黒河がボールを受け止めている。和輝は既に三塁に滑り込んでいた。
 セーフ、言うまでもない。


「速ぁ」
「あんなもんじゃないだろ。むしろ、今のは勝手に三塁まで行ってくれてサンキューって思った方が良い」
「何で?」
「あんな走者背負ってまともに投球出来るのかよ」


 言われてみて、浅賀は納得する。確かに、物凄く嫌だ。盗塁は確実だろう。妙なサインを塁上から出して来るかも知れない。牽制でもしようものなら、本塁まで行ってしまう。そういう走者だ。


「二年前、練習試合しただろ。覚えてる?」
「勿論」


 二年前、青樹のいる北里工業は晴海高校と練習試合をした。すばしっこい一番打者を蚊帳の外に追い出して、腐らせる戦法をとって一時は圧倒した。けれど、それも彼の仲間によって容易く引っ繰り返された。


「塁上に出したら、あいつは放って置いた方がいい。得点にさえ、繋げなければ」
「あの頃の晴海の三年、上手かったなぁ」
「うん。すごく上手かった。配球も読まれて、守備の隙も突かれて、思惑も看破されてた」
「はは、ボロボロやんけ。でも、二年前やろ。もうあの三年はいてへんねんぞ」
「でも」


 二番をセカンドフライ、三番をセンターフライに打ち取ったツーアウト、ランナー三塁。
 バッターボックスに晴海高校の四番、白崎匠が現れる。


「でも、四番がいる」


 本塁打が打てなくても、的確な打ち分けが出来て、確実に得点へ繋げられる四番。
 ヘルメットの下の表情は伺えない。けれど、口元は真っ直ぐに結ばれている。硬い表情ではなく、至って普通の、普段の仏頂面だ。
 初球、匠は動かない。ボール。
 転がすか、打って行くか。どちらも有り得るだろうが、晴海高校はこういう場面でヒッティングを要求するパターンが多い。それは方針というより指示を出す和輝や匠の性格だろう。
 前半のアンダースローとのギャップに多少苦しめられただろうが、それでも自然体のフォームは崩れない。元チームメイトの贔屓目でも、良い選手だと思う。県外から多数のスカウトを受けるだけのことはある。
 二球目、内角高め。顔面に迫るようなボールにも微動だにしない。どういう神経をしているのだろう。ボールだ。
 青樹は投手をじっと見詰めている。外角は狙わないだろう。匠の得意なコースだ。賢い癖に馬鹿正直な男だから、直球よりは変化球で追い詰めた方がいい。そう思っていると、内角への変化球が放たれた。
 ストライク。匠は目で送っただけだった。そのまま三塁上を見遣ったかと思うと、ぎゅっと結ばれていた口元が僅かに綻んだ。掌を投手に向けてタイムを取りながら、踏み込んでもいないバッターボックスをわざわざ均す。そして、新たに構える刹那、拳で胸を二度、叩いた。
 何だ、何かのサインか?
 こんな動作は今まで晴海高校に無かった。青樹が注視する。
 三球目、内角への変化球。匠が動いた。器用に腕を折り畳んで、ボールの変化を捉えている。振り切られたバットは小気味良い澄んだ音を鳴らした。打球が青空に吸い込まれて行く。歓声が沸いた。
 外野が青空を見上げながら駆けて行く。上空のボールが失速したところで、腕を上げ落球に備えている。そのすぐ後ろには、緑色の壁が迫っていた。
 かしゃん。フェンスを掠めた打球が、グラウンドの向こうへ落ちた。
 審判がぐるりと腕を回した。


「ホームランや」


 浅賀が呟いた。
 割れんばかりの歓声が球場を包み込む。右腕を掲げた匠がダイヤモンドを駆け出す。三塁上の和輝が本塁を踏み抜き、ベンチの仲間とハイタッチをしている。
 ベンチへ戻った匠を、仲間が手荒く出迎えている。それがまた、皮肉だと浅賀は思う。
 晴海高校はこれで八点目。全ての得点にあの一番打者が絡んでいる。そして、それは四番の打点と同義だった。出塁した一番を、本塁へ還したのは全て四番だ。


「ホームラン、打てるやんけ」
「打てないなんて言ってないだろ」


 ギリギリのホームランだったけどな。青樹が笑った。





その訳を(4)





 試合終了のサイレンが鳴り響いている。
 八対零で、晴海高校の勝利。たったの十名しかいない選手全員が整列し、頭を下げ礼をする。初戦突破に喜ぶ選手はいない。此処は通過点だと理解している。
 エトワス学院に滲む悲哀や悔恨と真っ直ぐに向き合っている。そして、審判に促されると素早く撤退の支度をする。軍隊のような統率された動きかと思えば、ベンチに着いた瞬間には溶けて烏合の衆と化す。
 宿へ戻るべく球場を出たところで、エトワス学院と出くわした。先頭にいた黒河は腕にビニール袋の掛かった千羽鶴を抱えている。


「これ、予選で託されたり、マネージャーが折ってくれたりした千羽鶴なんだ。良かったら、受け取ってくれないか」


 黒河の目元が赤い。泣いたのだろう。
 匠が何も言えず黙っていると、和輝が前へ進み出て千羽鶴を受け取った。両手に抱える程のそれをしっかりと受け止め、迷いの無い真っ直ぐな目で言った。


「確かに、受け取った」


 表情は無い。それが礼儀だった。
 黒河は小さな声で礼を言うと、溢れる涙を拭った。


「匠」


 その声に何かを察した和輝は身を引き、仲間に声を掛けた。
 そして、匠を見て「先に帰ってる」と笑った。
 残された匠は、黒河等エトワス学院、元チームメイトと対峙した。
 責められるのも当然だと、匠は思う。恨み言の一つや二つは当たり前だ。自分はある意味裏切り者だ。その罵られる覚悟で此処に来た。
 ならば、必要なのは謝罪だろうか。


「二年前は――、」
「謝るな!」


 匠の言葉を遮って、黒河が叫んだ。


「謝るようなことしてねーだろ。こっちだって、謝られる謂れもねーよ」
「……ああ」
「真剣勝負の結果なんだ。何を言ったって負け犬の遠吠えだしな」


 負け犬。その言葉に愕然とする。
 エトワス学院の夏は終わったのだ。彼等の三年間は、今日終わった。血の滲むような努力も、夢も終わった。黒河の目から涙がぽつりと落ちた。


「お前だって自分で覚悟して決めたんだろ。嬉しそうに笑ってろよ」
「ああ」
「選んだのはお前だろ」
「ああ」


 そうだ、俺は選んだんだ。エトワス学院での黒河達との未来よりも、和輝を選んだ。そして、後悔はしていない。だけど、もしも、と考えずにはいられない。
 同じ選択が百回あっても、自分は百回同じ選択をするだろう。それでも、もしかしたら、違う選択を下した未来があったかも知れない。彼等とグラウンドに立っている未来が、未だあったのかも知れない。


「でも、お前ともう少し、野球してたかったよ」


 絞り出すように吐き出されたそれが、泣き言だなんて誰が笑える。匠は黙った。
 そんな未来がもしもあったなら。
 同じ選択肢が目の前に翳されたなら。
 二年前、あの事件が無かったなら。
 今、自分はどうしただろうか。


「生まれた時から一緒だったっていうお前等に比べたら、ちょっとの時間だったかも知れないけど、俺達は確かに仲間だったんだよな」


 確かめるように、祈るように黒河が言う。
 過ごした時間が僅かでも、掛け替えのないものだったと言って欲しい。其処には確かに何かがあったのだと、自分達は確かに仲間だったのだと言って欲しい。
 縋るような黒河の言葉に、匠は頷いた。


「仲間だったよ」


 お前等が受け入れてくれるなら、俺は。
 何かが溢れて来そうで、匠は黙った。自分は幼馴染を選んだ。それは同時に、エトワス学院の仲間を捨てることだった。後悔は無い。恨まれても構わない。それでも、自分達は確かに仲間だった。
 二年前、共に前を見ていた筈なのに、今は対峙している。歩けば数歩の距離が、まるで断崖絶壁のようだ。
 嘗ては仲間だった。けれど、今はそうではない。そう考えた時、和輝の声が蘇った。


――負けたくないと思うことに、敵か味方かなんて関係無いだろ!


 そういうことか、と納得する。敵か味方か、仲間かそうじゃないか。そうやって括れるものばかりじゃないだろう。チームメイトじゃなくなったって、関係が終わる訳じゃない。


「仲間じゃなくっても、友達だろ」


 言い難いことを、平気で言わせようとする。人がブレーキを踏むところで、アクセルを踏むようなことを当たり前にする幼馴染を憎らしく思う。けれど、そうしないと踏み出せない一歩がある。この断崖絶壁は半端な覚悟じゃ踏み出せない。
 匠の言葉に、黒河が驚いたように目を丸くした。そして、涙を零しながら頷いた。


「そうだよ、友達だよ」


 結ばれていた匠の口元が綻んだ。その肯定がどんなに嬉しいか、彼等はきっと知らない。
 黒河は乱暴に涙を拭うと、拳を向け、対峙したままに言った。


「匠、勝てよ」


 匠も拳を向けた。そして、それが当てられた時、断崖絶壁が消えたと気付く。


「勝つよ、必ず」


 黒河に続き、嘗てのチームメイトが順に拳をぶつけた。
 一巡し、黒河は赤い目を擦って笑った。
 じゃあな。応援してるよ。そう言って、背中を向けて去って行く。
 肩を抱いて支え合うような彼等に、匠はもう寄り添えない。そういう選択をしたのだ。匠も背を向け、歩き出した。
 宿の前で、和輝がしゃがみ込んでいた。何をしているのかと思ったら、あんぱんを頬張っている。匠に気付くと、頬を膨らませて「お帰り、待ってたよ」なんて笑う。


「そのあんぱん、どうしたんだよ」
「笹森さんがおやつにくれたんだ。人数分無かったから、じゃんけん争奪戦だったんだ」


 人数分無いなら配らないでくれよ、と匠は呆れた。
 勝利の余韻に浸る訳でもなく必死にあんぱんを頬張る幼馴染を見下ろす。和輝は丸い目でじっと見詰め返したかと思うと、ビニール袋からあんぱんを取り出して、半分千切ると差し出して来た。


「やるよ」
「はあ? いらねーよ」


 一口二口で食べ終わってしまう。余計腹が空くだけだ。


「じゃんけん争奪戦だったんだろ。俺は参加してないんだから、もらう権利無いだろ」
「いいんだって。分け合った方が美味いんだよ。あいつ等だって知ってるさ」


 だろ、なんて小首を傾げて嬉しそうに和輝が言う。その背後では絶叫やら雄叫びやら聞こえているけれど、耳を塞いでおこう。
 半分に千切られたあんぱんを受け取り、隣にしゃがみ込む。一口で頬張れば、隣で大事に食べろよ、なんて今更なことを言われた。何なんだよ、本当に。
 けれど、あんぱんは、美味かった。コンビニで売っているような安っぽい昔からあるようなあんぱんなのに、美味くて甘くて、何故だか涙が溢れそうだった。

2013.8.29