目の前に打球が迫っていた。
 反射的に顔を庇ったグラブに運良くボールが収まった。それでも衝撃を殺し切れず後ろに転倒した。


「何やってんだ、さっさと起きろ!」


 飛んで来る声に内心で舌打ちする。
 うるせーな。解ってるよ。
 鋭いライナーだった。だけど、本当の試合で同じ打球が飛んで来ないとも限らない。運良く捕球出来たけれど、逃していたら、本当の試合で失点に繋がったかも知れない。その一点が、試合で泣く一点になる。
 腹筋を使って勢い良く起き上がり、一塁へ送球する。


「遅い!」


 ちくしょう。
 一塁ミットに送球が掬い上げられる。体勢のせいか送球は低かった。


「しっかり投げろ!」
「チビなんだから、人の倍動け!」


 言い返す言葉も無い。自分が招いた事態だ。
 打ち付けた背中の痛みを呑み込んで、次の打球へ身を低く構える。


「もう一本!」


 腹の底から声を出す。
 もう一本、もう一本、もう一本、此処に寄越せ。次は綺麗に捕まえて、一塁ミット真正面に送ってやる。
 五年前、神奈川県某所、律見川河川敷、橘シニア練習グラウンド。日差しは未だ高く、初夏の厳しい日差しが容赦なく照り付けている。
 連日の熱中症予防報道なんて右から左に聞き流し、今も古臭い大和魂でグラウンドを駆けている。
 蜂谷和輝、中学一年。同級生に比べて圧倒的に体が小さく、筋肉も無く、弱かった。兄の存在だけを評価され、何とかグラウンドに立っていた。監督やコーチから飛んで来る叱咤にはもう慣れ切っていて、解ってるよ、と内心で悪態吐くのが精一杯だった。
 長打力も無い。大型投手と対峙すればバットが力負けしてしまう。強烈なライナーには体ごと吹っ飛ばされてしまう。そんなこと解っている。だから、人よりも一歩を早く動かなければならない。人よりも一瞬早く判断しなければならない。力が無いならコントロールを、長打が打てないなら打ち分ける技術を、体格で負けるなら走力を、筋肉が無いなら体力を、誰にも負けない力を身に付けよう。
 だから、もう一本。もう一本を、此処にくれ。
 十の努力で足りないなら、二十の努力を。一秒一瞬でも長く、此処に立っていたい。負ける訳にはいかない。此処に立つ為に、一秒だって無駄にしない。瞼に浮かぶ兄や親友の背中。手を伸ばしても届かない。だけど、諦められない。だから、もう一本!
 あ、と思った時にはもう遅い。コーチが放った打球は、グラウンドすれすれの強烈なライナーだった。着地と同時に跳ね上がったイレギュラーは和輝の額に直撃し、小さな体は吹っ飛ばされた。和輝は、昏倒した。




グラウンドゼロ(1)






「……い、……おい、和輝」


 鈍い痛みを感じながら瞼を押し開ける。
 日差しを避けるメッシュのテントの下、ベンチに寝かされていた。額に氷嚢を押し当てる祐輝は、和輝は目を開けると安心したように息を逃した。


「何やってんだよ」


 監督のノックを受けていて、イレギュラーの打球を額に食らったことを唐突に思い出す。
 慌てて時計を確認すると、昏倒してから三十分も過ぎていることに気付いた。起き上がろうとする和輝を慌てて押し止め、祐輝が再び氷嚢を押し当てる。


「頭打ってんだから、暫く動くなよ。一日は安静にして様子見た方がいいんだぞ」
「そんなに休んでいられないよ!」
「休息とサボりは違うぞ。焦ってんじゃねーよ」


 兄の言葉に、和輝は押し黙った。返す言葉も無い。
 グラウンドでは休憩が言い渡され、選手達がぞろぞろとベンチにやって来た。中には匠とその兄の浩太の姿もあった。
 浩太は目を覚ました和輝を見て、猫のような目を嬉しそうに細めた。


「良かった。目ぇ覚めたか」


 ベンチで横になったままの和輝の頭を撫で、浩太が言った。


「コーチも酷ぇよな。和輝のこと、目の敵にしてるよ」
「ぼうっとしてたこいつが悪い」
「ぼうっとしてないだろ。さっきのはイレギュラーなんだから、運が悪かったんだ。第一、和輝のところ強烈なライナーかぎりぎりのゴロしか行ってないぞ」


 祐輝の反論に、浩太がやれやれと肩を落とす。
 目の敵と聞いて和輝は苦い顔をした。何かそんなに気に食わないのか解らない。小学校から続けて七年、漸くベンチ入りを果たした自分がそんなに気に入らないのだろうか。
 水分補給をして汗を拭う匠が歩いて来る。筋肉が付き難い体質は同じだが、その分上背がある。自分が跳んでどうにか捕球する打球は、匠なら背伸びするだけで終わる。腕の長さも違うから、自分に届かない外角の球も匠なら打てる。
 負けられない。負けたくない。やっと掴んだこの場所を、誰にも譲る訳にはいかない。


「和輝も思うだろ? ノック、集中攻撃されてんだから」
「でも」


 和輝は拳を握った。


「でも、あれを全部拾えたら、俺はもっと上手くなれる」


 貪欲な向上心、不屈の精神。甘えや妥協を許さない性格。
 絞り出すような声に、浩太は溜息を吐いた。


「本当、流石兄弟だな。祐輝そっくり」
「どういう意味だよ」


 不満げに祐輝が言うが、浩太は水分補給する為に離れて行った。
 和輝の兄、祐輝は将来を約束された才能溢れる選手だった。体格にも才能にも恵まれ、野球の神様に愛された選手だった。投手である祐輝の放つストレートは唸るようで、変化球は打者を嘲笑うようにバットを避けて行く。どんな痛烈なライナーにも反応し、瞬時の判断力にも優れている。才能に胡座を掻かず、努力を惜しまず、強烈なカリスマ性で仲間を引っ張り、現状に甘んじることなく勝利を貪欲に目指している。そういう兄の下で育った和輝が、影響を受けない訳も無かった。
 劣等感は無かった。あるのは、その場所――グラウンドに立ちたいという強烈な焦燥感だけだ。
 大人の付ける勝手な名称だが、和輝の在籍する代は所謂当たり年だった。蜂谷祐輝、白崎浩太という中学三年生の優れた選手を筆頭に、二つ下の代に赤嶺陸、青樹大和、白崎匠がいた。他にも才能に恵まれた選手がごろごろいる橘シニアで、和輝は圧倒的に、小さかった。
 身長で行うスポーツではない。けれど、非力さは付いて来る。
 だから、練習しよう。自分だけの武器を磨こう。
 休憩が終わり、練習が再開される。祐輝の制止を振り切って和輝もグラウンドへ向かった。
 この頃、和輝は投手としての技術を要求されていた。兄が投手として優れていたから、監督やコーチは同じものを期待したのだろう。けれど、明らかに不利な体格で投げられるボールは、投手と呼ぶには余りにもお粗末だった。それでも監督やコーチが求めるのなら、とコントロールを身に付け、変化球を磨こうと思った。だが、練習中に向ける彼等の目は失望そのもので、その度に胸が軋むような痛みを覚えた。
 投手なんてやりたくない。口にはしないが、和輝はそう思っていた。投球練習を始めた春先、幼馴染の匠には看破されていた。


「お前、本当はピッチャーなんかやりたくないんだろ」


 何も言えなかった。


「嫌なら嫌だって言えばいいじゃんか。俺は兄貴とは違うんだって」
「……でも」


 拳を握り、どうにか言い返す。


「でも、期待を裏切ってしまう」


 匠は呆れたような顔をして後頭部を叩いて来た。和輝は苦笑した。
 だって、期待されるなら、応えなければ。俺に次はない。兄のような才能が無い。匠のような身長も無い。期待に応えられなければ俺はお払い箱だ。俺の代わりなんて幾らでもいるし、皆がこの場所を狙っている。この場所を、絶対に譲りたくない。こんな焦燥感が、匠に解るだろうか。
 中学一年の春にチームにやって来た青樹大和は、和輝とは正反対の少年だった。性格は近しいものがあってすぐに親しくなったけれど、大きな背や恵まれた才能は和輝にとって喉から手が出る程に欲しかったものだった。青樹はあっという間に一軍、レギュラーに決まり、順調にベンチ入りも果たした。その早さに愕然としたけれど、絶望はしなかった。焦燥感はあったが、嫉妬はしなかった。生まれ持ったものに文句を言っても仕方ない。十の努力で足りないなら、二十の努力を。その場所に立つ為に、一歩を、一瞬でも早く。
 そして、和輝と同い年で赤嶺陸という少年がいた。鋭い眼差しは切れ味の鋭い刃の切っ先のようだった。兄に次ぐ天才投手だ。体が大きく力も強い。腕相撲では勝負にすらならない。見上げるような身長差だったが、和輝にとっては親しい仲間の一人だった。周りの評価を一切気にせず、ストイックに練習へ打ち込む姿に和輝は励まされていた。ただ、とてもぶっきらぼうで無愛想で、歯に絹を着せぬ物言いをするからチームメイトとは度々諍いを起こした。苦言を呈する匠に反論し、二人が殴り合いになったこともある。
 けれど、和輝、白崎匠、青樹大和、赤嶺陸は親交を深めていった。幼馴染の和輝と匠は兎も角、四人は共通の目標を持っていた。
 上手くなりたい。もっと、もっと、誰よりも。
 負けたくない。強くなりたい。勝ちたい。
 それだけを純粋に願って、只管練習に打ち込んでいた。
 その年、橘シニアは県大会で決勝戦で後一歩が及ばず、惜敗した。準優勝だった。
 惜しまれながら引退した祐輝と浩太は涙を流さなかった。二人共、野球の強豪校からの推薦が幾つも来ていて、既に将来も決まっていた。此処は通過点に過ぎないと言うように背中を真っ直ぐに伸ばして去って行った兄が、家に帰って涙を一粒だけ零した。あとちょっとだったのにな、と涙と共に零した言葉が和輝の胸に染み込んだ。
 兄達は上手かった。それでも、全国への壁は高い。現実の厳しさを知る一件となった。
 この頃には和輝は投手としては見切られ、打者としての技術を磨いていた。頭角をめきめきと表す様は祐輝に似ていて、これまでの努力が実ったのか驚異的な運動能力と体力によって、一人の天才的な選手になっていた。
 祐輝達が引退し、和輝の一つ上の代が最上級生となった時は酷い有様だった。当時の中学三年生の彼等はハズレ年と呼ばれ監督やコーチから殆ど見放されていた。一つ下の和輝達との温度差は軋轢を生み、チーム内の仲は急速に冷えて行った。
 このままじゃ駄目だと和輝は行動を起こした。中学二年の初夏、練習中、交流を図ろうと積極的に関わりに行った。けれど、その時、事故を装って故意にボールを顔面にぶつけられ、流血するという事件が起こってしまった。激昂した匠、大和、陸を中心にチーム内の溝は一層深まり、最早修復不可能となってしまった。上級生が発端となり、チーム内でレギュラーに対する風当たりが厳しい時があった。非レギュラーの嫉妬や羨望の八つ当たりだ。体の大きい匠や大和、陸に向かわない敵意は、非力な和輝に向けられることが殆どだった。練習着が切り裂かれることも、グラブやスパイクが盗まれたこともあった。一年の頃は用具倉庫に閉じ込められたことがあったので、この程度は黙殺しようと和輝は相手にしなかった。
 和輝が蝶名林皐月と出会ったのは、その頃だった。
 自主練習をしていた時、偶々ボールが叢に飛び込んだ。慌てて追い掛けた先、たった一人で練習する皐月を見付けた。
 皐月は小さかった。背丈は和輝と殆ど変わらない。バッティングも人並みで、優れた選手とはお世辞にも言えなかった。けれど、誰にも見られないような場所で、ストイックに練習する皐月は、只管上手くなりたいと願っていた。その姿に、和輝は自分を重ね見た。正直、会話どころか顔も知らなかった。こんな奴がいたんだな、なんてぼんやり思った。何となく話し掛けて、中性的な顔立ちの割に口が悪く、一人ぼっちでいるのに社交的な性格というアンバランスさに和輝は惹かれた。面白い奴だと思った。
 そして、皐月は足が早かった。橘シニアで郡を抜いて瞬足だったのは和輝だが、その走塁技術は先を行っていた。走力で劣るなら技術を磨こう。そうした姿勢がますます、和輝と似ていた。和輝と皐月は親しくなった。
 同時に、周囲からの風当たりの厳しさを知った。
 暴力だ。
 練習着を切り裂かれたり、グラブや靴が盗まれたり、用具倉庫に閉じ込められるなんて嫌がらせは可愛いものだったのだ。皐月は直面しているのは直接的な暴力だった。彼が何をした訳でもなく、体が小さく、評価に関わらず当たり前のように努力を重ねる皐月に対し、勝手に焦った周囲が八つ当たりのように暴力を振るっていた。集団に囲まれた皐月を見付け、考える間も無く飛び込んだ和輝は一緒に容赦無く殴られた。
 自分は、匠達に守られていたんだろう。彼等が意識していなくとも、一緒にいるだけで守られていたのだ。殴られた時、そんなことに気付いた。
 暴力を振るった彼等が去った後、皐月は頬を腫らして和輝の心配をした。自分の心配しろよ、なんて言うと皐月の顔がくしゃりと歪んだ。俺はいいんだよ。いい訳無いだろ。なんて言い合いをしている内に、その暴力が一度や二度ではなく慢性的に振るわれているのだと気付いた。


「皐月、俺と一緒にいろ。離れるな」
「お前なんか一緒にいたって、殴る相手が増えるだけだろ。やり返す力も、意味も無い」
「それでも、お前が的になるのは嫌だ」
「何で、そんなに」


 皐月が言葉を詰まらせた。和輝は縋るようにその腕を掴んだ。


「お前と一緒にいると、俺が楽しいんだよ。お前が苦しい目に遭うのは、俺も苦しいんだよ」


 ぽつりと、皐月の目から涙が溢れた。それは長い間、彼が堪えて来た本音だった。
 皐月は避けたけれど、和輝は傍にいようと努めた。次第に皐月も諦めて一緒にいるようになったけれど、風当たりもますます厳しくなった。非レギュラーの皐月が、天才と呼ばれ始めたレギュラーの和輝と親しいことが気に食わなかったのだろう。それでも、離れようとは思わなかった。離れたところで逆風が止む訳ではない。見えないところで皐月が一人で苦しむくらいなら、一緒に苦しんだ方がマシだった。
 同時に、疑問だった。どうしてこの酷い状況に、監督やコーチは介入しないのだろう。
 橘シニアは歴史のある強豪チームだ。河川敷での練習には何時も多くのOBが見に来ている。地元からも愛され応援されている。

 どうして、大人は、助けてくれないんだ?

 それが、最初の疑問だった。
 馬鹿正直だった和輝は、真正面からその事実を問い質した。監督とコーチは互いに目を遣り、冷たく言った。


「そういうのは、当事者の問題だから」


 答えになっていない。和輝はそう思った。
 監督だろう。コーチだろう。介入しろ。そう思った。子どもだけじゃ解決出来ない問題だ。自分一人では守れない。そういう時に大人を頼るんだろう。
 内心の苛立ちを押し殺しながら、和輝は続けた。


「皐月は良い選手ですよ。俺が保証します。あいつの走塁、見たことありますか。速いだけじゃなくて、技術も、」
「あいつには才能が無いから駄目だよ」


 冷たく切り捨てられた言葉に、目眩がした。
 何だ、何を言ってるんだ。じゃあ、俺が此処に立っているのは、努力の結果じゃなくって、ただの運なのか。偶々生まれ持った才能なんていう形のないものを評価しただけなのか。
 じゃあ、あの血の滲むような努力は何だったんだ?
 この場所に立ちたいと握った拳は、叫んだ声は、祈った日々は、何だったんだ?
 足元ががらがらと崩れ落ちていくような錯覚に、和輝は真っ直ぐに立っていられなかった。寄り掛かるようにして壁に手を添え、体を支えるだけで精一杯だった。

 才能って、何なんだ?

 それが、次の疑問だった。
 黙り込んだ和輝に、コーチが侮蔑するように言った。


「蝶名林と親しくしてるみたいだが、お前も上を目指したいならつるむ相手を考えろ。なんたって、あの蜂谷祐輝の弟なんだからな」
「そうだな。お前も才能あるが、其処に胡座を掻いていたらすぐレギュラー奪われるぞ。上には上がいるんだからな」
「天才ってのは確かに存在するんだよ。上手くなりたいなら、天才に食らい付け。でなければ、お前は負け犬になるぞ」
「負け犬はチームに必要無い。悔しければ上達しろ」


 声が脳内に反響して、和輝には理解出来なかった。
 ただ、自分の積み重ねて来た日々が、皐月が、仲間が馬鹿にされていることだけは、解った。


「蝶名林は才能が無いから仕方ない。天才でなかった自分を恨むしかないな」
「それでもレギュラーになりたいなら、相手を蹴落とすしかない」


 まるで、それが至極当然であるかのように。
 十代前半の多感なこの時期に、監督とコーチの告げた言葉は和輝の心に傷を作った。


「仲良しこよしはチームワークじゃないぞ」


 錆び付いた受け売りみたいな言葉を満足げに吐き捨てた監督に、和輝は苛立った。
 じゃあ、お前等の言うチームワークって何なんだよ!
 ぎゅっと目を閉じ、全ての感情を呑み込んだ和輝は、静かに礼をしてその場を立ち去った。

2013.8.31