焦点の合わない目で帰宅した弟に、祐輝は大層驚いた。怪我か病気かと慌てて駆け寄った祐輝に、和輝は抜け殻のような返答をするだけだった。
 父にその旨を告げると、笑顔を絶やさないその面から表情を消し去って「橘シニアで何かあったのだろう」と言った。
 祐輝は埼玉の強豪校で、甲子園の常連である翔央大学付属高校からのスカウトを受け進学していた。翔央大付属高校は強豪の歴史を重ねて来ただけあって、選手も指導者も優れていた。努力を惜しまない仲間、切磋琢磨し合えるチームメイト、それを評価してくれる指導者。祐輝は恵まれていた。鳴り物入りプレイヤーだったが、周囲は先入観を一切持たず蜂谷祐輝を一人の人間として認めていた。
 そうして進学して、漸く気付いたのだ。橘シニアは何かがおかしい。
 高校での部活が忙しなく、橘シニアの練習を覗くことも既に無かった。弟がレギュラーとして活躍していることだけは風の噂に聞いていたが、それだけだ。
 父は何か知っているようだったが、何も言わなかった。
 祐輝は弟の様子がおかしいとその時になって気付く。明らかに刃物で切り裂かれただろう練習着、紛失したと買い換えられるグラブやスパイク、頬に張った大きな湿布、手足の青痣。何かがおかしいと気付き、祐輝は地元で顔の広い幼馴染の涼也を頼った。その頃、浩太とは仲違いをしていた。
 涼也は近所の喫茶店の息子で、下にいる妹は和輝と同い年だった。
 閉店間際の喫茶店で掃除する涼也の姿をガラス越しに見付け、祐輝は迷う事無く店内に足を踏み入れた。涼也は祐輝に気付いても驚きもせず、眠そうな目を向けただけだった。


「何だよ、殺気立っちゃって。もう閉店でーす」
「ちょっと聞きたいことあるんだよ」


 飄々とした態度を崩さない涼也は、持っていたデッキブラシを壁に立て掛け、カウンター席に腰を下ろした。促され、祐輝も座る。
 今にも閉じられそうな目で感情は読めない。涼也は気分屋で、何時だって飄々としていて、生真面目な祐輝とは正反対だった。幼馴染でなければ関わりはしなかっただろう。
 祐輝は言った。


「今の橘シニアについて、何か知らないか?」
「はあ? 漠然とし過ぎ! 何を知りたいの?」
「何でもいいから、知ってること教えろよ!」
「浩太にでも聞けよ。あいつの方が詳しいだろ。あ、喧嘩中だっけ。相変わらずガキだなあ」


 涼也が笑う。馬鹿にするように、実際馬鹿にしているのだろうが、今更祐輝も腹を立てはしない。涼也がこういう人間であることは知っている。


「そうだなあ。上級生とレギュラーが折り合い悪いとか?」
「それは知ってる」


 祐輝の一つ下、和輝の一つ上。間に挟まれた代と折り合いが悪いことは知っている。そのせいで弟が用具倉庫に閉じ込められたことも覚えている。
 涼也が演技掛かった考える仕草で唸り、言った。


「じゃあ、監督とコーチ、OBと後援者の賄賂疑惑は?」
「なんだそれ」
「いや、噂だから。っていうか、俺も此処で小耳に挟んだだけだし」


 両手を広げ、店内を示して涼也が言う。


「シーズン毎に慰労会があって、其処で何か後暗いことやってるらしいぜ。あの監督とコーチ、甲子園出場経験があるからって、県外から引っ張って来たんだろ?」


 いやぁ、大人って怖いねぇ。涼也が笑う。
 有り得る話だと思ったが、さして興味も無かった。そういう世界もあるだろう。きれいごとばかりではやっていけない。
 祐輝が興味無いと目を細めれば、涼也もつまらなそうに黙った。そして、椅子をくるりと一回転させて言った。


「……俺は野球やってないから知らないけれど、あの環境は最悪だと思うよ」
「最悪って」
「いや、外野の俺が主観的に見て、だよ。なんつーか、選手を育てる環境じゃないよね。橘シニアってチームが、大人の権力を誇示する道具になってると思うよ、俺は」


 口元に笑みを浮かべ、涼也が言った。
 そんなこと、考えたことも無かった。祐輝にとってはそれが普通だった。だけど、それは才能があったからだ。選ばれたからだ。
 じゃあ、選ばれなかったら?
 ぞっとして、祐輝は涼也の顔を見詰めた。


「そんな顔で見たって、俺は知らねーよ。お前だってもう卒業してんだから、何したって無駄だろ」


 その通りだった。自分に出来ることは何も無い、と祐輝は愕然とする。
 涼也は頭の後ろで両手を組み、背伸びをする。大きな欠伸をした。


「直面してるのはお前じゃなくて、和輝達なんだろ。もしも解決出来るなら、それは和輝達だけなんじゃねーかな」


 そう言って、涼也は再びデッキブラシを取った。




グラウンドゼロ(2)






 あれが叱咤や鼓舞ではなく、罵声だと気付いたのは何時だ?




 匠が帰り支度をしていると、幽霊のような和輝がやって来た。監督とコーチと話をして来ると言っていなくなった幼馴染を待っていたのだが、何があったのだと青樹が心配した。
 和輝は要領を得ない言葉で、掠れるような声で経緯を説明した。理解に時間が掛かったが、大凡を把握した匠と青樹、赤嶺は顔を見合わせた。
 監督とコーチの言葉は指導者として最低だと思った。それが最初の印象だった。けれど、その場で反論出来なかった和輝が全ての答えだと悟っていた。
 スポーツの世界で才能は不可欠だ。それが全てでなくても、大部分を占めている。そんなことは解っている。そして、和輝を含めた自分達が選ばれた側の人間であることを知っていた。だからこそ、全力でプレーしなければならないのだろう。大勢の仲間の上に立っているのだ。
 匠達は、蝶名林皐月を知らなかった。そして、周囲の逆風が皐月と和輝に吹き付けていることも気付いていなかった。
 赤嶺はタオルを丁寧に畳みながら、言った。


「社会の仕組みなんて、そんなもんだろ」


 当たり前のように言ったその声は、和輝の中で大人達の言葉と重なった。
 そんな言い方ないだろう、と青樹が庇う。けれど、匠も共感するように言った。


「きれいごと並べたって、現実なんてそんなもんだろ」


 和輝は反論出来なかった。
 何時だって大人は、口を揃えて言う。現実は厳しい、と。事実、そうなのだろう。けれど、それだけなのだろうか。和輝には解らなかった。
 青樹だけが、庇うように言う。


「俺は才能が全てとは思わないよ。監督達の言葉は最低だ。俺達を侮辱してる」
「俺だって和輝の言い分は解るよ。つか、同感だ。でも、事実だろ」


 匠が苦い顔をする。帰るぞ、と和輝へ荷物を押し付けた。


「才能とか努力とか、考えたって無駄だろ。俺等は俺等の出来る最善を尽くすだけだ」


 その通りだ。言葉はその通りで理解出来るのに、どうしてか、和輝は納得出来なかった。
 胸の中に黒い塊が、あぶくのように沸々と湧き上がる。体が重いのは、練習のせいではないと思った。
 何を言ったって、結果が伴わなければ意味が無いのだろう。きれいごとだろう。だけど、それでも納得出来ない。


「今のままじゃ、野球が楽しくなくなっちゃうよ」


 弱音のように吐き出された言葉に、青樹が労わるようにその背を撫でた。
 一方で匠が呆れたように言う。


「楽しいことばっかりじゃないだろ」


 匠は和輝にとって、生まれた時から一緒に過ごして来た己の半身とも言える存在だ。どうして自分がこんなに納得出来ないのに、匠は当たり前のように受け入れているのだろう。
 そんなことは言われなくたって、解っている。解っているけれど、納得出来ないから苦しいんだろう。和輝は無性に苛立って、声を上げた。


「厳しいだけが現実じゃねーだろ!」


 突然の怒鳴り声に匠は驚いた。和輝がこうして怒鳴ることは珍しい。
 逆ギレかよ、と苛立つよりも驚きが勝って咄嗟に言葉が出なかった。慌てて青樹が間に滑り込む。背の高い青樹は壁のようだった。


「落ち着けって。むきになるなよ。……もうちょっとしたら、上級生も引退だ。新しいチームになって環境も変われば、状況も変わるさ」


 な、と宥めるように青樹が言った。
 和輝は口を真一文字に結んで、不機嫌さを隠そうともしない。本当に珍しいと赤嶺も驚いていた。
 青樹の言う通り、大きな大会が迫っている。上級生の引退試合だ。けれど、彼等はきっとグラウンドに立てないだろう。――才能が、無いからだ。
 何かが違う。間違っている。けれど、それが何か解らない。和輝は口を尖らせて言った。


「今のままじゃ、例え勝っても嬉しくない!」
「嬉しくなくても、勝てなきゃ何の意味も無いだろ」


 吐き捨てるように赤嶺が言った。


「止めろって。これ以上焚き付けんな。どう見たって、こいつ冷静じゃねーだろ」


 苦言を呈す青樹に、赤嶺はそっぽを向いた。
 和輝も鼻を鳴らしてそっぽを向き、まるで喧嘩したように顔を背け合いながら帰宅した。
 祐輝が学校から帰宅すると、家の庭先で和輝が素振りしていた。
 綺麗なフォームだ。癖が無く、自然体だ。毎日積み重ねて来た努力の賜物だ。祐輝はそう思っている。和輝は祐輝の帰宅に気付かず、ただ一点を見詰めてバットを振っている。その目に映るのはあの日の監督とコーチの顔だ。
 大人は汚い。大人はずるい。けれど、抗う術も無い。此処で彼等の顔を思い浮かべて、八つ当たりみたいに素振りをするだけが精一杯だった。
 天才に食らい付け。でなければ、お前は負け犬だ。チームには必要無い。悔しければ上達しろ。才能の無い自分を恨め。他者を蹴落とせ。
 彼等の言葉が頭の中に響いている。彼等はチームプレーを求め、チームワークの必要性を訴えるが、其処に感情が付随しない。弱者は淘汰され、強者を羨む。逆風の中で僅かな才能ある選手だけが優遇される。天才だけが、生き残る。
 絶対的な実力至上主義――否、才能至上主義だ。その反動で選手同士が出る杭を打ち合うようになっている。
 こんなのおかしい。何かが違う。
 けれど、瞼に浮かぶ匠、大和、陸、皐月の姿は、確かに仲間だった。
 仲良しこよしがチームワークじゃない。じゃあ、チームって何なんだよ。
 俺が積み重ねて来た努力は、皐月が耐えてきた日々は、何だったんだ。
 素振りを止め、和輝は俯いた。拳を握り締めるが、振り上げることも振り下ろすことも無い。其処でふと顔を上げれば、縁側に兄が座っていた。


「お帰り」
「ああ、ただいま」


 気付くの遅ぇよ、と祐輝が笑う。和輝も曖昧に笑った。
 バットを置いた和輝が縁側に座る。既に日が暮れ、辺りはオレンジ色の光に包まれていた。もうじき夏が終わる。上級生は引退し、自分達の時代が来る。そうすれば、こんな日々はきっと変わる筈だ。祈るように、願うように、縋るように和輝は拳を握った。
 祐輝は横目に握られた拳を見ながら、問い掛けた。


「なあ、野球、楽しいか?」


 和輝は言葉を詰まらせた。答えられなかった。
 確かに、楽しかった筈なのだ。グラウンドにいる彼等の隣に、同じ場所に立ちたくって、必死に練習して来た。実らない努力の日々は苦しかった。けれど、楽しかった。仲間がいるから楽しかった。今は、仲間がいるのに、言葉に出来ない。贅沢なのだ、きっと。


「解んない。でも、……仕方ないんだろ」


 苦しくて、辛くて、しんどくて、逃げたくて、けれど、仕方が無いんだ。
 そうして、和輝は目を落とす。


「この前、監督とコーチと話したんだ。今の橘シニアは何かが違うと思ったから」
「へえ」
「才能が全て、みたいな話になってね、言い返せなかった。すげー悔しくって、今も二人の顔を思い浮かべて素振りしてたんだよ」


 そう言って和輝は悪戯っぽく笑った。


「才能って何だろう。俺には解んないや」
「才能か……」
「今のままじゃ、野球が楽しくなくなっちゃうよ」


 そう言って和輝が遠い目をした。その目に映るのは夕焼けでも町並みでもなく、泥塗れになって練習した日々だった。
 和輝は現実をどうにか受け入れようとしていた。大人には大人の事情があって、子どもの自分にはどうにも出来ない。助けを求める先も無い。受け入れるしかないのだと肩を落としている。――それでも、間違っていると思うから苦しんでいる。逆境と軋轢の中で、それでも譲れない確かなものを持っている。だから、悩んでいる。


「諦めんなよ、足掻け」


 祐輝が声を上げた。


「苦しい現実を知れ。そんで、忘れるな。悔しさも苦しさも悲しさも、全部自分の力にしろ」


 こんなところで腐って終わるなと、祐輝が叱咤する。驚きに目を丸める和輝の目に、祐輝の何処か怒ったような顔が映っていた。


「抗うことを止めんな。思考を錆び付かせんな。大人の腐敗に染まるな」


 お前は間違ってないと、祐輝が声を上げる。苛立ったように眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに口を尖らせている。
 叱咤激励というものがあるならば、きっとこれが、そうだと思った。擽ったそうに和輝は笑い、確かに、頷いた。
 県大会の準々決勝で、橘シニアは敗北した。昨年度に劣る成績にコーチが怒鳴り付けるけれど、反論する選手は一人もいない。涙を流す仲間の中で、和輝は真っ直ぐに前だけを見ていた。
 夏が終わり、秋がやって来た頃、一つの血腥い事件があった。橘シニアの星原千明の両親が、押し入った強盗に殺害されたのだ。星原千明は整った顔をした後輩で、才能に恵まれた選手だった。親しかった和輝が、偶々星原の家に寄った日だった。星原が玄関を開けた先に、血塗れの包丁を持った男が立っていた。腰を抜かした星原に男が刃を振り上げる。殆ど反射的に和輝は星原を引き寄せ、刃を躱した。目撃者は殺すと構える男と対峙し、和輝は星原を背中に庇った。
 殺されると思った。死を覚悟した。指先が震え、感覚が無かった。現実のものと思えず、心臓だけが耳元にあるように大きな音を立てて拍動する。視界がちかちかと点滅する。
 けれど、刃は襲って来なかった。それも偶々、帰り道に出会った祐輝が駆け付け、男を押さえたのだ。
 祐輝の活躍によって男は凶器を失い、地面に縫い付けられ、間も無く到着した警察によって逮捕された。
 現実味を帯びない凄惨な事件だった。星原は近所に住む祖父母の家に引き取られたが、変わらず橘シニアに所属している。
 星原が精神的外傷を抱えなかったのは奇跡だった。家の中の惨状を、星原は殆ど目に映す間も無く和輝の背中に隠されたのだ。だから、星原は思った。
 この人はヒーローだ。ピンチに駆け付け、絶対的な正義感を持った不死身のヒーローだと。
 そうした星原を筆頭に、橘シニアでは和輝を敬う選手が多くなった。それだけの選手に、和輝も成長していた。そして、監督達の間にどのような協議があったのかは解らないが、次の主将に選ばれたのは和輝だった。副主将を青樹が勤め、新たな一年が始まった。

2013.8.31