一年前に比べ、順調だった。
選手同士の軋轢は殆ど無くなり、逆風も掻き消された。皐月もレギュラーを勝ち取り、順調に一年が過ぎて行く。橘シニアのグラウンドには時折強豪校のスカウトが選手を視察にやって来て、匠や青樹、赤嶺は度々声を掛けられた。和輝もスカウトの声は掛かっていたが、何も答えなかった。
中学三年生になると、進路指導の時間が増える。驚異的な馬鹿で底辺の成績と呼ばれる和輝は教師陣目下の悩みの種だった。けれど、野球のスポーツ特待生として進学するなら願ったり叶ったりだと背中を押す教師が多かった。学力での進学はまず不可能だと思われていた。
橘シニアは多くの名選手を排出している。強豪校へ引き抜かれた選手が活躍し、橘シニアの名を更に高くした。故にその高き門を叩く者は途絶えず、絶対的な才能至上主義が敷かれていた。天才だけが生き残る歓声されたサイクルだった。
進路を選ぶに当たり、和輝の元には多数のスカウトが来ていた。同時にこの頃、和輝は兄との漠然とした距離を感じていた。過保護に自分のことを気に掛ける兄は殆ど無意識に己の行動も制限し、和輝を自分の手の届く範囲に置きたがった。その距離感の訳を、和輝は自分の不甲斐なさだと思っていた。そして、橘シニアのこともあり、答えを出し倦ねていた。
匠に急かされても、青樹に諭されても、赤嶺に詰められても答えが解らなかった。強豪校からのスカウトを受ける。それでいいのか、と自問する日々だった。
最も早く進路を決めたのは赤嶺だった。進学先は関西にある野球の強豪校で、スポーツ推薦だった。甲子園優勝候補の筆頭である高校からの声に応えた赤嶺を監督やコーチは賞賛し、鼻を高くした。和輝は大人を冷ややかに見遣り、赤嶺に問い掛ける。赤嶺は事も無げに答えた。
「アスファルトの道が悪い訳じゃないだろ。俺達が努力した結果だ」
その通りだ。彼等の言葉は的を射ていて、何時だって返す言葉が無い。
どのスカウトと受けるか悩む彼等と、和輝は明らかに異なっていた。相談する当ても無く、結局、和輝は父に打ち明けることにした。
「親父は高校、どうやって決めたの?」
「家から近かったから」
即答した父は笑っていた。
高校時代、甲子園優勝経験を持つ父はカウンセラーとして働いている。臨床心理学会では権威として名を馳せていることを和輝は知らない。
さらりと答えたその実、父――裕は当時、両親を亡くし、親戚を頼って神奈川へやって来た。当時、和輝と同じく足の速さは郡を抜いていたが、決して才能ある選手ではなかった。そして、進学先も古豪と呼ばれ入学した頃には中堅校と呼ばれる部類だった。
和輝は、裕の返答に衝撃を受けた。
それでいいのか。胸の内で呟いた筈の声は口から出ていた。それでいいんだよ。父が、笑う。
「そういえば、オープンキャンパスの知らせ来てるぞ。晴海高校だって。うちから歩いてすぐじゃん。合併したみたいだけど、俺の母校なんだよ」
校舎も新築で綺麗だぞ、と裕が言った。和輝は新聞紙の下から封筒を抜き取り、パンフレットを開く。
部活紹介の欄から野球部があることを確認し、和輝は顔を上げた。目の前が急速に拓けたような気がした。
グラウンドゼロ(3)
引退試合は酷いものだった。
橘シニアにとって高い壁だった県大会を突破した時には雄叫びを上げ、抱き合って喜んだものだったが、待ち受けていた全国の壁は更に高かった。
三回戦で滋賀県のチームと対戦した。和輝は全打席敬遠だった。必死に勝とうとする仲間の中で、一人だけ蚊帳の外に追い出され、掛ける言葉も見つからないまま有り触れた鼓舞しか出来ない自分の無力さを呪った。それが後にトラウマとなった。
試合後、和輝は泣かなかった。悔し涙を流す仲間の中で、一人だけ前を見詰めていた。一年前と同じ光景だが、その内面は真逆だった。
泣く資格が無いと思ったのだ。何も出来ない自分の弱さが悔しかった。泣けば、その涙が仲間を責めるような気がした。落ち込むことは、グラウンドに立てなかった大勢の仲間を侮辱していると思った。だから、最後の最後まで真っ直ぐに立ち続けた。――そして、それが、仲間を更に追い詰めた。そのことに和輝は気付けなかった。
進学先を決めるに至り、和輝は晴海高校の名を告げた。父は驚かなかった。何かを察したように僅かに微笑んだだけだった。
何故だか自分が悪いことをしたような気がして、言い訳するように言った。
「スカウトも一杯もらったけど、何か違うと思ったんだ。橘シニアで、才能が全てだって言われた。確かにそうなんだろうと思う。でも、試合で負けて、才能だけじゃ駄目だって思った」
「うん」
「アスファルトの道を歩くことが全てじゃないとも思う。だから……」
言葉を濁した和輝に、裕が言った。
「アスファルトの道が悪い訳じゃないよ。でも、獣道だって楽しい筈だ。広い視野と、見るべきものを見る心があれば、ね」
悪戯っぽく裕が笑う。和輝は言った。
言いたいことを簡単に、当たり前のように言える父を素直に和輝は尊敬した。父なら、監督やコーチに、仲間に、何て言葉を掛けたんだろう。
「橘シニアは才能が全てだった。匠も間違ってないだろって言ってた。でも、それじゃあ、納得出来なかった。仕方がないことかも知れないけど、……監督やコーチは正しくないと、俺は思う」
其処で裕は無表情になり、真っ直ぐ和輝を見て言った。
「十年ちょっとしか生きてないガキが、物事を善悪で語ってんじゃねーよ、馬鹿。井の中の蛙が」
裕の丸い目が、細められる。
「その短い物差しは未熟だ。だけど、それでも譲れないと思うなら、必死で抗え!」
厳しい口調で裕が訴える。
決めたなら、迷うな。そんな声が聞こえるような気がして、和輝は背筋を伸ばした。
「諦めが必要な時もあるだろう。人生なんて妥協の連続だ。でも、それは今じゃない。今はまだその時じゃない」
和輝は、頷いた。
その後、学校での進路調査表には晴海高校と記した。勿論、一般受験だ。教師には馬鹿にされ、呆れられ、夢を見るな、なんて言われたが和輝は負けなかった。そして、その旨を匠達に告げると、彼等は激昂した。引退試合の後から、罪悪感や悔しさを抱え、行き場の無い怒りが爆発した形だった。
「何でそんな無名校なんだよ! 馬鹿じゃねーの!」
「馬鹿じゃない。本気だ」
「また、あれか? 才能云々の話か?! 今更、そんな文句を言うのは卑怯だろ! 俺もお前も、仲間を犠牲にして此処まで来たんだ。そのお前が無名チームで埋もれて消えることになったら、踏み越えて来た仲間に失礼だろう! 一時の感情に惑わされて、人生棒に振る気か!」
ぐ、と一瞬押し黙った和輝は言い返した。
「自分が嫌だから、間違ってると思うから抵抗するんだ。正義感とか、責任感とか気の迷いなんかじゃない。俺の意地だ。文句を言われる筋合いは無い!」
けれど、匠は叱責したし、赤嶺は怒鳴り付けた。青樹は呆然としていた。どうしてそんなに怒るのか和輝には解らなかった。けれど、自分の選択が真っ向から否定されたことだけは理解した。
裏切り者。
そう罵倒して、彼等は道を分かつ。和輝は一人になった。
監督とコーチに進路を聞かれ、隠す気も無く晴海高校の名を告げた。考え直せとすぐさま否定し訴えられたが、今更和輝が揺るがなかった。愚かな選択だと馬鹿にする二人を前に、和輝は背筋を伸ばして答えた。
「証明します。以前仰ったように、仲良しこよしがチームワークとは思わないけど、選手を道具にする今の橘シニアが間違っていると俺は思うから、それを証明する為に晴海高校へ行きます」
淀みなく言った和輝に、監督がすぐさま切り返す。
引退試合での失態――全打席敬遠を責めた。四番だった和輝に対し、一般的には名誉に値するが、チームに何一つ貢献しなかったそれは汚名だった。
和輝の口からは、あの日、返せなかった言葉が溢れ出た。
「勝つことが全てですか。強豪校のスカウトを受けることが強さの証明ですか。仲間を利用することがチームプレーですか。……俺には、解りません」
失礼します、とその場を辞した和輝の背中に罵倒が突き刺さった。けれど、その歩みは揺るがなかった。
この遣り取りを、決別した仲間に告げる気は無かった。この賭けに彼等は関係無い。言う必要も無い。責任は全て自分一人で背負う。和輝は胸に誓った。
帰宅すると、既に父がいた。リビングでテレビを見ながら穏やかに微笑む姿に、和輝はずっと握っていた拳を解いた。張り詰めていた緊張が一緒に解かれた。ダイニングテーブルで晩酌をしていた裕は和輝の顔を見て、蕩けるような笑顔で「お帰り」と言った。和輝は泣きそうになった。
ただいまを言う間も無く、裕の傍に立つと言葉が溢れた。
「俺、全力で抵抗する。譲れないものがある。逃げたくない。負けたくない。決めたんだ」
和輝の双眸に、涙の膜が張った。ずっと堪え続けて来たものが、零れ落ちそうだった。
俯いた和輝を、裕はじっと見詰めている。沈黙が流れたリビングで、テレビだけが騒がしい。解いていた掌を、和輝は再び握り締めた。拳の中で、悩み続けた全てを受け止めるつもりだった。
口を開いた時、唇が痙攣するように震えた。声を詰まらせながら、絞るように和輝は言った。
「……だけど、ちょっとだけ、怖いよ……!」
膝が笑っている。和輝は震える唇を噛み締めた。
一人だ。その事実が、今更、怖くなった。裏切り者、と言った仲間の声が耳から離れない。後悔は微塵も無いし、自分の考えも間違っていないと思っている。大人達が当たり前に切り捨てて来た努力や絆が大切だと、否定される訳にはいかないと強く願う。其処には確かに、あったのだと声を大にして訴えたい。――けれど、漠然とした未来が、立ち塞がる大人達が、無性に怖かった。
裕は立ち、和輝の俯いた顔を強引に上げ、両手で挟み込んだ。今にも泣き出しそうな双眸をじっと覗き込む。
「いいか、笑ってろ」
聞き間違うことのないよう、一言一句違えぬよう、はっきりと裕は言った。
「泣きたい時も、苦しい時も、笑ってろ。そうすれば、大丈夫だから」
言葉の通りに、和輝は口角を持ち上げた。同時に、涙が落ちた。
「笑っていれば、必ず助けてくれる仲間に出逢える。支えてくれる友達が得られる。だから、どんな時も笑ってろ。伸ばされる手に気付ける人間に、なれ」
和輝の顔がくしゃりと歪んだ。口角を強引に釣り上げようとして、頬が痙攣した。握り締めた拳がぎりぎりと音を立てた。涙が幾つも頬を伝い、フローリングに落ちて行った。
うん、と掠れる声を返すのが精一杯だった。けれど、裕は「それでいいよ」と受け入れた。
和輝がリビングを後にし、自室に入ったことを確認し、裕は携帯電話を開いた。電話帳から古い友人の名前を探し出し、通話ボタンを押す。――此処から先は、和輝の知らぬ話だ。
中学時代に出会った掛け替えのない友人に、久しぶりに電話を掛けた。懐かしい声に頬を綻ばせる余裕は無かった。
数日後、夜間、河川敷から程近い集会場では橘シニア関係者の会合が行われていた。名目上は慰労会だ。監督、コーチ、OB、後援者、地元権力者が集まって酒宴をしている。身内だけの賑やかな会合に、裕は押し入った。その脇を固めるように、中学時代からの友人、浅賀恭輔と笹森エイジが立っている。
音を立てて開け放たれた扉に皆が振り向く。裕の乱入に部屋が騒然となった。裕は真っ直ぐ監督とコーチの元に進んだ。両者は目の前に立つ男が何者か知っていた。
裕はいっそ胡散臭いまでに綺麗な微笑みを浮かべた。言葉を失くした両者に、僅かに首を傾ける。
「突然の非礼をお許し下さい。僕は蜂谷裕と申します。息子達がお世話になりました。不出来な息子なもので、大変ご迷惑をお掛けしたかと思います。お詫びの言葉もありません」
今更名乗られなくとも知っていると、二人が顔を見合わせる。浅賀、笹森両者は能面のような無表情を崩さない。部屋中の注目を集めながら、裕は言った。
「賭け事はお好きでしょう? 僕と賭けをしませんか」
「か、賭け?」
笑みに細められた目を僅かに開き、裕は頷いた。
「僕の息子が全国一を勝ち取ったら、皆さんには辞表を書いて頂き、橘シニアというチームから撤退してもらう。僕が負けたなら、その罰は僕が背負いましょう。多額の賠償金でも、首でも、煮るなり焼くなり好きにして下さって結構です」
裕はもう笑っていなかった。凍り付くような無表情だった。
ざわめく一同を浅賀と笹森は冷ややかに見下ろしている。
「下りることは許されません。あなた方の汚職についてネタは上がっているんだ。マスコミ関係者に売ったっていい。――だけど、僕が負けたなら、この事実には目を瞑り、証拠も握り潰しましょう」
笹森は書類を提示した。幾つもの数字が羅列したそれは、正しく汚職の証拠だった。
真っ青になった監督とコーチを前に、裕は侮蔑するように視線を鋭くした。優男のような外見に見合わぬ強い力が篭っている。
反論する言葉も無い。黙り込んだ一同に、浅賀は独特の抑揚のある声で「賭けは成立した」と告げた。
裕は一秒だってこの場にいたくないと言うように、身を翻す。扉の前まで早足に進むと、思い出したように立ち止まった。
「これだけは約束しましょう。あなた方が撤退しても、橘シニアは潰させない。子ども達は必ず守る、と」
念を押すように微笑み、裕は扉の向こうに消えた。扉の締まる音が、静まり返った室内に響き渡った。
集会場を出た裕の後ろで、笹森が嬉しそうに笑った。
「ほんま、敵に回すと恐ろしい奴やなぁ」
「でも、おもろいやん。この賭け、乗ったわ」
浅賀が白い歯を見せ、楽しくて仕方が無いというように笑う。
「お前の息子なら、俺の息子も同然やしな」
「やるなら徹底的に。潰すなら、消えるまで!」
裕は二人に顔を向け、不敵な笑みを浮かべる。
静かな河川敷を歩きながら、三人は過去を振り返る。高校時代、甲子園での熱闘を今も覚えている。
浅賀恭輔は元プロ野球選手で、現在は現役を退き、地元の草野球チームでコーチを勤めている。一方の笹森エイジは関西一体を纏める笹森一家の大元だ。二人は影の協力者だった。
過去を思い返しながら、浅賀が言った。
「うちの馬鹿息子も、中々やりよるで。真剣勝負に容赦は一切無しや」
「当たり前だろ。そうじゃなきゃ、何の意味も無い」
「賭けはお前の味方やけど、勝負は公平にな。中立の立場で行かせてもらうわ」
笹森もまた、そう返す。
三人は一列に並んだ。数十年前、三人が中学生の頃もこうして歩いていた。もう戻らない過去を懐かしみ、噛み締めながら闇に染まった道を行く。
これは、和輝の知らない話だ。子どもには関係の無い、大人の事情だ。告げる必要も無い。今頃ねむっているだろう息子の顔を思い浮かべ、裕は口元を綻ばせた。
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