星が見えない。
 初戦を突破した夜、空を仰いだ和輝はそんなことを思った。
 勝利に酔い痴れる間もなく、明日も熱闘が続く。就寝時間の迫った大部屋の仲間は大半が既に布団へ潜り込んでいる。規則正しく薄い掛け布団を上下させる醍醐は身動ぎ一つしない。疲れたのだろう。
 手入れの行き届いた中庭は、完成された一つの世界だった。庭隅の鹿威しが澄んだ音を響かせる。縁側に腰掛け、閉鎖された空間を見詰める。
 最後の夏だ。最期の挑戦だ。胸の中で繰り返し、噛み締める。瞼を下ろせば、鮮明に中学時代が浮かび上がる。仲間の笑顔、監督やコーチの言葉、兄の叱咤、父の教え。全てを捕まえ逃さないつもりで拳を握った。
 背後で、床が鳴った。


「お前が起きてるの、珍しいな」


 和輝は振り返り、視界を遮る大きな少年を見上げた。
 意志の強そうな鋭い目付き、彫りの深い整った顔。よう、エース、なんて言えば、夏川が切れ長な目を細めて見下ろした。


「何してたの。考え事?」
「いや、ぼうっとしてただけ」


 夏川が、笑った。馬鹿にしているなと和輝は思った。


「そうは見えなかったけどな」


 和輝は黙って視線を中庭へ戻した。夏川は隣に腰を下ろす。床が軋むように鳴った。


「何考えてた?」
「別に」
「お前って、肝心なこと最後まで言わないもんな」


 今更知っていると夏川が吐き捨てる。鹿威しが鳴った。
 夏川は和輝の横顔を見た。明るい夜空の下で、高校球児にしては色が白い。日に焼けにくい体質なのだろうが、それが何処か、弱さを感じせる。けれど、前だけを見詰める大きな目には確かに揺るぎない光が宿っていて、そのアンバランスさが危ういと思う。


「お前、そういう癖が付いてると思うよ。全部抱えて黙っておこう、みたいな」
「そうかも」
「でも、止めた方がいいぞ。友達失くす」


 まさか夏川に諭されると思わず、和輝は苦笑いを浮かべた。


「前に、人に期待するなって言ってただろ」


 何時のことだっただろうか、と和輝は逡巡する。すぐに思い当たらないくらい、自分達は長い月日を過ごして来たのだ。
 夏川は昔を懐かしむように遠くを見詰めた。


「それって、期待してその通りにならなかった時に、相手を責めたらいけないからだろ。確かにそうなんだろうけど、それって、寂しいと思うぜ」
「寂しい?」
「仲間としては、期待して欲しい訳ですよ。そんで、お前しっかりしろよ、くらい言って欲しいんですね」


 おどけた口調で、夏川が言う。妙にテンション高いな、と和輝は感心した。この調子なら明日も大丈夫だろうなんて場違いなことを考える。


「黙ってるのも、同じだよ。実はこうだったんです、なんて後から言われたってどうしようもないだろ。聞いていたら助けてやれたのにって、虚しくなるだろ。何で言ってくれなかったんだよって責めたくなるだろ」


 その言葉に、和輝は中学時代のチームメイトを思い浮かべた。正に、その通りだった。だから、自分達は決別したのだ。全ては身から出た錆だった。
 けれど。
 和輝は口を開いた。だが、それより早く夏川が言った。


「黙っていれば、負担掛けないっていうのは、違うんだよ」


 反論しようとした和輝は、黙った。


「一人で全部背負われて、気付いたら終わってた。黙ってた自分が悪いから、お前等が気に病む必要は無い。お前等には責任なんて無い。そういう自己犠牲が、一番仲間を傷付ける」


 事実、傷付いた。夏川が不満そうに言った。
 二年前の事件を指しているのだろう。和輝は何も返せなかった。


「思ったことは口に出せよ。しんどいことも言え。八つ当たりもしろ。一人で一線引いた気になってんじゃねーよ。全部自己満足だろうが」


 どうして自分が今叱責されなければならないのかと思うが、和輝は口にしなかった。
 痛いところを突いて来るな、と苦く思う。


「そういうのって、ずるいと思うぜ」


 抱え込んだものが見えなくても、丸められた背中は見えているのだ。それに対して何も出来ない歯痒さを夏川は一年間味わって来た。あんな苦しい日々はもう沢山だった。
 和輝は一言一句しっかりと聞き入れ、それでも言った。


「俺だって、流石に何でも黙ってる訳じゃねーよ。解って欲しくてぶつかったこともあるし、八つ当たりもして来たよ。それでも、どうしても解り合えないものがあるだろう」


 元来短気だからな、と夏川が思う。同時に、老人のように達観している様が非常に気持ち悪いと思った。


「解り合えないと思うから、黙ってるのか? 仕方が無いと思うから、諦めるのか?」
「そういうときもあるだろ」
「仕方ないことなんて山程あるだろ。それで全部諦めて、生きてる意味あるのか?」


 それでいいのか、本当に? 夏川が問い質す。
 和輝は静かに目を閉じた。掌に握った中学時代の日々を思う。鍵を掛けたつもりだった。


「一度や二度、解ってもらえなかったからって諦めるのかよ。お前は本当に、解ってもらおうと全力で努めたのか?」


 鍵はもう、解かれていたのだ。
 和輝は長い息と共に肩を落とした。いつの間にかがちがちに強張っていた。


「その言葉、三年前に聞きたかったよ」


 あの頃、今の夏川がいたら、自分達は何か変わったのだろうか。そんなことを、今更に思う。


「まだ遅くないだろ。今なら、共犯者になってやるよ」
「頼もしいね」


 悪戯っぽく笑う夏川に釣られ、和輝も口元を綻ばせた。
 父の声が蘇る。笑ってろ。笑っていれば、必ず助けてくれる仲間に出逢える。支えてくれる友達が得られる。だから、笑ってろ。伸ばされる手に気付ける人間に、なれ。


(ああ、そうか)


 こんなことに、今更気付かされる。
 自分に向かって伸ばされる手は、助けを求めるばかりではなかった。自分を助けようと差し伸べられる手もあった。今頃になって、やっと気付く。
 和輝は、その手をしっかりと掴んだ気持ちで、口を開いた。


「俺は証明する為に此処にいるんだ」


 中学時代、橘シニアで過ごしたこと。兄や匠の背中を必死に追い掛けたこと。監督やコーチの言っていたこと。自分が疑問に思ったこと。仲間に伝わらなかったこと。それでも譲れなかったこと。兄からの叱咤激励、父の言葉、引退試合でのトラウマ、晴海高校を選んだ理由、兄との確執、監督やコーチへの宣戦布告、仲間との決別。
 知っている話もあっただろう。けれど、夏川は一切口を挟まず黙って聞いていた。
 そして、問い掛けた。


「そいつ等――匠達は、お前が何を裏切ったって言ったんだ?」
「信頼を、だよ」


 人に期待するな。期待した通りにならなかった時、相手を責めてはいけない。
 彼等の言葉が、今の和輝を作った。夏川はそう思った。彼等は期待通りにならなかった和輝を責めた。だから、和輝は意識していなくとも、それを反面教師のようにして生きて来た。
 虚しいと、夏川は思う。だって、どちらも間違っている訳じゃない。ただ、解り合えなかっただけだ。
 そういうときもあるだろ。和輝が先刻告げた言葉を反芻する。


「才能か……」


 才能が全てではないと訴える和輝。けれど、歴然とそれは存在するのだと仲間は言う。それでも譲れないと叫ぶ和輝。仕方が無いだろうと諭す仲間。堂々巡りだ。解り合えない。
 解り合えなくて当然だろう。彼等は明らかに、価値観が違った。当時の彼等はそこに気付けなかった。共通していたのは上達への貪欲な向上心だ。同じ方向を向いていても、見ているものが違う。歩いて来た道が違う。


「匠達には解らなかったんだよ、本当に。壁にぶち当たったことのない奴に、その痛みは解らないだろうさ」
「今なら、そう解るよ。だから、あいつ等が間違っている訳じゃない」


 善悪で括れることばかりではない。だから、嘗て父は物事を善悪で語るなと言ったのだ。
 夏川は肩を落とした。重いと、思った。


「お前、そこで諦めちまったんだな。それでも納得出来ないから、全力で抵抗するって、言わなかったんだな」
「言ったさ。ただ、俺も余裕無くって、喧嘩するみたいに怒鳴り返しちゃったんだよ」
「まあ、お前の気持ちも解るけどな」


 それが拗れて決別だ。呆気ないし、馬鹿らしい。けれど、現実なんてこんなものだ。
 和輝が笑った。


「なんか、話してみると、俺達馬鹿みたいだな。青臭くて、ガキみたいだ」
「今も馬鹿でガキだろ」
「そうだね」


 当たり前のように肯定し、和輝は立ち上がった。消灯時間だ。仲間は皆既に布団に潜り込んでいる。
 電灯が落とされた。強制入眠だと浩太が言っていたことを思い出し、容赦ないな、と笑う。


「そんな馬鹿でガキな俺は、今も道の途中にいる訳ですよ」
「なるほどね」


 部屋に戻ろうとする和輝が、振り返る。明るい夜空に照らされた相貌が浮かび上がる。
 不意に、夏川は出会った頃を思い出した。蜂谷祐輝の弟と呼ばれていた頃の少年とは、違う。蜂谷和輝という一人の選手になった。無邪気に見えて計算高く、狡猾に見えて愚直。
 逃げないよ、と笑ったあの頃の和輝を、今も覚えている。


「夏川、ありがとな」


 穏やかに微笑んで、和輝は布団へ潜り込んで行った。




Missing(1)





「匠」


 狸寝入りを決め込んでいた箕輪は、同じく起きているだろう匠を呼んだ。
 周囲からは寝息が聞こえている。和輝と夏川も、眠ったのだろう。消灯時間を一時間は過ぎている。明日に響くと思うが、気になって眠れなかった。


「あれ、本当?」


 箕輪の指すあれが何を指しているのか解らない。匠は薄目を開け、否定も肯定もしなかった。
 橘シニアを思い出す。確かに自分達は言い争いを幾度と無くして、ぶつかって、決別した。裏切り者だとも罵ったし、それが間違っていたとも思わない。
 あの監督とコーチに、宣戦布告したことは知らなかった。晴海高校選択の理由をこんな形で聞きたくはなかった。聞くならば、真正面から聞きたかったと思う。


「ひでー監督とコーチだな。あいつ、よく辞めなかったな」


 そう言って、箕輪は合点行ったように続けた。


「ああ、そうか。辞められなかったのか」


 そうだ。その通りだ。匠は胸の内で肯定する。
 逃げたいとすら、考えなかったのだ。それは生まれ持った性格で、自分達にはどうしようもない。そういう人間だった。


「なんつーか、和輝が怒鳴ってでも訴える姿が想像付かないな。そんな状況見たら、どうしたんだ、こいつ、大丈夫か、ってなるよ」
「なったよ」
「こいつがこんだけ言うんだから、余程のことなんだろう。ちょっと聞いてやろう。信じてみよう。――そういう風に、考えなかったのか?」


 箕輪の潜められた声は、確かに匠を責めていた。


「考えられなかったんだよ。俺には、本当に解らなかったんだ」


 匠は声量を落としながらも、はっきりと答えた。
 壁にぶち当たったことのない奴に、その痛みは解らない。夏川が先程言ったことが、真実だった。
 和輝の歩いて来た道は知っていたし、言っていることも何となく解る。気持ちにも共感出来る。けれど、道を知っていることと実際に歩くことは違う。
 一緒にいても全てを解り合うことは出来ない。歩いて来た道が違えば価値観も違う。それに気付たから、信頼とは許し合うことだと解ったのだ。
 箕輪が苛立ったように言った。


「ムカつくわ、お前」
「はあ?」
「いや、昔のお前」


 ムカつく、と再度繰り返して箕輪が天井を睨む。


「昔のお前、すげー嫌いだな。恵まれてることに気付きもしないで、当たり前みたいに受け入れてるところ、すげー鼻に付く。仲間がそんだけ必死に訴えてるのに、簡単に否定して切り捨てるところ腹立つ。同じくらい悩めば良かったのに」
「まあ、そうだったんだろうな」
「でも、昔のことだから、もういいや」


 あっさり言って、箕輪は布団を被った。
 呆気に取られる匠を置いてけ堀に、箕輪は目を閉じたまま言った。


「今のお前はそうじゃないから、もういいよ。お前が編入して来た時、俺、お前のこと好きじゃなかったけど、今はわりかし気に入ってるわ」
「何だよ、嫌いだったのかよ」
「手の平返し」


 びしりと言った箕輪に、匠は納得する。
 ああ、そうか。箕輪には、あの頃の自分が、簡単に掌を返す世間と同じように見えたのだ。


「納得いかないところも正直あるけど、もういいや。和輝が笑ってるから、俺はそれでいい」


 おやすみ。
 短い挨拶を告げ、言葉の通り箕輪はすぐに寝息を立てた。その入眠の早さに俄かに驚く。
 匠は天井を見上げた。埃一つ無い掃除の行き届いた綺麗な天井は、その節目さえも上品に見える。
 自分が思う以上に現実は厳しくて、真実は入り組んでいる。目に見えるものは少なくて、隠れているものには気付き難い。
 和輝が笑っているから、それでいい。そう言った箕輪を思い返し、匠は笑った。本当に自分の幼馴染は慕われているな、とちょっとだけ誇らしく思った。
 あの頃の自分達は幼くて、浅はかだった。横で眠る幼馴染は、昔と同じ幼い寝顔だった。こいつが、笑っていられるのは、今のチームのお蔭なのだろう。


(こいつの弱さを、守ってくれてありがとう)


 口にせず胸の内で呟き、匠は目を閉じた。

2013.8.31