俺は馬か。
 高校入学後、大勢の生徒の囁き合いを聞きながら浅賀達矢はそんなことを思った。
 
 関西にある北里工業高校野球部、浅賀達矢と聞けば高校野球に携わる者なら感嘆の声を漏らすだろう。長身で切れ長な目をした、才能溢れる豪腕投手だ。けれど、彼は常にサラブレッドと呼ばれた。
 父である元プロ野球選手、浅賀恭輔は伝説だった。高校時代は甲子園を連覇し、高校最速の球を投げ、変幻自在の変化球を持ち、大きな体と才能に恵まれていた。卒業後はプロになり、数々の新記録を打ち立て、それは今も塗り替えられていない。
 現代の怪物。今世紀最大の投手。そんなことを謳われていたにも関わらず父は若くしてあっさり引退し、地元で愛妻と静かに暮らした。野球を趣味にして、近所の草野球チームでコーチを始めた。なんて自由な男だろう。
 そんな浅賀恭輔の一人息子として生まれた浅賀達矢は、幼少時代から将来を期待されていた。当たり前のように野球を始め、順調に上達した。同年代では頭一つ抜けていた達矢だが、元来の明るく気さくな性格から良き仲間にも恵まれた。
 周囲からの賞賛に鼻を高くした。期待に応えられるだけの才能と実力を持っていた。練習も真面目に熟し、チームの輪を重んじる。達矢の放つボールは常に唸るように回転し、キャッチャーミットに突き刺さった。
 達矢が投手として名を上げた頃、関東では蜂谷祐輝という天才投手が持て囃されていた。二つ年上の彼が放つボールは球速も然ることながら、抜群のコントロールでバッターを巧みに躱していた。どんな逆境でも顔色一つ変えず、常に前を向いて背を伸ばす。そして、とても綺麗な顔をしていた。


(なんやこいつ。気に食わん)


 それが最初の印象だった。才能も実力もあって、顔も良くて、頭も良いと聞いて達矢は面白くないと思った。賞賛を受けながらも表情一つ変えない。少女達の黄色い声援を無難に躱し、純粋に仲間と勝利を喜ぶ。非の打ち所がない。そういうところが気に食わなかった。けれど、その蜂谷祐輝が、父の古い友人の息子だと知ると何故だか急に親近感が湧いて、素直に尊敬するようになった。達矢は単純だった。
 同世代では赤嶺陸という投手の名前が度々聞かれ、達矢は比較の対象とされた。敵対心はすっかり赤嶺に映っていた。赤嶺の名を聞く度に、俺の方が上手いと声を上げた。達矢は見栄っ張りだった。
 達矢は練習を重ねた。速い球を投げたかった。バットが掠りもしないような、バッターが思わず後ろを振り向くような、観客が息を呑むような剛球を投げたかった。
 食欲旺盛な達矢は成長も早かった。中学時代、背の順では常に最後尾で、同級生のつむじを見下ろしていた。
 中学校の野球部のレベルは達矢には低く、地元のシニアリーグに所属することにした。
 シニアリーグは面白かった。才能溢れる選手がごろごろいて、達矢の競争心を刺激した。
 俺はもっと上手くなってやる。全員超えてやる。もっと速い球を投げてやる。誰より重い球を投げてやる。
 そうして貪欲に練習をしているうちに、仲間達との実力の差が何時の間にか随分と開いていた。けれど、達矢は気にしなかった。卑屈にも傲慢にもならなかった。自分が上手過ぎるから仕方ないな、と思った。達矢はポジティブだった。
 けれど、実力差が開いて困ることがあった。それは、誰も達矢の放つボールを捕れなかったことだ。
 強烈なバックスピンの掛けられたストレートは驚異的だったが、暴投が多かった。変化球は邪道と言って殆ど磨いて来なかった。結果、そのストレートを捕ることは難しく、捕手として扱い難い投手になっていた。
 達矢の練習相手は専らブロック塀だった。コントロールと変化球を身に付けようと思った。何故なら、尊敬する蜂谷祐輝は抜群のコントロールと見事な変化球を持っていたからだ。達矢は短絡的だった。
 更なる上達を目指し、達矢は関西で野球の強豪校として有名な北里工業に入学した。
 レベルの高い投手陣を見て、達矢は自分の選択の正しさを喜んだ。此処ならもっと速い珠が投げられる。もっと上手くなれる。そう思った。
 この頃、北里工業は大きな問題を抱えていた。それは捕手の不足だった。
 古くから野球の名門校と名高い北里工業の門を叩く選手は多い。蜂谷祐輝の影響からか投手の人気が高くなっていた。だが、それを捕れる捕手がいなかったのだ。
 だが、達矢が入学した年、非常に優れた捕手が現れた。それが青樹大和だった。
 一見するとなよっちい優男で、本塁滑り込みで容易く吹っ飛ばされそうにひょろひょろしていたのだ。磨いて来たボールを投げるべき相手がいなく、フラストレーションの溜まっている投手の前に座るには、青樹は余りにも頼りなく見えた。
 しかし、青樹は天才だった。どんな剛球も容易く捕球し、本塁滑り込みも巧みに躱す。野球は筋肉じゃなくて頭でするんですよ、と言わんばかりの頭脳プレーだった。
 青樹は高い技術と優れた頭脳を持っていたが、社交的な性格でおだて上手だった。理想の捕手だったのだ。
 トントン拍子に青樹はレギュラー入りを果たし、達矢は運良く球を受けてもらうことになった。
 青樹がキャッチャーポジションに座る。達矢はマウンドに立った時、全身に鳥肌が立った。キャッチャーマスクの向こうで、青樹の目が光って見えた。
 セットアップ、ワインドアップ、ステップを踏んで、投球。一つ一つの動作を確かめながら、丁寧に行った。達矢の放ったボールは青樹の顔面に向かっていたが、それは乾いた音を響かせキャッチャーミットに美しく吸い込まれた。
 音が違う。達矢は思った。壁を相手に投げていた達矢は感動した。
 青樹は言った。


「並!」


 高らかに宣言した青樹は微笑を浮かべていた。達矢はがくりと肩を落とした。
 青樹はコントロールの悪さを指摘した。球速は才能だが、コントロールは努力だ。今の達矢は才能で野球をしているだけで、すぐに壁にぶつかる。淀みなく、青樹が言った。
 変化球を身に付けろと要求した。速いだけの球なら初めは驚いても、すぐに慣れる。そうなれば滅多打ちだ。自分の投げたボールの先だけでなく、グラウンド上の全てに意識を向けろと告げた。
 返す言葉も無かった。事実、その通りだった。
 入学し、異例の早さでレギュラー入りを果たした青樹は協調性に優れていた。気配り上手で、上級生や同級生にも好かれ、監督やコーチにも気に入られた。これがコミュニケーション力か、と達矢は戦慄した。
 達矢は青樹の言葉を受け止め、必死に練習した。それでもレギュラーの壁は高かった。
 狙ったところにボールが行かないことに苛立った。思ったように変化しないボールに焦った。早ければ良いという考えを改めた。春の新人戦で活躍する青樹の前に立つ投手が羨ましかった。
 青樹は常に輪の中心にいたが、達矢は積極的に話し掛け、勉強した。自分に足りないものは何か。どうすればマウンドに立てるのか。青樹は何時も的確な助言をしてくれた。
 夏前には、達矢は二軍のエースだった。レギュラーは目の前だった。その頃、東京遠征が決まった。
 みっちりと詰め込まれた練習試合を達矢はぼんやり眺めていた。一軍と二軍の練習試合は別だ。青樹は一軍の控えの捕手だ。実力は正規の捕手にも引けを取らない。別会場かと口を尖らせながら遠征のしおりを眺めていると、二軍メンバー表に青樹の名前が記されていることに気付いた。
 理由を問うと、青樹は自分はまだ一年生で未熟だからね、なんて謙遜した。達矢は大人だなあと感心した。
 そして、東京遠征。達矢は興奮して眠れなかった。キャプテンの伝手で組んだという神奈川県の公立高校との練習試合に望むバスの中、青樹はずっと窓の外を見ていた。青樹にとっては半年ぶりの地元だというのに、妙に沈み込んでいた。
 神奈川県立晴海高校。新築の白い校舎が眩しかった。広いグラウンドはナイター設備があり、どんな強敵が現れるのかとわくわくした。達矢はバスの中で聞いた青樹の嘗てのチームメイトを想像した。それがあの蜂谷祐輝の弟だというのだからいてもたってもいられなかった。
 だが、現れた晴海高校のキャプテンは小さかった。頭一つ分小さい三年生だ。しっかり食事をとっているのかと心配になる程だった。それが投手で、エースだというのだから驚いた。野球部がたった九人しかいないと聞いた時は笑うしかなかった。
 どのみち、相手が強くても弱くても構わなかった。結果を残し、一軍入りを果たす。達矢の頭の中にあったのはそれだけだった。
 其処で、達矢は忘れられない出会いを果たす。小さなキャプテンに呼ばれて駆けて来た青樹の元チームメイト。青樹の元キャプテン。蜂谷祐輝の弟。――蜂谷和輝は、更に小さかった。
 チビでひょろひょろしている。色白だったので、内心でモヤシかと呟いた。だが、蜂谷和輝の顔は、幾度と無くテレビで見て来た蜂谷祐輝の面影を確かに残している。神様のえこ贔屓と言わんばかりの綺麗な顔だった。
 蜂谷和輝を前にした時、青樹は今まで見たこともないような顔をした。
 ばつが悪そうな、叱られた子どものような、情けない顔をしていた。何時でも自信に溢れた青樹ではなかった。
 整列した時、達矢はわざと蜂谷和輝の前に立った。小学生かと思うくらい小さい。完全に見下ろしていて、真正面の顔が見えない。初対面で嘗められる訳にはいかないと威圧感を込めて声を掛けた。けれど、蜂谷和輝は微塵も怯む事無く、真っ直ぐに見上げて「はい」と言っただけだった。刺すように鋭く、吸い込まれそうに透き通った目だった。達矢は息を呑んだ。
 試合が始まって、青樹は早々に蜂谷和輝を全打席敬遠にしようと提案した。自分が見縊られているのかと反論したが、青樹には青樹の考えがあるらしい。反論の余地は無く、達矢は従った。
 蜂谷和輝は上手かった。優れていた。秀でていた。小さな体で、二軍とはいえ北里工業と対等に渡り合っている。圧倒的な身体能力、技術、判断力。こいつは確かに、あの蜂谷祐輝の弟だと思った。グラウンドの中で強烈な存在感があった。トップバッターの蜂谷和輝に対し、青樹は敬遠の指示を出したが、達矢は首を振った。こんなチャンスは二度と無い。あの蜂谷祐輝の弟と真正面から対決して見たかった。
 渋々ストライクゾーンの指示を出した青樹に達矢は歓喜した。そして、自分の一番の球を投げた。
 澄んだ音がした。達矢の球は呆気無く打たれた。痛烈なライナーとなってあっという間に内野を抜けていった。蜂谷和輝は足も速かった。配球を読まれたとか、研究されていたとかそんなレベルではない。達矢のストレートがただの棒球みたいに、全く通用しなかったのだ。
 嘗て、青樹の言っていた言葉を思い出した。速いだけの球はすぐに慣れる。そういうことか。蜂谷和輝はグラウンドで、兄そっくりの輝くように綺麗な微笑みを浮かべていた。
 だが、達矢が緩い球をストライクゾーンから外して敬遠すると、その顔色が一転した。以降、エラーを連発した。ベンチがいない晴海高校に交代はありえない。真っ青で焦点の合わない目をする蜂谷和輝に同情し、胸が痛かった。原因は明らかに達矢の敬遠だった。
 それでも、青樹は敬遠を要求した。追討ちを掛けるような真似は気分が悪かった。けれど、勝つ為ならば仕方が無いのだろう。そう思うことにした。青樹は無表情に蜂谷和輝の背中を見詰めていた。
 なまじ二人共顔が整っているだけに、痴情の縺れでもあったのかと勘繰ったくらいだ。青樹が蜂谷和輝を見る目は、昔のチームメイトに向ける目ではなかった。
 崩れて行く蜂谷和輝。それを狙った癖に、青樹が辛そうな顔をする。何やねん、この試合。それが達矢の感想だ。茶番劇のようだと思った。
 青樹の目に自分は映っていなかった。青樹が見ているのは蜂谷和輝だけだ。そう気付き、達矢は苛立った。青樹の指示が信じられなくなった。変化球の要求も当たり前なのに、まるで自分を見縊っているように感じられた。次第に達矢もペースを乱し、失点が続いた。
 マウンドに駆け寄った青樹を、達矢は叱責した。自分は蜂谷和輝と戦う為の道具ではないと声を大にして主張した。すると、青樹は心底驚いたような顔をして、少しだけ笑った。
 お前がエースだと、青樹が言った。いつもの顔に戻っていた。その時、青樹は拳を向けた。そんな遣り取りは一度だってしたことがなかったけれど、達矢も拳を向け、ぶつけた。
 その回、青樹はホームランを打った。栄光の架け橋と称される綺麗な放物線だった。
 青樹は最後まで蜂谷和輝の敬遠を要求した。達矢はもう反抗しなかった。そして、蜂谷和輝も顔色を変えなかった。その頃には、試合開始直後と同じ澄んだ目をしていた。
 試合は結局負けた。達矢は最後の最後にホームランを打たれたが、落ち込まなかった。青樹はマウンドに駆けて来て、マスクを上げて肩を叩いた。俺の責任だよ、と言っているようだった。
 試合後、青樹は蜂谷和輝と話をしていた。細くてひょろっちいのに頼もしい青樹が、本当に弱々しく見えた。大小二本のモヤシが生えているようだった。
 話の途中、青樹は声を上げて蜂谷和輝を責めた。そして、涙を零した。青樹も涙を流すのかと驚いた。


「俺はお前に、信じて欲しかった……!」


 蜂谷和輝が言った。泣いていた。
 事情を知らない達矢は、本当に痴情の縺れだったのかと思った。


「お前なら、解ってくれるんじゃないかって、思ってた……。俺はきっと、そうやってお前に甘えてたんだよな……」
「ふざけんなよ、馬鹿! 言えよ、そのくらい! 何で言ってくれなかったんだよ!」
「お前だって、言ってくれなかったじゃないか」


 蜂谷和輝がごしごしと目を擦った。


「信じていいなんて、一言も言ってくれなかったじゃないか」
「信頼なんて、言葉で説明しなきゃ解らないもんじゃないだろ!」


 部外者の自分が介入するべきではない。というか、男同士の痴情の縺れに巻き込まれたくなかった。
 だが、何やら事情が違うらしいと達矢は割って入った。蜂谷和輝はきっと、反論しないと思ったのだ。反論出来ないのだろう。思ったことをそのまま口にせず、本音を呑み込んでしまう人間なのだと思った。
 それでは、何の意味も無い。蜂谷和輝はきっと、本音を呑み込んで、青樹の否定に傷付くだけだ。そういう人間で、そうとしか生きられないのだ。


「大和、それは違う。それはお前の持論やろ。全ての人間がそう思ってる訳やない」
「浅賀」
「決め付けるな。お前がそれを普通って言ってもうたら、そうして生きられん人間はどないしたらええねん」


 青樹は押し黙った。


「そうとしか生きられん人間の生き方を否定するって事はな、暗に死ね言うてるのと同じやぞ」
「そんなんじゃない!」
「せやから、それはお前が決める事やない。受け取った本人が決める事や」


 青樹はついに言葉を失った。頭の回転の速い青樹が言葉を失うなんて、初めてだった。
 蜂谷和輝はただただ呆然としている。


「……確かに、大和の言う通り、言葉にしなくても伝わって、信じ頼れる事が信頼ちゅう事やろうな。仲間を信頼出来なかった君を責めるつもりは無いけど、当たり前のように信じてもらえなかったこいつの虚しさも解るやろ」


 達矢が言えば、蜂谷和輝は頬に涙を張り付けたまま素直に頷いた。
 居た堪れない沈黙を破るように、青樹が言った。


「人を頼るのが悪いって、どうして思うんだよ。どうして何でも一人で背負い込むんだよ」
「……ごめん」
「お前が悪いって言いたいんじゃない。俺は」


 青樹は一瞬目を伏せ、すぐに顔を上げて蜂谷和輝を睨んだ。


「俺は、お前と野球したかったんだよ……!」


 その言葉が、達矢の胸に刺さった。
 蜂谷和輝は投手ではない。それでも、天才と呼ばれるだけの実力を持つ青樹が、これだけ言うのだ。その言葉がこの試合中の青樹の心中全てを語っているようだった。


「お前はもう、一緒に野球したいとは思わない、か?」


 絞り出すような青樹の問いは、懇願に近かった。けれど、蜂谷和輝はグラウンドの仲間に目を遣って苦笑した。柔らかな光が瞳に映って見えた。


「お前等との野球がつまんない訳じゃない。また、一緒に野球出来たらいいかも知れない。でも、俺は自分の選んだ道を後悔なんてしていない」


 瞳と同じ、柔らかな否定だった。否、肯定だったのかも知れない。
 青樹は何も言わなかった。言えた筈が無い。その後、蜂谷和輝はポケットから油性マジックを取り出して、青樹の手へ直に自分の携帯のアドレスを書き込んだ。その豪快な行動に、達矢は惚れ惚れした。
 短い挨拶を告げて去って行く蜂谷和輝の小さな背中が、本当に恰好良く見えた。
 そして、達矢は彼が父の古い友人の息子であることを思い出した。蜂谷祐輝の弟なのだから当然だ。近年は疎遠になっているが、幼少の頃は度々自分の家に遊びに来ていた。体が小さく病弱だった記憶があり、今の蜂谷和輝とどうしても結び付かなかったのだ。
 自分にもそのアドレスを写させてくれ、と達矢が言うと、青樹が悪戯っぽく笑った。これが本来の青樹大和なのだろうと、達矢は思った。そして、達矢が青樹と本当に親しくなったのはこれが切っ掛けだった。
 大阪に帰り、当分蜂谷和輝とも会わずないと達矢は思った。次会うとするなら甲子園だ。負けるものかと達矢は練習に打ち込んだ。だが、甲子園が始まるより前に、達矢はマスコミ報道の中で蜂谷和輝の顔を見ることとなった。
 達也は順調に上達し、それなりにコントロールを身に付け、変化球も覚えた。監督からも評価され、エースではないが一軍入りを果たした。夏大会が始まり、いよいよ甲子園も目前に差し迫った頃、事件が起きていた。




Missing(2)





 晴海高校野球部で傷害事件があり、マネージャーが自殺した。あの試合でエースを勤めていた小さな三年生が昏睡状態だと知った。蜂谷和輝はその事件に巻き込まれ意識不明の重体で病院へ搬送された。青樹が今にも死にそうな真っ青な顔で言った。
 大慌てで神奈川へ行こうとする青樹をチームメイト一丸で押し止めた。ちょっと普段では見られないような見事なチームプレーだった。
 青樹は神奈川からの連絡を待ち、眠りもせず、食事も喉を通らず、試合どころではなくなってしまった。
 甲子園出場を果たしたものの青樹は再起不能のままで、優勝も逃した。その頃になって漸く目を覚ました蜂谷和輝と連絡が取れるようになり、青樹も徐々に通常運転に戻っていった。
 その後、嫌な噂が流れた。蜂谷和輝がマネージャーを自殺に追い込んだのだと。
 青樹は酷く驚いていたが表情には出さず、賢くやんわりと否定していた。悪質なデマだろう。ありえないよ。それなら学校側だって退学くらいさせてるだろ。でも、ピンピンしてるじゃないか。そう言って笑い飛ばした。
 蜂谷和輝が傷害事件を起こしたという噂もあったが、最早噂が噂を呼んで何の話かも解らなくなっていたので達矢は無視を決め込んだ。直接電話をしたかったが、繋がらなかった。携帯が壊れたらしいと言った青樹は、弱っていた。
 冬になって、悠々自適な生活を送る父が大慌てで神奈川へ行くと言い出した。嫌な予感がして何があったのか聞いても答えなかった。父が発った後、こっそり母に聞いてみると、蜂谷和輝が自殺未遂を図ったという。
 なんという話題に欠かない男だろう。達矢が言葉を失った。
 青樹に言えば、また神奈川へ行くと言って大騒ぎになること請け合いだったので黙っていた。
 一週間程して、酷く疲れた顔をして父は帰って来た。事情は何も話してくれなかったので、母に聞くことにした。
 自殺未遂は事実だった。自宅で手首を切ったらしい。
 テレビや雑誌は度々蜂谷和輝を悪人呼ばわりして報道する。けれど、其処には何の証拠も無いので、憶測によるデマであることは明らかだった。大きな事件が暫く無かったので、蜂谷祐輝の弟の不祥事を大々的に報道して時間を埋めているように感じた。
 自殺未遂のほとぼりも冷めた頃だろうと、達矢は自宅の電話帳から蜂谷家の電話番号を探した。
 これだけ報道されていれば悪戯電話も多いだろう。繋がる確率は低かった。けれど、長いコールをじっと待つと、電話は繋がった。


「はい、もしもし」


 蜂谷和輝の声だった。大層弱っているだろうと思っていたが、予想に反してしっかりとした声だった。
 達矢が名乗ると、硬い声が僅かに柔らかくなった。


『久しぶりだね、どうしたの』
「あ、いや、元気かと思て」


 口にして、すぐに失言だと気付いた。元気な筈無いだろう。
 けれど、蜂谷和輝は電話の向こうで笑った。少女みたいな控えめな声だった。


『心配して電話してくれたの? ありがとう』
「ああ、いや……」
『浅賀君は元気? 大和は?』
「俺等は相変わらずぴんぴんしとるわ」


 弱り切っているだろうに、人の心配をするなんて、なんて出来た人間なんだろう。達矢は不覚にも泣きそうになった。達矢は熱い男だった。


『大和には心配掛けてばっかりだ。謝っておいてくれよ』
「そんなもん、自分で言え」
『そうだね、そうするよ』
「大体、お前が謝ることなんて無いやろ」


 達矢は、中学時代の青樹達の引退試合を聞いていた。蜂谷和輝は全打席敬遠だった。其処にトラウマがあると解っていて、青樹は狙ったのだ。仲間とは思えない非情さだ。勝負の世界で情け容赦は一切無しだと思うけれど、余りにも酷いと思った。それでも立ち直った蜂谷和輝の神経の太さには脱帽だが、何となく青樹の思いも察していた。
 一緒に野球したかったと言った、あの思いが全てなのだ。依存、執着。トラウマを抉って、其処に傷があることに安心したかったのだ。彼等の仲は何かが拗れていて気持ち悪い状態になっている。進学先が離れていて本当に良かったと達矢は思う。
 引退試合後、青樹は自分の不甲斐なさや申し訳無さを感じていた。同じ中学に通っていた蜂谷和輝と青樹大和、白崎匠、赤嶺陸の間には溝が生じた。そして、蜂谷和輝は黙って彼等と距離を置き、些細なことから言い争いになり、彼等は決別したのだ。蜂谷和輝は最後まで沈黙を貫き、彼等の罵倒にも言い返さなかった。それが何より辛かったと青樹は言っていた。
 受話器の向こうで、蜂谷和輝は沈黙した。達矢も掛ける言葉は無かった。その沈黙は、蜂谷和輝が何かを言おうと躊躇っている逡巡の時間なのだと達矢は感じた。そして、掠れるような声で、蜂谷和輝が言った。


『強くなりたかった』


 まるで、それが許されないことのように。弱音や泣き言のような儚い声だった。
 これが、蜂谷和輝の全てなのだと達矢は思った。
 通話は終わっていた。達矢は呆然と受話器を見詰めていた。
 その頃、達矢の尊敬する蜂谷祐輝はプロ野球選手になっていた。マスコミは高校三年生の時分には随分と持て囃したのに、弟の事件からは掌を返していた。プロ一年目の風当たりは相当厳しいものだった。球場では聞いたことのないような酷い野次が飛んだこともあったという。だが、このシーズンの蜂谷祐輝の活躍は鬼気迫るものがあった。能面のような無表情を一切崩さない。口さがないマスコミが押し掛けてありもしないデマを事実のように責め立てたが、蜂谷祐輝は感情的にならず、全てを理路整然と真っ向から否定し、誠実な対応を取り続けた。こんな男になりたいと達矢は思った。その甲斐あってか逆風は次第に収まって行き、蜂谷祐輝は父の打ち立てた最球速の記録を塗り替えた。
 春になってもマスコミは変わらず蜂谷和輝の報道を続けた。達矢はもう飽きていた。世間はそうではないのだろうかと思うが、新しい年を迎えれば変化があり、ネタも増えるのだろうと察した。
 高校二年生になっていた。達矢はエースの座を手に入れた。
 慢心はしなかった。上には上がいることを知っていたからだ。目指す先は蜂谷祐輝だった。
 晴海高校に蜂谷和輝の幼馴染が編入したことを、青樹から聞いた。栃木のエトワス学院にいた白崎匠という男だ。聞いたことがあった。体格は平均ながら、安定した打率と優れた技術を持つ選手だった。
 白崎匠を介して、青樹は度々蜂谷和輝と連絡が取れるようになり、安心していた。自殺未遂事件以来、敏感になっているらしい。無理もない。
 中学時代に決別したとは思えない姿に、達矢は「仲直りしたんか」と軽口のように問い掛けた。深い意味は無かった。世間話の一環だった。
 青樹は何でもないことのように「したよ」と言った。「もうとっくに解り合えたよ」と。
 ちりり、と何かが胸に刺さった。耳元に、蜂谷和輝のあの声が蘇った。
 強くなりたかった。


(あれは、あの言葉は、)


 数学の難問が、一つの切っ掛けですらすらと解けたように。ばらばらだった点と点が一直線に繋がれたように。達矢は、その意味を理解した。
 それこそが彼の願いで、祈りで、――信頼だったのだ。


(解り合えた、って)


 お前、何も解ってないやろ!
 達矢はその言葉を必死に呑み込んだ。
 蜂谷和輝はずっと黙って呑み込んだままだ。今もだ。謝罪は口にしても、解ってくれとは言わない。言ったのは、解って欲しかった、という願いだけだ。それで解り合えただなんて、冗談だろう。まるで自分達が許したかのように! 許してくれたのは、蜂谷和輝の方だろう!
 決別の折、蜂谷和輝は言い返さなかった。それが青樹は辛かったと言った。そんなこと、解っていたことだろう。だって、彼はずっと無防備だったのだ。解って欲しかったとは言っても、何で解ってくれなかったんだとは言わなかった。頭良いんだから気付けよ。そういう人間だっただろう。
 あの練習試合で解っただろう。彼にはまだ傷がある。蓋をして隠しているだけだ。どうしてそのことに気が付かない!
 信頼に気付けと青樹は言ったが、彼等こそ、蜂谷和輝の向ける信頼に気付こうとしたのか。
 解って欲しかったという願いこそが、信頼だったじゃないか。
 そういう人間だと解っていて、一緒にいたいと思ったんだろう。それなら、弱さも脆さも受け入れてやれよ。それが、友達だろう!
 強くなりたかったのは、どうしてだ。――こいつ等を受け入れたいからだ。
 達矢は体中に生温い空気が纏わり付いているような気がして身震いした。気持ち悪い。
 きっと、彼等は気付かない。蜂谷和輝が今更それを口にするとは思えない。


(アホやなぁ)


 滑稽だ。馬鹿げた茶番劇だ。
 何も知らないまま、解らないまま、気付かないままでいればいい。そうして蜂谷和輝の優しさに甘えていればいい。


(あいつはもう、お前等に、何も期待してへんよ)

2014.8.31