「なあ、大和」 浅賀は、開会式で再開した小さな少年を思い出していた。一年前の事件当初に比べ、随分と明るく、大人になっていた。相変わらず小さかったけれど。 就寝時刻の迫った宿で、布団に寝転んだまま手の中の硬球を弄んでいる。 対戦校のデータを確認している青樹は顔も向けず返事をした。 「和輝、元気そうで良かったな」 青樹は漸く顔を向け、綻ぶように笑った。 晴海高校は初戦を勝ち抜いた。第三試合だった北里工業も勝利を手にした。昨年度逃した優勝を、今度こそ手に入れる。皆がそう考えている筈だ。 「お前等ってさあ、何で喧嘩したん?」 青樹は、鳩が豆鉄砲食らったような顔をした。もう三年も前の話をほじくり返されたくも無いだろう。 浅賀も強く興味がある訳ではない。何となく、聞いておきたかった。 青樹は枕元に広げていた書類を一纏めにして、丁寧にクリアファイルへ収めた。そして、ごろりと仰向けになった。 「進路のことだよ」 「何で進路で喧嘩すんねん。お前等はオカンか」 からりと青樹は笑った。もう笑い飛ばせる程、昔の話なのだろう。 そして、唐突に青樹は言った。 「あいつ、運動神経良いだろ?」 「……俺は才能あると思うわ」 「俺もそう思う。皆もそう思ってた。多分、和輝だけがそう思っていなかった」 天井を睨む青樹に表情は無かった。 「俺達のいた橘シニアって、地元じゃ、すごく強いチームだったんだよ。今の北里くらい人数もいて、練習も厳しかった。完璧な実力至上主義で、才能無い奴は絶対グラウンド立てなかった。和輝はその中でレギュラー勝ち取って、キャプテンを務めてた。今の俺より、あの頃の和輝の方がずっと立派だったよ」 「そらすごいなあ」 「大勢の上に立ってた。皆の夢を背負ってた。そういう自覚を持っていた」 「はあ、偉いなあ」 だって、中学生だろう。其処まで考えるだろうか。浅賀は疑問だった。 けれど、彼等は考えていたのかも知れない。 「和輝って、すげー馬鹿なんだよ。成績底辺なの。驚異的な馬鹿で、学力での進学はまず無理だって言われてたんだよ」 「え、そうなん?」 賢そうな顔をしているけどなあ、と浅賀は笑った。 「確かに、賢かった。頭の回転は早いと思う。こっちが何を言ってもぱっと切り返して来るし、過去の試合記録全部暗唱できるしな。人の感情の機微にも敏感だし、空気も読むし」 「ああ、そんな感じするわ」 「そんな和輝は引退試合、人一倍、責任とか感じてたんじゃないかな」 静かに瞬きをして、青樹は続けた。 「試合が終わっても、あいつ全く泣かなかったんだよ。その時、俺はそれが理解できなかった。泣く価値も無いのか、内心不甲斐なかった俺達を責めてるのかと思った」 「はあ? そんな奴じゃないやろ」 青樹が笑った。苦い笑みだった。 「俺も馬鹿だった。そんな奴じゃないって、今なら言えるよ。高校になってから匠が、あいつは家でこっそり大泣きしてたよって言ってたからな。意地張ってたみたいだ」 意地は張り通してこそ意地だ。見事だな、と浅賀は思う。 「その時は、本当に理解できなかったんだ。あいつはあいつで、自分の不甲斐なさ感じてたみたいだしな。四番で全打席敬遠なんて名誉なんだろうけど、負けちゃったからな」 周囲ではチームメイトが騒いでいる。試合後に練習もしたというのに元気だ。 青樹の側だけが異様に静かだった。 「それで、お互い気まずくて、距離を置くようになったんだ。それが始まり。……で、進路を決める時期になった。橘シニア有名だからさ、スカウトがいっぱい来てたんだよ。勿論、和輝のとこにも行ってた。うちからのスカウトも行ってたんじゃないかな。多分、翔央大付属とか、政和学園賀川とかも来てたよ」 翔央大付属高校は蜂谷祐輝の母校で、政和学園賀川は赤嶺陸のいる甲子園優勝候補筆頭だ。 夢のような話だが、それだけの価値のある選手だと浅賀は思った。 「和輝は全部蹴って、家から徒歩三分の無名校に進路を決めた」 「はははははっ!」 朗らかに浅賀は笑ってしまった。チームメイトが興味を持って首を突っ込もうとするので、浅賀は慌てて放逐するように手を振った。 けれど、あっぱれじゃないか。最高に面白い。――彼等は、そう思わなかったのか。 浅賀は笑みを消し、話の続きを促した。青樹は釣られるようにして少しだけ笑っていた。 「俺もそうやって、笑ってやれば良かったんだよな。今なら、解る。でも、できなかった。だって、理解できなかったんだよ」 「何を」 「和輝、俺達のせいで野球辞めちゃうのかと思ったんだ」 「それはちょっと、お前卑屈過ぎるやろ」 青樹は困ったように眉を下げた。 「和輝も野球辞めないって言ってたよ。でも、意味が解らなかった。それなら、俺達のこと見限ったのかなって思った。だから、チームメイトの誰もいない高校にしたのかなって」 「……お前、ほんまにネガティブやな」 「引退試合、俺、何にもできなかったからな。勝手に罪悪感抱えてたんだよ」 「お前ってそういうとこあるよな。直せ」 善処します。青樹は自嘲するように鼻を鳴らした。 「誰も和輝の考えが理解できなかった。俺は只管落ち込んだんだけどさ、匠と陸は怒鳴ったんだよね。大勢の仲間の夢背負って来て、これだけ期待寄せられて、全部裏切って無名校行くのかって」 「そんなん和輝の自由やろ。何で文句言われないとあかんの?」 ごもっともです、と青樹が笑った。 「あいつも言い返したしな。文句言われる筋合い無いって。そんで、陸が裏切り者って言って、和輝が言い返さなくって、おしまい」 「それで決別?」 「決別っていうと重いんだけどね。あの頃の俺達にとってはかなりショックだったんですよ」 おどけて青樹が言った。 アホらしい。浅賀は吐き捨てた。 「お前等がアホやん。勝手やん」 「……解んね。どっちもどっちだったんじゃないかな」 「なんか、もやっとするなあ。お前等、言葉が足りんわ」 「そう思う。言葉にしなくても解るだろって、お互いに甘えてたからな」 痴情の縺れか、と浅賀は内心で突っ込んだ。 以前もこんなことを思ったなあ、と感慨深い。 青樹は目を細め、天井を睨んだ。其処には何もいないのに、まるで届かない過去を憎んでいるようだった。 「あの時、俺達は間違った」 はっきりと、青樹が言った。 「解り合えないことを、理解できていなかった。どれだけ一緒にいたって、相手の考えが全部解る訳じゃない。解り合えないことがある。それを、解っていなかった」 「……そうやな」 「解らないなら、解らないままで受け入れてやれば良かった。――それでいいよって、笑えば良かった」 浅賀は、一年前の青樹を思い出す。あの頃の青樹とは違う。 青樹はもう、気付いている。蜂谷和輝が大人になったように、青樹大和も大人になったのだ。 「これが俺等の喧嘩。馬鹿だなー」 「おう」 「ガキだったよ。……俺が気付かなきゃいけなかったのに」 噛み締めるように言って、青樹は額を押さえた。 見ていられなくなって、浅賀は言った。 「もう終わったことなんやろ。仲直りしたんやろ」 「仲直りっていうか、和輝が全部呑み込んだだけだよ」 ああ、それも気付いたのか。浅賀は黙った。 「きっと、まだ何か隠してる。あいつ意地は張り通すけど、馬鹿だから何処かにヒントを落としてる筈なんだ」 それを見つけ出すことが、青樹にとっての決着なのだろう。 「最後だからな。好い加減、全部終わりにしたいんだよ」 天井を見ていた青樹が、浅賀に目を向けた。 二年前の練習試合で、お前がエースだと言った時と同じ目だ。浅賀は口角を釣り上げた。 「決着やね。俺も好い加減、全国一のエースになりたいと思ってたんや」 「俺がしてやるよ。お前を、全国一のエースに」 青樹は拳を向けた。柄でも無い癖に、と思いながら、浅賀は拳をぶつけた。 Missing(3) 昔話をしたら目が冴えてしまって、いびきを立てるチームメイト達を起こさないように部屋を抜け出した。 青樹は唐突に昔のチームメイトを思い出して、電話を掛けた。もう寝ているだろうかと思ったが、長いコールの末に繋がった。 蝶名林皐月だ。中学時代、青樹は余り親しくなかった。会話も必要最低限だった。積極的に話し掛けたこともあったが、皐月は一線を引いて絶対に内側へは入れなかった。――和輝を除いて。 『何なんだよ、こんな時間に』 開口一番、そんなことを言う。変わっていないなと青樹は苦笑した。 「いや、ちょっと話したくなって」 『寝ろよ。もう寝る時間だろ。明日も試合じゃねーのかよ。優勝候補は余裕ですか、そうですか』 手厳しい。取り付く島もない。 今にも通話を終えようとする皐月に、青樹は慌てて言った。 「お前、怪我したらしいじゃん。大丈夫なのか?」 『お前に関係ねーだろ』 「元チームメイトなんだから、心配するだろ」 『チームなんて無かっただろ』 どういう意味だ。青樹は眉を寄せた。 「ちょっと酷くないか、流石に」 『酷くねーよ。優しいくらいだろ』 切るぞ、と皐月が言った。 掛けた時刻が悪かったのか、明らかに皐月の機嫌は悪い。これが和輝だったら喜んだ癖に、と青樹は苦々しく思った。 「いや、酷いよ。怒ってんの?」 『何時だと思ってんだよ。何でお前なんかの為に、俺の睡眠時間削られなきゃいけねーんだよ』 「どうせ夏休みだろ」 『予選敗退してますからねー』 皮肉を言ったつもりは無かったのだが、失言だった。 話が進まない。こんな奴とどうやって会話するのだろう。青樹は困惑する。 「ちょっと昔話しようぜ」 『嫌だよ。気持ち悪い』 「何で。和輝のこと、聞きたいんだよ」 『尚更、お前に話すことねーよ』 「俺はあるんだよ。いいから黙って答えてくれ」 電話の向こうで、皐月の舌打ちが聞こえた。 聞くだけは聞いてくれそうだ。青樹は胸を撫で下ろす。 「俺等が喧嘩したこと、覚えてる?」 『喧嘩っていうか、お前等が勝手に切れて和輝に八つ当たりしただけだろ』 「ああ、そうだな。和輝が何で晴海高校選んだか、知ってる?」 『知ってる』 青樹は携帯電話を持つ手に力を込めた。何故だか緊張した。 「何て、言ってた?」 『何も言ってなかったよ。つか、言わねーだろ、あいつ。そういうの言う奴じゃないだろ』 当たり前のように、皐月が言った。 ああ、そうか。当たり前のことだったんだ、俺達にとっては。あの時、自分は冷静じゃなかった。 「知ってるって言ったけど、何を?」 『……お前、本当に何も解ってなかったの?』 訝しむように皐月が問い掛ける。 『橘シニアにいて、何も気付かなかったの?』 青樹が答えられずにいると、皐月が溜息を吐いた。 『橘シニアって、おかしかっただろ。環境最悪だっただろ。俺と和輝が、どんな目に遭ってたか知らなかったの?』 「……上級生との折り合いは悪かったよな」 『お前、本当馬鹿』 皐月が言った。 『俺等、しょっちゅうリンチ食らってたんだぜ』 まるで、何でもないことのように。 青樹は携帯電話を落としそうになった。 「リンチって」 『だから、そのままだよ。和輝、ほっぺたによく湿布貼ってただろ。腕とか青痣だらけだったじゃん』 そんなことも、あった気がする。否、確かにあった。和輝は転んだと言っていた。実際に練習に打ち込み過ぎて生傷をよく作っていた。 「何で?」 『知らねー。八つ当たりじゃねーの。俺等チビだったからさ、目の敵にされてたんだよ』 ぞっとした。あんなに近くにいたのに、気付かなかった。 「八つ当たりって、レギュラーだったから?」 『三年になってからは、そうじゃない? 知らねーよ、俺がやってた訳じゃねーんだから』 「じゃあ、その前もあったのか」 『あったよ。俺と和輝が知り合ったのって、それが切っ掛けだし』 そういうことか。中学も違う皐月と和輝が、どうして親しかったのか理解した。 『和輝が、俺のこと庇ってくれたんだよ。俺がリンチ食らってるとこに、突っ込んで来たんだ』 「ああ……、やりそうだ」 目に浮かぶようで、青樹は苦く思う。 「それ、監督とかコーチに言ったのか」 『言っても仕方無いだろ。あいつ等、才能無い奴はゴミくらい思ってたし』 その言葉に、青樹は過去を思い出した。 あの頃、確かに和輝は才能の話をした。そういうことか、と嫌に納得した。 『そういう環境で過ごして、また強豪校行こうと思うか?』 青樹は言葉を失くした。 こんなに近くにいたのに、どうして気付かなかった! 黙った青樹に、皐月は言った。 『お前、ちょっとは冷静になったのかよ』 「ああ……、お蔭様で」 青樹は問い掛けた。 「チームなんて無かったって、そういう意味?」 『お前の言うチームって何なの?』 問い返され、青樹は返答に困る。皐月は続けた。 『橘シニアなんて、天才の飼育場だったじゃん。大体、何で今更そんな話を蒸し返すの? 気付かなかったなら、最後まで知らん顔しとけよ』 「できねーよ」 『お前には解らないんだから、もういいだろ』 「よくない。なあ、教えてくれよ」 電話の向こうで、皐月が呆れているようだった。 『あいつが黙ってるなら、それが答えだろ。俺等がどうこう言う問題じゃない』 「お前、それでいいのかよ」 『だから、お前には関係無いんだよ』 皐月が冷たく吐き捨てる。 『天才には、解んねーよ』 「天才とか、そうじゃないとか、関係無いだろ」 『お前が言うんじゃねーよ。ムカつくだろ』 「皐月が言わないなら、直接、和輝に訊く」 乾いた笑い声がした。皐月が笑っている。 『言う筈ねーだろ』 「訊く。言うまで、訊く」 『……どうして、それを』 皐月の声が、掠れた。 『どうして、それをあの頃、してくれなかったんだ』 そうだな、と青樹は返すのが精一杯だった。 自分は、彼が口を割るまで問い質すか、沈黙を貫くべきだったのだ。中途半端な対応が、事態をより拗れさせた。 『もう、寝るから。じゃあな』 「あ、ああ」 呆気無く切られた通話。青樹は呆然と携帯電話を見詰めていた。 嫌に心臓が煩く、指が痙攣する。試合に対する緊張でないことは、間違い無いと思った。 |
2014.9.1