確かに、其処にはあったのだと、




Missing(4)





 サイレンが鳴り響いている。
 甲子園の熱闘も佳境へ差し掛かっている。青樹大和は整列した相反するチームを見下ろしている。晴海高校が三回戦を突破した。恐らく、準決勝の相手は晴海高校だろう。青樹は手元のノートに記された得点表を見遣る。
 エラーが無い。守備は堅実で、攻撃は滑らかだった。一人一人が歯車の一つであることを理解し、納得した上でチームでの得点を望んでいる。ベンチに空きの出る、たった十名の野球部は異質だった。監督もコーチも無く、置物顧問がベンチの奥で欠伸をしている。マネージャーも声援を送ることなく、淡々と作業を熟している。痩せ型の選手が多く、長打力は低い。
 けれど、強い。とても強い。
 収穫はあった、と青樹は立ち上がった。熱気溢れる球場で、涙を飲む選手達が甲子園の土を集めている。惜しみない拍手を送った観客や応援団もやがて入れ替わるだろう。その波に紛れるつもりだった。
 しかし、次の試合が政和学園賀川であることを思い出し、踏み留まった。晴海高校と対戦した後、決勝は十中八九彼等だ。
 観戦しようと座り直したところで、ポケットの中で携帯が震えた。取り出してみれば、ディスプレイにメール受信の文字が躍る。送信者、白崎匠。
 そこでまってろ。
 漢字変換をしないメール本文を訝しく思う。几帳面な匠らしくない。
 どのみち、この場所を動くつもりも無いと青樹は了解の意を込め送信する。観客が入れ替わり、青樹の隣は空席となった。そして、入れ違うように影が落ちる。


「やあ、大和」


 さっきのメールは、匠ではなく彼が送信したのだろう。
 見当を付けて青樹が顔を上げれば、帽子を目深に被った少年が立っていた。
 蜂谷和輝が、青樹の隣に座る。


「試合、お疲れ。三回戦突破おめでとう」
「ああ、ありがとう」


 和輝は鞄からスポーツ飲料を取り出すと、喉を鳴らして飲み下した。
 青樹は問い掛けた。


「この後、練習は?」
「あるよ。この試合観戦が終わってからね」


 優勝候補は実際に観ておきたい。
 そう言って和輝はグラウンドを見た。
 その口ぶりが、まるで自分が間も無く対戦するかのようで、青樹は苦笑した。彼は自分達――北里工業に勝つつもりでいるのだ。


「赤嶺、でっかくなったな」


 投球練習をする赤嶺を、眩しいものを見るように目を細めて和輝が言う。嘗てのチームメイトとの対戦に油断や慢心はない。同じグラウンドに立っていたとしても、今は格上の相手に違いなかった。


「相変わらず凄いバックスピンだな。バットが弾かれそうだ」


 しげしげと観戦する和輝の横顔に、邪気は無い。中学時代と変わらない純粋な瞳だ。
 青樹は、皐月との電話を思い出していた。


「なあ、和輝」


 呼び掛けても、和輝は一瞥しただけだった。試合観戦に集中したいのだろうが、こんな機会は滅多に無い。青樹は振り向かない和輝の横で、続けた。


「昨日、皐月と電話したんだ」
「珍しいな」
「うん。皐月と、俺達、馬鹿だったなって話をしたんだ」


 漸く、和輝は顔を向けた。相変わらず綺麗な顔だった。


「皐月、元気だった? 怪我の具合とか、訊いてる?」
「俺には言わないだろ」
「そっか」


 心配だな、と和輝が眉を顰めた。
 青樹は口を開く。


「あいつ、橘シニアにチームなんてなかったって、言ってたぞ」
「ああ、皐月ならそう言うだろうね。一匹狼だったし」
「お前は、どう思うの?」


 長い睫毛に彩られた大きな瞳が、真っ直ぐに青樹を見た。


「解んね。でも、俺は仲間だと思ってた」
「俺も」
「じゃあ、それでいいじゃん」


 あっさりと放たれた和輝の言葉に、青樹は静かに納得した。
 それでいいじゃん。それで、良かったんだよな。青樹は言った。
 サイレンが鳴り響き、いよいよ試合が始まる。シードを勝ち取った政和学園賀川はこれが初戦だ。赤嶺が投球練習をしていたことを考えると、中盤か後半で登板するのだろう。
 政和学園賀川は後攻だ。マウンドには先発の投手が立っている。


「大和」


 顔も向けず、和輝が言った。


「俺達は仲間だったよ。今は同じチームじゃなくて、ぶつかり合う相手でも、確かに仲間だったんだよ」


 それはまるで自分に言い聞かすような響きだった。
 青樹は頷いた。
 解り合えなくても、衝突しても、同じ夢を見れなくても、確かに仲間だった。其処には確かに何かがあったのだと、和輝が声にならない声で訴え掛ける。
 茜色のグラウンドで、背中を向けて真っ直ぐに歩いていた背中を青樹は今も覚えている。振り返らないし、立ち止まらない。けれど、その緩められた歩調が全ての答えだった。背中を向けたのか、背中を預けたのか。
 遠い過去を見詰めていた青樹は、グラウンドに目を戻した。三者三振。政和学園賀川の出だしは好調だ。


「……お前、俺に隠していることないか?」


 ぽつりと、青樹が問い掛ける。和輝は口元に笑みを浮かべた。


「何だよ、唐突だな」
「別にいいだろ。答えろよ」


 和輝は首を捻った。


「特に思い当たらないな」
「嘘だ」
「はは、何で」


 口を割るつもりはない、と言うように和輝が乾いた笑いを漏らす。


「今、この場で打ち明けることは何もねーよ」


 グラウンドを見ていた筈の和輝が、真っ直ぐに青樹を見詰めた。大きく見開かれた目が鋭く光る。


「お前には解んねーよ」
「……だから!」
「でも、俺は解って欲しい」


 和輝が言った。


「解んないだろうと思う。でも、俺は解って欲しい。だから、全力でぶつかるんだ」


 箱はもう開け放たれたのだ。青樹は悟った。
 もう無理だ。諦めよう。そうして胸の奥に鍵を付けてしまい込んだ鋼鉄の箱を、和輝はもう取り出した。鍵を握っている。その時を、待っているのだ。


「もう誰にも負けないから」


 一陣の風が吹き抜けた。
 言葉を失った青樹に、和輝が努めて明るく笑う。雰囲気を変える時に見せる意図的な笑みだ。
 ぞくりと背中に冷たいものが走った気がして、青樹は身震いする。グラウンド、ベンチの奥で、赤嶺陸がアルプスを見上げている。否、此方を見ている?
 和輝は立ち上がった。試合は一回裏で、勝負は解らない。


「じゃあ、俺はもう行くから」
「試合、いいのか?」
「うん。腹減ったし」


 グラウンドから強烈な視線を感じる。刃で心臓を貫こうとする苛烈な闘争心だ。青樹はグラウンドを一瞥し、後を追うように立ち上がった。


「俺も帰る。浅賀が煩いから」
「俺も。匠が煩い」


 二人で顔を見合わせて、笑った。
 それは中学時代と何ら変わらぬ笑顔だった。
 球場を出ると刺すような日差しが降り注いでいた。和輝は帽子を被り直し、青樹は手の平で光を遮る。


「大和」


 名を呼ばれ、青樹は立ち止まる。和輝が拳を向けていた。


「準決勝で会おう」


 その拳に、中学時代が蘇る。今も無意識に、仲間へ拳を出すことがある。全ての始まりは此処だ。
 原点に戻ったような気がして、青樹は笑った。


「必ず。負けんじゃねーぞ」
「お前こそ」


 どちらともなく、背を向けて歩き出す。
 背中を向けたのか、背中を預けたのか。そんなことはもういい。
 過去は消せないし、未来は見えない。だからこそ、今を全力で戦うしかない。
 青樹の口元は弧を描いていた。

2014.9.6