二番の箕輪がバッターボックスに立っている。和輝はケースにバットをしまう。
 抑え込まれた屈辱はあるが、それを表に出す程単純でもない。ベンチから身を乗り出して観察する先は投手、浅賀達矢だ。
 通常のストレートが、150kmを超えている。これまで晴海高校が対戦して来た相手で、150kmの壁を越えた投手は一人だった。一年前、甲子園で惨敗を喫した赤嶺陸。
 けれど、今の浅賀は本調子ではない。コースも甘い。彼のストレートはもっと速い筈だ。
 打って行け。和輝の指示はそれだけだ。
 了解の意を込め、箕輪がヘルメットの唾を下げる。
 箕輪のバットはストレートの軌道を捉えた。打球は内野に転がる。球威に押されたのだろうピッチャー真正面だ。醍醐が二塁に滑り込み、箕輪が一塁を駆け抜けたがアウト。二死走者二塁。打者は星原だ。
 普段の態を崩さないまま、星原が胡乱な眼差しでバッターボックスに立つ。
 星原に一発はない。けれど、何をして来るか解らないだろう。そういう打者を、青樹は不得手としている。
 打って来るだろう。甘いコースは必ず叩かれる。今の浅賀の変化球が、星原に通用するか。
 考え倦ねた青樹が出す指示は、ストレートだった。ミットに飛び込んだ確かな手応えに、青樹は浅賀の調子が戻って来ていることを悟る。状況に左右されるようなか細い神経をしていないが、浅賀はスロースターターだった。
 ぽつりと、星原が言った。


「良い音」


 独り言だ。だが、その響きに青樹はぞっとする。
 星原の口元が弧を描いている。笑っている。構え直した星原の目に、確かな光が宿る。強豪校でも四番を張れるような強打者だ。晴海高校の選手が少ないから、自動的に選ばれたレギュラーではない。彼には確かな実力がある。
 二球目、ストレート。星原がバットを振り切った。しかし、ボールは掠めることなくミットに吸い込まれた。
 三球目、スライダー。星原は動かなかった。大きな軌道を描くスライダーは大半がボールになる。だが、ストレートと同じ速度で放たれる変化球は、解っていても手が出てしまうものだ。それを星原は当たり前のように見送った。
 ストレート。星原のバットが風を切った。ボールはキャッチャーミットに収まった。
 バッターアウト。青樹はふっと息を逃がした。バットを下ろした星原の顔を見て硬直する。笑っている。


(何なんだよ、こいつ。本当、解んねー)


 ベンチに戻れば、飼い犬のように和輝に擦り寄る癖に。
 青樹はキャッチャーマスクを上げ、ベンチに戻った。




刹那(2)





 四回表、北里工業の攻撃。
 三番の鵜飼奏多がバッターボックスに立った。ポジションはセカンド。和輝等と同じく、最後の夏を迎える三年生だった。
 彼等は、グラウンドに立てなかった大勢の仲間の夢を背負っている。
 蓮見は指示を出す。鵜飼は打って来るだろう。
 初球、低めのストレート。ボールでも構わないつもりだった。ストライク。
 どうにかストライクゾーンに入った。蓮見は返球する。


「打たせて行けよ!」


 セカンドで箕輪が吠える。
 彼等の声援はそればっかりだ。後ろは守っているから、打たせて行け。蓮見は指示を出す。
 ネクストバッターズサークルでは、青樹大和が待っている。意識するな、という方が無理だ。
 二球目、高めを要求する。対角線のような打者の打ち難い球は、投手にとっても投げ難い。それでも、甘い球で躱せるようなチームじゃない。醍醐の指先から放たれたボールは蓮見のグラブに突き刺さると思われた。その寸前、鵜飼のバットが振り抜かれた。
 打球は醍醐の頬を掠めるように内野を抜けた。センターの宗助が落球を拾い上げる。


「一つ!」


 送球。間に合わない。
 セーフ。審判は両手を開いた。無死走者一塁。この場面で、打者は青樹大和。
 お願いします、と静かに礼をした青樹がバッターボックスに立つ。


「バッチ来い!」


 三塁から、和輝の声が響く。
 初球はボールだ。青樹は思う。自分に対して、初球からストライクを入れるだけの度胸が無い。その読みの通り、醍醐のボールは外角に外された。ボール。
 もう一球外して来るだろう。けれど、今度はストライクゾーンへ寄せられる。捕手が不安だからだ。


(解らないことは、怖いだろう)


 内角に放たれたボールは、ギリギリストライクゾーンから外れていた。青樹は動かない。ボール。
 さあ、次は入れて来る。ボールカウントを埋めた状況で、ストライクが入っていないのも不安だろう。此処で攻めるような配球を、彼は組み立てられない。
 外角。青樹のバットが一閃した。
 鞭のように撓る腕から放たれた強烈な一発は、外野の頭上を超え、アルプスに落下した――。


「ホームラン……!」


 蓮見はキャッチャーマスクを上げ、その落球先を呆然と見詰める。拳を空に突き上げた青樹がダイヤモンドを駆けて行く。ツーランホームラン。
 マウンドに皆が駆け寄って行く姿に気付き、蓮見は慌てて立ち上がった。
 醍醐が勢いよく頭を下げる。


「すんません! コース、甘かったです!」
「いや、俺の配球が甘かったんです」


 謝罪を口にする醍醐を蓮見が押し遣る。
 星原が怪訝そうに眉を寄せた。


「お前のコントロールが悪いことなんて、十分承知だろ。その為の捕手なんだから」


 星原の言葉に、周囲で俄かに驚く声がする。あの星原が、醍醐を庇った。


「問題なのは、こっちが研究されてて、捕手がビビって守りに入ってることだろ」


 びしりと言った星原は、蓮見に指を突きつけた。


「言っておくけどな、大和先輩は、そういうところを目聡く気付いて狙って来るんだぞ。抜け目ねーんだから、弱味を見せたらおしまいだ」


 ぐ、と蓮見が黙った。言い返す言葉が無かった。
 険悪になり掛けたところで、和輝が努めて明るく言った。


「千明が言ってくれたから、俺から言うことはないな。じゃあ、切り替えて行くぞ」
「はい」
「声は聞こえているな? 状況は見えているな? まだ、四回だ。後ろは守っているし、点は俺達が取ってやる。だから、お前はお前の仕事をきっちり熟せ」
「はい!」


 解散。晴海ナインがグラウンドに散っていく。
 蓮見は仏頂面の醍醐の肩を叩いた。配球が甘かったと思う。そして、打たれたのは自分ではなく、醍醐だ。
 お前に非は無いよ、と声を掛けて蓮見は戻った。
 蓮見は情報収集に関して誰にも負けないつもりだった。けれど、青樹大和という選手は、その上を行く。情報を収集し、審議し、予測し、実行する。修正に修正を重ね、学習している。
 ファールになるだろう目にも止まらなぬ勢いのボールを容易く捉えて見せたことを思い出す。先程、和輝を抑えた時のことだ。
 強烈なストレートを武器にしている投手だが、どうして此処まで徹底してストレートを要求できるのだろう。打たれた時に傷付くのは投手だ。そのストレートが通用しないとなれば、投手は折れてしまう。
 蓮見が顔を上げた先、観客犇めくアルプスがある。応援団の賑やかな声援、吹奏楽部の演奏。声を嗄らすグラウンドに立てなかった北里の選手。その中に、自分が立っている。
 ぶわりと何かが体を覆った気がした。此処に立っていることが怖い。自分の組立は本当に正しいのか。自分が間違えばチームは負ける。負ければ終わりだ。
 走者を一掃した本塁打の為、グラウンドは閑散としている。此処で切るんだ。
 五番がバッターボックスに現れる。風は今北里にとって追い風だ。この流れを断ち切りたい。
 ストライクゾーンを要求する。醍醐がこっくりと頷く。
 濁った音がした。打球は内野を抜けた。無死走者一塁。
 嫌な流れだ。
 六番打者。変化球。けれど、その変化を綺麗に捉えた打撃はセカンド頭上を越えセンターに落ちた。模範的なセンター返しだ。無死走者一、二塁。


「あの馬鹿」


 一塁で星原が吐き捨てる。
 何にも状況が見えてないじゃないか。その打者は変化球得意だぞ。忘れてたのか。
 七番打者がバットを振り抜いた。コースは悪くない。醍醐の球は走っている。それでも、打たれる。
 だからこそ、後ろで守っているのだろう!
 三塁線、ファールゾーンへ打球が浮かび上がる。壁に衝突した打球が垂直に落下し、和輝の手の中に収まった。
 アルプスから感嘆の声が上がる。
 アウト。和輝が輝くような笑顔を浮かべ、醍醐に白球を手渡した。


「ナイピ―!」


 打たせろ。お前等だけで野球やってるんじゃないぞ。
 八番の痛烈なライナ―に、匠が飛び付いた。派手に転んだ匠は起き上がらないまま和輝にトスする。受け取ったトスをそのままに和輝は三塁を踏んだ。アウト。
 流れるような併殺に蓮見は思わず拳を握った。
 ベンチに戻ろうと起こす体が重い。蓮見は片手を着いて起き上がった。
 四回裏、晴海高校の攻撃は、四番、白崎匠。二度目の打席だ。匠は能面のような無表情でバッターボックスに入る。
 初球はストレートを入れて来る。和輝の読みだが、匠も同感だった。浅賀の球は走っている。その勢いを消したくはないだろう。
 予想の通りストレートだった。匠は振り切った姿勢のまま、視線だけでキャッチャーミットを確認する。150kmを超えるストレート。ストライク。
 二球目も、ストレート。バットを掠めた打球はそれをものともせずミットに飛び込む。ストライク。
 様子見と微調整。次は必ず、打つ。匠はバットを掲げた。
 スライダーが飛び込んだ。匠は動かない。ボールとなった変化球を、匠はミットを見て確認する。スライダーが変化の幅を落とさないままストライクゾーンに近付いている。浅賀が本調子でないだけで、本来なら、この変化球はストライクゾーンに入るのだろう。


(ぞっとするね)


 内心、吐き捨てる。二点差だ。この回が終われば後半戦になる。二点が重く伸し掛るだろうことを考えれば、此処で得点したい。
 四球目、ストレート。バットを掠め、打球がミットに吸い込まれた。ストライク。
 浅賀のストレートは回を重ねる度に重く、速くなっている。


(まだ足りない)


 匠は構え直した。このストレートを捕まえるには、もっと速いスイングが必要だ。
 来い!
 青樹は指示を出す。頷いた浅賀が振り被った。変化球だ。匠のバットが振り抜かれた――刹那、ボールは嘲笑うようにするりと落下した。


「ストライク!」


 バッターアウト。匠は猫のような目を見開いた。
 ナイピー。青樹が声を上げ返球する。
 匠は礼をしてバッターボックスを出た。ベンチでは仲間が迎えてくれる。身を乗り出していた和輝が神妙な表情で言った。


「縦だったな」
「ああ」


 バットをケースに戻し、匠は頷く。


「縦スライダーも持ってるの、忘れてた」
「ストレートと横スライダーに慣れた頃に、縦を持って来たのか」


 やるなあ。和輝が言った。何処か嬉しそうだった。
 グラウンドでは孝助がレフトに大きなフライを打ち上げた。打たされたのだ。


「浅賀君、だんだんボールが速くなってる。MAXはこんなもんじゃないだろう」
「嫌になっちゃうね、全く」


 宗助が内野ゴロを打たされ、アウト。四回裏の攻撃は無得点だ。
 後半戦に差し掛かり、和輝は思案する。此処で投手を交替させるか、否か。醍醐の調子は良い。今日を勝ち進めば明日は決勝戦だ。温存なんて考えを持っていれば負ける。
 選手交代は無しだ。和輝は顔を上げた。

2014.9.7