五回表、北里工業の攻撃は、九番、浅賀達矢君。背番号一番――。
 アナウンスが尾を引いて響いていく。北里のエースがバッターボックスに立っている。後半戦に差し掛かり、晴海高校には二点差が伸し掛る。


「一本切ってこー!」
「おお!」


 蓮見の鼓舞に、グラウンドから力強い声が返って来る。
 初球は外して来るぞ。青樹が、浅賀に言った。理由を問えば、そういう捕手だから、と返された。その思考回路が恐ろしいと浅賀は思う。
 言葉の通り、初球は外された。ボール。
 この捕手は堅実で、臆病だ。二点差で負けているこの場面で、勝負は挑まない。どうにか躱したいと焦っている。二球目、ボール。浅賀は見送った。


(もう一球外す度胸は無いやろ)


 浅賀はバットを構え直す。けれど、三球目もボールだった。
 そして、四球目が、ストライクゾーンを外れる。四球。バットを置いて浅賀は一塁へ駆けて行く。


(このストライク一個も入れないまま四球なら、敬遠と一緒やんけ)


 一塁に立った浅賀はバッテリーを見遣る。どちらも二年生だ。
 打者は再び一番に戻る。三宅はお調子者だが、仕事はきっちり熟す。浅賀にとっては頼もしく、可愛い後輩だった。
 初球を三塁線に転がした。一死走者二塁。打者は二番。
 また、四番まで回る。蓮見は焦った。先ほどの本塁打が脳裏を過る。もう一点もやる訳にはいかない。でも、躱し切れない。怖い。俺の配球が、仲間を追い詰める。自分の判断が信じられない。どうしても、北里の天才捕手、青樹大和の姿が視界にちらつく。
 その時だった。


「打たせろ!」


 和輝は声を上げる。蓮見には自分の姿が見えるだろうか。
 此処だ、此処にいるぞ。仲間が口々に訴える。
 閉鎖された思考の中で、蓮見は縋るようにサインを出した。託してもいいですか。そんな願いを込め、三塁のキャプテンを見詰める。
 和輝は、笑った。


「来い!」


 低く構える和輝が、蓮見には大きく見えた。強ばった口元を綻ばせる。
 信じますよ。
 二番はヒッティングの構えから、バントに切り替えた。勢いを殺された打球がてんてんと転がる。醍醐が拾い上げるより早く和輝が捕らえ、振り返ると同時に送球した。二塁、箕輪が確かにそれを受け止め、すぐさま一塁へ送る。


「アウト!」


 一瞬で遮断された攻撃に、浅賀は息を呑む。また、併殺。
 反射神経や瞬時の判断力という個人の実力以上に、滑らかな連携があった。五回表の攻撃が終わり、浅賀はグラウンドを振り返りながらベンチに帰って行く。
 五回裏、晴海高校の攻撃。打者は七番、空湖大地。
 青樹は再び現れた謎の一年生を訝しげに見ている。実力は見たところ平均値。突出した何かがある訳ではないから、警戒する必要はない。けれど、一年生にしては落ち着いている。緊張や怯えが微塵も感じられない。
 子犬のような顔からは何も窺えない。
 初球のストレートを空湖が打った。力の無い打球が一塁、投手、二塁の間に落下する。互いが身を引きそうになる中、ぐっと身を乗り出した浅賀が拾い上げ、一塁へ送った。セーフ。浅賀が忌々しげに舌打ちした。
 無死走者一塁。八番は蓮見だ。守備で神経を磨り減らしたのか、幾らか疲れた顔をしている。
 ストレート。唸るような剛球が駆け抜ける。
 二球目も、ストレート。蓮見は転がした。打球が投手の前に落下する。空湖が進塁し、蓮見はアウト。
 晴海高校で、速度を上げ続ける浅賀のストレートを捉えられるのは和輝か匠、星原、孝助くらいのものだろう。ストレートが走っているから、変化球が活きる。
 九番の醍醐がスライダーを打ち上げ、ファーストフライに終わった。二死走者二塁。バッターボックスに立った小さな少年に、青樹は目を奪われる。
 小さい。圧倒的に体が小さかった。けれど、此処にいるぞ、と全力で訴え掛けるような存在感がある。
 綺麗な横顔だった。緊張感も慢心も恐怖も無い。ただ、目の前の投手に備えている。強烈な集中力に吸い込まれそうだった。


(この顔を、俺は覚えてる)


 あの頃から何も変わっていない。仲間だったあの頃と同じ眼差しをしている。
 青樹はサインを出した。浅賀の腕が振られる。和輝が口元を真一文字に結んだまま、力強くバットを振り切った。打者の手前で滑る球が縦に落ちる。けれど、それすら読んでいたように和輝は弾き返した。
 二遊間を抜けた打球がセンターに落ちる。


「三つ!」


 マスクを上げた青樹が叫ぶ。センターからの送球。二塁にいた空湖が三塁に滑り込んだ。セーフ。
 三塁手がすぐさま投げる姿勢を取ったが、一塁を蹴った和輝は既に二塁を踏んでいる。
 相変わらず、恐ろしい瞬足だ。加えて、初見で縦スライダーを捉えた。青樹は仲間を励ましながら苦く思う。中学時代、あんなに頼もしかった仲間が恐ろしい。
 ただ、今は三塁ランナーという壁がある。和輝は空湖を還したかっただろうが、そうはいかない。
 二番、箕輪がバッターボックスに立つ。青樹はグラウンドに向けて指示を出した。バント警戒、前進守備。
 その様を箕輪はじっと見詰めている。ツーアウトからのバントは難しい。ファールゾーンに転がればそれでおしまいだ。けれど、自分に浅賀の球を打ち返す力は無い。気紛れに変化するストレートすら難しい。強烈に変化するスライダーも厳しいだろう。
 三塁では空湖、二塁では和輝が箕輪を見ている。
 初球はボールだ。バントを警戒したのだろうが、浅賀のボールは珍しい。
 二球目、またも外される。箕輪は構え直す。
 三球目、外角のストレート。


(嘗めんな!)


 俺だって、三年間やって来たんだ。
 渾身の力を込めたスイング。打球は一塁、二塁の間を抜けた。空湖が本塁に突っ込む。ライトからの返球とほぼ同時だった。


「セーフ!」


 滑り込んだ空湖が起き上がり、短く雄叫びを上げた。
 一点、取り返した。ユニホームの前面を茶色に染めながら、空湖は笑みを浮かべてベンチに戻った。仲間がで手厚く出迎えている。その様を横目に、星原はバッターボックスに立つ。
 三塁に和輝がいる。星原は笑った。


(俺が還す)


 あの人を、俺が仲間のところに連れて行く。
 追い風は何時の間にか向かい風になったらしい。青樹がキャッチャーマスクを上げ、そんなことを思う。けれど、負ける気は微塵も無い。
 星原は遣り難い打者だ。だけど、抑えられない訳じゃない。
 獰猛な生き物のような直球が、星原の膝を襲うように放たれた。ストライク。
 電光掲示板に153kmと表示される。まだ早くなる。此処まで星原には遣られっぱなしだ。面白くないだろう。青樹はストレートを要求する。
 二球目もストレート。星原は動かなかった。――動けなかった。
 三球目、ストレートを思わせたボールは、星原から逃げるように変化し、ミットに突き刺さった。スライダーだ。バッターアウト。走者を一塁、三塁に残したまま五回の攻撃が終わった。
 ベンチに戻った和輝は夏川を見た。投球練習をしようにも相手がいない夏川は、試合展開を歯痒く見ていたことだろう。


「夏川、行けるか」


 その言葉に、ベンチにいた晴海ナインが振り返る。
 夏川は頷いた。


「当たり前だろ」


 交代か、と蓮見は頬を滑り落ちた汗を拭った。指先ががちがちに強張っている。
 エースが登板すべき状況だ。もう一点もやる訳にはいかない。けれど、その球を今の自分が捕れるイメージが持てなかった。
 ぎゅっと拳を握った蓮見を、和輝は振り返る。


「蓮見、交代するぞ」
「――え?」
「空湖、行けるな?」


 試合記録を見ていた空湖が顔を上げ、頷いた。
 空湖は公式戦で捕手として出場したことは一度もない。練習で夏川のボールを受けて来ただけだ。
 宗助が言った。


「空湖が捕手ですか?」
「そうだよ」


 初めての交代に、蓮見が力無く項垂れる。
 確かに、今の自分には自信が無い。どうしても青樹大和と比較してしまう。冷静でないことも理解している。けれど、この場で一年生と交代して良いのか。
 俯く蓮見の肩を、醍醐が叩いた。


「キャプテンは、お前が使えねーって言ってる訳じゃねーよ」


 捕手の交代に伴って、守備位置が変わる。
 一塁手が醍醐、センターに星原が入る。蓮見はベンチだ。


「頭冷やせ。卑屈になるんじゃねーぞ。お前は俺の相棒なんだからな」


 醍醐が笑った。蓮見は頷いた。




刹那(3)





――選手交代をお知らせします


 マウンドには、満を辞してエースが登板する。そして、正面にいたのは蓮見ではなく、センターにいた一年生だった。青樹は変化したグラウンドを訝しげに見ている。
 あの得体の知れない一年生は、捕手だったのか。確かに良い肩だった。
 三番がバッターボックスに入ることによって、青樹はネクストバッターズサークルに立っている。
 夏川啓。晴海高校のエース。元プロ野球選手を父に持つサラブレッド。試合は専ら後半からの出場だ。


「頼むぞ、エース!」


 二塁から箕輪が叫んだ。夏川は一瞥しただけで、すぐに打者へと向き直った。
 ワインドアップ。レッグアップ。流れるようにステップを踏んで――投球。唸るような剛球がキャッチャーミットまで一直線に駆け抜けた。


「トラーイッ!」


 打者が呆然としている。夏川は返球を受けてすぐに構えた。
 ストライク。ストライク。バッターアウト。直球勝負、三球三振。トップバッターの最高の切り方だった。けれど、夏川は表情をぴくりとも動かさない。――赤嶺に似ていると、思った。
 青樹はバッターボックスに立った。


(すげー、威圧感)


 マウンドを見る。吸い込まれそうな迫力だ。
 仲間に背中を向けている。否、背中を預けている。
 ワインドアップ。青樹は足に力を入れた。夏川に、嘗て自分が組んでいた投手、赤嶺陸を重ね見る。
 ストレート。手が、出なかった。
 青樹の目には、懐かしい光景が浮かび上がった。マウンドに赤嶺陸。三塁に和輝。ショートに匠。自分はキャッチャーとして座っている。もう戻れない過去だ。じわりと何かが込み上げて来て、青樹は頭を振った。


(なあ、もしも)


 指先が震え、鼻の奥がつんと痛くなる。
 ストライク。青樹のバットを掠めた打球はミットに収まった。


(もしもさ)


 唇を噛み締める。茜色に染まるグラウンド。仏頂面の赤嶺陸。猫のような目をした白崎匠。蜂谷和輝の綺麗な横顔。
 もしも、俺達が同じチームでプレーできる未来があったなら、どうする?
 刹那、そんなことを思った。
 ストライク、バッターアウト!
 審判の声が遠くで聞こえた。青樹は拳を握り、バッターボックスを出て行った。

2014.9.7