六回裏、晴海高校は二点差で負けている。バッターは四番、白崎匠。
 匠はバッターボックスに立ち、息を逃がした。今日はまるでいいところが無い。和輝が、夏川が引き寄せた試合の流れを此処で切る訳にはいかない。
 マウンドの浅賀は状況なんて関係無いと言わんばかりの涼しい顔だ。
 初球、ストレート。また速くなった。
 捉え切れなかった打球がキャッチャー後ろに弾け飛ぶ。ファール。
 匠はストレートの軌道を思い返し、スイングを確認する。けれど、そうしているとあの縦スライダーに揺さぶられてしまう。


(あいつ、初見でよく打ったな)


 縦スライダーを初見で打ち返した幼馴染を思い出し、匠は苦く思う。だが、彼が証明してくれる。打てない球じゃない。そんなものはない。
 二球目、スライダーが放たれた。横滑りの球を捉えたつもりだった。僅かにバットを逸れた変化球がミットに突き刺さる。ストライク。序盤はボールだった変化球がストライクゾーンに入るようになっている。
 左打者の匠にとって、浅賀の投げるスライダーは手元から逃げて行く。それでもストライクゾーンに入るのだから恐ろしい技術だ。否、才能か。
 三球目、スライダーだ。匠のバットが振り抜かれるが、ボールは僅かに縦に滑った。どうにか打ち返したボールがピッチャー頭上へ上がる。
 浅賀が捕球した。バッターアウト。
 匠は礼をしてバッターボックスを出た。ベンチに戻ると、和輝は腰に手を当て出迎えていた。


「お前、今日、良いとこねーなあ」


 軽口のように、笑みすら浮かべて和輝が言う。
 うるせーな、匠が言い返す。不満げに口を尖らせている様が、匠らしいと和輝は一層笑みを深くする。


「でも、まあ、信じてるから」
「はあ?」


 バットをケースに戻し、匠が振り返る。和輝はグラウンドに顔を向けたまま、言った。


「匠のこと信じてるから」
「プレッシャー掛けますねえ」


 孝助が皮肉っぽく言う。和輝は笑っていた。





刹那(4)





 孝助がセンターフライ、宗助が内野ゴロに打ち取られ、六回裏が終わった。
 七回表、北里工業の攻撃は下位打線から始まる。青樹の三振が堪えたのか、バッターは次々と三振に打ち取られ、呆気無く攻撃が終わった。続く七回裏の晴海高校も三者凡退に終わり、八回が訪れる。
 八回表、打者は一番に戻る。三宅がバッターボックスに立つ。二点差で慢心するようなチームではない。
 夏川が大きく振り被る。放たれた剛球にバッターは手も足も出ない。ストライク。
 空湖はサインを出す。


(直球勝負ですよ、先輩)


 俺が必ず捕ってみせます。だから、最高のボールを投げて下さい。
 空湖が、夏川が構える。
 ストレート。唸るような剛球がミットに突き刺さる。ストライク。
 二点差じゃ足りない。三宅は青樹の言っていた言葉を思い出す。確かに、晴海高校は実力を図らせない不気味さがある。点差を付けてもそれを容易く引っ繰り返しそうな、全力で挑んでいるのに余力を秘めているような気がする。
 ストレート。三宅のバットが掠め、打球が三塁線に転がる。


(ダメだ、其処は)


 其処は鬼門だ。
 三塁を飛び出した和輝が捕球し、まるでお手本のような綺麗な動作で送球する。一塁を走り抜けた三宅より早く、送球は醍醐のミットに収まっていた。
 ワンナウト。疾走した三宅は膝に手を着いて息を整える。
 二番打者がバッターボックスへ。青樹はグラウンドを遠く眺めている。自身への問い掛けを悔やんでいた。


「大和、覚えとるか」


 いつの間に隣に来たのか、浅賀が言った。


「俺が初めてお前に投げた時、なんて言うたか」
「ああ」
「お前、でっかい声で『並!』て言うたんやぞ」


 覚えとんのか、こら。
 浅賀が目を細めて笑った。


「今の俺も、並か?」
「いや」
「そうやろ」


 満足そうに頷いたかと思えば、浅賀は青樹を強く睨んだ。


「何をごちゃごちゃ考えとんの。好い加減、止めぇ! 俺はお前を信じる。だから、お前も俺を信じろ!」


 突然の大きな声に、ベンチが一瞬静まり返る。けれど、青樹が笑った。
 そうだな。そうだよな。


「信じてるよ」


 二番、三番が凡退する。チェンジだ。
 八回裏、晴海高校の攻撃は一番から始まる。蜂谷和輝がバッターボックスへ向かって来る。
 青樹は装備を確認しながら、和輝を見た。


「二点差だな」
「ああ、たった二点だ」


 したり顔で和輝が笑った。
 バッターボックスに蜂谷和輝。浅賀がマウンドでサインを待っている。
 バッターの構えは初回から変わらない。無駄な力の入らない自然体で、何処へ投げても簡単に手を出してくるだろう。小さい体で、グラウンドの誰より圧倒的な存在感を放つ。一度集中すれば、もう誰にも邪魔されない。
 彼は自分が天才ではないと言うけれど、青樹はそう思わない。勝利への純粋な意志。上を目指す貪欲な向上心。努力を惜しまない不屈の心。青樹は、それを指して天才と呼んだのだ。
 サインを出す。浅賀が頷く。
 ストレートだ。初球から和輝は手を出して来た。濁った音がして打球は青樹の後方へ跳んだ。
 回を追う毎に速くなるストレートを、捉えて来ている。腕の力で負けるなら、と全身の力を込めて打ち返している。二球目もストレート。和輝は盛大なファールを三塁線に飛ばせた。
 ファールが続く。凄まじい勢いの直球をぎりぎりで打ち返している。晴海高校のベンチからは仲間の声が響く。


「打てぇ!」


 箕輪が叫ぶ。ファール。打球が三塁線へ飛んだ。
 蓮見はベンチから身を乗り出しながら、ぎゅっと拳を握る。頼む。打ってくれ。あんたが出塁することが俺達の希望なんだ。あんたは反撃の狼煙なんだ。頼む。どうか。
 そうして黙り込んだ蓮見を、匠が叱咤する。


「祈ってる暇があるなら、声を出せ!」


 匠が叫んだ。


「食らい付け!」


 和輝が、ふとベンチを振り返る。そして、右手で胸を二度叩いた。
 信じろ。仲間へ、訴え掛ける。
 再び投手に向き直った和輝の集中は途切れない。変化球が一つ挟まれるが、ボールとなった。
 青樹が変化球を要求する。けれど、浅賀は首を振った。浅賀が首を振るのは、この試合で初めてだった。
 和輝は頬を伝う汗を拭った。体力と同時に神経が消耗する。一球、一瞬のタイミングがずれてしまえばこのストレートには追い付けない。カウントはもう埋まっている。
 青樹は、頷いた。サインを変える。この状況で求めるものは一つしかなかった。


(此処だ)


 ど真ん中、ストレート。浅賀の持つ最高のストレートを此処にくれ。
 浅賀が笑った。


(浅賀の球は、絶対に打たれない!)


 信じている。エースの球は打たれない。
 閃光のような剛球が駆け抜ける。和輝はバットを振り切った。


(お前が浅賀を信じるように、俺も仲間を信じてるんだ)


 ど真ん中のストレートを、和輝が打ち返す。明らかに力負けした打球はぼてぼてのゴロとなってピッチャー真正面に転がった。飛び付いた浅賀がすぐさま一塁へ送る。和輝が滑り込んだ。
 審判が、ゆっくりと両手を開く。セーフ。
 歓声が湧き上がった。全身を泥まみれにした和輝が勢いよく起き上がり、審判のサインを確認する。
 セーフ。それを確かめると、和輝は小さくガッツポーズをした。
 浅賀が、吐き捨てるように言った。


「はは。王子様が泥だらけで、みっともないな」


 安い挑発だ。和輝は立ち上がり、膝の土を払いながら何でもないことのように言った。


「見栄なんてとっくの昔に捨てたよ。綺麗な敗北より、泥塗れの勝利が欲しい」


 そうして、追撃を待っている。
 二番、箕輪がバッターボックスに入る。反撃のチャンスは此処しかない。これを逃せば負ける。
 キャプテンが泥塗れになって上げた反撃の狼煙だ。必ず繋いで見せる。
 浅賀達矢、青樹大和。今の高校野球界では天才と呼ばれる将来有望な選手だ。彼等はきっと物語の主人公で、自分は脇役なのだろう。野球の神様は自分に微笑まない。
 けれど、それでも、仲間が信じてくれる。


(天才も秀才も凡人も関係無い! 勝つんだ!)


 あの北里工業に勝つ。
 恐ろしい勢いで放たれたボールに、圧倒される。後ずさりそうになる。けれど、箕輪は構え直す。
 一塁に和輝がいる。
 祈りはしない。祈ってる暇があるなら、目の前の一球に食らい付け!
 外角に外されたボールに飛び付く。ギリギリでグラウンドに打球が転がった。


「一つ!」


 忌々しく青樹は叫んだ。
 一塁アウト。和輝が二塁に滑り込む。膝に手を付いて和輝が呼吸を整えている様を見て、青樹はその体力の消耗を知る。
 星原がバッターボックスへ。秀麗な横顔から試合への集中が感じられる。
 ストレートを見送る。そして、変化球。縦のスライダーだった。星原のバットが振り抜かれた。打球はピッチャー前を抉って内野に浮かび上がる。和輝が三塁へ、星原が一塁へ疾走する。

「セーフ!」

 一死走者一、三塁。
 浅賀は大きく息を吐いた。体が重く、関節が痛い。気持ちばかりが高揚している。
 晴海の攻撃は投手狙いだ。バントやライナーで散々動かして来た。そのつけが今になって回って来たのだ。
 四番、白崎匠。
 試合中ということも忘れ、青樹は口を開いていた。


「今日、いいとこ無しだな」


 挑発や僻みのつもりはなかった。匠は僅かに眉を寄せた。
 青樹は笑う。


「お前が和輝と野球してるなんて、夢みたいだな」


 匠は迷いの無い真っ直ぐな目で青樹を見た。彼の親友に似た、透き通るような眼差しだった。


「あの頃、確かに、俺達は解り合えなかった」


 匠が言った。


「でも、あいつが信じてくれるから。――何度でも!」


 必ず還してくれると信じているから、何度でも出塁を諦めない。
 そういう背中を預けてくれるから。


「諦めるつもりは微塵もねーよ。こちとら、端から全力だ!」


 浅賀に向き直った匠がバットを構えている。一塁と三塁に仲間がいる。
 視線が合う。信じていると、全身全霊で訴え掛けて来る。
 何度でも!
 体力の消耗から、浅賀の球威が僅かに落ちている。放たれたストレートを、匠が打ち返す。痛烈なライナーとなった打球が内野、センターとレフトの間を抜けた。


「回れ!」


 ベンチから、晴海ナインが叫ぶ。
 和輝が本塁を踏んだ。星原が二塁を蹴り、三塁を駆け抜ける。


「バックホーム!」


 青樹が叫ぶ。星原が、滑り込んだ。
 送球を受けた青樹が顔を上げ、審判の宣告を見遣る。審判は、両手を開いていた。


「セーフ!」


 わっと歓声が溢れた。同点。
 仲間に出迎えられながら、和輝は本塁で呆然とする青樹を見た。


「お前を、信じたかったよ」


 ぽつりと、和輝が言った。

2014.9.7