一死走者一塁。孝助はバッターボックスに立った。
 いいとこ無しだな、と宗助が笑っていた。返す言葉も無い。
 準決勝で、晴海高校と北里工業がこんな接戦を繰り広げるだなんて誰が予想しただろう。決勝戦は政和学園賀川高校と北里工業高校の対戦を予想した筈だ。番狂わせもいいところだろう。
 一塁で匠が孝助を見ている。猫のような目が細く訴え掛ける。
 孝助は、練習試合でサインを無視して匠と対立したことがある。匠も孝助を好んではいないだろう。そんな匠が訴え掛けるのだ。
 打てよ。打たなきゃ、ぶっ飛ばすぞ。
 やだなあ、脅しじゃないですか。孝助は内心笑う。信頼なんて薄ら寒い。チームだなんて青臭い。たかが高校の部活じゃないか。そう思うのに。


(負けたくない)


 強く、そう思う。このチームで一分一秒でも長くプレーしていたい。
 ストレートが放たれる。唸るような剛球だ。この状況でまだこんな球が投げられるのかと息を呑む。


「孝助ぇ!」


 一塁上で匠が吠える。逆転のランナーだった。
 解ってますよ、と孝助は構え直した。
 浅賀達矢。恐ろしい投手だ。けれど、それでも彼は一番じゃない。全国一の投手は赤嶺陸だと言われている。彼を倒さなければ上にはいけない。
 スライダー。横滑りの変化を見逃せば、審判はボールを告げた。マウンド上の浅賀は無表情だが、明らかに疲労が蓄積されている。大勢の選手を抱える北里工業が、初回からエースを登板させた結果だ。それでも、彼でなければ点差は開いていただろう。
 ストレート。変化球の後の直球、直球の後の変化球。打者の打ち難い配球は投手も投げ難い。そんなこと百も承知で青樹はサインを出す。――浅賀を、信じているからだ。
 カウントが埋まったところで、孝助はバットを掲げた。踏み込み乱れたバッターボックスを片足で均す。
 ストレート。孝助がバットを振り抜いた。打球が蒼穹を突き進み、フェンスに直撃した。センターからの送球。匠は三塁を蹴った。
 青樹の手元にボールが返って来る。


「アウト!」


 ああ。アルプスから息が漏れる。
 匠はぎゅっと目を閉じ、すぐに切り替えるように顔を上げた。
 去って行く匠を見ることなく、青樹はピッチャーへ返球する。疲れているだろう浅賀に、気遣いは不要だ。自分のコンディションは彼自身が一番よく解っている。
 二死走者一塁。このまま抑えたい。
 七番の宗助は四球だった。コントロールの安定しない浅賀は四球を出し易いが、ここぞという場面では絶対に外さない勝負強さがある。それでも、外したのだ。
 膝に手を付いた浅賀が呼吸を整えている。二死走者一塁二塁。
 顔を上げた浅賀は無表情だ。弱音を吐くことはないし、弱り目も見せない。それがチームの士気に関わると解っている。そういうエースだから、仲間が信じるのだ。
 八番、空湖。一年生ながら、雰囲気に呑まれない神経の太さは賞賛に値する。
 縦スライダー。空湖のバットを掠めた打球がグラウンドに落ちる。ピッチャーの前だ。


(浅賀は無理だ)


 咄嗟に青樹が飛び出し、一塁へ送った。一瞬の躊躇が、走者を活かす。
 セーフ。二死満塁。
 夏川はバッターボックスから、肩で息をする浅賀を見た。辛いだろう。しんどいだろう。だが、マウンドに逃げ場はない。
 手の中で白球を弄んでいた浅賀が空を仰いだ。


「あああああああああッ!」


 突然の絶叫に夏川は目を瞬く。
 浅賀は眉間に皺を寄せ、指を突き付けた。


「馬鹿にすんのも好い加減にせえ! シバくぞ!」


 誰も馬鹿にしてないだろ。夏川は内心吐き捨てる。
 後ろで青樹が笑っていた。審判が忠告する前に、ランナーズハイなんです、すみません、なんて適当なことを言う。
 マウンドの浅賀から、湯気にも似た闘気が湧き上がって見える。
 浅賀が振り被った。
 ズドン、と肉を打つような乾いた音が響く。ストライク。球速は156kmだった。


(此処に来て、まだ速くなるのかよ)


 青樹は苦笑を浮かべてサインを出す。ストレート。
 浅賀は短気だが、良い投手だ。自分でガス抜きが出来る。奢らない。何時だって全力投球だ。
 ストライク。夏川は動けない。そして、最後、ストレート。


「トラーイッ! バッターアウ!」


 マウンドで、浅賀が鼻を鳴らした。




刹那(5)





「意味無いじゃないすか!」


 口を尖らせ、孝助が言った。匠は苦い顔をする。


「あんたが打てっつったから打ったのに、自分はアウトって何やってんですか。欲を出さずに三塁で待ってれば、押し出しで一点入ったかも知れないのに!」
「まあまあ」


 間に入るのは和輝だ。珍しく感情的な孝助を微笑ましく思っている。
 最終回、北里工業の攻撃。和輝は孝助を外野に促した。匠は仏頂面だ。箕輪が笑いながら言った。


「最終回でトップバッターが青樹大和か。因果を感じるね」


 青樹はまだベンチから出て来ていない。和輝は無人のバッターボックスを見て笑った。
 肩が、腕が痛かった。二年前の事故の後遺症だ。延長戦になれば浅賀は潰れるだろうが、晴海は崩れる。
 此処で終わりにしたい。和輝が三塁へ戻った。


『九回表、北里工業の攻撃は、バッター四番、青樹大和君。背番号二番――』


 漸く、青樹が現れる。九回のこの状況を理解している筈なのに、口元は微かな笑みを浮かべている。
 不気味だ。夏川は思った。
 初球はボールから入った。何を考えているのか解らない。光陵学園の見浪翔平を思わせる。
 二球目は外角に外した。青樹は動かない。
 三球目、今度はストライクゾーンに渾身の一球を放つ。青樹のバットが音もなく引かれた。そして、その痩躯の何処にそんな力があるのか、目を疑う程の力強い打球が青空に吸い込まれた。


「センター!」


 空湖の声に、星原が懸命に打球を追い掛ける。
 届く。星原がグラブを構えた時、背中が壁に当たった。打球は、その後方へ落ちた。
 本塁打。
 沸き立つ歓声の中で、晴海ナインが呆然と立ち竦む。
 この状況で、この場面で打つのか。本日二度目の本塁打はまたも青樹大和だ。天才と呼ばれるその底力を見せ付ける一球だった。青樹は右手を突き上げ、涼しい顔をして青樹がダイヤモンドを回る。
 化物だな。箕輪が呟いた。
 やっと追い付いたと思ったら、本塁打だ。グラウンドに静寂が訪れる、刹那、和輝が言った。


「さあ、切り替えて行くぞ」


 まるで何でもないことのように和輝が微笑む。
 北里工業のベンチでは、青樹が手荒い歓迎を受けている。マウンドに晴海ナインが集合する。本塁打に動揺が浮かんでいる。和輝は口角を釣り上げ、挑発するように言った。


「奇跡を願って神頼みでもするか?」


 むっとした匠が言い返す。


「神様がやったら運命だろ。人が起こすから、奇跡って言うんだ」
「ああ、そうか。尤も、俺は奇跡なんて信じてねーけど」


 仲間を見渡し、和輝が言った。


「奇跡を見せてやるよ」


 どっちだよ、と反論する者はいない。こいつが言うなら、きっと奇跡だって起こせるのだろう。そう信じてしまいたくなる何かが彼にはある。
 グラウンドに散った晴海ナインは既に立ち直っている。
 五番打者が現れる。青樹の本塁打に興奮したのか頬が紅潮していた。
 夏川は静かに構え直す。


(信じていいんだろ)


 なあ、キャプテン。
 正面にいる一年生が、普段と変わらない穏やかな顔で待っている。此処です。此処に投げて下さい。意地でも捕りますから、最高の一球を此処に下さい。
 夏川は振り被った。威力の衰えない剛球がミットに突き刺さった。ストライク。
 ストライク。ストライク。バッターアウト。
 三振。夏川はふっと息を吐き出した。続く打者も三球三振に抑え、追撃を叩き切った。
 一点差で負けている晴海高校最後の攻撃。九回裏、晴海高校の攻撃は一番に戻る。
 和輝が再び、バッターボックスに立った。挨拶もそこそこに、浅賀に向けてバットを掲げる。ホームラン宣言のようで浅賀はおかしくて堪らなかった。
 お前、最高。腕の痛みも忘れて浅賀は声を上げて笑った。和輝もまた口元に笑みを浮かべる。
 構えた二人はもう笑っていない。ストレート。和輝のバットが振られた。


「トーライッ!」


 掠りもしない。電光掲示板に156kmの球速が表示される。
 どよめく観客の中で、和輝と浅賀は真っ直ぐに向き合っていた。
 二球目、ストレート。


「トライッ!」


 和輝は掌を見た。微かに痺れている。バットは確かに掠めたのに、それをものともせずボールはミットに飛び込んだのだ。まだ、捉えられていない。
 バットを下ろし、和輝は目を閉じ大きく深呼吸をした。周囲の音が雑音に、そして、無音に変わる。目を開いた先はモノクロに染まっている。マウンド上の浅賀だけが鮮明に見える。
 側にいた青樹が呑み込まれそうな集中に驚愕する。目の前の一球に、ただ備えている。
 サインを変えた。変化球だった。和輝は手を出さない。


「ボーッ!」


 集中は途切れない。当然だろうとマウンドで浅賀が笑っている。鋭い眼光が煌々と揺れている。
 ストレート。和輝はバットを振り切った。
 鋭い音を上げて打球がピッチャーの横を貫いた。内野を抜けた打球がセンターとライトの間に落下する。和輝はバッターボックスを飛び出した。


「ーー二つ!」


 青樹は指示を出し倦ねた。一塁で留まりはしないだろう。
 和輝は一塁を蹴った。センターからの送球を潜り抜け、三塁に飛び込んだ。セカンドが投げようとした時、既に和輝は三塁を掴んでいた。


「三塁打!」


 晴海ナインが叫ぶ。
 浅賀は頬を伝った汗を拭った。


(土壇場での勝負強さは、大和と同じやな)


 次の打者、箕輪は三振だった。それでも、和輝は声を上げる。声援を途切れさせない。
 信じてるんだ。星原がバッターボックスへ。


「必ず、還しますよ」


 星原が、そんなことを言った。
 青樹は星原のことをよく知らなかった。飄々として腹の底を読ませない不気味さはあったが、実力は抜きん出ていた。攻撃の主軸でありながら、自身は輪の中へ入って来ない。干渉しないから、干渉するな。そういう人間だった。
 星原が痛烈なライナーを放った。打球は一塁二塁の間を抜けたが、ライト真正面だ。星原が一塁に滑り込み、和輝が本塁を踏んだ。
 同点。突き放しても突き放しても、追い付いて来る。北里工業にプレッシャーが掛かる。
 その場面で、打者は四番、白崎匠。
 ベンチからは孝助の睨むような視線を感じている。和輝はベンチに戻る刹那、匠の肩を叩いた。


「信じてるぞ、四番」


 一死走者一塁。
 初球はストレートだ。序盤の勢いを失わない恐ろしい剛球だった。匠のバットは確かにボールを捉えていたが、打球はファールゾーンへ上がった。
 匠は掌に微かな痛みを感じた。見れば肉刺が潰れている。ひりつくような痛みは、瀬戸際の緊張感に似ている。どうしようもなく鼓動が早まる。熱い何かが腹の底を突き上げる。
 二球目、縦のスライダー。匠のバットはそれを力一杯掬い上げた。大きな弧を描いた打球は内野を抜け、センターの後ろまで伸びていく。懸命にセンターが追い掛ける。空に浮かぶ白点へ、グラブが掲げられる。
 ぽつ。打球がグラブに収まった。ツーアウト。同時に晴海ナインが叫ぶ。


「GO!!」


 一塁の星原が走り出した。
 マスクを上げた青樹が声を上げる。


「バックホーム!」


 星原が二塁を蹴った。センターからの送球はライトが中継する。
 三塁、星原は駆け抜ける。青樹は星原を目の端に捉えながら、返球を待っている。ライトから、投手、浅賀が中継する。


「嘗めんなや!」


 レーザービームだ。
 白い閃光となった送球が青樹のミットに飛び込む。進塁を阻まれた星原が地面に伏している。
 青樹は縋るように審判を見た。審判は、ホームベースに触れた星原の手を見ていた。ゆっくりと両腕が開かれる。


「セーフ!」


 逆転、ゲームセット。わっと歓声が上がる。
 浅賀が、がくりと膝を付いた。青樹はぎゅっと目を閉じ、俯いた。けれど、すぐさま顔を上げマウンドに駆け寄った。


「……整列だぞ」
「立てん」
「しょうがないな」


 浅賀に肩を貸し、青樹はグラウンドの中央へ向かった。
 もみくちゃにされただろう星原が、それでも嬉しさを隠せないように頬を紅潮させている。和輝は横並びになった晴海ナインの先頭で、無表情だった。


「北里工業高校と晴海高校の試合は、四対五で晴海高校の勝ち。両校、礼!」
「ありがとうございました!」


 球場を割れんばかりの拍手が包み込む。勝敗に関わらず、全力で戦いに臨んだ物へ送られる賞賛の拍手だった。
 青樹はベンチに戻り、身支度の指示を出す。仲間は止めど無く溢れる涙を拭い、肩を寄せ合い、或いは唇を噛み締める。甲子園の土を袋に詰める。


「大和」


 目元を赤くして、涙を堪えるように浅賀が言った。


「お前も、泣かないやんけ」
「……まだ、泣けないよ」
「意地やな」
「意地だ」
「意地は張り通してこそ、意地やで。……俺は根が素直やから、解らんけど」


 ぼろり、と、浅賀の目から大粒の涙が零れ落ちた。
 あの浅賀も、泣くことがあるのか。青樹は驚愕した。それに誘発されたように、青樹の頬を雫が伝った。


「俺も、根が素直みたいだ……」
「アホ」


 そう言って、浅賀が笑った。

2014.9.7